「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

稚日女尊を祀る神戸の生田神社と志摩国の伊射波神社の由緒

2018-07-25 14:58:02 | 邪馬台国・卑弥呼

1  日本書紀にある神戸生田神社
 201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”に居りたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせて欲しい)」との神託があったと日本書紀に記されている。


2  志摩国一宮 伊射波神社(いさわじんじゃ) 通称 かぶらこさん
〔鎮座地〕三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
〔御由緒〕天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたとされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。


3  私見
 神戸の生田神社は以前は布引の滝周辺にあった、とされる。布引の滝周辺は京都の藤原氏が祀った祠や石碑が多くある。
  この2社辺りに卑弥呼は居たと思われる。


倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は鳥取県湯梨浜町出身であり、7歳まで長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていた

2018-07-25 13:09:47 | 邪馬台国・卑弥呼

1  香川県の水主神社の伝承などによると、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は香川県に来られた時にはすでに、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方であったという。倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)が神意を伺い、まじない、占いをすることを覚えたのは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。

2  古事記には、倭建命は歌を詠んで「出雲建が佩ける太刀、つづらさわまき、真身(さみ)なしに哀れ」とある。
 長瀬高浜遺跡の円墳1号墓の箱式石棺から女性の遺骸と一緒に右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。この太刀は小林行雄先生らによると、つづらさわまきの大刀である、とする。「つづらさわまき」とは巻き方のことであって、材料は絹紐でもよいわけである。
 長さ1.01m・幅4.8cmの大振りの直刀 。 小林行雄先生らによるつづらさわまきの大刀(長瀬高浜遺跡発掘調査報告書より)
 6は柄部。7は中央部。
 1は中央部。2は先端部
 倭建命が身に着けていた都豆良佐波麻岐(つづらさわまき)の太刀もこのような太刀であったのだろう。つづらさわまきの太刀は当時皇太子や皇女がみにつけていたものと思われる。
 ここに埋葬されていた女性は皇女・あるいは皇女と同格の巫女であると思われる。天皇家の皇女は代々長瀬高浜で巫女になる習わしであった。天皇家は長瀬高浜に皇女・あるいは皇女と同格である巫女を置いていた。長瀬高浜遺跡1号円墳は5世紀中頃の築造である。私見では倭五王、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、436年~467年の時代であり、天皇の皇居は鳥取県中部にあった。但し、雄略天皇は滅びかけていた新羅を再興させたのだから、436年~467年の時代に新羅は滅びかけていた。高句麗・百済は新羅だけではなく、新羅から倭国(鳥取県中部)にまで船で出航し、襲ったのかもしれない。三天皇の帝紀・旧辞にはヒントらしきものを全く残していない。亡命百済人がそれほど自由に改ざんできたのは、百済は倭国天皇も殺害していたからかも知れない。3天皇で30年は短い。百済人2世の不比等に毒殺された天武天皇の皇子の3天皇の30年と同じくらいである。
 大量の埴輪が壊されていたのも5世紀中頃である。

3  長瀬高浜遺跡は孝霊天皇の皇居があった宮内(東郷池周辺の師木地方)の近くである。卑弥呼も小さいときから、長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていたものと思われる。長瀬高浜は道教(鬼道)を教える場所でもあった。大来皇女は倉吉の大御堂廃寺において1年半で道教を会得したから、卑弥呼も5歳のころから修行を始めれば道教(鬼道)を会得することができる。

邪馬台国・卑弥呼

2018-07-25 03:25:45 | 邪馬台国・卑弥呼

1 「共立」というのは、相手国も卑弥呼をよく知っていたということである。卑弥呼の属する国と相手国は旧知の国同士であったと思われる。富氏の口伝によると、「神武から数代の王は我々の反乱を防ぐため出雲王家の娘を妻とした」とする。
 卑弥呼の母親(先祖は弟磯城で姓はハエ)は出雲神族の出身であった。母親が同族だから出雲神族も卑弥呼を共立した。倭国は鳥取県中部であったから倭国大乱は鳥取県中部(倭国)と鬼(出雲神族)の発祥の地の島根県東部(出雲国)との戦いであった。
 卑弥呼は天照大神・天忍穂耳・瓊々杵命・神武天皇の子孫であり、占領した地に銅鐸を置いて行った出雲神族の銅鐸文化圏の生まれではなく、天忍穂耳や家来の猿田彦が使っていた光らせて通信をする伯耆族の銅鏡文化圏の生まれである。


2 天穂日は元々鳥取県八頭郡にいた。大国主を生まれた時から守っていた天穂日は天忍穂耳と相談し国譲りの交渉で、葦原中津国に多くいた出雲神族(準王一族)のことを大国主に尋ねた。天穂日は出雲神族(準王一族)の動静を監視するため能義平野に行き、そこで殷王朝末裔の準王と出会った。天穂日は出雲神族(準王一族)と婚姻関係を結び、饒速日にも長髄彦の妹を娶らせた。
 しかし宗教の違いにより対立した。かたや生贄の風習を残す殷王朝末裔の準王一族と、かたや人命を大事にして人口を増やしたい天孫族とは相いれるものではなかった。富氏は「天穂日はスパイであり後続部隊の手引きをした」とする。その後、出雲神族(準王一族)は蜘蛛の子を散らすように全国に展開したので、伯耆国の神武天皇たちは全国の出雲神族(準王一族)を平定していった。第10代崇神天皇の時代に全国の準王一族(出雲神族=蝦夷)は平定された。


3 倭国大乱の始まりは出雲と伯耆の争いであった。出雲族は出雲王家の娘(高杉神社の祭神の松媛之命、千代姫之命)を孝霊天皇が殺したとして伯耆国を攻撃してきた。出雲軍は伯耆国を通らずに海路で青谷に上陸し、伯耆の天孫族が朝鮮半島より誘致してきた一族(青谷にいた和邇氏)を襲った。銅鏃が証拠である。女子供も殺している。そして、東郷池の黒田の地(湯梨浜町宮内)に攻めてきた。この時、倭迹迹日百襲姫命は7歳であった。
 倭迹迹日百襲姫命は父に遅れて、黒田の地(湯梨浜町宮内)を離れて天之日矛が建国した但馬国を頼って行った。倭迹迹日百襲姫命は倭国大乱を避けるために8歳から18歳まで但馬国より安全な讃岐に逃れていた。讃岐の水主神社の記録にも、「7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られ・・・」とある。丹後国の海部氏系図に残る9世孫妹の「日女命」は、亦の名を倭迹迹日百襲姫命であるとされる。「日女命」は卑弥呼であるという説が有力である。
 長瀬高浜(タギシ)には巫女がいて航海の安全を祈っていた。倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇の皇女(ミコ)であり日皇女(ヒミコ)であった。11世孫の妹の「日女命」の亦の名である「稚日女命」と「倭姫命」も卑弥呼と思われる。倭迹迹日百襲姫命の弟の開化天皇(若建日子吉備津日子)と崇神天皇(大吉備津彦)も11年ほど親戚の天之日矛が建国した但馬国に疎開していた。


4 孝霊天皇は奈良から播磨を通ったのではなく、但馬国から因幡国を通って伯耆国に来た。鳥取県中部(倭国の都)を取り返してから鳥取県西部(妻木晩田や手間山)を攻撃した。原古事記には書いてあったはずだが藤原氏は孝霊天皇の旧辞を消している。但馬国から伯耆国だと伯耆国に都があったと推定されるからである。孝霊天皇は伯耆国奪回のために来た。
 戦いは皇軍が山を越えて斐伊川上流に入り、出雲軍とにらみ合いになっている時に、卑弥呼(稚日女命)が出した和平案により合意が成立した。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の銅剣・銅矛・銅鐸は停戦の証として埋められたと思われる。 これは準王一族の軍備であり、これがあるために素戔嗚や大国主の本拠地が出雲国にあったことにはならない。素戔嗚・大国主の本拠地は伯耆国にあった。

