安倍政権が成立を目指す安保法制は今後の日本人に大きな覚悟を求めることになる。戦後の日本は9条を理由に、自国以外の安全保障に見て見ぬ振りをしてきたが、今後は国益と正義に照らし合わせて日本国としての決断が求められる。安倍が安倍がと文句ばかり言っていられなくなる。
集団的自衛権はフルスペックではないものの、日本と関係が深い国には行使できる。即ち、例えば、朝鮮半島有事で韓国を見殺しにするのか、台湾有事で中国を敵に回してでも台湾救援に赴くのか、中国が侵略を進める南シナ海防衛に乗り出すのか個々の仮想有事に対して決断が要る。
安保法制は恒久法だから、安倍政権以降の政権でも同様に決断を迫られる。政府の決断は有権者の支持に支えられるから、世界の有事に際して特定の国を戦争覚悟で軍事支援するのか、見殺しにするのか日本国民の決断が必要になる。また、その能力がない政党には政権は任せられないし、選択されなくなる。
おそらく戦後の日本人は他国の存亡の危機を左右するような決断を迫られたことはないだろう。現実的には米国との相談の上での政府判断と行動になるだろうが、それでも日本国民に決断の責任が問われることになるのは変わりない。平時から関係する他国を軍事支援するのか見放すのか国民的議論が要る。
考えてみれば米国や戦前の日本は他国の運命を変えるような決断をしてきた。歴史として振り返れば必ずしも正しい決断とは言えない決断もあったにせよ、その結果は政府と国民が責任を負った。日本にその責任が再びやってきた。人は責任を負うことで成長する。日本国民もこの責任の中で成長するだろう。
平和真理教と揶揄されるような9条盲信による責任逃れはもう許されない。世界の安全保障の一翼を担う責任が生じる。有事の防衛で日本が米国にコミットを求めるように、今後はASEAN各国や台湾が日本にコミットを求めることも増えるだろう。その意味での他国から日本政界への工作も増えるだろう。
事実、フィリピンのアキノ大統領は防衛面での支援を求めて来日した。決断とは必ずしも有事になってからするのではない。平時からの防衛協力やコミットによって、敵国の侵略の意図を事前に挫くことに重みがある。参戦は最後の手段だ。安保法制を直ちに戦争と捉えることは極論にすぎない。
重くなった責任に対して対価もある。平時から防衛協力してくれ、有事になったら駆けつける日本に対する好感度と競争優位性は上がる。即ち、例えばフィリピンでのビジネスは格段にやりやすくなる。米国が日本でそうしているように。これは一種のビジネスモデルであり、日本の国益に寄与する。
今後の日本は資金面偏重の国際支援だけでなく、安全保障サービスもメニューに加わる。これとバーターでの国際ビジネスも増える。もちろん日本製の武器輸出も増えるだろう。日本国民も政党も企業も、そういう日本の新しいビジネスモデルに合わせて、考え方を切り替える必要がある。時代が変わる。