それは昨夜の仙台市営地下鉄の八乙女駅前バス停でのこと。
バス停には、すでに私の前に3人がいた。直前の2人の男性は、何やら会社の同僚の話をしているらしかった。「彼は駄目だ。もっと教育をしなければならない。」 年のころはもう60代の後半と思える痩せた男性が、自分の部下らしき人物に熱く語っていた。
ここまでは、ごく普通の仕事帰りの光景。しかし、この後の彼の行動に私はカチンときてしまった。
その良識のありそうな年配の人物が、バス待ちの列にいながらタバコを吸い、その吸殻をゴミかごの脇に捨て、足でもみ消した。年下の人物は、それを見て見ぬふり。
「脇にゴミかごがありますよ。そちらに捨てたらどうですか。」と、つい私は声をかけてしまった。(気持ちよく受け止めてもらえる言葉のきり出しの難しさ。この後、それを思い知ることとなってしまった。)
すると“件(くだん)の人物”は、こう言った。「火がついたものを捨てて、ゴミが燃えたらどうするんだ。」
「だって、足でもみ消したでしょ。それをゴミかごに入れれば良いのでは・・・。」
その人物はまたまたこう言った。「脇の落ち葉も拾えということか。拾えばばいいんだろ。拾って家まで持ってけばいいんだろ!」と。
もうこうなっては、会話にならない。しまいには、「喧嘩を売るのか。なら、あっちに行こう。」とまで言い出した。この間、年下の人物はやはり黙ったまま。
私は喧嘩は大嫌いだ。また、その“すごんだ”人物と喧嘩をして、たとえ勝ったとしても、相手はご老人。自慢にも何にもなりャしない。
部下指導の話をしながらバス待ちの列でタバコを吸い、その吸殻をゴミかごの脇に捨て、それを指摘されると落ち葉まで持って帰れということかと居直る神経。ウ~ん、分からん!!
かつてこういうのがあった。“地球は大きなゴミ箱だ”。
件(くだん)の人物は、そうした考えの持ち主なのだろう。また、一緒にいた年下の人物も同じ考えなのだろう。
東北大学農学部の構内のベンチ脇にある吸殻入れには、こういう張り紙がある。“タバコの吸殻は吸殻入れに捨ててください。自分の家の庭にゴミを捨てますか”と。
そうそう、かつてこういう場面にも出くわした。
満員の地下鉄の中。ぎゅうぎゅう詰め状態に身の置き所がなく困っている、誰が見てもそれと分かる若い妊婦さん。その人が立っている前の優先席には若い女性が座っている。”いつでも、どこでも、だれでもITの恩恵が受けられるように”という掛け声で強力に進められるユビキタス社会実現に向けた取組。その恩恵をいち早く享受し、困っている妊婦さんには知らん振りして、”今だけ、ここだけ、わたしだけ”の世界に浸り、携帯電話でのメール送信に没頭するその若き女性。
わが団地内にある小学校前のバス停で降りて、ちょっと離れた横断歩道を渡る小学生達を横目に、斜め横断する中学校の女の先生達。
信号が変わるのを持つ上杉山通小学校の子ども達の脇を、赤信号なのに平気でわたる県教育委員会の幹部職員(学校長経験者)。
こうした行動は、子ども達の目にはどういう風に映っているんだろうか?
「大人になれば分かる。何事も時と場合だ。」「それが大人の論理というものだ。」が通じていくのだろうか。やはり、私には気になって仕方がない。
「大人って、ずるい!!」「言うこととやることが矛盾している!!」
非常識が幅を利かす世の常識。そんなようでは、なんともやりきれない思いに駆られてしまうのだが・・・。
バス停には、すでに私の前に3人がいた。直前の2人の男性は、何やら会社の同僚の話をしているらしかった。「彼は駄目だ。もっと教育をしなければならない。」 年のころはもう60代の後半と思える痩せた男性が、自分の部下らしき人物に熱く語っていた。
ここまでは、ごく普通の仕事帰りの光景。しかし、この後の彼の行動に私はカチンときてしまった。
その良識のありそうな年配の人物が、バス待ちの列にいながらタバコを吸い、その吸殻をゴミかごの脇に捨て、足でもみ消した。年下の人物は、それを見て見ぬふり。
「脇にゴミかごがありますよ。そちらに捨てたらどうですか。」と、つい私は声をかけてしまった。(気持ちよく受け止めてもらえる言葉のきり出しの難しさ。この後、それを思い知ることとなってしまった。)
すると“件(くだん)の人物”は、こう言った。「火がついたものを捨てて、ゴミが燃えたらどうするんだ。」
「だって、足でもみ消したでしょ。それをゴミかごに入れれば良いのでは・・・。」
その人物はまたまたこう言った。「脇の落ち葉も拾えということか。拾えばばいいんだろ。拾って家まで持ってけばいいんだろ!」と。
もうこうなっては、会話にならない。しまいには、「喧嘩を売るのか。なら、あっちに行こう。」とまで言い出した。この間、年下の人物はやはり黙ったまま。
私は喧嘩は大嫌いだ。また、その“すごんだ”人物と喧嘩をして、たとえ勝ったとしても、相手はご老人。自慢にも何にもなりャしない。
部下指導の話をしながらバス待ちの列でタバコを吸い、その吸殻をゴミかごの脇に捨て、それを指摘されると落ち葉まで持って帰れということかと居直る神経。ウ~ん、分からん!!
かつてこういうのがあった。“地球は大きなゴミ箱だ”。
件(くだん)の人物は、そうした考えの持ち主なのだろう。また、一緒にいた年下の人物も同じ考えなのだろう。
東北大学農学部の構内のベンチ脇にある吸殻入れには、こういう張り紙がある。“タバコの吸殻は吸殻入れに捨ててください。自分の家の庭にゴミを捨てますか”と。
そうそう、かつてこういう場面にも出くわした。
満員の地下鉄の中。ぎゅうぎゅう詰め状態に身の置き所がなく困っている、誰が見てもそれと分かる若い妊婦さん。その人が立っている前の優先席には若い女性が座っている。”いつでも、どこでも、だれでもITの恩恵が受けられるように”という掛け声で強力に進められるユビキタス社会実現に向けた取組。その恩恵をいち早く享受し、困っている妊婦さんには知らん振りして、”今だけ、ここだけ、わたしだけ”の世界に浸り、携帯電話でのメール送信に没頭するその若き女性。
わが団地内にある小学校前のバス停で降りて、ちょっと離れた横断歩道を渡る小学生達を横目に、斜め横断する中学校の女の先生達。
信号が変わるのを持つ上杉山通小学校の子ども達の脇を、赤信号なのに平気でわたる県教育委員会の幹部職員(学校長経験者)。
こうした行動は、子ども達の目にはどういう風に映っているんだろうか?
「大人になれば分かる。何事も時と場合だ。」「それが大人の論理というものだ。」が通じていくのだろうか。やはり、私には気になって仕方がない。
「大人って、ずるい!!」「言うこととやることが矛盾している!!」
非常識が幅を利かす世の常識。そんなようでは、なんともやりきれない思いに駆られてしまうのだが・・・。
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