それは例えば私の田舎(知床斜里)の斜里岳や知床連峰を毎日眺めていれば納得できるかと思い、「そこに山がない」都会人には解りづらいでしょう。
トゥルクにとっても山はそんな身近な存在で、青年となった彼女はそのてっぺんに立ちたいと自然に思う様になります。
しかしシャングリラ地方で「てっぺん」と言えばK2を差し、これは世界一登頂が困難な山です。
果たしてトゥルクにそんな冒険をさせるべきかどうか?
私は彼女の命を大事にしたいので、Noとしておきます。
しかしこうした危険な山に命懸けで挑むヒトは後を絶たず、これはもう「そこに山があるから」という理由だけでは不充分な気がします。
ここでそうした「なぜ登るのか?」という問いに答えようとしている映画「エベレスト」を紹介します。
これは登場人物の殆ど全員が亡くなる壮絶な実話を映画化したモノで、アタック隊でただ一人生き残る男性は「普通の暮らしでは本当に生きている気がしないから山に登る」と語っていました。
確かにある種の男性にとって、現代社会はヌル過ぎて「ホントに生きている気がしない」のでしょう。
それが畏らく、ある種の男性を戦争に駆り立てている理由でもあり、同じ命を危険に晒すのならば、山の方がずっとマシかと私は思います。
しかしそもそも、普通の暮らしで「本当に生きている」と思えれば危険な登山をする理由は無く、トゥルクにはこの「センス- オブ-リビング」が善く備わっているとします。
これは日本語でも「生き甲斐」とか「生の実感」などと云われますが、英語の方が「ホントに生きてる感」が伝わって来ます。
それは畏らく、日本語よりも英語を話す人達の方に強く「ホントに生きてる感」を感じるからで、これはもちろん個人差が大きいのですが、日本人は概ねこれが不充分に思えます。
私はなにも、日々を生き延びるコトに精一杯な貧しい暮らしに憧れる訳ではありませんが、そうした暮らしの人々と交わって来て「センス-オブ-リビング」を磨けたかと思っています。
これは私よりも遥かに、「貧しい人々」と深く交わって来た中村哲医師の本「アフガニスタンの診療所から」でも追及されており、日本人よりもアフガン人の方が「本当に生きて」いて、そんな彼等のお陰で自分は救われたと語られています。
優れた文学作品とは畏らく、読者の「センス-オブ-リビング」を高められるモノかと思い、そんな優れた文学をトゥルクを通して描きたいと思っています。