経営コンサルタントへの道

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■【きょうの人】 0131 ■ 賓頭盧 びんずるさんと親しまれていますが・・・ ■ 普明国師 春屋 妙葩 ■ 徳川 家康 幼少期は辛い日が多かったそうです

2023-01-31 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0131 ■ 賓頭盧 びんずるさんと親しまれていますが・・・ ■ 普明国師 春屋 妙葩 ■ 徳川 家康 幼少期は辛い日が多かったそうです

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 徳川 家康 幼少期は辛い日が多かったそうです


 とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康
 天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)- 元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日)
 主君 今川義元 → 今川氏真 → 足利義昭 →織田信長[2]→ 豊臣秀吉→豊臣秀頼


 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名で、天下人と呼ばれます。安祥松平家9代当主で、徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖です。

 家系は、三河国の国人土豪・松平氏、旧称は松平元康(まつだいら もとやす)で、戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開き、三英傑のひとりといわれます。

 幼名は、竹千代、通称は次郎三郎で、のちに蔵人佐とも呼ばれていたようです。諱は今川義元より元信(もとのぶ)を授かり、元康とも名乗っていましたが、今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改めました。

 本姓は、私的には源氏を称していましたが、徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるほど、ブランディングを目的として苗字にはこだわりました。天正16年(1588年)以降に源氏を再び称しています。

 このことから、家康の出自は、それほど良いとは言えず、それを糊塗するための戦略でしょう。そこから読み取れることは、一般に知られるほどには肝が据わった男ではなく、小心な面を持っていたのではないかと、勝手に、独断と偏見でもって感じています。

 家康につきましては、多くを語る必要がないほど、よく知られています。

 

■ 賓頭盧 びんずるさんと親しまれていますが・・・

 

 びんずる
 出没不明

 

 釈迦の弟子の一人で、彼の説法が他の異論反論を許さずライオンのようであったため「獅子吼(ししく)第一」と称されています。

 名は、「ピンドーラ」、姓は「バーラドヴァージャ」で、その名前の意味は、「不動」、「利根」といいます。十六羅漢の筆頭です。

 博識であり慈悲深く十善を尊重し、阿羅漢果により神通力を得たといわれています。白髪長眉の相があったといわれることからも、神通力を持つことがうかがえます。

 自分の身体で悪いところがあれば、そこを撫でると除病の功徳があるとされ、なで仏の風習が広がりました。

 

■ 普明国師 春屋 妙葩


 ふめいこくし  しゅんおく みょう
 応長元年12月22日(1312年1月31日)-元中5年/嘉慶2年8月12日(1388年9月12日)


 室町時代の臨済宗の禅僧で、室町幕府の帰依を得て臨済宗相国寺の第二世となりました。事実上の開山国師です。

 五山文化の発展に寄与した。ほかに天龍寺や臨川寺の住職をしています。

 春屋は道号、別号に芥室、不軽子など。諡号は知覚普明国師です。

 母方の叔父である夢窓疎石のもとで受戒すると天龍寺の住職となりました。室町幕府に対して、五山第一の南禅寺の楼門(山門)新築を提言しました。

 幕府は楼門建設の援助をしましたが、南禅寺と紛争状態であった園城寺がこれに強く抗議をしました。

 比叡山の門徒もこれに加わり楼門撤去や妙葩の配流を求め、紛争は政治問題にまで発展してしまいました。

 妙葩は頼之と対立して天龍寺住職を辞して阿波国光勝院、さらに丹後国雲門寺に隠棲することになりました。

 1379年(康暦元年/天授5年)の康暦の政変で頼之が失脚した後に入京し、南禅寺住職として復帰しました。

 

 

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■【きょうの人】 0130 勝海舟 咸臨丸には福沢諭吉も同船

2023-01-30 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0130 勝海舟 咸臨丸には福沢諭吉も同船

 

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■ 目的を見つけよ インド独立の父ガンディーの名言

 

 マハートマー・ガーンディー、モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー
 1869年10月2日-1948年1月30日

 

 インドのグジャラート出身で、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学んだのち弁護士となった宗教家、政治指導者で、「インド独立の父」と呼ばれています。

 「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、ガンディーの尊称として付けられています。インド人は、親しみをこめて「バープー」(「父親」の意味)と呼ぶということを知人から教えてもらいました。

 インドで毎年10月2日は「ガンディー記念日」という国民の休日となっています。

 インドのイギリスからの独立運動を指揮し、「非暴力、不服従」を提唱し、民衆暴動やゲリラ戦の形をとらずに独立を勝ち取りました。

 5回もノーベル平和賞の候補に挙がったのですが受賞を固辞したのか受賞には至っていません。2007年6月の国連総会で、ガンディーの誕生日を国際非暴力デーという国際デーとすることが決議されました。

 ガンディーの名言のひとつに、「目的を見つけよ。手段は後から着いてくる。」という言葉があります。めざすものが明確になりますと、その実現のために一所懸命に取り組みます。何を、どの様にやるかは、その過程で自ずとついてくると言うことでしょう。

 もし、手段を間違えているとしたら、「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり(吉田松陰)」ということではないでしょうか。

 

■ 勝海舟 咸臨丸には福沢諭吉も同船
 

 かつ かいしゅう
 1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日)

 

 江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)で政治家、位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵です。

 初代海軍卿となり、山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。

 幼少時の文政12年(1829年)、親類・阿茶の局の紹介で、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されました。

 一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が天保9年(1838年)に早逝しました。同年、父の隠居で家督を相続することになりました。

 嘉永6年(1853年)に、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されますと、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になりました。

 海防に関する意見書を、幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集しました。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなりました。

 目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日に、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たしたのです。

