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《幕府山事件》地理編

2015年07月21日 | 南京大虐殺
2022.09.17 タイトル等修正、4項に唐光譜の火事の話を追加



この記事は幕府山事件に関する地理的な考察に集約した。




《1. 幕府山事件とは》


幕府山事件とは、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』から引用すれば、次のような出来事。

第十三師団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。

戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1> 防衛庁防衛研究所戦史部



これに対して、次の書籍の陣中日記などに基づいて異論が付けられていて、いまだに細部を巡って議論になっている。(以下、「小野日記」と表記する)

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち :第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/



そして、その小野日記などに立脚した番組も放送された。

NNNドキュメント:シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言
https://www.happyon.jp/watch/60738022

NNNドキュメント:南京事件Ⅱ
https://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/post-93.html



上記番組に対応した書籍版はこちら。

「南京事件」を調査せよ (文春文庫) 清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/




冒頭の『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』に示されたような説明は「自衛発砲説」と言われる。これに対して、小野日記などに基づいて、NNNドキュメントなどは「自衛発砲説は戦後の創作による嘘である」とし、幕府山事件は計画的な捕虜処刑であったと主張する。

なお、この幕府山事件をめぐっては従来は12月17日の草鞋峡での事件以外に、その前夜にも同様の事件があったのではないかという点が争点になっていたが、『南京の氷雨 /阿部輝郎』で前夜16日の事件を当日の指揮官であった角田中尉(第5中隊長)が証言しているので、その点についてはもはや疑義はないものとする。




(関係地点と関連図)


幕府山事件に関係する地点は以下の通り。

A 草鞋峡遇难同胞纪念碑
B 草鞋峡遇难同胞纪念碑
C 鱼雷营遇难同胞纪念碑(金陵造船所内)
X 事件現場(魚雷営)
Y 事件現場(草鞋閘)
Z 収容所



(クリックで拡大)





《2. "南京大屠杀"遇难同胞纪念碑》


中国側の「"南京大屠杀"遇难同胞纪念碑」から、幕府山事件に関連するものを拾うと次の2つ。


2、侵华日军南京大屠杀草鞋峡遇难同胞纪念碑

概要:12月13日、武装解除された兵士ら難民五万七千人が幕府山の下の村に投獄された。そして、18日の夜にその悉くが機関銃で射殺された。

一九三七年十二月十三日,侵华日军攻占南京后,我逃聚在下关沿江待渡之大批难民和已解除武装之士兵,共五万七千余人,遭日军捕获后,悉被集中囚禁于幕府山下之四五所村。因连日惨遭凌虐,冻饿致死一批;继于十八日夜悉被捆绑,押解至草鞋峡,用机枪集体射杀。


18、鱼雷营遇难同胞纪念碑

概要:12月15日の夜、武装解除された兵士9,000余人が魚雷営に押し込まれ、集団射殺。さらに同月、宝塔橋一帯で再び軍民三万人以上を殺害。

一九三七年十二月十五日夜,侵华日军将被其搜捕之我市平民和已解除武装之守城官兵九千余人,押至鱼雷营,以机枪集体射杀。同月,日军又在鱼雷营、宝塔桥一带再次杀害我军民三万余人。



現代の地図で確認すると「草鞋峡遇难同胞纪念碑」はなぜか2つあるので、それぞれをA、Bとし、「鱼雷营遇难同胞纪念碑」をCとする。




《3. 当時と今の地図比較》


現場は、幕府山に面した揚子江岸だが、南京戦後に中洲(八卦洲)を挟んで揚子江の本流と支流を入れ替える大工事をしたようなので、当時とは地形が異なる。当時は、幕府山のすぐ前が支流。中洲(八卦洲)の北側を大きく迂回して流れているのが本流。

以下の図は、1937年当時の地図と、現在のGoogle Mapを幕府山を基準に重ね合わせたもの。川幅以外にも、中洲(八卦洲)の先端の位置などが大きく異なる。




下図は、1937年と1945年の地図を重ね合わせたもの。方位ずれやら歪みがあってぴったりは重ならないが、幕府山南端の上元門、宝塔橋街、対岸の浦口でだいたい位置合わせをした。これを見ても、魚雷営も草鞋峡の現場も1945年の時点ですでに河の底なのがわかる。






《4. 収容所の比定》


幕府山事件をめぐっては収容所の位置の比定がひとつの鍵になっているが、この事件に関わった第65連隊第1大隊所属の栗原利一伍長がスケッチを残している。



上記のサイトから、捕虜を収容していた建物と、捕虜を揚子江岸に移送した経路のスケッチを引用させてもらうと次の通り。
左下に捕虜を収容した建物群が見える。これを、「Z収容所」とする。