5 全国を巡行した倭建命が訪れた地名(日本書紀・古事記)と稚日女命が祀られている全国の神社の所在地とを対比してみると、倭建命は単独ではなく稚日女命(倭姫命)と一緒に巡行していたことがわかる。
 倭姫命と倭建命は全国・半島を巡行して平定したあと、倭建命は豊田市の猿投神社を本拠地にし、倭姫命は神戸市の旧生田神社を本拠地にしていた。倭建命が亡くなったときの倭姫命の本拠地は神戸市の旧生田神社であった。崇神天皇の時代になり、倭迹迹日百襲姫命が祭祀をした三輪神社は鳥取県北栄町の三輪神社であった。その時も倭迹迹日百襲姫命の本拠地はまだ神戸市の旧生田神社であり、崇神天皇の本拠地は豊田市の猿投神社であった。倭建命の時代にすでに倭姫命は伊勢神宮にいたと記載している古事記・日本書紀は藤原氏による伊勢神宮を古く見せるための改ざんである。倭建命の時代には伊勢神宮・伊勢国はまだ存在しなかった。崇神天皇の時代に、纏向遺跡ができて志摩国の伊雑宮ができたのだから、倭建命(開化天皇)の時代は志摩国の伊雑宮でさえまだできていなかった。全国を統一した倭姫命(卑弥呼)や志摩国(邪馬台国)を封印するためにできた伊勢国・伊勢神宮があるはずがない。
 倭姫命は神戸市の旧生田神社を本拠地としていた。崇神天皇の時代、倭迹迹日百襲姫命(倭姫命)は鳥取県北栄町の三輪神社に全国の代表者を集めて祭祀をしていた。倭迹迹日百襲姫命は神戸市の旧生田神社から、鳥取県北栄町の三輪神社にきて祭祀をしていた。しかし、東国の代表者が鳥取県北栄町下神まで来るのは大変であることがわかり、倭朝廷は奈良の纒向で祭祀をすることにした。倭迹迹日百襲姫命(倭姫命)は神戸市を離れて、纒向で祭祀をするための安全な居所を探さなければならなかった。
 倭姫命は纒向で祭祀することを念頭に置きながら、宇陀は居所として安全か、伊賀は居所として安全かを見極めながら巡行していった。倭姫命の単独の巡行だけならば、宇陀・伊賀から始まるため、おかしいと思われる。なんで奈良盆地からスタートしないのかと疑問に思われる。疑問に思われないために三輪神社で終わる豊鋤入姫命の巡行を倭姫命の巡行の前に入れることにした。倭姫命は纒向で祭祀することを念頭に置きながら巡行したが、纒向ではなく三輪神社で祭祀することを念頭に置きながら巡行したと思わせるため、三輪神社から引き継いだとした。
 本来二人の巡行目的は違っていたが、天照大御神を座し奉るための場所探しという目的に変えて豊鋤入姫命→倭姫命の順番で引き継がせることにした。二人とも2代から9代までの欠史8代の皇女とするわけにはいかないので、豊鋤入姫命は10代の崇神天皇の皇女、倭姫命は11代の垂仁天皇の皇女とした。史実は11代垂仁天皇の皇女は豊鋤入姫命であり、倭姫命は第7代孝霊天皇の皇女であった。

6 卑弥呼(倭姫命・稚日女命)は、全国(東は岩手県、西は長崎県)と朝鮮半島を平定し、倭国(鳥取県中部)より温暖な志摩国を終の棲家とした。卑弥呼の出身国の倭国(鳥取県中部)とは離れた国であった。邪馬台国(志摩国)は卑弥呼が選んだ倭国(鳥取県中部)の分家である。出雲神族(鬼)のイザワトミを使役した。
 安楽島町の伊射波神社の由緒には、「稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物(あわび)の一部を太明神にも奉納するいう別格の扱いを受けていました」とある。纏向遺跡から沢山のあわびの殻が出土したので、由緒にいう朝廷とは纒向にあった朝廷であり、稚日女尊は纏向遺跡と同時代の人物であったと思われる。彼女(変身前は倭姫命)は安楽島町の伊射波神社から奈良の纒向に出向き全国の代表者の前で祭祀を行っていた。
 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。鳥羽の安楽島町と伊射波神社との間にある径70m余りの松の鼻古墳が卑弥呼の墓と思われる。身長170cmくらいの人の歩幅は70cmくらい(ヤフー知恵袋より)であり、100余歩は70m余りとなる。実際に誰かが歩いたものと思われる。これを×2にするのは箸墓古墳を卑弥呼の墓にしようというこじ付けである。松の鼻古墳からは鉄剣が出土している。

吉野ヶ里遺跡は全国に分布する銅剣・銅矛を作る中心地だったのではあるまいか

2018-07-24 21:49:28 | 倭国大乱の原因
1  日本書紀・崇神天皇・神宝・において「このとき出雲臣の先祖の出雲振根が神宝を管理していた。しかし筑紫の国に行っていたので会えなかった。・・・出雲振根は筑紫から帰ってきて・・・」とある。吉野ヶ里遺跡のある平野を筑紫平野というので、出雲振根は吉野ヶ里に行っていたと考えられる。吉野ヶ里遺跡の周辺では銅剣・銅矛の鋳型も見つかっている。また銅鐸の鋳型も見つかっているから、吉野ヶ里は青銅器文化の一族であり、出雲国と同盟関係にあったと思われる。 

2  吉野ヶ里には殷王朝末裔の準王一族が住んでいたのではないかと推測される。溝と柵の位置が通常と反対であるのは、中に奴隷がいたから逃げられないようにするためである、という説や二千以上の遺骨は祭祀の犠牲者ではないか、という説がある。頭のない遺骨などからも、生贄の風習を残していた殷王朝末裔の準王一族であった可能性が高い。

3   西野凡夫はその「新説古代史」において「熊本県阿蘇・菊池地区と大分県直入・大野地区の、弥生後期から終末期にかけての鉄鏃出土数は計336本で九州全出土数の過半数を占める。これらの鉄鏃は副葬品ではなく、住居跡から出土しているという特徴がある。この地域が弥生後期から終末期にかけて日本列島内の最激戦地であったことは疑う余地がない」とする。
 
 稚日女命(卑弥呼)を祀る神社
 ヤマト王朝の皇軍はここを拠点としていた。卑弥呼・倭健命たち皇軍は大分県直入・大野地区と熊本県阿蘇・菊池地区にかけて九州を横断している。大分県側から入ったものと思われる。宮崎県・鹿児島県に稚日女(卑弥呼)を祀っている神社がない。宮崎県・鹿児島・福岡県・佐賀県・長崎県などはすでに神武天皇の時代に平定されていて、ヤマト王権に従っていたが、倭建・倭姫(卑弥呼)の時代に熊襲が従わなかったので熊本県に平定にでかけたと思われる。
 

4  弥生後期、鳥取県湯梨浜町宮内遺跡2号墳で107cmの鉄刀とともに副葬されていた12個の鉄鏃が出土した。弥生時代後期に鳥取県中部には鉄鏃を使う一族がいて、九州には鉄鏃を使われる一族がいた。
 鳥取県湯梨浜町宮内第5遺跡2号墳より

 地元の方には申し訳ないが吉野ヶ里は邪馬台国ではない。吉野ヶ里に居た勢力はヤマト王権(卑弥呼・倭建命たち)に敵対する勢力であった。卑弥呼・倭建命たちは吉野ヶ里を攻撃している。吉野ヶ里で見つかった鉄鏃は鳥取県湯梨浜町宮内遺跡に副葬されていた12個の鉄鏃とは異なりヤマト王権が吉野ヶ里に対して放った鉄鏃である。その他の鉄製品もヤマト王権が持ち込んだものと思われる。

5  鳥取県中部(北栄町大島)の宮崎神社由緒によれば「日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引き寄するが如く本社地乾の隅に着御し給えり。尊大に歓喜し給いて宣はく『斯く清らかなる地の海面に浮き出づるはこは浮洲(島)にや』と。洲(島)の中央に大麻を挿立て、御自ら御飯を炊き給いて二尊(兄の孝元天皇が皇子のとき奉斎された伊邪那岐・伊邪那美)を祭り、神助を謝し給えり」とある。
 倭建命は1歳で湯梨浜町宮内の黒田庵戸宮を去り、11年間天之日矛の建国した但馬に疎開していた。倭建命は征西・三韓征伐の後、開化天皇になり卑弥呼と共にに東国を平定した。

