歯科医物語

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白金高輪駅”硫酸男” 沖縄県で身柄を確保、傷害容疑で逮捕

2021-08-28 16:18:44 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
白金高輪駅”硫酸男” 沖縄県で身柄を確保、傷害容疑で逮捕
8/28(土) 10:54配信
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FNNプライムオンライン
東京・港区の白金高輪駅で起きた“硫酸”事件で、警視庁捜査一課は、花森弘卓容疑者(25)の身柄を沖縄県内で確保。さきほど傷害容疑で逮捕した。 花森容疑者は、今月24日夜、白金高輪駅のエスカレーターで、22歳の会社員の男性に硫酸とみられる液体をかけて、ケガをさせた疑いがもたれている。男性は、顔などをヤケドしていて全治半年の重傷。この事件では、床にこぼれた硫酸に足を滑られた女性もヤケドをしている。 逮捕された花森弘卓容疑者(25) 調べによると、花森容疑者は、事件当日、自宅のある静岡県から上京し、被害者の男性の会社がある赤坂見附へ移動。会社付近から、男性の跡をつけて、白金高輪駅で犯行に及んでいる。その日のうちに、花森容疑者は、新幹線で静岡に戻り、帰宅。翌25日に、静岡駅から電車に乗り逃走したとみられている。  警視庁捜査一課は、27日、逃走中の花森容疑者の様子を捉えた、静岡駅の防犯カメラの画像などを公開し、全国に指名手配していた。 逃走中の花森容疑者を捉えた防犯カメラ画像(静岡駅・25日)花森容疑者は、被害者の男性と同じ大学の出身。花森容疑者が、男性の先輩だったことが分かっている。2人が通っていたのは沖縄県内の大学との情報もあり、花森容疑者は、沖縄県に土地勘があるとみられる。

 

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甲子園決勝は初の智弁決戦 ユニもほぼ同じの兄弟校 その違いは?

2021-08-28 15:58:02 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
甲子園決勝は初の智弁決戦 ユニもほぼ同じの兄弟校 その違いは?【解説】
8/28(土) 14:04配信
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智辯和歌山の中西(左)と智弁学園の小畠
 夏の甲子園決勝は智弁和歌山-智弁学園(奈良)となり、史上初の“智弁決戦”となった。両校の対戦は甲子園では19年ぶり2度目。この時は智弁和歌山が7-3で勝利している。近畿大会を含めると、公式戦では2勝2敗だ。 【写真】「智辯」と「智辯」文字の形状の違いわかる?  両校の開校は智弁学園が1965年、智弁和歌山が1978年。甲子園出場の経験も智弁学園のほうが早く、1968年夏に初出場を果たしている。ただ、甲子園の優勝経験は智弁和歌山のほうが多く、春1度、夏2度。智弁学園は夏初優勝を目指す。  02年の対戦でも話題になったが、両校とも朱赤の「智弁」の文字が特徴のユニホームはほとんど見分けもつかない。ただ、メーカーが違うため、文字の形状は若干異なる。左腕に付いている校章は智弁が濃紺、智弁和歌山は紫を基調としている。  ちなみに両校は修学旅行先も同じで、一緒に行くという。  ▽甲子園主な成績  【智弁学園】  初出場…1968年夏  春最高成績…2016年優勝  夏最高成績…1995年4強  【智弁和歌山】  初出場…1985年春  春最高成績…1994年優勝  夏最高成績…1997年、2000年優勝


 
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松本隆氏、BSテレ東歌謡特番でヒット作の秘話など明かす

2021-08-28 14:06:56 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
松本隆氏、BSテレ東歌謡特番でヒット作の秘話など明かす
8/28(土) 7:00配信
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クミコと爆笑トークを繰り広げる松本隆氏
世代を超えて親しまれるヒット曲を生み続ける作詞家、松本隆氏(72)が、9月5日に放送されるBSテレ東の歌謡特番「よみがえれ‼あなたの青春 フォーク&ポップス!パート4」(後7・0)に出演。親交の深い歌手、太田裕美(66)やクミコ(66)と交流秘話やヒット曲誕生裏話を披露する。 今年で作詞活動50周年を迎えた松本氏は、7月にトリビュートアルバム「風街に連れてって!」を発売したばかり。太田とはデビュー曲「雨だれ」(1974年)を作詞してからの知り合いで、大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」「九月の雨」も書き下ろした。