直リンクはこちら。
http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html




南京戦当時の地図で上記の栗原スケッチの「Z収容所」を探した結果がこちら。五差路のように見えるが、よく見ると十字路のすぐ北側にY字路となっている場所。






『アサヒグラフ 支那戦線写真』に掲載された「両角部隊によって南京城外部落に収容された捕虜の一部(12月16日上野特派員撮影)」の写真を以下に示す。

南京事件研究家の板倉由明氏が、栗原元伍長から聞き取ったところによれば、「幕府山南麓の学校か兵舎のようなワラ葺きの十数棟の建物に収容…」とあるので、この写真はその十数棟の建物のひとつであろう。






上記の写真に、1945年当時のより正確な地形図、およびその地点からの Google Earth での光景を照合したのがこちらの図。





画像の下半分が「Z収容所」の地点からの Google Earth の画像。小さな山Aの稜線および距離感が一致している。

地図中の青矢印がカメラの向き、黄色が写真に写っている画角を示す。AおよびBで示した山の中間にカメラを向けて撮影していることがわかる。収容所の標高が20-30m付近で、写ってる山Aが標高70-80mくらい。距離にして700-900mのところに標高差約50mの山Aが写ってる。

ちなみに、上図に基づけば写真の水平画角は約28度なので、70mm相当(35mm版換算)の中望遠レンズでの撮影ということになる。但し、掲載媒体によってはもう少し広く写っているのもあるので、実際の撮影レンズはもう少し広角だったはず。

写真の中の日本軍将校らしき立っている人物の影の向きからすると、太陽光線の向きは地図中に赤矢印で示した方向になると思われる。地図上の南北の方位線に対して太陽光線の入射角が約45度ずれているので、撮影時刻は午前9時前後と推測できる。

その「Z収容所」地点の Google Map へのリンクはこちら。企業のようだが、なぜか現在でも似たような配置で建物が並んでいる。




ところで、捕虜のひとりであった唐光譜氏が収容所で火事になった際の話を書いている。なお、この記述の中では、唐光譜氏は大混乱だった陥落前日を第一日目としているようである。

五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は皆一斉に外へ飛び出た。みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。小屋は少なからず焼け崩れ、人と人は寄り添い近寄っておしあいするしかなく、人間がぎっしりと缶詰のように詰まり、息をするのもたいへんだった。(P251)

私が経験した日本軍の南京大虐殺 唐光譜
南京事件資料集 2中国関係資料編



上の証言に、「囲いの外に一本の広くて深い溝」「溝に飛び降りて水の中を泳いだり」という話が出てくる。

より詳細な地図で確認すると、収容所の西面と南面に川がある。おそらくこれのことだと思われる。








《5. 魚雷営とは》


「C 鱼雷营遇难同胞纪念碑(金陵造船所内)」あるいは「魚雷営埠頭」と呼ばれている地点の「魚雷営」だが、そもそもこれがなにを指すのかイマイチわかっていなかったが、それがわかってきたので整理する。

紅卍字会の埋葬記録に、埋葬地点として「下関魚雷軍営脇」というのが登場する。「営」の語源は、連なった建物を意味する。また、「軍営」とは、軍隊の陣営、陣屋、兵営を意味する。つまり、「下関魚雷軍営脇」とは、下関の魚雷軍の一連の建物の脇、という意味に解釈できる。

Wikiの「国共内戦」の項には「(1937年)5月 - 蒋介石、ドイツ政府に高射砲、魚雷、機雷の提供を要請。」とあるから、南京戦の時点で魚雷を扱う軍部隊が存在していてもおかしくはない。また、中国側の「鱼雷营遇难同胞纪念碑落成」を報じた記事でも、「魚雷営は、中国海軍の古い水雷部隊があった場所」というような記述もある。

ちなみに、日本語の「魚雷」を中国語(簡体字)に翻訳すると、そのまま「鱼雷」である。

そして、幕府山事件の捕虜が捕獲された場所は、幕府山砲台の近くでもある。幕府山砲台とは、揚子江を遡行してくる敵艦を南京城の手前で阻止することを任務としている。

参考までに、南京周辺の砲台の位置を記した図を示す。このように、南京城付近に遡行しようとする敵艦を狙っていた。ちなみに、下図の右側が下流となり、揚子江を下れば上海に至る。



挿図第1~第11 南京付近支那軍防禦編成表要図他(アジア歴史資料センター)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111745200



