小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

天皇制

2009-11-29 00:43:04 | 考察文
天皇論。「論」というほど大げさなものじゃないが、私の天皇観などを書いておこう。基本的に私は天皇制はつづけた方がいいと思っている。なにしろ古事記に書かれてある天照大神の神話の世界から続いている日本の伝統だからである。伝統は壊さない方がいい。今、世界の中でエンペラーがいるのは、日本とイギリスだけである。結論から言うと私は天皇制というものより、第二次世界大戦の昭和天皇を人格的に尊敬している。天皇制自体は、左翼がむきになるのなら、極論を言えば無くなってもさほど構わないと思っている。さてこういう天皇観は三島由紀夫の天皇観とは正反対である。氏は天皇の人格を問題にせず、天皇制という制度の強化を訴えた。しかし、三島の天皇観は、あまりにも不謹慎である。一言でいって、三島はエロティシズムの対象としての絶対者が、氏の個人の好みとして欲しかったのである。つまり、ロイヤリティーの対象として、絶対者が必要で、その絶対者は、天皇でなくても何でもよく、そのロイヤリティーに忠誠をつくすエロティシズムに酔いたい対象が欲しかったのである。これは、三島の文学のほとんどとは無関係で、文学の必要のためではない。ただ、「憂国」と「奔馬」だけは、絶対者としての天皇がモチーフになっている。ただ三島由紀夫という人間を考えると、無神論で理想が高く、天皇にしか心の拠り所がなかったのは、仕方がないとも感じる。そもそも武士道とは、君主のため死ぬ事であるから、ロイヤリティー、絶対者というものがなくてはならないのである。しかし個人の好みで思っている分にはいいが、自分の好みを政治的な制度にしようというのは、何たる不謹慎なことか、と思う。三島の天皇論はさておく。私は昭和天皇を人格的に尊敬している。開戦の時も、御前会議で右に血気盛んな陸軍がいて、左には、現実主義の内閣がいて、議論し、最後に天皇の言葉を仰ぐこととなる。開戦の時、天皇は、明治天皇の歌を謳った。
「四方の海、みな同胞と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」
(世界の国々を仲間だと思うなら、どうして争いが起こるのだろう)
天皇は戦争に反対したのである。そして、東条英機は、その晩、自分ははじめて天皇の御心に逆らった事に痛恨の思いで涙した。そして終戦前の御前会議でも同じである。右に血気盛んな陸軍がいて、左には、現実主義の内閣がいて、陸軍は、原爆を落されたあとでも、一億層玉砕の戦いを主張した。陸軍は実に口が達者である。しかし、天皇は、「自分の身はどうなってもいい。日本民族を絶やしてはならない。この戦争を終わらせるべきである」と言った。あの発言があったからこそ、口の達者な陸軍も仕方なく納得した。もはや日本に勝ち目の無いことは陸軍もわかっていた。陸軍は、もはや、精神主義、意地だけになっていた。もし、天皇のあの発言がなかったら、日本は第三の原爆を落されていたかもしれない。一億層玉砕までは、いかなくとも、戦争をつづけていれば、もっと悲惨なことになっただろう。開戦時に戦争に反対し、そして、ポツダム宣言を受託して戦争を終わらせたのは、天皇だからと思うからである。今の皇室を見ていても、何とも感じない。ただ左翼の中には天皇制をなくせ、という人もいるが、天皇制があるから、日本の平和が保たれているという面はある。昭和天皇の戦争責任について言えば、私は、
「天皇には戦争責任がある。しかし、それは責められるべき責任ではない」
と思っている。まあ、天皇制が無くなる事はないだろうから、天皇制、云々を語ることは意味がない。

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