 長崎海軍伝習所時代、海舟は頻繁に船酔いに苦しんでいたこともあり、船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上しましたが、すぐには実現しませんでした。
 外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになりました。

 咸臨丸には、軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟が任ぜられました。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込みました。

 咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。

 アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けました。

 海舟と木村の対立があったようで、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因のようです。

 明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠せ我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっているといわれています。


 文久3年(1863年)に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出てきますが、両者のそれ以前の交流は不明です。

 家茂を補佐するなどはあったものの、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた松平春嶽も政局を放り出して離脱、海舟は孤立した時期もあります。

 家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると考える海舟にとってはやりづらい状況となりました。幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して、上奏したりしましたが、下関戦争が発生したり、期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で解体されたりと思う様に進みません。

 佐久間象山が暗殺されたり、禁門の変が発生したり、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなったりして、海舟の立場は危うくなったりもしました。


 慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免された海舟は、最後の陸軍総裁に起用されました。

 幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が罷免、海舟はに海軍奉行並、続いて徳川家の家職である陸軍総裁に昇進しました。

 官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まり、新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせました。

 その様なときに、有名な西郷隆盛との階段が開かれたのです。勝野準備が、西郷を納得させたとも言えるかもしれません。しかし、「パークスの圧力」を利用することはできなかったとも言われています。

 晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い、徳川家のスキャンダルが外に出ないような工作もしました。

 最晩年は、孤独な生活だったといわれています。活躍が報われなかったのが、寂しいですね。

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■【きょうの人】 0129 ■ 公海 生誕 天海僧正の後継者 ■ 菊池大麓 生誕 数学者・教育行政官

2023-01-29 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0129 ■ 公海 生誕 天海僧正の後継者 ■ 菊池大麓 生誕 数学者・教育行政官

 

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■ 公海 生誕 天海僧正の後継者


 こうかい
 慶長12年12月12日(1608年1月29日) - 元禄8年10月16日(1695年11月22日)


 江戸時代前期の天台宗の僧で、天海の弟子。父は花山院忠長、母は本願寺教如の娘で、天海の没後に日光山貫主を継承しました。

 1620年(元和6年)天海僧正の門に入り、1643年(寛永20年)に、天海が没するとその法をついで東叡山寛永寺に住し、天台宗の総本山である比叡山・徳川家康を祀る東照宮のある日光山を管理下に置いて天台宗一宗を管領するようになりました。

 1647年(正保4年)に、僧正に任じられ、翌1648年(正保5年)には大僧正に就任しました。

 天海の遺志をつぎ山科(現在:京都市山科区)毘沙門堂を復興しています。まさに、師展開を尊敬する功績ですね。

 

■ 菊池大麓 生誕 数学者・教育行政官


 きくち だいろく
 1855年3月17日(安政2年1月29日)- 1917年(大正6年)8月19日)


 明治時代から大正時代にかけての日本の数学者で、教育行政官を務めました。男爵の爵位を持っていました。

 東京帝国大学(東京大学の前身)や、京都帝国大学(京都大学の前身)ほか、数大学の総長等を務め、教育にも貢献しています。

 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となりました。

 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)と1870年(明治3年)の2度に亘り英国に留学しました。2度目の留学ではケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで数学と物理学を学び学位を取得しています。ケンブリッジ大学を卒業した初めての日本人留学生なのです。

 帰国後の1877年(明治10年)、東京大学理学部教授となり、近代数学を初めて日本にもたらしました。

 同大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長など、錚々たる大学で共育に携わってきました。

 理化学研究所初代所長等を歴任し、1902年(明治35年)には男爵を授爵されました。福澤諭吉とは知己の仲で、1874年(明治7年)には、福澤に招聘されて明六社に参加、福澤がその後に設立した交詢社にも発足時常議員としてもその名を連ねています。

 菊池は数学者・教育者であるとともに政治的手腕も持っていたそうで、1890年(明治23年)9月に貴族院勅選議員に勅任されています。

 文部省で専門学務局長から、1897年(明治30年)11月から翌年5月まで第2次松方内閣から第3次伊藤内閣にかけての文部次官となり、後に文部大臣を拝命しています。

 

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■【きょうの人】 0128 ■ 本聖上人 武田・羽柴・徳川の庇護を受ける ■ 真盛上人 天台宗真盛派の宗祖

2023-01-28 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0128 ■ 本聖上人 武田・羽柴・徳川の庇護を受ける ■ 真盛上人 天台宗真盛派の宗祖

 

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■ 真盛上人 天台宗真盛派の宗祖


 しんせい
 嘉吉3年1月28日(1443年2月27日) - 明応4年2月30日(1495年3月26日)
 諡号は円戒国師・慈摂大師


 戦国時代の天台宗の僧で、伊勢に生まれました。天台宗真盛派(現在の天台真盛宗)の宗祖です。

 一四歳で剃髪し、幼名から「眞盛」と名を改めました。

 比叡山西塔の慶秀に師事し、天台宗の教学を20余年にわたって学びました。その後、黒谷青龍寺に隠遁し、「往生要集」に拠り称名念仏を唱えました。戒律と称名念仏の一致、無欲と慈悲などを説きました。

 かつて良源や源信などが住み、円観が円頓戒の本寺としたこともある近江国坂本の西教寺を再興して、天台宗真盛派の本寺としました。

 近江・伊勢・越前を巡錫(じゅんしゃく)し、後土御門帝に円頓戒を授け「円戒国師」の号を下賜されました。また、明治天皇より「慈摂大師」の号も賜っています。

 

