福建は台湾と向き合った場所にあり、暖かいので施設園芸は発達しませんでしたが、溜め池で魚の養殖が一般的に行われています。
この池の水はそのまま畑に使われ、魚が過密になると病気が発生し易くなりますが、祭恩のEM(有効微生物群)を使えば悪玉菌は抑えられて、魚は健康に良く育ち水の肥料効果も高まります。
こうしたEMは農家が各自で継ぎ足し培養して半永久的に増やせますが、素人だとどうしても徐々にEMの活性が弱まって来てしまいます。
そんな培養タンクを祭恩は定期的に回って、彼のカルチャー(腸内細菌由来)を投入する事でEMを蘇らせます。
祭恩のカルチャーが台湾から沖縄にまで伝わった事は「農聖サイオンの伝説」で書きましたが、実際に昔の農家は皆有機栽培で、特にこの地方では培養タンクで有効菌を培養するのは当たり前の技でした。
今日でも亜熱帯の農業においてEMは特に活躍しており、果樹農園でそれを散布すれば農薬の代わりになって吸っても健康的であり、EMは病原菌を抑えるだけでなく光合成の効率をアップさせて収量も増やします。
こうして出来た果物は抗酸化値が高く、その果物の生体水は強いポジティブな共鳴(LF)を食べる者に与えてくれます。
さて、こうした高度な農業技術を誇る牙城に、大躍進政策はどのように適用されたのかに入ります。
まずこの政策の特徴として、農村を軍隊のように組織し、農業の他に公共工事や鉄作りなどに半分近くも時間を割かなくてはならかったのが大きい。
その為農業には本来のエネルギーで臨む事が出来ず、過労の為に倒れる農民も続出しました。
もう一つ政策の特徴として、共産党は海外の兄弟国に食糧援助を送りたいが為に、貯蔵がきく穀物ばかりを農民達に作らせました。
果樹園は切り倒されて麦畑にされ、平地は水田に変えられました。
そこに農民の介入する権利は最早なく、代々営々と築いて来た先祖伝来の農場は国のモノとなって、それに反対した人達は皆僻地の労働改造所に送られてしまいました。
共産革命は家族の単位を壊そうとする特徴も持っており、夫婦男女は別々に寮で生活させられ、子ども達も親から引き離されて党の子どもとして寮で育てられました。
それがどんな寮だったのか、想像するだけで恐ろしいのですが、集団化の二年目からは飢餓もそれらの苦難の行軍に上乗せさせられます。
大人たちは気力を失い、子ども達はギラギラした目でネズミや魚を狩り尽くす。
全国の農村人口の約一割が餓死した60年と61年に物語は進んで行きます。
前にも書きましたが、この年に都市では餓死者が出ておらず、都市にだけ居られた外国人は誰も大飢饉に気づかず、政府すら知らんぷり(?)して海外に食糧援助を続けていました。
こうして溜まった農民の都市への怨みが、後に文化大革命として復讐を遂げますが、この間の30年は「苦難の行軍」と
今では呼ばれています。
しかし、どこまでその苦難が吟味され反省されているかは疑問であり、それから国民の目を離そうとする党の施策には共感しかねます。
「過去の過ちを認める」のは大事であり、認めるだけでなく映画として再現して欲しいと思います。