高杉神社は孝霊天皇や稚日女(卑弥呼)が鳥取県中部を取り返し妻木晩田を攻撃した時の拠点であった

2018-07-24 16:32:46 | 倭国大乱の原因
1 先の大戦で日本は相手を鬼畜米英と呼び、アメリカは日本人を猿(モンキー)と呼んだ。戦争では相手を蔑称で言うのが通例であり、これは古代でも同じであった。ヤマト王権は殷王朝末裔の準王一族(出雲族)を鬼・土蜘蛛・猿・河童と蔑称で呼んだ。

2  鳥取県大山町宮内の高杉神社
 
 参道を奥に行くと鳥居がある。向こうの山が孝霊山である。

 祭神 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
 由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳、近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻媛)に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。

3 私見
(1) 孝霊天皇は倭国大乱が始まる前に大山町長田の孝霊山中腹の宮殿に朝妻姫と住んでいた。倭国大乱が始まり孝霊天皇一族は天日矛一族のいる但馬に疎開した。
 疎開してから11年後、卑弥呼(倭姫命)は大吉備津彦(崇神天皇)や若日子建吉備津日子(開化天皇・倭健命)と一緒に瀬戸内や吉備国を平定して、但馬、因幡を平定してきた父の孝霊天皇と鳥取県中部で合流した。その後、妻木晩田の平定に向かった。
(2) 高杉神社は孝霊天皇が但馬に疎開して11年後に反撃し妻木晩田を攻撃した時の拠点と思われる。
 本媛とは細姫ではなく、近くの妻木から娶られた朝妻姫と思われる。妻木晩田は出雲文化である。朝妻姫は出雲族であっった。「謎の出雲帝国」には、「神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。出雲神族の反乱を防ぐためでもあった。」とする。
 松媛之命、千代姫之命も妻木晩田の出雲族であったと思われる。本媛に嫉妬して自殺したのかもしれない。うわなり神事は海岸まで行く。「松媛之命、千代姫命の霊魂が本媛に対し嫉妬の崇あり」とするので、自殺したと思われる。この事件が出雲本家には孝霊天皇が殺したと伝わり攻撃してきたと思われる。
(3) 妻木晩田の出雲族は手間山に逃げ込んだ。孝霊天皇は、米子市上安曇、南部町中、江府町日光村、日南町宮内に行った。孝霊天皇は妻木晩田、手間山、鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定していった。出雲で和平協定が成立してからは、孝元天皇に皇位を譲り、広島県府中市の南宮神社で生涯を終えた。いずれも天孫族が大陸に行くためのルート上にあり伯耆国の西部である。
 倭国大乱の最初は出雲神族の誤解から始まったが、大陸へ行くルートを確保することも大事であった。孝元天皇は皇居に残り伊邪那岐命・伊邪那美命を祀るなど後方から支援していた。孝霊天皇の腹違いの子である孝元天皇と卑弥呼・大吉備津彦と若日子建吉備津日子は天日矛・物部や鬼に苦しめられた地元の者達の協力によって、中国地方の倭国大乱を終結した。

 おまけ
 高杉神社の前では稲刈りをしていた。

安来市の佐々布久神社の祭神は孝霊天皇である

2018-07-24 09:37:54 | 倭国大乱の原因

1  安来市の佐々布久(ささふく)神社の祭神は大己貴尊(大国主命)とする。
 この祭神は改ざんされていると解する。
 藤原氏は、713年から733年の間20年で出雲国の大改造をしている。その時に祭神と神社の漢字表記を変えたものと思われる。
 藤原氏は、713年に出雲風土記を提出させたときに、出雲に準王一族(出雲神族)の帝国があったが倭国に平定されたことを知って、出雲国を大改造し、最初の出雲風土記を廃棄し新たに20年後に出雲風土記を作成した。

2  鳥取県にある楽楽福(ささふく)神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽々福神社)と西楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽々福神社、西伯郡南部町の楽々福神社、米子市安曇の楽々福神社ががあるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っている。
 「ささふく」の名称由来
 ある夜、孝霊天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。そのようにすると鬼は降参した。
この伝承に基づいて名付けられた名称である。
 神社の屋根を笹で葺いて造ったから「ささふく」神社というとする説があるが、伝承に基づいて笹で屋根を葺いたものと思われる。
  「ささふく」神社の祭神は、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であり、島根県能義郡広瀬町石原の佐々布久神社の祭神も大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であったと解される。孝霊天皇は倭大乱を平定するためにここまで来て拠点とした。

3  佐々布久神社は安来市広瀬町石原にある。
 

 

 おまけ
 石段の途中の踊り場から足立美術館が見える。足立美術館の日本庭園の借景の一部になっているのかもしれない。

鳥取県日南町宮内の樂樂福神社

2018-07-24 06:30:45 | 倭国大乱の原因
 鳥取県日南町宮内の樂樂福神社
 祭神 若建吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命、細姫命、福姫命
 由緒 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と若建吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅命に因って当国に巡行あり、(この西道は七道分割以前の時にて今の山陰山陽に当たると) 此の地に悪鬼占拠して(今に此の地を鬼林山と称ふ)人民を鹵掠せしを、遂に平定し給ふ。因て若建吉備津彦命の功績を畏みて此の地に祀る。大日本根子彦太瓊命、細姫命、福姫命の三柱は父並に正后妃に当たらせらる。
 天皇此所に於て悪鬼を退治ありし地なりと伝来す、此地に鬼塚と号して方五間に余る大きな塚あり、社殿に其所の悪鬼尸を埋めたる塚なりと云へり、其外山中所々に奇異の古跡不可勝計」といへり。
※ 私見
 孝霊天皇の一族は日南町宮内の樂樂福神社をしばらく拠点にしていたようである。
 卑弥呼(稚日女命)も父を助けているという自覚はあったが、父は腹違いの母子と一緒であったため、同じところにはいなかった。近くには居たが祀られている神社が別々である。孝霊天皇が樂樂福神社に居たときは、今は合祀でなくなった岩崎神社(日南町湯河宮ノ前)あたりに居たはずである。
 細姫も福姫もこの地で亡くなった。孝霊天皇は日南町の鬼林山を平定してから安来市の佐々布久神社に向かったと思われる。

溝口の鬼の館に行ってきました

2018-07-24 03:00:30 | 倭国大乱の原因
1  鬼の館の説明文より
 《孝霊天皇は、鬼住山の南の笹苞山に陣を敷いて、鬼の館を見下ろしました。人々が献上した笹巻の団子を三つ並べて鬼をおびき出せば、弟の乙牛蟹が出てきました。大矢口命が矢を射ると見事に命中し、乙牛蟹は死んでしまいました。しかし、兄の大牛蟹は手下を連ねて荒々しく手向かってきてなかなか降参しません。ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました。鬼は逃げ散り、天皇は一兵も失わずに勝ちました。麓に逃げた鬼は蟹のようにはいつくばって、「降参します。これからは天皇の配下となって北を守らせてください」と願ったので、天皇は、「よしお前の力をもって北を守れ」とお許しになりました。》

 鬼住山
 下の日野川との間を通る旅人を襲っていたと思われる。天孫族は天照大神の時代からこのルートを通って日南町→広島→北九州→大陸に行っていた。
 笹苞山
 孝霊天皇はこの山に陣取って天津神のお告げを聞いた。そのお告げは卑弥呼(稚日女命)から出たものと思われる。