■ 本聖上人 光前寺開祖、武田・羽柴・徳川の庇護を受ける


 長野県光前寺の開祖です。比叡山にて研学修業の後、太田切黒川の瀑の中より不動明王の尊像を授かり、現在の長野県駒ヶ根市赤穂29に寺を開きました。

 毎年1月28日には、初不動祈祷が執り行われます。

 同寺では、以来千百余年の長い歳月の間には幾多の火災等により古記録を焼失しました。古くは武田・羽柴家等の武将の保護を受け、特に徳川家からは地方寺院としては破格の六十石の寺領と十万石の大名格を与えられるなど、隆盛をきわめました。

 明治以後は、多くの末寺等 も廃寺となりましたが、今 なお樹齢数百年の杉の巨 木に囲まれた境内には、十 余棟の堂塔を備え、長野県 下屈指の大寺であり、南信 州随一 の祈願霊場として広 い信仰をあつめています

 光前寺公式サイトによりますと、開基本聖上人は、比叡山にて研学修行の後、太田切黒川の瀑の中より不動明王の尊像を授かり、この地に寺を開かれました。

 以来千百余年の長い歳月の間には幾多の火災等により古記録を焼失しました。古くは武田・羽柴家等の武将の保護を受け、特に徳川家からは地方寺院としては破格の六十石の寺領と十万石の大名格を与えられるなど、隆盛をきわめました。

 明治以降は、多くの末寺等も廃寺となりましたが、今なお樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には、十余棟の堂塔を備え、長野県下屈指の大寺であり、南信州有数の祈願霊場として広い信仰をあつめています。

 光前寺のサイトでは、次のように紹介されています。

 光前寺は貞観2年(860年)に本聖上人によって開かれた天台宗の古刹です。

 戦国時代には武田、羽柴家等の武将の保護を受け、徳川時代に入ると徳川家からは地方寺院としては破格の60石の寺領と10万石の大名格を与えられるなど、隆盛を極めた。

 境内には樹齢数百年の杉の巨木に囲まれ、本堂を始め、十余棟の堂塔を備える長野県屈指の大寺です。

 春の枝垂れ桜や光苔、そして秋の鮮やかな紅葉風景は光前寺庭園として国の文化財「名勝」に指定されております。

 霊犬早太郎伝説の寺としても知れ渡り、静寂な中にも風情と格式が漂い、年間約30万人の善男善女の人達が訪れ、信州の古刹と美しい庭園風景を楽しんでおります。

 2010年には開創1150年祭と7年に一度の御開帳が開かれました。

光前寺 【カシャリ! ひとり旅】
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/nagano/nagano-kouzenji1.htm

 

 

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■【きょうの人】 0127 ■ 雨情 童謡・民謡の作詞家 ■ 伊藤圭介 『日本植物誌』を翻訳 ■ 沢庵 宗彭 没

2023-01-27 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0127 ■ 雨情 童謡・民謡の作詞家 ■ 伊藤圭介 『日本植物誌』を翻訳 ■ 沢庵 宗彭 没

 

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■ 雨情 童謡・民謡の作詞家


 1月27日は、詩人として、また童謡や民謡作詞家としても知られる野口雨情(1882~1945)の忌日です。

 坪内逍遙にも短期間ですが師事したことがあります。処女民謡詩集は「枯草」ですが、これは自費出版であったと伝えられています。

 「経営コンサルタントは、出版物を名刺代わりに使え」と若手や経験の浅い経営コンサルタントにはアドバイスをしていますが、今日の厳しい出版事情下では出版はままなりません。

例え自費出版で費用を投じても、先行投資として回収できれば良いわけです。日本の経営者は、経営コンサルタントを見る尺度として出版があるので、例え自費出版であっても受注効果を高めることになります。

 自費出版と言っても費用的にはピンからキリまであります。名刺代わりに使うためにはある程度の見栄えも重要ですので、費用だけに固執をしないで、良心的な出版社・印刷屋さんにお願いするのが良いでしょう。

 

■ 沢庵 宗彭 没


 たくあん そうほう、澤庵
 天正元年12月1日(1573年12月24日)- 正保2年12月11日(1646年1月27日)


 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、諡は普光国師、号に東海・暮翁などがあります。

 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。

 8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人しました。

 天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得ました。

 天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しています。

 天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。

 文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名しています。

 慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交がありました春屋に住職の派遣を依頼しました。

 春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごしました。

 慶長12年(1607年)、沢庵は、大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。

 元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入りました。

 寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されました。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。

 書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。沢庵漬けの考案者と言われていますが、これについては諸説があるようです。

 

■ 伊藤圭介 『日本植物誌』を翻訳


 いとう けいすけ
 享和3年1月27日(1803年2月18日)-明治34年(1901年)1月20日


 幕末から明治期にかけて活躍した理学博士で、男爵の爵位を持っていました。

 享和3年(1803年)、町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ、文政3年(1820年)には、若くして町医の資格を得て開業しました。

 文政4年(1821年)、京都に遊学し、蘭学を学び、文政10年(1827年)には、長崎にて、シーボルトより本草学を学びました。翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの『日本植物誌』を受け取り、これの翻訳をし、文政12年(1829年)に、『泰西本草名疏』を刊行しました。

 明治3年(1870年)、東京に移り、明治政府に仕えました。同14年(1881年)、東京大学教授に任ぜられ、同21年(1888年)、日本初の理学博士の学位を受けました。

 また初代の東京学士会院会員となったり、学者として初の男爵を授けられたりしています。

 

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■【きょうの人】 0126 ■ 盛田 昭夫  ソニー創業者の一人 ■ 良源 比叡山での功績大 ■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家

2023-01-26 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0126 ■ 盛田 昭夫  ソニー創業者の一人 ■ 良源 比叡山での功績大 ■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 盛田 昭夫  ソニー創業者の一人