 番組で「木綿-」と「九月-」を歌う太田は「松本さんと初めて会ったのは東京・青山の喫茶店。たたずまいが文学青年のようだった」と述懐。実際、松本氏は当時から古今東西の小説や詩を読みあさっていたという。 松本氏は番組収録の合間にサンスポの取材にも対応。太田と出会った当時は作詞とドラムを担当したロックバンド、はっぴいえんどを解散してまもない頃だという。「結婚して女房のおなかに子供がいるのに貧しかったので、作詞に専念するようになったんです」と打ち明けた。 そのとき誘われてコンビを組んだのが、盟友となった作曲家、筒美京平さん(昨年10月死去、享年80)。「京平さんとはいつもお互い『こんなんじゃダメだ』とけんかしながら歌を作った。今はめちゃくちゃ寂しいよ」と懐かしんだ。


 他にも、筒美さん作曲の「木綿-」について、歌詞の発想が子供の夏によく行った両親の故郷・群馬県の風景から生まれたことを告白。また、歌手、吉田拓郎(75)からアルバム用の歌の作詞を頼まれ「2週間、伊豆のホテルに缶詰にされた」と振り返るなど、盛りだくさんの内容だ。 さらに、作詞家を目指す人にもアドバイス。「若い世代、特にシンガー・ソングライターを目指す人に言いたいのは、もっと語彙(ごい)を増やすことです。そのためには自分の好きな分野だけでなく、幅広く読書をすることが大事」と語った。 2019年7月に乳がんの手術を受けた太田は、サンスポの取材に「昨年6月に転移も再発もないと診断され、現在は3カ月に1回、経過観察しています。


完治ではないので、まだまだ油断できませんが…」と報告。顔色も良くライブも順調に続けており、「以前は2、3日にワインを1本空けてましたが、酒量は10分の1ぐらいになりました」と笑顔で節酒を明かした。 また、松本氏作詞の「フローズン・ダイキリ」などを披露するクミコは「2000年に再デビューするまで高橋クミコと名乗っていたんですが、松本さんから『いつまで別れた亭主の名字を名乗っているんだ』と言われまして…」とクミコに改名したことを笑顔で告白。以来、10年のNHK紅白歌合戦に初出場してヒット曲「INORI~祈り~」を歌うなど人気が上昇、松本氏は恩人の1人でもある。 その松本氏からは太田と同様、個性豊かな歌声を絶賛されている。松本氏は常々、クミコの歌声を「濡れたようなオーラがある」という言い方で大人の女性としての魅力を表現。「僕は〝声フェチ〟なんです」と打ち明け、照れ臭そうに笑った。


 



 
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実際を知って使っているのか、戦場の「野戦病院」は「ほぼ墓場」

2021-08-28 13:47:44 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
実際を知って使っているのか、戦場の「野戦病院」は「ほぼ墓場」
8/28(土) 11:01配信
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1944年5月、ニューギニア島ホーランジアの米軍の「野戦病院」。手当てを受けているのは負傷した日本兵。米軍の野戦病院でこの状態、日本のそれはさらに劣悪な状況だった(写真:AP/アフロ)



 (作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)  急激な新型コロナウイルスの感染拡大で、大規模イベント会場や体育館を利用した臨時の医療施設の設置を求める声が上がっている。広いスペースにベッドを並べることで、集中的に医療を提供できる場所を確保することを目的として、これをメディアは「野戦病院」と表現して伝えている。


18日には日本医師会の中川俊男会長が記者会見で言及し、同じ日に関西経済連合会の松本正義会長が提言書をまとめたことを公表。閣僚からも関連する発言が相次ぎ、そして25日に緊急事態宣言の対象地域の拡大を決定したあとの記者会見で、菅義偉首相が自ら「今回の感染拡大に際し、いわゆる野戦病院をつくるべきだ、こうした多くの指摘を頂いております」と明言してのけた。  これを受けて勢いづいたようにメディアは連日連呼するが、この「野戦病院」という表現があまりに不適切で、強烈な違和感と嫌悪感を覚えるどころか、日本の首相の発言としては、無知をさらけ出して余りある。


 ■ 菅首相の「野戦病院」のイメージは適切か  菅首相は「いわゆる野戦病院」という言い方をしているから、「野戦病院」と言ったときには、そのものに対する共通の認識が抱けるものと信じている。言い換えれば、相手の想像と認識に委ねるあまりに曖昧で無責任な伝達方法だ。そこで菅首相がなにをイメージして「いわゆる野戦病院」と言ったか、まったくわからないが、私がそこからイメージするもの、というより私の知る現実の「野戦病院」についてまずは確認しておく。 