2  稚日女命(卑弥呼)の動き
 卑弥呼(稚日女命)は皇軍とともに移動していた。移動の順番は正確ではないが、讃岐を出てからは、以下の神社の所在地あたりを転々と移動していたものと思われる。石蟹魁師荒仁は石蟹(新見市石蟹)で新見市に拠点を置いていた。稚日女命(卑弥呼)は新見市を取り巻くように移動している。
(1) 岡山県浅口郡金光町大字占見新田1663  大森神社
(2) 岡山県浅口郡金光町大字下竹736  大森神社
(3) 岡山県久米郡中央町打穴北124 磐柄神社
(4) 岡山県久米郡旭町西川上90 徳尾神社摂社杉尾神社
(5) 岡山県津山市綾部1086  綾部神社
(6) 岡山県津山市沼430  齋神社
(7) 岡山県苫田郡奥津町久田下原43  久田神社
(8) 岡山県真庭郡久世町大字久世948  朝日神社
(9) 岡山県真庭郡八束村中福田392  福田神社
(10) 岡山県真庭郡川上村西茅部1501  茅部神社

3  大山周辺の稚日女命(卑弥呼)と孝霊天皇
 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原
(9)安屋咩神社  安来市赤江町400 
(神)倭姫(比女)命
(10)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(11)高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
     現住所 西伯郡南部町高姫
(12)蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
     現住所 西伯郡日吉津村日吉津
 若日孁神
(13)五郷神社 東伯郡旭村大字牧字家ノ上
(14)福田神社  岡山県真庭郡八束村中福田  
 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(15)倭文神社 湯梨浜町宮内
(16)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
     現住所 西伯郡大山町宮内
(17)楽楽福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
      現住所 西伯郡南部町東上
(18)楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
      現住所 米子市上安曇
(19)楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
      現住所 西伯郡伯耆町宮原
(20)山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
     現住所 日野郡江府町杼原
(21)佐々布久神社 
     現住所 安来市広瀬町石原

※ 私見
 稚日女命と孝霊天皇は鳥取県西部(西伯郡と日野郡)に足跡を多く残していることが判る。隣り合う出雲の勢力(鬼・土蜘蛛などと呼ばれていた)と戦っていたからである。
 鬼住山を攻めるとき、孝霊天皇と稚日女命(日女命=倭迹迹日百襲姫命)は鬼住山の奥の日光村にいた。
 孝霊天皇は日光村栃原におり、稚日女命(孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命)は日光村吉原にいた。これは鬼住山の鬼を笹苞山から笹の葉を吹いて成敗するときの陣形と思われる。孝霊天皇は天津神のお告げを聞いたが、天津神とは後方の吉原にいた倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)であった。
 日光村周辺には大字に大が付く地名が多い。京都の藤原氏の流れが作った伯耆誌には「大を王と読み替えるとは何事だ」とするが、これほど密集していると大は王(山田神社にいた孝霊天皇)ではないかと思われる。

鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神

2018-07-23 13:31:37 | 倭国大乱の原因
  鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神

1 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)
〈鳥取県東部〉
 孝霊天皇は因幡国にもいた。但馬に疎開してから11年後、反撃を開始して陣取った場所と思われる。
 久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947
 都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511  
〈鳥取県西部〉
 西伯郡・日野郡はどちらも出雲国と接している。
 高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
     現住所 西伯郡大山町宮内
 楽楽福神社 西伯郡東長田村大字中
      現住所 西伯郡南部町中(篠相)
 楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
      現住所 米子市上安曇
 山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
      現住所 日野郡江府町杼原
 楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
      現住所 西伯郡伯耆町宮原
 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
 菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
 日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
 佐々布久神社 現住所 安来市広瀬町石原

2 倭建命を祀る神社
〈鳥取県東部〉
 武王(倭武王)大明神と称していた神社
 古市神社(武王大明神)  現住所  鳥取市古市657
 安富神社(武王大明神)  現住所  鳥取市天神町
 神護神社(武王大明神)  現住所  鳥取市国府町神護675
 面影神社(武王大明神)  現住所  鳥取市正蓮寺192
 禰宜谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市祢宜谷227
 細川神社(武王大明神)  現住所  鳥取市福部町細川350
 恩志呂神社(武王大明神)  現住所  岩美郡岩美町恩志95
 杉森神社(武王大明神)  現住所  鳥取市下砂見530番
 宮小谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市用瀬町赤波2441
〈鳥取県中部〉
 今泉神社 鎮座地 東伯郡旭村大字今泉字上ノ山
  祭神 日本武尊
 中田神社 鎮座地 東伯郡安田村大字尾張字家の上
  祭神 日本武尊
〈鳥取県西部〉
 阪本神社  鎮座地 米子市長田字長砂
  祭神 日本武尊
 宗形神社  鎮座地 西伯郡成実村宗像
  祭神 日本武尊
 熱田神社  鎮座地 西伯郡幡郷村大字大殿字矢口
  祭神 日本武尊
 一ノ具神社  鎮座地 日野郡二部村福岡字鑪ヶ谷
  祭神 日本武尊 
 菅福神社  鎮座地 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
  祭神 稚武彦
 菅沢神社  鎮座地 日野郡大宮村大字菅沢字秋原
  祭神 稚武彦
 湯谷神社  鎮座地 日野郡多里村大字湯河字岩田
  祭神 倭武命
 楽々福神社  鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字東宮
  祭神 若建日子吉備津日子
 楽々福神社  鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
  境内神社 祭神 稚武彦

3 伊福部氏系図第十四代  武牟口命
虫井神社  現住所  鳥取県八頭郡智頭町大呂967
多加牟久神社  現住所  鳥取市河原町本鹿387

4 稚日女命(日女命=倭迹迹日百襲姫命・孝霊天皇の皇女)、(神)倭姫(比女)命、若日孁神 
  西伯郡と日野郡は出雲国と接しており稚日女命・(神)倭姫(比女)命・若日孁神は倭国大乱を終結させるため讃岐から来たと思われる。(以下は大正時代まで存在した神社)
(1)稚日女命
  折井神社    岩美郡成器村大字新井字宮の谷
 倭迹迹日百襲姫命が但馬国に逃げる途中に寄ったと思われる。倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇に遅れて皇居のあった湯梨浜町宮内を出た。香川県の水主神社の記録に「7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られ・・・」とある。
 平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
     現住所 米子市淀江町平岡
 富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
     現住所 西伯郡大山町妻木
 前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
     現住所 西伯郡大山町古御堂
 古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
     現住所 西伯郡大山町加茂
 前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
     現住所 西伯郡南部町西
 岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
     現住所 日野郡日南町多里
 吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
     現住所 日野郡江府町吉原
 大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
     現住所 西伯郡伯耆町大原
 安屋咩神社  安来市赤江町400 
(2)(神)倭姫(比女)命
 天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
     現住所 西伯郡南部町天萬
 高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
     現住所 西伯郡南部町高姫
 蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
     現住所 西伯郡日吉津村日吉津
(3) 若日孁神
 五郷神社 東伯郡旭村大字牧字家ノ上
 福田神社  岡山県真庭郡八束村中福田
 
