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眞子さまのお相手選びの失策に乗じて、アンチ秋篠宮家の人達による事実無根のバッシングが酷いので、アップしておきます。
といっても、読者さんのコメントが全てを網羅しているので、コメント欄からの転載です。
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■(らむ子)2018-07-17 14:33:50
掲示板やアンチブログでは、秋篠宮は服喪を破り性急に婚約し結婚したの大合唱ですが。
秋篠宮殿下自身の説明や服喪規定を調べると、それとはちょいと違う事が見えてきます。
◆喪中の婚約内定会見に関して、秋篠宮殿下ご自身がその経緯を説明されています。
規定上より厳しい服喪中にあって婚約内定した前例があり、問題無しと判断された。
即位の礼との間に時間的余裕を取る為に、婚儀の時期が前倒しになった。
文仁親王同妃両殿下ご結婚満25年に際してのご感想
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/03/kaiken/gokanso-h27-gokekkon25.html
<結婚にむけた準備>
文仁
少し時計の針を進めましょう。私が大学を卒業したのが1988年ですが,その年の夏から暫くの間英 国に滞在しました。この間,昭和天皇のご不例と崩御があったことから,しばしば日本に帰ることに なりました。日本にいる間は,諸行事に参列するためだったのですが,そのおりに,将来のことにつ いていろいろと話す機会にもなりました。そして,1989年の9月に公表するに至りました。これはい わゆる結納に当たる正式な婚約ではなく,皇室会議の議を経て婚約が内定したということを発表する 機会でした。服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが,1951年7月の順宮 (現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で,しかも当時参考としていた旧皇室服喪令によると,私たちの発表時期より一段階重い服喪期間中でしたので,手続きを終えたという発表は 前例にもあり問題ないと宮内庁は判断したわけです。
そして,私たちの結婚の時期についてです。秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で,昭和天皇の 即位の礼が同年の11月初旬。その間は2ヶ月もなく,大変だったことを両陛下が聞いていらしたそう です。そのようなことから,私たちのときには,結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までにある程 度の時間があったほうがよいとのことで,私が帰国した直後に式がおこなわれることになりました。
◆紀子さまのことは、婚約内定の4年前から(昭和天皇ご在世時)今上天皇からのご指示で宮内庁の調査検討が始まっています。婚約内定会見議事録と文仁親王同妃両殿下ご結婚満25年に際してのご感想。及び毎日新聞1989年9月12日によると…
1985年5月 文仁殿下、自然文化研究会に紀子さまを誘われてグループ交際が始まる。
1985年12月 今上天皇、宮内庁に紀子さまとの結婚の検討を指示。
1986年6月26日 プロポーズ
1989年1月7日 昭和天皇崩御
------------------------------6月9日 文仁親王 大喪明ける(祖父崩御ゆえ150日)
1989年9月12日 婚約内定
------------------------------1月8日 今上天皇 諒闇明ける(父崩御ゆえ1年)
1990年1月12日 納采の儀
1990年6月29日 結婚の儀
ご自身のご結婚は、宮内庁が検討に入った後にプロポーズされ、実に順当です。
今上天皇の宮内庁への指示が早く、タイミングが適切だったからでしょう。
文仁殿下が天皇陛下に結婚の意志を伝えて、それに呼応しての指示かもしれませんが…
尚、文仁親王ご自身の服喪期間は祖父の崩御なので150日。婚約内定は喪が解けています。
順宮内親王(池田厚子さん)も祖母の崩御なので150日ですが、婚約内定が2ヶ月後で喪中。
秋篠宮様は、今上天皇は1年の喪に服されるので、世間の見方を慮り、ご自身の喪は明けていると主張するなどという事は謙ってされなかったのだと思います。
◆一方、眞子さま・小室圭は。プロポーズするのは庶民の小室の方からになりますから秋篠宮殿下側からはタイミングは読めず。しかも眞子さまはプロポーズに即答してしまいました。
結婚前提で交際するという申し出を受けた時点でこの危険を読み、臆せず調べるべきでした。眞子さまへの躾不足(プロポーズ返答は一度保留する。紀子様も保留しています。)が祟りました。秋篠宮殿下は、ご自身の結婚と違う状況に思い至らなかったのか?
そもそも結婚は放任で、且つ小室を全面的に信用し、調べる気無しなのか?