そこで魚雷を主要兵器とする部隊についてさらに調べていたところ、中国版のWikiに次の説明を見つけた。

S艇在中國

S-7是S艇其中一個級別,編號由S-7至S-13,圖中為S-13,中國海軍也有3艘S-7艇
S-7是S艇其中一個級別,編號由S-7至S-13,德國人除了自用外還另外再建造去出口給保加利亞5艘和南斯拉夫8艘,中華民國也在1936年向德國訂購了3艘S-7魚雷快艇,

此3艘魚雷快艇在1937年交付成為岳飛分隊:

岳22(艇長齊鴻章)
1938年8月1日在湖北蔪春被日機炸毀

岳253(艇長崔之道)
1939年4月改名为「武穆」,抗戰末期在四川萬縣三斗坪,抗戰勝利後被改名「快-101」,1949年4月23日改名為「海鯨號」後加入中國解放軍海軍,由於已無可用之魚雷,故一直被當成巡邏艇使用至1963年退役

岳371(艇長黎玉璽)
1944年8月在廣西一带因内河水淺而無法撤退故而自沉,以免被日軍俘獲




簡単な訳は次の通り。

中国のSボート

S-7は写真のS-7からS-13まで番号が付けられたSボートであり、中国海軍はS-7ボートを3隻保有した。
ドイツは、彼ら自身での使用の他に、ブルガリアに5隻、ユーゴスラビアに8隻、中華民國に3隻を輸出した。

この3隻の魚雷快速艇は、1937年に中華民國に引き渡され分隊となった。

岳22(艇長齊鴻章)
1938年8月1日、湖北省琿春市で日本の飛行機に爆破された。

岳253(艇長崔之道)
1939年4月には「武穆」と改名された。反日戦争終結後には「快-101」と改名され、1949年4月23日には「海鯨號」に改名されて中国人民解放軍海軍所属になった。 利用可能な魚雷がないため、1963年の退役まで巡視船として使用された。

岳371(艇長黎玉璽)
1944年8月、広西の地域では、川が浅く、後退することができなかったため、日本軍の捕獲を免れるために自沈。



上記のように3隻とも南京戦で被害を受けた様子がないこと、日本側の記録にこの魚雷艇の話が登場しないところを見ると、南京戦前に脱出したものと思われる。

ともかく、当時の地図で揚子江岸に並ぶこの一連の建物が、これらの魚雷艇の基地あるいはこれに補充する魚雷の倉庫であったと推測できる。







《6. 「草鞋閘」とは》


今の中国では「草鞋峡遇难同胞纪念碑」と表記されている。しかし、紅卍字会の埋葬記録を見ると「草鞋峡」という記録はなく、代わりに「草鞋閘」という地名が登場する。調べてみると意外な意味がありそうなので、ここで考察しておく。





図の上半分は草鞋街から揚子江に沿って幕府山方向を望んだGoogle Earthでの光景。右側に幕府山が壁のようにそそり立ち、左側の揚子江に挟まれ、奥に進むほど三角形に狭まる地形になっている。まさに「峡」にふさわしい。

図の下半分には、南京戦当時の地図を同じ方角を向けて記載した。南京戦後に中州(八卦洲)を挟んで揚子江の本流と支流を入れ替えたようだから、景色が全然違う。

それで、紅卍字会の埋葬記録に登場する「草鞋閘」を探すとどうやらその付近だろうと推測した。鍵は「閘」という文字にある。

辞書を引くと、概ね次の通り。

【閘】
[字音] コウ、オウ
[解字] 形成。門と、音を表す甲(オウは変化した音。とじこめる意)とから成る。
[意味] 水門。ときどき開閉して、用水または舟などを通す。


揚子江支流とは言っても、「草鞋閘」と推測した最も狭い地点でも河幅100〜200mくらいあるから、水門になるはずはない。しかし、「ときどき開閉して、舟などを通す」となれば、意味はわかる。今風にいうとチョークポイント。

なにしろ、戦争中の首都・南京を守る要衝のひとつである。必要があればいつでもこの付近で船舶の遡行を軍事的に阻止する施設が整えられていたはず。

そこで、当時の地図をよく観察するといくつもの特徴が見えてくる。





(1)魚雷営あるいは魚雷軍営と呼ばれる江岸に約8棟の建物が並んでいる。
(2)魚雷営に埠頭がある。これが魚雷営埠頭と思われる。
(3)魚雷営埠頭から揚子江上を点線で示された航路が「草鞋閘」の方向に伸びて、おそらくは対岸の八卦洲につながっている。
(4)八卦洲との間に多数の渡し舟航路と思われる線が描かれている。(ように見える)
(5)不思議な線が多数あったので調べたところ、どうやら「土堤」の表記のようである。一部を茶色で着色した。
(6)魚雷営の方向に伸びる土堤は途中から小道(徒歩道)に変わっている。(下の地図記号参照)