 この夏は終戦から76年にあたる。私は16年前の戦後60年の夏に、太平洋戦争で戦地に送られながら終戦後も復員を拒んで現地に留まって暮らした元日本兵を東南アジアに訪ねてまわった。なぜ、日本へ帰らなかったのか、その理由を知りたかったからだ。旅の記録は拙著『帰還せず 残留日本兵六〇年目の証言』(小学館文庫)にまとめているが、そのうちのひとりに、中国を転戦して最後はインパール作戦に従軍した衛生兵がいた。  


インパール作戦には日本陸軍の3つの師団が動員されたが、インドの要衝インパールを目指したのは第15師団と第33師団だった。彼が所属していた第31師団はインパールより北に位置するコヒマを攻めた。だから「インパール作戦」と言われても、彼にはピンとこなかった。それに作戦を開始した直後に、彼は負傷して前線を退いている。  作戦開始から6日目。衛生兵として戦闘を注視していると、背後で大きな爆発が起きた。おそらくは敵の迫撃砲だろう。それで身体が前に大きく吹き飛ばされると、熱い痺れのようなものが、負傷した首と腰から全身に広がって動けなくなった。顔見知りの衛生兵が駆け寄って処置してくれたが、その相手の頭にも包帯が巻かれて血が滲んでいた。






 彼はそこから自力で密林のなかを一昼夜さまよって後方の収容所に辿り着くと、トラックで病院に運ばれることになった。ところが、その荷台に揺られていると敵機の急襲を受ける。咄嗟にトラックから逃げて回避したところで、もう身体が動かない。再び荷台に戻されるとそのまま意識を失っていた。  気が付くと、彼は「野戦病院」のベッドで横になっていた。いや、そこはお世辞にも病院と呼べるようなところではなかった。 ■ 吹き曝しの地面に毛布を敷いて天幕を張っただけの「病院」  寝かされていたのは、密林に覆われた山岳地帯の丘陵の斜面の一部をL字型に削り取って平らにしたところに、敵兵の残していった毛布を拾って敷いただけのところだった。上には天幕を張って、日除け雨除けにし、上空からは見えないようにカモフラージュしている。あとは吹き曝しだ。こんな「ベッド」が数個ずつジャングルの山中に点在している。これを日本軍は「病院」と呼んでいたのだった。  彼が寝かせられたところは、3人が一緒だった。しかし、医者も衛生兵も誰も来なかった。介護にも診察にも来た記憶がない。そのうちに、隣に寝ていた兵隊が死んでいった。声すら出さずに、静かに死んでいった。気が付くと死んでいた。  それから、もう反対側の隣にいた負傷兵が死んだ。  「水をくれ・・・、水をくれ・・・」  すぐ隣でそう叫びながら、死んでいった。



 山中に捨て置かれるようにして広がる日本軍の野戦病院の「病室ベッド」。ようやくにして辿り着いたこんな場所で、たった1人残された彼自身も、容態の変化に気付いていた。そして「次は自分の番だ、次は自分の番だ」と心の中で叫びつつ、いつしか意識が遠のいていったという。  幸いにして、彼がそこで死ぬことはなかった。奇跡的に体力で持ち堪えたと言っていい。そこへ独断で撤退をはじめた佐藤幸徳中将の率いる第31師団がやって来た。傷ついた衛生兵は本隊に合流して後退をはじめる。そこからの餓えと病魔で多くの兵隊が命を奪われた『白骨街道』とも呼ばれる悲惨な道すがらは、史実にあるとおりだ。


 ■ やっとの思いで辿り着いた「野戦病院」に広がっていたのは廃墟とおびただしい数の死体  インパール作戦で敗走をはじめた別の日本兵は、マラリアに冒されていた。もう少し行ったところに「野戦病院」があると聞いて、それを頼りにしていた。ところが、辿り着いた「野戦病院」という場所には、廃墟に死体しか横たわっていなかったという。  「『天皇陛下万歳!』なんて言って死んでいく者なんて、ひとりもいませんでしたよ」  生き延びた衛生兵が戦後60年にあたる当時、私にそう語って聞かせてくれた。 


