【大隅 第53号】
が届きました(写真)。興味深い論文が並んでいますが、表題の小論を読みました。
著者は、福谷 平氏で、大隅史談会の理事。第53号のpp.108-117
その要点をまとめてみます。
○ 鹿児島県肝付町旧高山町の廃寺跡道隆寺は、1246年に、蘭渓道隆禅師によって建設されたのではないか?
○ 蘭渓道隆は、1213年中国に生まれる。
「建長寺史」によれば、1246年7月24日に博多に着いている。
高山町古記録には、1246年3月11日に一行が高山にいたとの記述がある。博多との4ヶ月あまりは、日本入国手続き上、大隅上陸が秘されていたのではないか?
○ 中国からの航路としては、大隈半島の内之浦に上陸して、山越えして高山の本城についたのではないか?
○ 当時の肝付氏第4代兼員により肝付氏の菩提寺として道隆寺を開山したのではないか?
◎ 2009年2月26日及び2009年9月29日
鎌倉建長寺の管長吉田正道氏がこの道隆寺跡を訪問した。(当時、地元紙南日本新聞でも報じられている)
建長寺は、1253年(建長5年)に、蘭渓道隆禅師によって開山されている。
吉田管長らの一行は、(鹿児島の)道隆寺跡にあまりにも鎌倉文化と共通するものがあると驚かれた。(「切り通し」「やぐら」「民話・弁財天物語」「十一観音」など)
【建長寺ホームページ】
開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。
十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いてからは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって泉涌寺来迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏むことになった。日本に来てから三年後のことと思われる。時に三十六歳。
【この記事をブログで取りあげた理由】
1 鹿児島には、唐人とか唐人原とか、中国から来た人が住んでいたことを示唆する地名が多い。加世田にもあったし、鹿屋の近くにもある。中国との距離や海流からいってもさまざまな交易があった。加世田。志布志。内之浦。
2 建長寺という日本を代表するお寺が遠く大隅半島の廃寺と関連があるという考えはこの論文から納得できるが、ごく最近の研究で、鹿児島の歴史書などには書いてない。
3 焦点となっている道隆寺は、明治維新の廃仏毀釈で壊された。鹿児島には歴史的なお寺がない。この論文の著者は、廃墟から遺品を発掘してこられた。
4 大隅地方は、妻の出身地で、「唐人」のことなどを子どもの頃から聞いて関心があったという。
大隅半島の歴史に関しては、
鴨着く島おおすみ
をご覧ください。リンク集2にブックマークしています。
本ブログ「介護福祉の話」カテゴリ「大隅半島」 に25件の記事を載せています。
が届きました(写真)。興味深い論文が並んでいますが、表題の小論を読みました。
著者は、福谷 平氏で、大隅史談会の理事。第53号のpp.108-117
その要点をまとめてみます。
○ 鹿児島県肝付町旧高山町の廃寺跡道隆寺は、1246年に、蘭渓道隆禅師によって建設されたのではないか?
○ 蘭渓道隆は、1213年中国に生まれる。
「建長寺史」によれば、1246年7月24日に博多に着いている。
高山町古記録には、1246年3月11日に一行が高山にいたとの記述がある。博多との4ヶ月あまりは、日本入国手続き上、大隅上陸が秘されていたのではないか?
○ 中国からの航路としては、大隈半島の内之浦に上陸して、山越えして高山の本城についたのではないか?
○ 当時の肝付氏第4代兼員により肝付氏の菩提寺として道隆寺を開山したのではないか?
◎ 2009年2月26日及び2009年9月29日
鎌倉建長寺の管長吉田正道氏がこの道隆寺跡を訪問した。(当時、地元紙南日本新聞でも報じられている)
建長寺は、1253年(建長5年)に、蘭渓道隆禅師によって開山されている。
吉田管長らの一行は、(鹿児島の)道隆寺跡にあまりにも鎌倉文化と共通するものがあると驚かれた。(「切り通し」「やぐら」「民話・弁財天物語」「十一観音」など)
【建長寺ホームページ】
開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。
十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いてからは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって泉涌寺来迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏むことになった。日本に来てから三年後のことと思われる。時に三十六歳。
【この記事をブログで取りあげた理由】
1 鹿児島には、唐人とか唐人原とか、中国から来た人が住んでいたことを示唆する地名が多い。加世田にもあったし、鹿屋の近くにもある。中国との距離や海流からいってもさまざまな交易があった。加世田。志布志。内之浦。
2 建長寺という日本を代表するお寺が遠く大隅半島の廃寺と関連があるという考えはこの論文から納得できるが、ごく最近の研究で、鹿児島の歴史書などには書いてない。
3 焦点となっている道隆寺は、明治維新の廃仏毀釈で壊された。鹿児島には歴史的なお寺がない。この論文の著者は、廃墟から遺品を発掘してこられた。
4 大隅地方は、妻の出身地で、「唐人」のことなどを子どもの頃から聞いて関心があったという。
大隅半島の歴史に関しては、
鴨着く島おおすみ
をご覧ください。リンク集2にブックマークしています。
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そんな話を思い出しながら,記事を読ませていただきました。
大陸の文化と日本,丁寧に見ていくと面白いですね。
地域の歴史の奥深さには唖然とするばかりです。
岡山の近代の人脈を探っていると、ほとんど迷路状態になりました。
すっきりしたいのですが、これが無理なことだけはわかります。
でも、「もっと知りたい」という気持ちには変わりはありません。
コメントありがとうございます。
今度
横浜へ会議で出かけますが
当初は
いわゆる観光をする案はなかったのですが
この小論文を読み
建長寺には
行きたいと考え直しています。
大隅の廃寺あとから
昨年もっていった花が建長寺に植えられているとのことです。
コメントありがとうございます。
この論文を書いた方は
もと町の職員。
40年以上かけて
廃寺のあとから石像などを掘り起こしてきたそうです。
アカデミズムは
まだよく調べていないようですが
建長寺側では
トップが2度も大隅を訪問しているのですね。
自分の寺の原典ともいうべき跡を発見した興奮が伝わっています。
私が好きな日本刀の刀工も全国各地で活躍しています。
明治になって中央集権化されて以降、中央と地方の格差が作られていったのではないか、と思います。
「大隅史談会」のご活躍はすばらしいですね。
コメントありがとうございます。
岡山にいて
すっかり遅くなりました。
ガヤマスさんのように
谷山・坂之上という地元に腰をすえて
刀工といった視点を掘り下げておられることは
素晴らしいです。
鹿児島に来て
江戸時代はもちろん
中世や
古代への関心がわいてきたことは
楽しいです。
大隅には
重要な石(囲碁で言う)があるとは
学士院恩賜賞をもらわれた
九州大学名誉教授の
秀村選三先生のお言葉です。
高山の現地を歩きたいですね。