真の動物福祉牧場を目指して

ネパールでの暮らし

 チベット難民が一番多いのは、インドではなくネパールの様です。
 これはネパール北部の山岳民族がチベット系で言葉が通じるコトと、インドの暑さや風習にチベット人が馴染めないせいでしょう。

 このNPOのページでは、ネパールからインドに行きたいけれどもパスポートが無くて行けない。としていますが、ネパールとインドの国境は殆どフリーパス状態なので、ヒマラヤの峠を突破した難民が越せないハズはありません。

 やはりチベット難民はネパールが気に入って住み着いたと思われ、この国は貧しいながらも魅力に富んでいます。
 特に有名なのは「ヒッピーの聖地」としてNo.1の座を長年キープしているカトマンドゥで、二十歳で初めてヒマラヤを越えてこの街に着いた時(2000年)のカルチャー-ショックは忘れられません。

 それまで私はアメリカにも一年居て、さしてショックを受ける程のコトはなかったのですが、インド文化圏のカトマンドゥは全くの異世界でした。
 そこで初めて旅人をカモにしようとする輩の洗礼を浴び、ヒッピー-カルチャー(葉っぱ)の洗礼も浴びました。

 秀祥がヒマラヤを越えてカトマンドゥにやって来た1969年でも、ここは既に「ヒッピーの聖地」と成っており、彼女も強いカルチャー-ショックを受けるとします。
 ヒッピー達はチベット人街のブッタナートにも多く暮らしており、彼等は葉っぱでキマッてストゥーパ(仏舎利塔)で瞑想に耽っていました。

 二十歳の頃の私はまだそれほど瞑想に耽ったりせず、もっぱらお金に気を取られていました。
 それは、こんな若僧の貧乏旅行者からお金を巻き上げようとする輩が居るとは思わなかったので、まんまとアレコレ騙されてしまったせいです。

 それでカトマンドゥに嫌気が差してエベレスト-トレッキングに行き、まるまる1ヶ月間も山歩きをして(宿と食事込みで1日百円)、英気を養ってから街へリベンジしに臨みました。

 まずは宿に現地人プライスで泊まるコトからで、山岳民族(シェルパ)と仲良くなったツテで月1000円の部屋を借りれました。
 それから毎晩、カジノをハシゴする生活が始まり、毎日6000円ずつキッチリ勝つ暮らしを1ヶ月間続けられました。

 これは最低ベットの100ルピー(300円強)をルーレットの2倍に賭けて、毎日18回勝つというルーティーンです。
 もちろん勝ち続けるコトは出来ませんが、負けたら倍々ベットで勝つまで辞めませんでした。(7連敗まで行った、9連敗がリミット)

 こうして毎日大金を稼ぐ暮らしをしながら、「もの乞い」に施す習慣が身に付きました。
 インド圏はどこでも「もの乞い」が居り、それはたいてい老人なのですが、カトマンドゥの「もの乞い」には毛色の変わったのが居ました。
 それはチベット系の少女で、彼女等は日本の少女とほとんど見た目が変わらず、手を握って来られると振りほどけませんでした。

 私が余りに気前良く、少女のリクエストに応えて買い与えるモノだから、ネパール人店主から注意されてしまい、反省してもうその少女には捕まらない様にしましたが、彼女が果してどんな成長を遂げたか、ずっと心に引っ掛かっています。
 
 
 
 

コメント一覧

風の子
ネパール旅行のこといろいろ知れて楽しいです。私も17年くらい前初めてネパール旅行のとき、カトマンズからポカラへのミニバスで山間部の国道でマオリストに襲撃され燃やされたバスを見て驚いたことを思い出しました。
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