ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

「それはわたしです」に倒れた人々

2021-06-01 09:44:09 | ヨハネの福音書

18章に入った。13章から続いたイエスの教えと祈りが終わって、いよいよ十字架に展開していく。

ユダについて考えた

銀貨30枚でイエスを売ったユダは、イエスを裏切ろうとしていたと18:5に書かれている。
これは、ユダはイエスを裏切ろうという意思があったのではなく、結果的に、裏切る、引き渡す、十字架刑にかかるようにしたという意味のようです。(現在時制の特別用法・未来を表す現在時制)

だから、この時点のユダの気持ちを考えると、イエスを裏切ろうというよりも、自分が何か偉くなったような勘違いをしていたのではないかと思う。ローマ兵や、祭司長・パリサイ人の役人を引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持った人々の先頭に立ってオリーブ山に向かって来たのだから。

・サタンの誘惑に聞き従う時、その時は小さな間違いのように思っていても、だんだんに勘違いを重ねることになってしまうことに気をつけるべき警告か与えられた。同時に、悔い改めることできる機会も神様は何度も与えておられることに気づく。

ヨハネ 18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた

一隊の兵士と、祭司長・パリサイ人たちから送られた役人たちについて考えた

屈強のローマ兵たちがは、イエスのエゴーエイミ「それはわたしです。」という言葉の前で、
あどずさりしたーーーーうしろの方に 離れ去った
倒れた――――――――地面に    崩れ落ちた(平伏するという時にも使う言葉)

もう一度もイエスは「だれを捜すのか。」と問い、尋ねて下さったのに、残念ながら前と同じ言葉で返した。「ナザレ人イエスを」

兵士たち
マタイ27:54では、イエスの復活のとき、地震やいろいろな出来事を見て「この方はまことに神の子であった」と告白している。それは百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々であった。その中には、ヨハネ18章で、わたしは神であるという宣言を聞いて倒れた人々も混じっていて、倒れた経験を思い出したかも知れません。訓練を受けてどんな戦いにも勝利するのだというローマ兵としての自信が見事に崩れた経験は、後々貴重なものとなるはずです。

役人たち
人の指示を聞いて、そのとおりに従って下働きをしていた人たちです。この場面を見てからは、自分の目と耳で、本当に聞き従うべき人を自分で決めようとするきっかけになったかも知れない。そして、主イエス・キリストに、またはイエスの弟子の、そのうしろについて行き、弟子となって、主の下働きにいそしむ役人、しもべになったかも知れない。

 

このことから私自身を考えた

マタイ 28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。(倒れた・平伏した)

  • 私は、イエス・キリストが天地創造主である神から遣わされて来られた神の子であり、私の罪を赦してくださる方であり、ともにいて導き続けておられる主であると知った時、涙をもってひれ伏し、降参した経験があります。それまでに、神様は何年もかけて、それがはっきりわかるための準備となるような経験を与えてくださっていました。

 

  • イエス・キリストが私の主であると知って以来、あとずさりすることなく、主の御声がよく聞こえるように。親しい交わりができるように、より近づこうとう方向で今日まで生きて来ました。

 

  • 私も、自分は神の子となる特権が与えられている自覚と喜びを持って、人々に福音を語る時、人々は神からの栄光に触れて、何かしらの衝撃を受けることになる。
    その時には期待したような反応が見れなくても、神に選ばれている人なら、神は様々な体験を与えて導き、ある日、イエスを知って近づき礼拝するようになる。主の弟子となる。
    そのような主の権威と計画と成就に信頼して、今日、こんなコロナ禍の中でも開かれる小さな伝道集会への案内のチラシを持って出かけます。
    今日のこの小さな決断がユダが行く方向ではなく恵みと祝福の道であることを祈り願います。

 

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