 「なんなのでしょうね、よく映画を見たりすると、必ず日本兵は『天皇陛下万歳!』と言って死んでいく。どうしてあんなことになるのか・・・?  まず、そんなことはありませんでした」  その顔には苦笑が浮んでいた。その次の瞬間、語気を強めて、  「私は聞いたことがない!」  そう言ったかと思えば、思い出したようにこう続けた。  「みんな最期になると、妻の名前を言ったり、子どもの名前を言ったり、それはありました。親のことを呼ぶ人もいましたし、思い出すんでしょうね・・・。衛生兵として、最期を看取ることもあって、知りました。・・・やりきれないですよね、・・・気の毒ですよ」  衛生兵の宿命として、多くの死を見届けて来なければならなかった。  「大概は『水をくれ』と言って死んでいく、そういう人は少なくはありませんでした・・・」  その1人が山中のベッドの隣で死んでいった同胞だった。





■ 救える命も救えないのが「野戦病院」の現実  「いわゆる野戦病院」といわれると、私の頭の中には元日本兵が語った事実が思い浮かぶ。そこは安寧の場所でもなければ、より死と隣り合わせであることを意味付ける。医療資源の絶対的な不足から、救える命も救えなかった場所だ。  それはもっと違ったところで、原爆の投下された直後の広島の医療現場はどうだっただろうか。都市が消滅した片隅で、酷い火傷を負った市民が横たわった場所。あれも野戦病院と呼ばれるべき場所だ。  


たとえば、広くて天井が高い建築物の空間の中に、ベッドだけが整然と並べられて、その間を白衣の天使のような女性看護師が往来している場所を「野戦病院」とイメージしているのだとしたら、まったくの的外れだ。それは遙か後方の傷病兵の医療施設であって、野戦病院とは言わない。それを野戦病院だと信じているのなら、おとぎ話の世界だ。勝手な思い込みでメディアがミスリードしている。史実を歪めている。日本人は誰もが「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいくものだというように。  


ましてや、8月15日の終戦の日に靖国神社に玉串料を納めたばかりの現職の首相が、臨時に設置する医療施設を「いわゆる野戦病院」と国民に呼びかけることには、あきれ果ててむしろ憤りさえ覚える。実態はもっと壮絶な場所だ。そこで失われた尊い命も多い。それでも魂だけは祖国に帰れると信じた。その御霊が招魂されて、家族や戦友に再会できると信じて彼らは戦い、命尽きた。もはや戦没者を冒涜している。  そんな軽口を叩くような調子だからこそ、新型コロナ対策もうまくいかないのだろう。国民の命と健康を守ると豪語するには程遠い。

  







 


 

 

 
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「死球覚悟の内角攻め」を一斉指令 巨人・中田翔に対して

2021-08-28 13:35:36 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
巨人・中田翔は絶対に恫喝できない! ライバル各球団が「死球覚悟の内角攻め」を一斉指令
8/28(土) 11:45配信
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巨人の中田翔(C)日刊ゲンダイ
 巨人の中田翔(32)が危ない!  26日に広島先発の九里から左手甲に死球を受けて顔を歪めた。その前日25日に登板した広島の左腕・玉村からも執拗な内角攻めを食らっていた。 「カタギに見えない」…清原和博の訪問姿に巨人キャンプ騒然  さらにカードが変わった27日の中日戦では、先発左腕・大野雄から1打席目にいきなり145キロの直球を胸元に投げ込まれた。この日も内角を効果的に使われ、あえなく3タコ。ここにきて目立つのは、各球団の中田への「内角攻め」である。 「打点王を取った昨年は、内角に強いというデータがあった。それでも、内角を攻められた後は、苦手とする外角球に対して踏み込めなくなる傾向がある」とセ・リーグ某球団のスコアラーがこう続ける。 ■セ各球団が一斉指令、絶対に怒れないから 「九里にぶつけられた時はムッとしていたけど、目を合わせずにじっとこらえていたでしょう。暴力事件を起こして巨人にトレードされているわけで、投手を恫喝したくてもできない。そもそも、後輩選手を殴って出場停止だったものが、たったの9日で巨人にトレード移籍することになって、処分も解除。道義的におかしいのだから、それくらいやらないと、お人よしというか、バカだと思われますよ。広島の投手陣は徹底していたけど、ウチもそうだし、他の球団も同じような指示が出ているみたい」  この日、日本ハムのチーム統括本部副本部長を務める岩本賢一氏がHBCラジオ番組に電話出演し、「決して北海道で謝罪をしたくないとか、中田がコメントを出したくないとか、ファイターズが北海道で何かをしたくなかったということではなかった。話し合いの中で巨人の一員として入団会見をする時に、一緒に謝罪をという話になったんです」と釈明する一幕もあった。  巨人移籍後の打率は.143。かくして中田は、セ5球団の「死球覚悟のビーンボール攻め」に打撃を崩されることになりそうだ。

 






 
 
 
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