 もりた あきお
 1921年1月26日 - 1999年10月3日


 日本の技術者、実業家で、井深大と共に、電気機器メーカーソニー創業者の一人であることは、周知の通りです。

 意外と忘れられているのが、1992年(平成4年)に、名誉大英帝国勲章を受勲していることです。

 愛知県名古屋市白壁(盛田家の出自は常滑)にm盛田久左衛門・収子の長男として生まれました。生家は、代々続いた造り酒屋で、父・久左衛門は盛田家第14代当主です。母・収子は、元大垣共立銀行頭取戸田鋭之助の娘です。

 お母さんは、姪に、元仙台市長・早川智寛、いとこに会社再建の神様といわれた早川種三がいるといいますので、盛田は、その血筋も強く引いていたのかもしれません。

 第八高等学校(現・名古屋大学)と、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業しています。

 太平洋戦争中、海軍技術中尉時代に、ケ号爆弾開発研究会で井深大と知り合います。

 終戦後、1946年(昭和21年)に、井深大らとソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し、盛田は常務取締役に就任しました。

 製品開発に独創性とスピードを求め、他社に先駆けた革新的製品を作り出すことで、ソニーブランドの人気を高め、企業イメージを確立したのです。

 

■ 良源 比叡山での功績大


 りょうげん
 延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日)

 平安時代の天台宗の僧で、近江に生まれ、諡号は「慈恵(じえ)」、一般には通称の「元三大師(がんざんだいし)」の名で知られています。


 12歳で、比叡山の登り、理仙、相応に師事しまし、康保3年に、第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています。

 比叡山の横川(よかわ)には、元三大師堂がありますが、東西両塔と鼎立させる盛況を呈しています。

  比叡山の写真
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_hieizan.htm

 また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集めています。


 良源というより元三大師と呼ばれるほど、比叡山での功績が認められているいます。

 良源と対比できることではありませんが、私事で恐縮ですが、「コンサルタントのためのコンサルタント」と呼ばれます。何ごとも、石の上に三年で、見る人は、それなりに評価をしてくれるものですね。

 

■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家


 ふじさわ しゅうへい
 1927年(昭和2年)12月26日-1997年(平成9年)1月26日)


 山形県鶴岡市出身の小説家で、本名、小菅留治(こすげ とめじ)といいます。

 江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残しています。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名です。

 長女遠藤展子は、エッセイストで、2010年4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」を開館しました。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/yamagata/yamagata-tsuruoka/yamagata-tsuruoka.htm

 実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになります。郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素です。

 1946年に中学校を卒業後、山形師範学校(現在の山形大学)に進みます。一級上には無着成恭がいました。

 入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加しました。この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれています。

 初期には自ら述べるように暗く重い作風であり、地味な作家でしたが、1976年刊行の『竹光始末』、同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変わりました。綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきたのです。

 藤沢は、これについて 「『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んでき、北国風のユーモアが目覚めたといえます。

 1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする短篇集を書く一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだします。

 1984年以降になりますと、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作を相次いで発表・刊行します。

 テレビドラマ化された「せみしぐれ」に見られるようなおふくと清四郎などを通して情感溢れる描写が私の心に響きます。
 

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■【きょうの人】 0125 ■ 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革 ■ 法然上人忌 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば・・・ ■ 徳富 蘇峰 明治から昭和のジャーナリスト 蘆花の兄

2023-01-25 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0125 ■ 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革 ■ 法然上人忌 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば・・・ ■ 徳富 蘇峰 明治から昭和のジャーナリスト 蘆花の兄

 

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■ 法然上人忌 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば・・・


 ほうねん
 長承2年4月7日(1133年)-建暦2年1月25日(1212年2月29日)


 法然は房号です。諱は源空(げんくう)、幼名は勢至丸、通称は「黒谷上人」・「吉水上人」、諡号は「慧光菩薩」・「華頂尊者」・「通明国師」・「天下上人無極道心者」・「光照大士」

 平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧で、4月7日に現代の岡山県美作で生まれました。80歳で1月25日に歿しました。

 はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、43歳の折、善導の観経疏によって開眼して浄土宗を開きました。

『選択本願念仏集』(『選択集』)を著述したりして、念仏を体系化しました。日本における称名念仏の元祖といえます。

 承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説きました。

 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

 浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付けています。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとしていると言っています。

 

■ 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革


 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)


 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

■ 徳富 蘇峰 明治から昭和のジャーナリスト 蘆花の兄

 とくとみ そほう
 1863年3月14日(文久3年1月25日)-1957年(昭和32年)11月2日)

 明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞(現東京新聞)』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。

 平民の目線で政治に切り込むジャーナリズムは画期的と言えます。一方で、山縣有朋、桂太郎ら、当時の政治家とも密接な関係にあったといわれています。

 根津美術館の根津嘉一郎も、國民新聞の経営に参画していました。

 京王線沿線にある『蘆花恒春園』は、実弟である小説家・徳冨蘆花の旧居です。

山王草堂記念館
https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/adb4e888e2e1d9e1e369cf8372c0e7a4

山王草堂庭園
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■【きょうの人】 0124 前島 密 郵便制度の父、一円切手

2023-01-24 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0124 前島 密 郵便制度の父、一円切手

 

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■ 前島 密 郵便制度の父、一円切手


 まえじま ひそか
 天保6年1月7日(1835年2月4日)-大正8年(1919年)4月27日


 1円切手の肖像で知られる、日本の官僚、政治家です。日本の近代郵便制度の創設者の一人であり、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれています。

