介護福祉は現場から 2007.02.22-2011.01.25

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第3665号 twitter小説 厚生省(19)~(27)

2010-04-28 05:12:59 | 私の原点
写真は、加計呂麻島。奄美・加計呂麻島なんでもありBLOG 2010.04.25の記事からお借りしました。


【保険局庶務課】

小説厚生省(19)
岡村三郎が属した保険局庶務課は、医療保険政策をまとめているいわゆる「筆頭課」であり、昭和40年当時は、医療課、国民健康保険課、保険課、調査課の5課編成だった。庶務課長は仕切りの中にいて、大部屋の中心には、課長補佐の川村 智が座っていた。昭和28年入省組の1人。

小説厚生省(20)
保険局庶務課には、庶務係、法規係、企画係、調査係の4係。いずれも2人から3人。新規の政策や懸案事項の立案・検討は、岡村が属する企画係が担当だった。新入生の岡村の上司は、自治省からの交換人事できていた梅本善一係長、その上が川村 智補佐という布陣だ。

小説厚生省(21)
岡村の日常は、課長補佐の川村の席の回りで、係長の梅本と3人での議論だった。川村は、M県の課長から戻ったばかりだったので、毎週のようにM県関係者が挨拶に来ていた。川村の机のうえは綺麗に整理されていて、1枚のコピー用紙に鉛筆で懸案事項のリストを書いていく。


【投稿】

小説厚生省(22)
昭和40年当時、GDPに占める医療費の割合は4%だったが、この比率でも高すぎるのではという世論があった。2010年の今日、この比率は8%であるが、先進国では低い方とされているのは今昔の感がある。医療保険における医療費の詳細は、保険局医療課の所管だった。

小説厚生省(23)
保険局庶務課は、筆頭課として、医療保険制度のあり方、とくに医療費の水準に関して強い関心を寄せていた。保険局長室においては、かなり自由闊達な議論が行われていたが、それは、課長補佐の川村を中心とする若手のふだんの勉強の結果が活かされていたからである。

小説厚生省(24)
勉強会の主要メンバーは、梅本係長、国民健康保険課の岡山敬治だった。
川村補佐は、勉強会の結果を専門雑誌に投稿させた。当時の日本医師会の勢力からいって現役の行政官が政策を分析・公表することは危険だった。川村補佐は局長の了解をとっていた。第1回の原稿は岡村が書いた。


【川村補佐】

小説厚生省(25)
昼は、川村補佐の席の周りで議論をし、局長室での会議があれば、岡村も入った。局長、次長、庶務課長以下各課長が出席しての会議では、議論の実質的な進行は川村補佐が行っていた。会議の議論が頓挫したりすると、脇のテーブルに座っている梅本と岡山の両係長の発言が方向を転じた。

小説厚生省(26)
夜ともなって、国会の仕事(答弁案の作成)が終われば、川村以下、梅本、岡山などに従って、飲みにいった。最初は、新橋あたりの小料理屋。当時は、流しのギターの伴奏で扇ひろ子の歌などうたった。二次会では、銀座まで繰り出すこともあった。その費用はいつも川村がだした。

小説厚生省(27)
あるとき、岡村は「自分も応分の負担をします」といったら、川村は「その気持ちがあれば、やがて年下のものと飲むようになって今度はお前がおごってやれ」と笑って払わせなかった。あとで、気がついたのだが、一緒に書いた原稿代とか法規集の編集料などがプールされていた。
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