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委奴国 ④委奴(伊都)国は大分県の日田に在った

2022-09-03 20:50:00 | 金印「漢委奴国王」


では、委奴国(伊都国)はどこに所在していたのかを探って行きます。

魏志倭人伝には伊都国についての説明文が下記漢文に書いてあります。


東南陸行五百里到伊都國

官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚

有千餘戸 丗有王 

皆統屬女王國 郡使往来常所駐



「東南に五百里ほど陸行すると伊都国に到る。

官は爾支と言い、副は泄謨觚、柄渠觚と言う。
千余戸有り。代々王有りて、

皆、女王国に属す国を取りまとめている。
郡使往来の時は常に駐する所なり。」



伊都国には、代々王が有り、

郡の使者が倭に来た時は、

常にこの伊都国に留まると書いてあり、

この伊都国が西暦57年に

後漢の光武帝より授かった

金印に刻まれている「漢委奴国王」の

委奴国であったのは、

疑いの余地が全くありません。


では、この委奴(伊都)国は、

どこにあったかは、

私の「光正説」から導いた答えが
以前のブログにて説明してますが、

私の解釈は、下記魏志倭人伝の漢文に書かれている

東南陸行五百里到伊都国

これを、素直に解釈すれば
東南方向に500里歩いて行けば伊都国に行き着きます。
と書いてあり、この東南に500里行ける道を、
地図上で照らし合わせれば、
博多から日田に通じている日田街道が適合しました。

この日田は地形的にも恵まれていて、

日田から博多へも行けるし
日田から久留米へも行けるし
日田から中津へも行けるし
日田から熊本へも行けるし
日田から別府へも行けるし

中国で言う衣食住行の行にはとても便利なエリアです


ゆえに、私のたどり着いた解釈は、

伊都国は大分の日田に有りました。



私は魏志倭人伝に書かれている伊都国の所在地は、

九州大分県の日田であると確信しています。

そして、この九州大分県の日田のダンワラ古墳より金銀錯巌珠龍紋鉄鏡が発掘されています。

この金銀錯巌珠龍紋鉄鏡は中国では、王さましか所有を許されていない鉄鏡だそうです。

なので、日田のダンワラ古墳からこの金銀錯巌珠龍紋鉄鏡が発掘されたと言うことは、この日田には中国では王さましか所持出来なかった

金銀錯巌珠龍紋鉄鏡を所持出来た王さまが、居たという証拠になります。


委奴国  ③委奴国は伊都国である

2022-09-03 20:49:00 | 金印「漢委奴国王」


金印に彫られている「漢委奴国王」の読み方が「漢の倭の奴の国王」と

解釈すると、
「漢の倭の奴の国王」の倭の漢字が金印では、
なぜ「漢委奴国王」の委の漢字になっているのでしょうか?
おかしくはないでしょうか!

西暦57年に漢より授かった金印に彫られている「漢委奴国王」は
一般的には漢の倭の奴の国王と解釈され、魏志倭人伝に30国の国名の中の奴国と解釈されてますが、
そうすると納得出来ない(話の辻褄が合わない)点が出てきます。
果たして金印に彫られている「漢委奴国王」の委は倭が正しく金印の委は倭の彫り間違いなのでしょうか?
あるいはわざと倭を委とワザと彫ったのでしょうか?
ワザと倭を委と彫る必要性が有ったのでしょうか?
又、彫り師が間違って倭を委と彫ってしまったが光武帝は気がつかなかったのか?
或いは、相手は漢字が読めないからそのままで良いと間違った漢字表記の金印を渡してしまったのでしょうか?

この様な不自然な解釈がますます分からなくしてるのではないでしょうか?

なぜ魏の時代には後漢より金印を受け取った奴国が衰退して、

邪馬台国の卑弥呼が、魏国の皇帝より金印を受け取る事になったのか?

魏志倭人伝にはそんな事は一切書いてなく、また、その他の中国の古文書にも一切書いてありません。

奴国が金印を授かった国だと、過去に王がいた事が魏志倭人伝には記述されてません。


奴国が衰退し邪馬台国が奴国に代わって力を付けて来たのではなく、
西暦57年に金印を授かったのは倭の奴国ではなく、委奴国ではなかったのでしょうか?
委奴国は倭の奴国と読まず委奴国という国があったのではないでしょうか。
その様に読んだ方が自然だと思います。

では、委奴国とは、魏志倭人伝の記述されている30国の内、どの国でしょうか?
 委奴国は後漢の光武帝から西暦57年に金印をもらい
委奴国の首長は委奴国王と漢の国より認められる事が出来た。
これは大変な事で、他の国が勝手に王と名乗ってもそれは認められない。
例えば誰かが勝手に「私は天皇だ」と言っても周りで誰も認めないのと一緒です。
しかし、委奴国は中国の後漢の光武帝より委奴国の王と名乗っても良いとお墨付きを
頂いたのだから、委奴国の首長は正々堂々と委奴国王と倭の国々に言い振舞ったのではないでしょうか?
なので、倭の国々で唯一王と名乗れたのは委奴国の首長だけです。

この様に西暦57年に中国後漢の光武帝より王と名乗るのを認められてから
委奴国の首長は代々王を引き継いできました。


私が調べた限り、魏志倭人伝の漢文のうち、王の記述が有るのは、

1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国の3国のみでした。



1、伊都国 (代々王が有る)


2、邪馬壱国(女王の住む都)

3、狗奴国 (男子を王と為し)

魏志倭人伝に伊都国は代々王がいたと記述されています。

委奴国は伊都国で漢字表記は変わっていますが、委奴国と伊都国は同一国です。
金印を授かった当時は委奴国と権威のない漢字を使って表記されていたが、
後に委奴国は「都」の漢字を使い、

また「伊」は中国でも権威のある人物の姓に使われている漢字表記にグレードアップされてます。
伊都国の王は後漢の皇帝と信頼関係が深かったのではと推測出来ます。