※ 私見
(1) 鳥取県神社誌で稚日女命と(神)倭姫(比女)命を祀る神社は13社あるがそのうち10社は妻木晩田遺跡周辺に集中する。孝霊天皇は岡山県側から来たとする説があるが、この稚日女命の動きを見る限り妻木晩田をねらって東側から来た。妻木晩田を攻撃する時に孝霊天皇は大山町宮内の高杉神社にいた。
 出雲神族は妻木晩田の西に逃げ、南部町の手間山に逃げ込んだ。手間山の周囲3か所を稚日女命は包囲しているので手間山での攻防は激しかった。原古事記には手間山での戦いのことも書かれていたはずだが、藤原氏は欠史8代の旧辞を消して、手間山での大国主の赤猪伝説を創作した。
(2)赤猪岩神社の由緒には、「手間山鎮座の赤猪神社(祭神は大穴牟遅と刺国若比売)を大正11年に合併した」とある。大国主の母親は稲田姫であり刺国若比売ではない。刺国若比売は架空の母であり、その架空の母を祀っている赤猪神社は藤原氏によって創られた。
 古事記に「八上姫と婚約が成立して、大国主が兄の八十神にいじめられて木国の大屋彦のいたところに逃げた」とあるが、私見では木国の大屋彦のいたところは鳥取県智頭町大家神社であり、いじめられた場所も鳥取県東部であった。その後、津山→蒜山→倉吉の父のいる清熊稲荷神社にやってきた。津山市の中山神社に大国主がいたという伝承があり、蒜山にも10歳の大国主がいたとする伝承が残っている。蒜山高天原ロマンの会の会長はこの伝承を不思議がっていたが、私は「正しい伝承」と答えた。
 そして根国(倉吉市)での冒険と続く。大国主の話は鳥取県東部と中部で完結しており、南部町手間山での話は倭国大乱の激戦地を消すための創作であった。近くに倭国の伝承を消すための春日神社と八幡宮がある。
 赤猪岩神社の案内板には「大穴牟遅神は真っ赤に焼いた石を抱いて焼け死んだ。キサ貝比売とウムギ比売は貝殻を削った粉を母乳のように練って塗ったら大穴牟遅神は蘇生した。その岩は2度と掘り返されることがないように土中深く埋められ、大石で幾重にも蓋がされ、その周りには柵が巡らされている」とある。
 掘っても無駄だと書いてある。そのような岩はないからである。おそらく地球の裏側まで掘ってもないと思われる。死んで蘇生するなどという話は青木繁の絵もあり面白いが創作であっった。
(3)鬼住山を攻めるときに孝霊天皇と稚日女命(日女命=倭迹迹日百襲姫命)は鬼住山の奥の日光村栃原と吉原にいたが、鬼住山の戦いより南部町手間山での戦いのほうが激しかったと思われる。
 倭国大乱において南部町手間山で戦いがあった。その時、孝霊天皇は米子市上安曇の楽楽福神社と南部町中(篠相)の楽楽福神社にいた。特に南部町中(篠相)の楽楽福神社の地では、手間山から出雲神族(準王一族)が逃れてくるのを待ち受けたと思われる。
 倭国大乱で手間山には出雲族(準王一族)が立てこもっていた。大国主の兄の八十神も出雲族(準王一族)であったから、藤原氏は大国主の赤猪岩の物語を創作した。おそらく倭建命(若建日子吉備津日子)と行動をともにしていた大国主14世孫の武牟口命も手間山の麓で出雲族(準王一族)が降りてくるのを待ち受けていたと思われる。

倭国は、卑弥呼たちが弥生後期に全国と半島を平定するまで小国であり、鳥取県中部であった

2018-07-23 12:07:35 | 倭国大乱の原因
1 青谷上寺地遺跡発掘調査報告書4(2002年) 第5章 青谷上寺地遺跡をめぐる諸問題 第4節 殺傷痕のある人骨をめぐる諸問題 より

(1)弥生時代の戦い
 次に墓壙内出土の鏃について検討する。すでに述べたとおり、青谷上寺地では銅鏃およびその可能性のあるものが嵌入した人骨が4例あり、全国的にも鏃の嵌入例または墓壙内出土例が多いことから飛び道具としての鏃の検討は避けられない。表33に山陰を中心とする日本海沿岸地域における鏃の墓壙内出土例をまとめた。丹後の墳墓には鉄製武器や工具が副葬される場合が多く、鏃のみの場合もなくはないが、基本的に墓壙内の鏃は副葬品と思われる。但馬の東山墳墓群では5基の墓壙より鉄鏃(1点・1点)・銅鏃(2点・1点・1点)が出土しているが、木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう。
 青谷上寺地と同じ因幡に所在する2遺跡はどうであろうか。鳥取市布勢鶴指奥墳丘墓SX06には銅鏃(1点)が認められた。出土状況からは墓壙内に残されたいきさつは判断できないが、中心主体部の底面形態から埋置された棺が舟底状木棺と考えられることや破砕した土器を供献する点に丹後あるいは但馬といった東の影響を見て取ることができ、銅鏃についても副葬品と考えたほうが妥当であろう。鳥取市桂見1号墓は後期末に属するものであり、第1主体(1点)と第3主体(1点)から鉄鏃が出土している。第1主体例は墓墳上面の出土であり、第3主体は写真を見る限り底面直上付近と思われるが、ヤリガンナと並ぶように出土していることから、両者とも副葬されたものと思われる。西伯の大山町仙谷3号墓第5埋葬主体の鉄鏃(1点)は底面直上と報告されているものであるが、人体に嵌入していたものかどうか判断できない。こうしてみると墓壙内出土の鏃は青谷上寺地人骨にかかわる後期に属するものに限れば、副葬品と判断されるものがほとんどで、人体に嵌入したものと分かるものはない。    (湯村 功)
(2)青谷上寺地と「倭国大乱」との関係
 以上のように見てみると、青谷上寺地遺跡において殺傷痕の残る人骨が埋められた時期、言い換えれば多数の殺傷痕を生じさせる何かが起こった時期というのは、史書に伝える「倭国大乱」の時期と重なるものの、遺跡周辺地域においてはそれを考古学的に証明することができない。「倭国大乱」と呼ばれる争乱は記述によれば国々の争いであり、考古事象に現れる場合は広い地域に共通する社会の動きが見出せるはずである。青谷上寺地の弥生後期後半に起こった出来事は、環濠の掘削や廃絶との関係で顕著に示されたように山陰から丹後までの日本海沿岸地域の中では弥生社会の動きと連動したものとは思えない。
 断っておきたいが、弥生時代の戦いそのものを否定はしないが、弥生後期後半に青谷上寺地で起こった多数の殺傷痕を生じさせた出来事は、それ以外の考古事象からは「倭国大乱」を直接的に示すものとは断定はできないことがいいたいのである。もちろん人が多数傷つき、埋葬された遺体を掘り起こして環濠に埋め込むことなど、とても尋常なこととは思えない。何かが起こったであろう。しかし安易に「倭国大乱」と結びつけることは危険である。何が起こったのか、それを明らかにすることはできなかったが、近年盛んな「弥生戦争論」に対する問題提起としたいのである。    (湯村 功) 

2 青谷上寺地遺跡出土鉄器の総合的評価

・・・・・。
 中期後葉段階には鍛造工具が一定量存在し、同段階の鉄片、棒状鉄器には加工痕が認められることから、集落内での鉄器生産が開始されたと想定する。稚拙なつくりの袋状鉄斧、板状鉄斧や裏すきをもたない鉇などは本集落の所産である可能性が高い。それらに、相対的に良質な鉄斧や舶載品が加わる組成となる。簡易なつくりの鉄斧と複雑かつ立体的なつくりの鉄斧二者は後期初頭から古墳前期初頭まで九州系の製品が見られることもあり同期まで共存する。また、製品から別の製品を得ようと試みた未製品と見られるものは中期後葉段階から見られるが、初期のものは再加工の技術も稚拙である。後期でも概ね後半段階になると数量的にも一気に増加し、製品の形態や大きさに目的に沿ったバリエーションが出てくる。再加工を含めた鍛冶技術の進歩も看取でき、鋳造鉄器破片の再利用の仕方も中期段階に比して変化が認められる。      (高尾浩司)