学習院で皇族への理解が深いご学友に守られた状態と、ICUの皇室への知識と尊崇に欠ける学生に囲まれた状態の違いがお分かりになっていない事が最大の問題だと思います。
なし崩し的にタイミングを失い、当人同士は結婚する気満々でどんどん既成事実化。
天皇陛下が年始めの宮内庁幹部との食事会で、今年は眞子に良い事があると申された。
そこまで固まっていた。だから、山本長官は手が出せない状態と言ったのでしょう。
秋篠宮様は、今更宮内庁に検討して貰っても、結果が悪いから別れろと言えないと思い(紀子様は不安を感じていても)、宮内庁から調査を申し出られても断ったのか?
そもそもB・Z組織の抗議問題等何らかの理由で調査に否定的で、する気が無かったか?
当人同士が良けりゃ鬼が出ようが蛇が出ようがはなから構わないのか?
ご参考 :
婚約内定記者会見
http://princefamily.gooside.com/konyakukiji10.html
毎日新聞 1989年9月12日 より
『天皇陛下 4年前から見守られ 宮内庁幹部らに「前向きに検討を」
天皇陛下は同月下旬、同庁幹部に「前向きに二人のことについて検討してほしい」と
話されたという。 』
記事文脈から、天皇陛下が宮内庁に指示されたのは1985年の12月頃とのこと。
皇室服喪令(旧皇室典範。今は廃止しされ法令はないが、この通り行われています。)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/皇室服喪令
皇族は父、母、夫の喪に1年、 祖父母、夫の父母、妻の喪は150日、以下略。
事例 : 貞明皇后崩御(1951年5月17日)では昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮が一年間喪に服し、香淳皇后、皇太子(今上天皇)、常陸宮は百五十日間の喪に服した。
https://blog.goo.ne.jp/nishihara2480/e/49302c952fca847b60b5989bc6129c20
- ■眞子ちゃんの好きに任せなければ憲法違反よ!
- (らむ子)
- 2018-07-17 15:05:02
- ・・と甲高い声が聞こえて来るのは、空耳かしら?
日本国憲法至上主義の今上天皇家。
皇室典範は憲法の下位法で、民法などの法令と同等とみなす法学者もいるという。
彼らはさらに、法律相互に矛盾があってはいけない法のルールを都合良く適用し、民法上の男女平等や人権を皇族に適用する。その流れで、女性宮家や女系天皇を通さなければ違法と考える。
美智子皇后筆頭に、その支配下にいる秋篠宮殿下、宮内庁長官までが憲法の第24条『婚姻は両性の合意のみに基いて成立する』を殊更に掲げ持って「眞子の意志に任せる」と述べ、皇后に至っては「誰も口を挟んではいけない」「国民の声は雑音」と言うのは、こうした法解釈に基いた思想からではないでしょうか。
これがGHQの罠で、明治政府は「典憲体制」といって大日本帝国憲法と旧皇室典範は同等で他の法令から独立し影響は受けぬように設定したのに、GHQ日本国憲法では皇室典範が下位に見えるように変えてしまったのです。
無論、皇室典範は民法や刑法と同等同質の法律ではなく、影響を受けない異次元の存在なのですが…
さらに、国連 女子差別撤廃委員会が皇室典範は女性差別とかイチャモン付けてくるのは、委員長が左翼弁護士の林陽子氏でもあり、このカラクリを知っていて利用しようとしている法律専門家が組織内に多くいるのではないかと想像します。
ミテコさん「男女平等」大好きどころか。女性上位世界を作ってトップに立ちたい風情。
ご不例で伏せていらっしゃる天皇陛下を顧みず、横浜くんだりまで「国際ゾンダ」に出掛けて、フラッシュ浴びて大報道。上機嫌でいらしゃいまする〜♪
秋篠宮殿下の本音は分かりませんが。
天皇(実質皇后)の裁可が必要な事項。即ち、お子様の結婚や進学等は皇后の思想に支配されているのではないか?
だから小室事件や脱学習院・学歴主義が、普段拝する秋篠宮殿下とギャップがあって唐突に感じられるのでは?
つまり日頃国民が拝する秋篠宮殿下は、
自虐史観の発言はしないし、
紀子様は殿下を常に立て弁えていらっしゃるし、
祭祀は必ず出席されて務めていらっしゃるし、
国民に向けての振る舞いやお言葉には昭和天皇を彷彿とするものがあるし。
東宮より一万倍皇族らしく、天皇に相応しい。
これは「じぶんちオタク」と言う程に、思春期より天皇の歴史と神話を自ら学ばれてきた教養の余光と想像してはいるのですが…… - ............ここまで
秋篠宮殿下がご自分たちの結婚について説明される時の、語彙の豊富さと冷静な論理立て、皇太子殿下とのこの落差。
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