「郵便」とか「切手」、「葉書」という名称も彼が中心となって命名したと言われています。


【日本郵政サイト】

越後国(現在の新潟県)に生まれ。享年84歳。「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」という信条どおり、近代化が進む日本でまさしく陰ながらより便利でより快適な暮らしの方法を提案し続けた。肖像画は、明治末ころのもの。向かって右えりに勲二等瑞宝章のバッジ、左えりには当時の貴族院議員記章が描かれています。

 

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■【きょうの人】 0123 ■ 直江兼続 「愛」の兜で米沢藩家老として尽力 ■ 道慈律師 西明寺に住した三論宗の僧

2023-01-23 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0123 ■ 直江兼続 「愛」の兜で米沢藩家老として尽力 ■ 道慈律師 西明寺に住した三論宗の僧

 

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■ 直江兼続 「愛」の兜で米沢藩家老として尽力


 なおえ かねつぐ
 永禄3年(1560年)-元和5年12月19日(1620年1月23日)


 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、米沢藩(主君 上杉景勝)の家老を務めました。

 NHK大河ドラマでも、その兜の立物「愛字に端雲の立物」は有名です。また、兼続は、お船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えたことでも知られています。


 兼続については、資料も乏しく、諸説入り混じっています。

 永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の政景が死去した時、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入りました。仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け、景勝の小姓を経て、側近として仕えました。

 武田家滅亡の折には、信濃衆との取次を行うなどから頭角を現し、豊臣時代には、内政・外交の取次のほとんどを担うようになり、家老として景勝との二頭政治に近いものが行われました。

 豊臣政権下で、当時戦乱で疲弊した越後を立て直そうと兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励し、新田開発が進み、それが現在の「米所新潟」の礎となりました。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらし、後に上杉鷹山が米沢藩建て直しの参考に繋がったといわれています。

 秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石の所領が与えられました。

 関ヶ原直前、兼続が景勝に無断で年貢を持ち出し、堀秀治が上杉家謀反を家康に訴えました。家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に景勝が送った書簡が、有名な「直江状」です。これが、関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を家康に決意させたとされていますが、偽文書とも、大幅改竄された文書ともいわれています。

 景勝が五大老の一人として秀吉方で闘った上杉家ですが、関ヶ原後、慶長6年(1601年)、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪しました。この時に罪が赦され、景勝は、兼続の所領であった出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉家の存続ができました。

 その後は徳川家に忠誠を誓い、兼続は重光と改名、家老として、新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど、藩政改革を進めました。

 

 

■ 道慈律師 西明寺に住した三論宗の僧

 どうじ
 生年不詳 - 天平16年10月2日(744年11月14日)

 奈良時代の三論宗の僧で、俗姓は額田氏、大和国添下郡の出身です。

 702年(大宝2年)に唐へ渡り、
西明寺に住し、三論に通じることになりました。その結果、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれています。

 718年(養老2年)に帰朝し、日本三論宗の第三伝とされました。

 729年(天平元年)に律師に任じられ、大安寺を平城京へ移設することに尽力しました。736年(天平9年)には、
大安寺大般若経転読会を始め、739年(天平12年)には大極殿最勝王経講説の講師をつとめました。

 大宝の遣唐使として43年ぶりに入唐を果たした道慈は、帰国後に『愚志』という書物を著して、唐と異なり教典に従っていないことが多い日本の仏教界を批判しています。

 僧尼の質を向上させるために、戒師を唐から招請、鑑真の来日によって実現することになりました。

 『日本書紀』の編纂にも関与したという説もあります。
(【Wikipedia】を基に作成)

 

  西明寺

  大安寺

  

 

 

 

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■【きょうの人】 0122 ■ 黙阿弥 歌舞伎狂言作者 ■ 大塩 平八郎 大塩平八郎の乱の首謀者

2023-01-22 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0122 ■ 黙阿弥 歌舞伎狂言作者 ■ 大塩 平八郎 大塩平八郎の乱の首謀者

 

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■ 黙阿弥 歌舞伎狂言作者


 河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)
 文化13年2月3日(1816年3月1日) - 明治26年(1893年)1月22日)


 旧字体では「默阿彌」と印しました。江戸時代に日本橋で生まれた歌舞伎狂言作者です。

 江戸・日本橋の裕福な商家吉村勘兵衛の二男に生まれましたが、若い頃から読本、芝居の台本、川柳や狂歌の創作にふけるようになりました。それが高じて、14歳で親から勘当されてしまうほどでした。

 貸本屋の手代となって生計をたてるようになるのですが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送ったのですが、これが将来の糧となりました。

 やがて「芳芳」の雅号で狂歌や俳句、舞踊などで頭角をあらわすようになり、とうとう貸本屋を辞めて、芝宇田川町の踊りの師匠お紋(歌舞伎役者二代目澤村四郎五郎の娘)の紹介で、五代目鶴屋南北の門下となりました。

 抜群の記憶力の持ち主で、『勧進帳』などは若い頃から読み尽くしているので暗記して難役・弁慶をつとめる七代目市川團十郎を後見する程にまで成りました。二代目 河竹 新七(かわたけ しんしち)を襲名し立作者となりました。

 幕末には市川小團次との提携により『三人吉三廓初買』(三人吉三)を始め名作を次々に発表するようになり、ついには歌舞伎狂言作者の売れっ子作家となりました。

 明治26年(1893年)1月22日に、77才で歿しました。

 

■ 大塩 平八郎 大塩平八郎の乱の首謀者


 おおしお へいはちろう
 寛政5年1月22日(1793年3月4日)-天保8年3月27日(1837年5月1日)


 江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力で、大塩平八郎の乱を起こしました。

 通称は、平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)、字は子起、号は中斎です。

 揚羽の家紋を持ちます大塩家は、今川氏の末流で、代々大坂東町奉行組与力を務めていました。平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたります。