3 私見
(1) 魏志倭人伝には「倭人は、帯方郡の東南の大海の中(日本海沿岸=鳥取県中部)にあり、山(蜘ヶ家山・四王寺山・土下山・向山・大平山など)や島(北条島・大島・穴窪=軽島之明宮・龍島など)によって国や村をなしている。・・・。倭の兵器には、矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢には、鉄鏃(宮内第5遺跡)や骨鏃(青谷上寺地遺跡)を用いる」とあり、倭国は銅鏃を用いない。青谷上寺地遺跡から弥生時代後期以前の鉄製品は274点出土している。このことより、少なくとも、青谷上寺地遺跡は銅剣・銅鐸の青銅器文化の一族(出雲族)ではないことが判る。青谷上寺地遺跡から出土した60点の銅鏃は青銅器文化の一族(出雲族)が青谷にいた一族を虐殺するために用いたと思われる。骨鏃は青谷上寺地遺跡から42点出土している。鉄鏃は鳥取県中部の王族に渡していたと思われる。
 「海中」の意味は「対岸」である。事代主や準王の文章にも「海中」とある。倭国(倭州)とは、当時、列島に100あまりあった小国の一つであり鳥取県中部であった。
(2) 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷皇子は、菟砥の河上(川上)においでになり、鍛冶の名は河上(川上)という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部(舎人)を、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に納めた」とある。
 垂仁天皇(私見では在位230年~250年)は古墳時代前期の天皇であり、湯梨浜町大字川上(字鍛冶屋谷)宮で太刀一千口を造らせた。材料は三朝町から得た。三朝町で204のたたら遺跡が見つかっている。その刀を忍坂邑(三朝町片柴)から倉吉市大原の石上神宮に納めた。
 当時、青谷と鳥取県中部とは鉢伏山側を通る県道51号線で湯梨浜町川上集落まで結ばれていた。近世は因幡国であるが、当時は鳥取県中部に属していた。鍛冶技術を持ったものが青谷から湯梨浜町川上に来たと思われる。
(3) 湯村功は「木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう」とするが、こういうものは副葬品ではない。湯村功は鉄鏃・銅鏃はすべて副葬品だとするが、九州(鹿児島県・佐賀県・福岡県)で出土した弥生中期の鉄鏃は棺内にあってもすべて副葬品ではないとしている。1点や2点は人体に嵌入したものとみるべきである。
 また、「遺跡周辺地域においてはそれを考古学的に証明することができない」とするが、すぐ近くの湯梨浜町の宮内遺跡をわざと隠しているとしか思われない。宮内第5遺跡2号墳(弥生時代後期)石棺内から出土した107cmの鉄刀と12点の鉄鏃は明らかに副葬品である。きれいに並べておいてあり、生前、埋葬者が使う予定であった鉄鏃である。6年前(1996年)に刊行されていた宮内遺跡発掘報告書の鉄鏃12点を、知らないはずはない。なぜ挙げなかったのだろうか。倭国は鳥取県中部だ、という証拠を示したくなかったと思われる。
 「しかし安易に倭国大乱と結びつけることは危険である」とし「弥生戦争論」に逃げているが、「危険」とは何を意味するのであろうか。青谷上寺地の虐殺を倭国大乱と認めてしまうと倭国とは鳥取県中部にあったことになり、今までの日本の古代史の定説が覆り、古事記・日本書紀の信憑性が揺らぐからである。 
  
 

倭国大乱の原因

2018-07-23 04:54:31 | 倭国大乱の原因
1 出雲神族の富氏の口伝によると「ホヒ(天穂日)は出雲神族(準王一族)と婚姻関係を結んで、後続部隊の手引きをした。出雲神族(準王一族)の反乱を防ぐため、神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とある。
 出雲には「出雲族(準王一族)の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。これが倭国大乱の原因と思われる。

2 孝霊山の伝承
 鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている。
 第7代孝霊天皇(私見では120年生~211年没)の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都(鳥取県中部)まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
 天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。
 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
 天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
 伯耆国(妻木)では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。

※ 私見
 2世紀後半では、妻木とは妻木晩田遺跡の地であり、孝霊天皇と朝妻姫の宮殿は長田集落の上(山側)にあったはずである。
 宮殿の比定地は東海(日本海)に臨み、見晴らしがよく、国見が出来きる。孝霊山周辺では、天皇が住む宮殿の立地条件としてベストである。長田集落の隣は妻木晩田遺跡である。

3 鳥取県大山町宮内の高杉神社
 祭神 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命(朝妻媛と思われる)、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
 由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳(476年)近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻媛と思われる)に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。

4 私見
(1) 祭神の中で大足彦忍代別命(景行天皇)だけが他のどの祭神とも関係がない。藤原氏は記紀を改ざんしているので、記紀との整合性を図るため、いつの時代か大足彦忍代別命(景行天皇)を挿入したと思われる。本来、倭建命は大足彦忍代別命(景行天皇)ではなく孝霊天皇の皇子であった。
(2) 祭神に本媛之命とあるが、これは細姫ではなく朝妻姫と思われる。孝霊山の頂(中腹)に孝霊天皇と朝妻姫のために宮殿を建てたのだから、その山の麓の孝霊天皇を祭る神社の本媛は朝妻姫しかいない。細姫は孝霊天皇が日南町の宮内に移ってからそこを訪れ福姫を生んだという由緒・伝承がある。
(3) 雄略天皇丙辰の歳(476年)に祟りあり、その後一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)を建造した。創立年代不詳とあるが、476年ころには創建されていた。藤原氏は伯耆国の神社の多くに創立年代不詳と書かせている。藤原氏が台頭する奈良時代(1300年前)以前から伯耆国に神社が創建されていたことを隠すためである。
(4) 出雲には「出雲族の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。出雲族の姫を孝霊天皇は殺していないが、孝霊天皇が出雲族の姫と接触する機会があったのは妻木晩田の朝妻姫たち(高杉神社由緒の朝妻姫之命、松媛之命、千代姫之命)とである。妻木晩田遺跡の発掘により、妻木晩田に住んでいたのは出雲族であった。四隅突出型墳丘墓(王墓とされる)が11基見つかっている。朝妻姫之命、松媛之命、千代姫之命の三人とも孝霊山の麓の妻木晩田出身であり、出雲族の王家の娘と思われる。松媛之命、千代姫之命は本媛之命に嫉妬していたので自殺したのかもしれない。「うわなり神事」は海岸まで行く。それを孝霊天皇が殺したと出雲族に伝わったと思われる。
(5) 妻木晩田遺跡より
 この方角から見る孝霊山が一番きれいに見える。
 案内板には「ここからは、妻木晩田遺跡の南側を眺望することができます。奥側に大きくそびえる三角形の山は孝霊山です。妻木晩田遺跡内からは大山が見えないため、妻木晩田の弥生人が日常的に仰ぎ見ていた山は孝霊山です」とある。
 妻木晩田遺跡は1世紀前半(紀元0年~50年)から人が住みはじめ、2世紀後半(150年~200年)をさかいに、妻木晩田のムラは少しづつ衰えていき、古墳時代初め頃には住まいがほとんど見られなくなる(妻木晩田遺跡公式ホームページより)。
(6) 孝霊山の伝承は、まだ倭国大乱になる前(158年以前)の平和な時代の伝承と思われる。その後、出雲族の姫を殺したとして、出雲神族(準王一族)は青谷上寺地遺跡、湯梨浜町宮内を攻撃したので、孝霊天皇一家は天之日矛族のいた但馬に疎開した(158年)。
 孝霊天皇一家と天之日矛族は10年後(169年)、反撃を開始する。孝霊天皇自身は但馬から因幡、伯耆の日本海側ルートで反撃をした。大吉備津彦(崇神天皇)、若日子建吉備津彦(倭建命)、倭迹迹日百襲姫命(倭姫命)たちはまず瀬戸内海の島々から攻撃を開始して、吉備国の平定に向かった。鳥取県中部で孝霊天皇と合流し、孝元天皇を倉吉市小田の皇居に残し、妻木晩田・手間山・溝口町・日野町、日南町を経て、出雲に入った。出雲国が降参して孝霊天皇は孝元天皇に皇位を譲り、広島県府中市の南宮神社に住んだ。その後も、倭姫命と倭建命と皇軍(物部・天之日矛族)の征西・三韓征伐(173年)・東征・崇神天皇の即位(188年頃)と続き出雲族の母を持つ倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)は女王として共立された。
 