八卦洲は中州といっても7km四方ほどもある巨大な土地である。従って、そこを軍事的空白にしておくことは考えられない。また、戦争とはロジスティクスでもある。となれば、人員と物資の輸送システムが備えられていたはず。

魚雷営埠頭から八卦洲へ伸びる(3)の“航路”は比較的大型の船舶による軍事物資の水上輸送路を示すものではないかという推理が成り立つ。また、人員輸送の方は(4)の最短距離の地点から多数の船でピストン輸送をする設計になっていたと思われる。なぜ(3)と(4)の使い分けがあるかというと、魚雷営から渡し舟の船着場に至る道は幕府山が迫ってきて道幅が狭くなり、重量物の運搬に適さないから。

また、(5)の土堤は、形状からするとただの治水用の土手ではない。最も左の半円形の土堤などは、揚子江支流を遡行してくる敵艦を正面から攻撃できる位置にある。右側のやや半円形になってる土堤と併せると、遡行してきた敵艦に集中砲火を浴びせられる設計になっているようにも見える。そして、真ん中の土堤は山側の道路に接続されていて、道路から兵員を送り込むのに適した設計になっていたのではないか。

従って、「草鞋閘」というのは、付近の砲台や魚雷艇などと連携して機能する堅牢な対艦防御陣地だったのだろうと考える。



(参考)地図記号



南京市政概況/南京特務機関/昭和17年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267359/6





(草鞋峡付近の地形の変遷)

草鞋峡付近の年代別の地図を示す。

南京戦があった1937年前後の地図だけが、草鞋峡水路の地形が異なっていることがわかる。






《7. 事件現場の比定》


まず、17日の「Y事件現場(草鞋閘)」について。





上図の中に栗原スケッチの事件現場の図を挿入してあるが、その下半分に2つの山が連なっているのが等高線からわかる。その地形を当時の地図で探すと、「Y事件現場(草鞋閘)」は赤丸の地点になると考えられる。

つまり、「草鞋閘」と推測した最も河幅の狭い地点のやや下流側。渡し船航路と推測した多数の線のすぐ近くでもある。



続いて、16日の「X事件現場(魚雷営)」について。

これは、日付が1日ずれているものの「鱼雷营遇难同胞纪念碑」が魚雷営での事件を示しているので、当時の地図での魚雷営の場所で間違いないと思われる。そこは現在の地図の「C鱼雷营遇难同胞纪念碑」と同じ区画にある。

冒頭に示した地図を再掲するが、結論として次のようになる。



(クリックで拡大)



ちなみに、「Z収容所」から「Y事件現場(草鞋閘)」までの距離を Google Map で計測すると道のりで約3.5km。(赤線)

栗原利一伍長の証言を報じた1984(昭和59)年8月7日付 毎日新聞によれば、「収容所から約4キロ離れた揚子江に連行した」とのことなので、概ね一致している。

なお、当初は「B草鞋峡遇难同胞纪念碑」が「Z収容所」を示しているのかと考えていたが、上述のようにどうやら違うことがわかった。中国側が場所の比定を間違えたのか、それともさらに別の何かを示しているのか、そこは不明である。

これで幕府山事件に関連する全ての地点の比定が完了したことになる。




《8. 参考情報》


南京戦当時に近い年代の写真がある。上述の「土堤」とは、遠目には田んぼのあぜ道のようにも見える。





また、同じ時に撮影された別の角度の写真を見ると、地図上の「土堤」は車両通行が可能なほどの道路になっているようにも見える。







《改版履歴》


2017.08.11 《平林貞治少尉の証言》を追記。
2017.08.14 紅卍字会埋葬記録からの考察を追記。
2017.08.15 《事件発生の瞬間》《前田雄二記者の目撃談》追記。
2017.08.27 魚雷営の場所を誤っていたので修正。
2018.04.04 収容所の位置の特定を誤っていたので修正。
2018.10.12 全面改訂。本記事は地理情報に集約し、事件考察は別記事に分割。
2022.08.28 (草鞋峡付近の地形の変遷)を追記。
2022.09.14 GoogleEarth版の地図を微修正。
2022.09.17 タイトル等修正、4項に唐光譜の火事の話を追加




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c

《幕府山事件》地理編
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9b9a860e2c39a923405efe2946d766ed

《幕府山事件》時系列編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/b371d9b304f84e519677960e6b644f17

《幕府山事件》自衛発砲説
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/13fd6d3e71081054bca30edc4a796259

《幕府山事件》魚雷営現場の外形的検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/5fe165164b8b9537c71c97f707ef986b

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/e5c0c9b19ec42a60c0d038314aa4e32a

《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68

《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531





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