 大塩平八郎の欄を蜂起する前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で、甲斐国「天保騒動(郡内騒動)」や、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生しました。

 各地で不穏な動きが出て、砲術を中心とする軍事訓練が開始されました。

 大潮は、蔵書を処分するなどして私財をなげうって、救済活動を行います。しかし、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考えました。

 天保8年に門人、民衆と共に蜂起します。大塩平八郎の乱です。腐敗した役人にも目をつぶることができなかったのでしょう。

 しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなり、蜂起は不発に終わりました。

 その後、一旦は、逃げ延びましたが、告発により、再び窮地に追いやられ短刀と火薬を用いて自決することになりました。享年45でした。 

 

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■【きょうの人】 0121 ■ 崇伝(以心崇伝) 家康のブレイン ■ 日朗 流罪の日蓮の赦免を求める ■ 上杉 謙信 義を重んじる戦国武将 ■ 弘法大師 空海 真言宗の開祖、能書家

2023-01-21 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0121 ■ 崇伝(以心崇伝) 家康のブレイン ■ 日朗 流罪の日蓮の赦免を求める ■ 上杉 謙信 義を重んじる戦国武将 ■ 弘法大師 空海 真言宗の開祖、能書家

 

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■ 崇伝(以心崇伝) 家康のブレイン


 いしんすうでん
 永禄12年(1569年)-- 寛永10年1月20日(1633年2月28日)


 安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧で、字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれます。俗姓は一色氏。

 寛永3年(1626)に後水尾天皇の師となり本光国師の称が授けられました。

 徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取りました。

 崇伝が起草した「武家諸法度」は、老中以下諸大名の前で崇伝により布告されました。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられました。

 僧侶としてだけではなく非常に優秀なブレーンとして家康をささえ、その能力に対する信頼は厚いものでした。


 自分の上司から信頼されると、実力以上の物を発揮できるビジネスパーソンが多いです。部下を使う人の能力や努力によって、部下の能力をどこまで引き出せるかが決まるようです。

 一方で、上司に評価されると周囲からのやっかみも出てくることも多いです。

 他方で、自分の能力を過信しすぎて、鼻持ちならない人間になってしまうこともあります。その様な時というのは、自分では、それに気づかないことが多いですね。

 

■ 弘法大師 空海 真言宗の開祖、能書家


 こうぼうだいし くうかい
 宝亀5年(774年)-- 承和2年3月21日(835年4月22日)高野山にて入寂


 空海は、平安時代初期の僧侶で、弘法大師の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られ、真言宗の開祖です。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。

 讃岐国に生まれ、はじめは経書を学び、20歳で出家しました。延曆22年に東大寺戒壇院で具足戒(出家した修行者 が遵守すべき戒)、翌年唐に渡り、新語温州の協議を受けました。大同元年に帰朝し、真言宗を広め始めました。


 空海は、最澄としばしば比較され、最澄が空海に教えを請うたときに、冷たい態度を取ったということが語られます。

 真偽の程はわかりませんが、ちょっとした言動が、後々までマイナスのイメージに繋がることがありますので、気をつけなければいけませんね。

 

■ 上杉 謙信 義を重んじる戦国武将


 うえすぎ けんしん / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)
 享禄3年1月21日(1530年2月18日)-天正6年3月13日(1578年4月19日)


 戦国時代 - 安土桃山時代に、越後国(現在の新潟県)などを支配した大名、関東管領(1561年 - 1578年)を務めます。山内上杉家16代当主として、越後を統一したほか、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵しました。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸かった戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称されます。

 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾景虎でした。後に、関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られました。「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられて、上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改名しました。

 上杉氏が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継ぎました。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の一字)を受けて、最終的には輝虎と名乗りました。「謙信」とは、さらに後に称した法号です。

 謙信は、内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させました。

 戦った戦国大名・武将は数多く、5回の川中島におけます合戦で有名な武田信玄だけではなく、北条氏康、織田信長、越中一向一揆等々多数挙げられます。

 謙信は、他国から救援を要請される形での遠征が多く、私利私欲に拘泥しない「義の武将」という印象が強いですが、利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も今日では多いです。

 足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国、能登国、加賀国へ勢力を拡大しましたが、志半ば、48歳で死去しました。

 謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発しました。

 上杉景勝が、謙信の意を引き継ぎ、米沢で初代藩主となりました。

 

■ 日朗 流罪の日蓮の赦免を求める


 にちろう
 寛元3年4月8日(1245年5月5日)- 元応2年1月21日(1320年3月1日)


 鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人です。号は筑後房、大国阿闍梨とも称します。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖です。下総国の出身、父は平賀有国です。

 1261年(文応2年)日蓮を師として法を学び、1271年(文永8年)日蓮の流罪の際に、土牢に押込となりました。

 1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っています。但し、これは伝承で幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはあり得ず、誤伝である可能性が高いといわれています。

 日蓮滅後に、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、日蓮の遺言に背き勝手に持ち去っています。

 1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築きました。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立しました。鎌倉光則寺は、1274年に、日朗を開祖として創建されました。

  光則寺 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kanagawa/kanagawa-kamakura-kousokuji.htm

 1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。

 

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■【きょうの人】 0120 伊藤圭介 シーボルトより本草学を学ぶ

2023-01-20 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0120 伊藤圭介 シーボルトより本草学を学ぶ

 

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■ 伊藤圭介 シーボルトより本草学を学ぶ


 いとう けいすけ
 享和3年1月27日(1803年2月18日)-明治34年(1901年)1月20日


 幕末から明治期にかけて活躍した理学博士で、男爵の爵位を持っていました。

 享和3年(1803年)、町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ、文政3年(1820年)には、若くして町医の資格を得て開業しました。