山陰型甑形土器は倭国乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた

2018-07-22 09:10:18 | 欠史八代

 山陰型甑形土器は愛媛県でも発掘されているが、このことは 楽楽福神社(鳥取県日野郡日南町宮内)の由緒が事実であったことを証明するものである。


1   楽楽福神社 鳥取県日野郡日南町宮内 由緒(昭和9年鳥取県神社誌より抜粋)
 彦狭嶋命は稚武彦命の御兄に坐せとも爰に合祀すべきよしなきが如し。社殿に彦狭嶋命亦歯黒皇子といへる此一名古書に所見無し。若くは稚武彦命を仔細ありて当国にて歯黒皇子と称したるものにや(然らば此皇子今猶本社に祭られ玉ふ事稚武彦命当社主と坐すべき上説の一子證ともいふべし)。但し、豫章記(伊豫国河野家譜)に孝霊天皇・孝元天皇・此孝元天皇御弟、伊豫皇子ト申(母皇后細媛命磯城縣主大目女、孝霊第二皇子御諱彦狭島命)。「此頃南蠻戎動令蜂起之間、此御子当国下給仍西南藩屏将軍云、即以宣下故伊豫皇子号云々此皇子御座所伊豫国伊豫郡神埼庄ト号今霊宮申親王宮奉崇即当家曩祖宗廟神也件宮南方十八町山腰皇子御陵有臣下多死随寶王ヲ陵トナス云々」此説後人の杜撰に似たりと云へども全く古伝の存する處有しに拠れるなるべし。此頃南蠻西戎動蜂起之間と云へるは崇神天皇の御代吉備津彦命西道に遣し給ひし時の事なり。彦狭島命を伊豫皇子といへる事当社の伝に似たる事也。


2   愛媛県生涯学習センター「えひめの記憶」[愛媛県史]伊予の祭祀遺跡より
 宮前川遺跡は、松山市街より市西部・北部を貫流する宮前川の河川改修工事に伴って、同市別府町から津田にかけた地区で昭和五八年から五九年にかけて緊急発掘がなされたもので、弥生時代末期から古墳時代初期のものとみられている。出土品のなかには、県下では初めてという水鳥・馬形土製品、甑型土器や鼓形土器などのいわゆる山陰型土器が多く含まれている。発掘に当たった愛媛県埋蔵文化財調査センターでは、同地区をA~Cの三区に分けて発掘したが、うちC地区の地下一・三mのところで約三〇mにわたって細長い列状の土師器群遺構が現れた。その中には、鳥取市の秋里遺跡など山陰地方で数例発見されている水鳥形の水差し様土器が出土するなど、祭祀関連遺物が数多く含まれているところから祭祀遺跡と考えられている。


3  私見
 山陰型甑形土器は「甑」は細い方が下であるが、実際に使う時は細い方が上であった。山陰型甑形土器は暖房と食べ物を焼くために使われていたと思われる。遠征時の寒さを凌ぐために倭建命や崇神天皇によって考案されたものと思われる。山陰、特に鳥取県中心に広がっているから初期ヤマト朝廷が鳥取県にあった一つの証左となる。
  楽楽福神社由緒では歯黒皇子が彦狭嶋命か稚武彦命かで問題視しているが、いずれにしても歯黒皇子は倭国乱の時に父の孝霊天皇と一緒に鳥取県日南町宮内にいた。後に青銅器文化の一族を平定するために伊予国に行った。宮前川遺跡はその時の遺跡と思われる。


倭建命は吉備国・伯耆国・出雲国の鬼を平定した孝霊天皇の皇子二人のうち弟の方である

2018-07-22 08:42:43 | 欠史八代


1 日本書紀に「孝元天皇の皇后の欝色謎命は開化天皇の皇后になり、御眞木入日子印惠命と御眞津比賣命を生んだ」とある。兄が亡くなったので、兄の妻を娶り子供が生まれるということは時々聞く。年齢的に出産が可能であるからである。しかし、自分の実の母親を娶り子供を作ることは聞いたことがない。女性の生理年齢的にもあり得ないと思われる。開化天皇は孝元天皇の皇子ではなく弟であった。蝦夷(準王一族)は男女・親子・兄妹の区別なく妻としたから、日本書紀は準王一族(百済人)が制作し書き直したと思われる。
 開化天皇の父は孝霊天皇と思われるが、開化天皇は孝霊天皇のどの皇子であろうか。古事記にある大吉備津日子命か若日子建吉備津日子命であると思われる。「この二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた」のであるからその功績を認められ天皇になったと思われる。大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定した。この功績により、二人とも天皇になったと思われる。
 倭建命の伝承が鳥取県中部に2ヶ所残っている。時代は、その伝承の内容より倭国大乱の時代であり、倭建命も吉備国を平定している。大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命も吉備を平定している。同時代なので大吉備津日子命か若日子建吉備津日子命が倭建命であると思われる。「建」の字は熊襲を成敗したときにもらった字である。「建」が付いている方が倭建命と思われる。若日子建吉備津日子命が倭建命であり、開化天皇であった。大吉備津日子命が崇神天皇であった。
 大碓・小碓の双子の小碓が倭建命である、とするのは改ざんである。大吉備津日子命は異母兄であった。日本書紀は双子とするくらいだから、おそらく生年は同じ頃と思われる。倭建命は倭大乱の時代(146年~189年)に生きた。私見では157年生まれ188年没である。
 倭建命は西国を平定していた時は皇子であったが、東国を平定したときは天皇になっていた。全国の平定が終わってから、倭建命は尾張国に住んだ。倭建命も若くして亡くなったが、次の崇神天皇は開化天皇の皇子であったのだろうか。倭国天皇家では天皇が戦いなどで若くして亡くなった場合、兄弟承継をしていたようである。開化天皇(若日子建吉備津日子命)の兄の大吉備津日子命がまだ生きているではありませんか。卑弥呼は大吉備津日子命を次期天皇に指名したはずである。崇神天皇は開化天皇の兄の大吉備津日子命であった。崇神天皇は御真木(私見では木国は鳥取県智頭町であり御真木国は岡山県津山市)入彦なので岡山県津山市に宮を造っていたはずである。


2 (参考) 孝霊天皇の系譜 
 日本書紀の系譜は先代旧事本記と重なるので比較するのは古事記と先代旧事本記である。
(1) 蠅伊呂杼(紐某弟)の皇子
 日子寤間命は針間の牛鹿臣の先祖である(古事記)。
 彦狭嶋命は海直(あまのあたい)らの祖である(先代旧事本記)。
 若日子建吉備津日子命は、吉備の下道臣、笠臣の先祖である(古事記)。
 稚武彦命は宇自可臣(うじかのおみ)らの祖である(先代旧事本記)。
 日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直(あまのあたい)の先祖である(古事記)。
 弟稚武彦命(先代旧事本記)。 
(2)孝霊天皇
(古事記)
細比賣命を娶って生んだ子が大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)である。
(先代旧事本記)
細媛命を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(孝元天皇)である。
(古事記)
また春日の千千速眞若比賣を娶って生んだ子が千千速比賣命である。
また意富夜麻登玖邇阿礼比賣命を娶って生んだ子が夜麻登登母母曾毘賣命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比賣である。
(先代旧事本記)
妃の倭国香媛、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命、次に彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命]、次に倭迹稚屋姫命(やまととわかやひめのみこと)である。
(古事記)
またその阿礼比賣命の妹、蠅伊呂杼(紐某弟はえいろど)を娶って生んだ子が日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命である。
(先代旧事本記)
次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)、次に稚武彦命(わかたけひこのみこと)、次に弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)である。
(古事記)
この天皇の御子は合わせて八柱だった。<男王が五柱、女王が三柱>
 大倭根子日子國玖琉命は、後に天下を治めた。
大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。この大吉備津日子命は<吉備の上道臣の先祖である。>
次に若日子建吉備津日子命は、<吉備の下道臣、笠臣の先祖である。>
次に日子寤間命は、<針間の牛鹿臣の先祖である。>
次に日子刺肩別命は、<高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である。>
(先代旧事本記)
天皇は、五人の皇子をお生みになった。
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)。
彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命。吉備臣らの祖]。
次に、彦狭嶋命[海直(あまのあたい)らの祖]。
次に、稚武彦命[宇自可臣(うじかのおみ)らの祖)]
次に、弟稚武彦命。
(3)孝元天皇
(古事記)
この天皇が穗積臣らの先祖、内色許男命の妹、内色許賣命を娶って生んだ御子は大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘毘命である。
(先代旧事本記)
欝色謎命(うつしこめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)、次に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひびのみこと:開化天皇)、次に倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)である。
(4)開化天皇
(古事記)
庶母(父の妃)の伊賀迦色許賣命を娶って生んだ子が御眞木入日子印惠命、次に御眞津比賣命である。
(先代旧事本記)
伊香色謎命を立てて、皇后とされた[皇后は、天皇の庶母である]。皇后は、御間城入彦五十瓊殖命(崇神天皇)をお生みになった。


第7代孝霊天皇の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった(2)

2018-07-20 09:58:39 | 欠史八代
1  鳥取県教育文化財団調査報告書 (重要だと思われる部分のみ抜粋)
遺跡名 宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第5遺跡 宮内2・63~65号墳
遺跡所在地  鳥取県東伯郡東郷町宮内字雲山
公開日 :2014-03-13
http://sitereports.nabunken.go.jp/13629
ぜひご覧になってください。
発掘 1995年より
出典文献名:鳥取県教育文化財団『宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第5遺跡 宮内2・63~65号墳』1996年
 遺跡概要
集落跡-弥生後期~古墳前期  竪穴住居跡18+土溝21+溝6
弥生土器+土師器+勾玉+管球+ガラスこだま+槍鉋+洲木崎+防錆内行立夏文鏡+石器
墳墓-弥生後期~末  墳丘墓4+土壙墓84
弥生土器+管球+鉄剣+鉄刀+槍鉋+鉄カマ+刀子
 
F3 鉄刀 107.2cm+6.8cm 宮内第5遺跡2号墳 
                  出典文献の210頁「挿図271」を転載
 
                出典文献の247頁「挿表19」を転載
F5 鉄刀 94.5cm 宮内第1遺跡1号墳
              出典文献の55頁「挿図58」を転載
                 出典文献の247頁「挿表18」を転載
 特記事項
集落跡:土坑の大半は弥生時代後期のものと考えられる袋状貯蔵穴。
墳墓:宮内第1遺跡1号墓からは全長 94 cmの大刀が出土している。鉄剣、鉄刀は同時代のものとしては日本最長。管玉には、ガラス製のものと石製のものがある。   出典文献の「報告書抄録」の特記事項から引用
 まとめ
 今回の調査では、宮内第1遺跡(D区)において、県内では最大級の弥生時代後期の墳丘墓を検出し、1号墓、3号墓の主体部はその規模が山陰最大級のものである。これらの墳丘墓は、この後古墳時代前期に至って周辺に築造される、県内最大のものを含めた大型前方後円墳への墓制の移行を考える上で、非常に貴重な資料であるといえる。また、これらから出土した鉄剣、鉄刀はいずれも大陸から製作され、伝わった可能性が考えられ、その長さでは日本最長のものである。弥生時代における鉄剣、鉄刀は主に北部九州で出土しており、他地域では若干見られるにすぎない。これは、当地と北部九州との関連性を考えねばならないことであるが、東郷池という良好の潟湖を背景にした、大陸との直接交流も視野において置くべき問題と考える。
 なお、検出できた墳丘墓、土墳墓は、いずれも弥生時代後期~末に時期を設定できるものと考えられ、古墳時代にまで至ると考えられるものは埋葬形態が襲棺となるSX32のみである。このことは、墓制の変化、墓域の移動を物語っていると同時に、墳丘墓主体部及び土墳墓の軸の変化も含めて、墓域としていた集団の変化、集落の移動をも検討しなければならないものと考える。
 以上のことについては、本来であれば、墳丘墓もしくは大型前方後円墳を築造した集団を考慮し、当遺跡周辺の同時代の集落遺跡等をふまえて検討すべき問題であるが、調査員の力量不足と時間的制約から、本書では事実報告だけにとどまってしまった。今後の調査研究に委ねる課題を多く残してしまう感があるが、本書に納めた内容が、その調査研究の一助となれば幸いである。                 
                         1996年                   出典文献の238頁を引用
 2  遺跡所在地
 上(C区)と真ん中(D区)が第1遺跡である。今は崩されて道路になっている。

                      出典文献の2頁「挿図1」を転載

 工事後の宮内の空撮
 左が宮内集落。中央上あたりが第1遺跡(D区)である。

                      出典文献の「図版1」を転載

 両サイドの丘がつながっていてその上に宮内第1遺跡があった。
 第1遺跡(D区)からは下蒜山、大山、茶臼山、長瀬高浜などが見え、出雲山より見晴らしが良い。出雲山の伝承はのちに藤原氏によって造られたのではないか。下照姫は宮内から出雲山まで行かなくても、より近いここで総てが見渡せる。

3 私見
 地元の人の言っていた「宮内の古墳」とは平安時代の経塚(国宝であり奉納したのは藤原氏)のことであった。第1遺跡の1号墳や3号墳は道路工事で崩されて無くなっていた。
 宮内遺跡で弥生時代後期の大小7本の鉄剣や鉄刀が見つかったこと(日本で最長の鉄刀を含む)は全国的にみても大きな意味がある。私見によると、孝霊天皇は120年頃の生誕で倭国(鳥取県中部を都とする小国の連合国家)の大王であり、九州も従っていた。159年頃には鳥取県にいた出雲族の反乱により鳥取県湯梨浜町の黒田宮(倭文神社)をあとにして但馬(竹野川流域)に疎開していたから、孝霊天皇一族(孝元天皇・開化天皇・崇神天皇・卑弥呼)が黒田宮(倭文神社)に居たのは弥生時代後期である。


第7代孝霊天皇の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった(1)

2018-07-20 05:20:27 | 欠史八代
1 日南町宮内(樂樂福神社)も大山町宮内(高杉神社)も孝霊天皇が居たから宮内という地名が付けられたと思われる。鳥取県西部の宮内はこの2か所だけである。孝霊天皇の皇居は師木にあったから、東郷池周辺である。鳥取県中部に宮内は湯梨浜町宮内の1か所だけである。この東郷池の宮内は、土壌情報閲覧システム(農業環境技術研究所)によれば南側は広く黒ぼく土壌である。宮内集落は空白になっているが、黒ぼく土壌である可能性が高い。旧東郷町の埴見集落か長和田集落か迷っていたが、ここが黒田庵戸宮と思われる。
 下照姫がいたから宮内という地名がつけられたとは考えづらい。孝霊天皇が居たから宮内という地名がついたものと思われる。ここが黒田庵戸宮であった。

 宮内集落である。

2  私見
 出雲神族(準王一族)が孝霊天皇一族を追い出したのである。
 出雲神族(準王一族)は倭の大乱が終結するまでに全国の広範な地域を占領していたようである。彼らが置いて行った銅鐸の分布は広範にわたる。
 出雲神族(準王一族)は青銅器文化であり、鬼と呼ばれるほど残虐である。青谷上寺地遺跡では女・子供も殺している。青谷の次は湯梨浜町宮内の黒田宮を襲って宮内を占拠した。近くの長瀬高浜遺跡からも銅鏃が見つかっている。彼らはここも襲った。
 孝霊天皇一家は親戚の但馬にいた天之日矛一族を頼って但馬に10年ほど疎開していた。

3  湯梨浜町宮内の伝承は下照姫のものだけを残し、孝霊天皇の伝承は藤原氏が消していった。宮内の地名は下照姫がいたからというだけでは説明できない。
 倭文神社本殿 (主祭神 建葉槌命、相殿 下照姫命 、建御名方命 、天稚彦命 、事代主命 、少彦名命、味耜高彦根命)
 主祭神は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であったのを、建葉槌命に置き換えたのではないだろうか。相殿の祭神は現在の波波伎神社の祭神をそのまま持ってきたものと思われる。改ざん前は孝霊天皇と孝元天皇・卑弥呼(倭姫命)・開化天皇(倭健命)・崇神天皇(吉備津彦)であったはずである。
 倭文神社の神社名は倉吉市志津にある倭文神社の神社名を持ってきたと思われる。藤原氏も宮内という地名を変えなかったのは、宮内の関連性を辿られるとは思っていなかったのだろう。