 文政4年(1821年)、京都に遊学し、蘭学を学び、文政10年(1827年)には、長崎にて、シーボルトより本草学を学びました。翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの『日本植物誌』を受け取り、これの翻訳をし、文政12年(1829年)に、『泰西本草名疏』を刊行しました。

 明治3年(1870年)、東京に移り、明治政府に仕えました。同14年(1881年)、東京大学教授に任ぜられ、同21年(1888年)、日本初の理学博士の学位を受けました。

 また初代の東京学士会院会員となったり、学者として初の男爵を授けられたりしています。

 

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■【きょうの人】 0119 ■ 明恵 日本茶の普及 ■ 勝海舟 幕末の立役者 ■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 ■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任

2023-01-19 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0119 ■ 明恵 日本茶の普及 ■ 勝海舟 幕末の立役者 ■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 ■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任

 

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■ 勝海舟 幕末の立役者


 かつ かいしゅう
 1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日)


 江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)で政治家、位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵です。

 初代海軍卿となり、山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。

 幼少時の文政12年(1829年)、親類・阿茶の局の紹介で、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されました。

 一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が天保9年(1838年)に早逝しました。同年、父の隠居で家督を相続することになりました。

 嘉永6年(1853年)に、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されますと、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になりました。

 海防に関する意見書を、幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集しました。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなりました。

 目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日に、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たしたのです。

 長崎海軍伝習所時代、海舟は頻繁に船酔いに苦しんでいたこともあり、船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上しましたが、すぐには実現しませんでした。
 外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになりました。

 咸臨丸には、軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟が任ぜられました。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込みました。

 咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。

 アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けました。

 海舟と木村の対立があったようで、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因のようです。

 明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠せ我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっているといわれています。


 文久3年(1863年)に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出てきますが、両者のそれ以前の交流は不明です。

 家茂を補佐するなどはあったものの、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた松平春嶽も政局を放り出して離脱、海舟は孤立した時期もあります。

 家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると考える海舟にとってはやりづらい状況となりました。幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して、上奏したりしましたが、下関戦争が発生したり、期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で解体されたりと思う様に進みません。

 佐久間象山が暗殺されたり、禁門の変が発生したり、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなったりして、海舟の立場は危うくなったりもしました。


 慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免された海舟は、最後の陸軍総裁に起用されました。

 幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が罷免、海舟はに海軍奉行並、続いて徳川家の家職である陸軍総裁に昇進しました。

 官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まり、新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせました。

 その様なときに、有名な西郷隆盛との階段が開かれたのです。勝野準備が、西郷を納得させたとも言えるかもしれません。しかし、「パークスの圧力」を利用することはできなかったとも言われています。

 晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い、徳川家のスキャンダルが外に出ないような工作もしました。

 最晩年は、孤独な生活だったといわれています。活躍が報われなかったのが、寂しいですね。

 

■ 明恵 日本茶の普及

 

 みょうえ
 承安3年1月8日(1173年2月21日) - 寛喜4年1月19日(1232年2月11日)
 幼名:薬師丸、号:明恵房(房号) 諱:成弁→高弁 尊称:明恵上人、栂尾(とがのお)上人 宗旨:華厳宗


 鎌倉時代前期の華厳宗の僧

 紀伊国有田郡(現:和歌山県有田川町)に生まれ、幼くして高雄山に登り、華厳、倶舎などを学びました。

 その後、諸寺に遊学し、密禅の諸教に通じるようになりました。

 華厳宗第十七世の法脈を嗣ぎ、後鳥羽上皇の勅により、栂尾山を賜りました。鳥獣戯画で有名な高山寺に晩年を過ごし、そこで歿し、廟は高山寺禅堂院にあります。

 代表的な著作として「摧邪輪」がありますが、その他多数をちょしています。

 栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名です。高山寺には、日本で最初の茶畑があります。


【Wikipedia】 明恵

 承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。

 治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。

 

■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖


 どうげん
 正治2年1月2日(1200年1月19日)-建長5年8月28日(1253年9月22日)
 諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄


 鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖で、同宗旨では高祖と尊称されます。

 13歳で出家し、比叡山で研学し、その後栄西に臨済宗を学んでいます。24歳で入宋し、曹洞禅の秘奥を究めました。

 29歳で帰朝し、諸事を建立し、その一環として永平寺の建立があります。

 「徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある」という修証一等、只管打坐の禅を伝えました。

 著書『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた

 

■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任


 かんざんえげん
 建治3年(1277年)-正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日)


 鎌倉時代末期から南北朝時代、信濃国に生まれた僧侶で、朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられました。また、明治天皇からは「無相大師」と追諡されています。

 1307年に、南浦紹明の鎌倉建長寺に入り、慧眼(えげん)の法名を授かり、鎌倉に滞在した後に帰郷しました。

 京都大徳寺に遷って宗峰に師事し、1329年に関山の号が与えられ、慧玄と改名しました。1342年に関山は妙心寺開山となりました。

 その禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、「枯淡な禅風」をもって修禅に専念したといわれています。

 関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像(後世に作成された物はある)も遺筆もほとんど残されていません。2006年に、臨済宗妙心寺派の寺の蔵より肖像画が発見されましたが、確認されていません。

 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院で、山号を正法山といいます。本尊は、釈迦如来です。開基(創立者)は花園天皇で、寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)です。

 日本の臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺が妙心寺派で占めています。三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭があり、一大寺院群を形成し、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれているほどです。

 

■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖


 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師


 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

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【きょうの人】 0118 ■ 牧野富太郎 「植物学の父」■白隠慧鶴 臨済宗中興の祖 ■覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖 ■勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧

2023-01-18 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0118 ■ 牧野富太郎 「植物学の父」■白隠慧鶴 臨済宗中興の祖 ■覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖 ■勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧

 

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■ 牧野富太郎 「植物学の父」と呼ばれた植物分類学者
 まきの とみたろう
 1862年5月22日(文久2年4月24日)-1957年(昭和32年)1月18日)
 日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。位階は従三位。

 「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威です。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っています。
 小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定されています。
 94歳で亡くなる直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製しました。個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び、命名植物は1,500種類を数えます。野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていたことが、日本植物学の父と言われる所以です。
 NHK朝の連続小説でも取り上げられました。多くの学生を指導し、後進の植物学者を育成し、学生たちに自然の美しさや尊さを伝えることにも注力しました。

【chatGPT】
 牧野富太郎は、日本の植物学者であり、日本の植物相の研究に多大な貢献をしたことで知られています。彼は、明治時代から昭和時代初期にかけて活躍し、日本の植物学の発展に大きな影響を与えました。
 牧野は、自然史博物館の助手としてキク科の研究を始め、その後、東京帝国大学の植物学教室で研究を続けました。彼は、日本の植物を収集し、分類し、記載することに生涯を捧げ、日本の植物相に関する多くの重要な研究成果を生み出しました。
 牧野が最も知られているのは、彼が編纂した「新分類 牧野日本植物図鑑」であり、これは日本の植物の総合的な図鑑として広く利用されています。彼はまた、日本各地の植物相の調査を行い、地域ごとに植物の生態や分布を記載した書籍を出版しました。
 牧野はまた、多くの学生を指導し、後進の植物学者を育成しました。彼は、学生たちに自然の美しさや尊さを伝えることにも力を注ぎました。
 牧野は、植物の世界に対する深い愛情を持ち、植物が持つ生命力や美しさについて熱心に研究しました。彼は、植物の生態や分布についての知識を広めることに尽力し、日本の自然環境保全にも貢献しました。
 牧野は、日本の植物学界において、偉大な功績を残した人物の一人であり、彼の研究や業績は、今日に至るまで大きな影響力を持ち続けています。
 

■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖


 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師


 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

■ 勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧


 せいかんぼうげんち
 寿永2年(1183年)- 暦仁元年12月12日(1239年1月18日)


 鎌倉時代前期の浄土宗の僧で、号は勢観房、妙法院法印です。紫野門徒の祖でもあり、賀茂(かもの)上人とも呼ばれています。

 建久6年(1195年)、源智13歳、法然63歳のときに、法然の室に入りました。

 源智は、法然自筆の「一枚起請文」を生涯、首に懸け秘蔵していたと言われています。源智に帰依した河合(ただす)の法眼の所望に応じ、それを授与し、それによって「一枚起請文」として世間に流布することになりました。

 法然から、円頓戒の道具、本尊(南禅寺畔の西福寺)、現知恩院の地である大谷の坊舎、聖教などを譲られました。

 法然没後に生じた、天台宗の延暦寺衆徒が法然教団を弾圧した嘉禄の法難のために、大谷の坊舎は、法然の廟所を含めて荒廃してしまいました。京都における法然教団の維持に努めました。

 文暦元年(1234年)、奏聞を遂げ、四条天皇から仏殿に「大谷寺」、廟額に「知恩教院」、総門に「華頂山」の勅額を賜り、大谷の坊舎を「知恩院」として再興しました。

 建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子である良忠(浄土宗三祖)が、鎌倉から京にやってきます。その時の講義で、相違するところが全くなく符合しましたので、以後源智の門流は別流を立てずに、鎮西義に合流しました。

 このような控えめな人ですが、知恩院の再興、後述の玉桂寺阿弥陀如来像造立への結縁活動など、法然没後の法然教団の維持に多大な貢献をしています。

 

■ 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖

 

 かくばん/こうぎょうだいし
 嘉保2年6月17日(1095年7月21日)- 康治2年12月12日(1144年1月18日)


 平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖でもあります。

 諡号を興教大師(こうぎょうだいし)といいます。

 肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分 新義真言宗大本山誕生院)に生まれました。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で、幼名は、弥千歳といいました。

 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学において、いかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。

 即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしています。

 空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として知られています。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈』の著者でもあります。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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■【きょうの人】 0117 百丈懐海 名族「太原」王氏の末裔

2023-01-17 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0117 百丈懐海 名族「太原」王氏の末裔

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 百丈懐海 名族「太原」王氏の末裔


 ひゃくじょう えかい
 749年(天宝8載) - 814年2月10日(元和9年1月17日)
 諡号:大智禅師 宗派:洪州宗

 中国福州長楽県の生まれ。

 西山慧照の会下で出家し、衡山の法朝律師の許で具足戒を受けました。

 その後、馬祖より嗣法し、師の没後に、洪州百丈山(江西省宜春市奉新県)に住し、はじめて、律院から独立した禅院を設立しました。禅門の規範(清規)「百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)」という禅宗独立の基礎を定め、自給自足の体制を確立しました。

 後世、叢林開闢(そうりんかいびゃく)百丈禅師と称して尊敬を得ました。

 1月17日は、百丈大智禅師懐海の没日です。毎年この日に法会が催しされます。

 元和9年(814年)1月17日に寂し、長慶元年(821年)に大智禅師と諡されました。

 

【Wikipedia】 百丈
 百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749年(天宝8載) - 814年(元和9年))は、中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧。懐海は法諱。大智禅師と諡される。
 福建省福州長楽県の生まれ。俗姓は王氏であり、名族である太原の王氏の末裔であり、永嘉の乱の混乱を避けて、遠祖が福建に移り住んだものという。

 

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