青空Green倶楽部

時々意の趣くままに・・ミヤンマ―・国際・政治・経済・温暖化or寒冷化・限界集落etc

マニラ淑女あれこれ

2020-12-06 00:34:29 | 忘備

 
 今年はそれほどの台風の影響を受けなかっ日本ですがフィリピンでは21回の上陸、直撃を受けて甚大な被害をもたらしています。11月11日の台風22号もマニラ首都圏を直撃し大洪水が発生し25名が亡くなっています。コロナ禍と併せて経済的打撃も大きく復興を願っています。

 そのフィリピン・マニラに用事があって訪れたのが1986年2月のマルコス独裁政権打倒のクーデター騒乱や11月の三井物産マニラ支店長の若王子さん誘拐事件があって日本のメディアもよくフィリピン報道をしていた頃の3^4年後だったかな。新人民軍やモロ民族解放戦線などのゲリラ事件も多発していた頃です。

 フィリピン航空の搭乗者は両サイド窓際に20名位で空席ばかり。マニラ空港は異様さや怖さを感じ迎えの現地社員を伴なってマニラ市内に逃げるように向かったのです。現地予約をしていたホテルにチェックインし入室してエアコンを入れるとガアガアうるさい。打合せどころか落ち着かない、だめだキャンセル、ホテルチェンジしたのがマカティのTOYOホテル。現在は名称変更したようでデシュタ二マニラかな。確認していません。

 翌日、午前中打合せを終わらせマカティのレストランで食事をしていると隣席の女性が話かけてきた。不動産会社の清楚な淑女で話が合ったので仕事が終わった後で宿泊しているホテルのレストランで夕食を約束したのです。夕食後ホテルの部屋にも行くと。悪い子ではないと思いながらも疑いを持って鼻の下を長くして金庫に貴重品をロックして入室を許したのです。

 マニラ買春話も知っていたのでOKいけると思いベッドの上で手を伸ばした途端にNO,NOです。マネーかなと。違う違う。カトリック信者で結婚を約束し教会で懺悔(ざんげ)しないとできないと。今日会ったばかりで結婚の約束はできなよ・。諸々話していると手を引きホテル近くの教会に懺悔に行くと・。真夜中に教会の前庭に行き十字を切って懺悔してからお許しを頂いたのです。

 それから数日後、スペイン統治時代の骨董品がマニラ近郊の村にあるらしいから休日に行こうと連絡があった。若王子さん誘拐事件も頭に浮かんだが信じてジプニーに乗って出かけたのです。マカティから1時間半ぐらい行った松林や鶏の鳴き声がする簡素な村です。村人が子供も含め30人位が骨董品を持って行列を作り待っていたのです。前の机やいすも準備され老人や子供一人一人の持ってきた品々を見ると茶碗や壺のかけらやガラクタばかりです。購入したい物もなく当時の日本円で50円か100円位のペソを全員に彼女が配り退散したのです。マニラのあれこれ忘備録です。

写真はearth catastrophe review転載





 
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中国・石家荘付近に彰徳がない

2020-11-16 06:15:32 | 忘備

  中国GDPは70年弱で170倍以上に成長し世界第2位の経済大国に・。日本がバブルで浮かれリーマンショック後の失われた20数年の間にです。30年数年前、瀋陽近郊の3段ベッドの全寮制の中学校を訪れた時、午前午後の授業を終えて夕食後、教室に戻り午後10時頃まで真摯に勉強している生徒の姿を見て日本は危ういと感じたのです。政治体制は別にしてハングリーな若者が社会に出て成長や発展を牽引し世界覇権を競う国になったのです。

 その後北京や上海、昆明や西安など数年おきに訪ね脅威の発展の変貌を見てきました。日本のTVメディア等がプロスポーツの勝敗やお笑い芸人やアニメやグルメなどと躍っている間にです。その間、日本社会は国民幸福度、世界の大学ランキング、論文数、所得減少、雇用形態不安、子どもの貧困、格差拡大、犯罪比率、自殺者,児童虐待など劣化しているのです。失礼、忘備録でした。

 生前の母がもう一度、死ぬ前に中国に行ってみたいと・。父母は中国、華北鉄道の軍属で住んでいたと書いたのが河南省彰徳県義安里、北京経由で石家荘駅で降りてその近辺であると・。一緒に訪れる予定でしたが体調が悪化し介護施設に入居することになり写真だけでも撮ってきてと頼まれた。家にある古い写真と母の記憶が頼りの旅です。

 河南省ではなく河北省の石家庄市(中国名)で中国の交通の要衝で省都。都市圏人口354万人、常住人口1087万人、商品集散地、中国有数の薬都です。雑踏の北京西駅から277㎞確か3^4時間で石家庄駅に・。広く大きな駅で駅前も再開発され高層ビルの一角にマクドナルドがあった。隣席の親切な大学生が彰徳県など調べてくれましたが河南省にも河北省にもないのです。北京の北には承徳市はありますが違います。翌日から3日間も大学生が捜索に付き合ってくれて彰徳も義安里の地名も市内の各所の資料も調べてくれましたが見つかりませんでした。

 1937年頃は日本軍の占領下で重要な軍事拠点でした。1947には石家庄市から石門市に改名され1949年には中華人民共和国の石家庄市にその他の地名変更がされていたのです。帰国し介護施設に石家荘市の駅や周辺写真を見せ河南省彰徳県義安里は解からなかった事を告げたらうなずいていました。介護施設の人が母は石家庄市の諸々の写真を何度も何度も毎日眺めていたと聞き少しは親孝行したかな・と。

 

 

 

 

 

 

 

 

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幻のドモドソラの別荘

2020-10-22 19:06:20 | 忘備


 イタリア北部のピエモンテ州・オッソラ県のドモドソラ(domodosola)。ミラノから約100㎞でスイスのブリークとを結ぶ国境超えのシンプロン峠の交通路、イタリア側の起点都市です。周辺人口は約18000人で自然豊かで山や川、周辺には湖もあり美しい町です。ミラノから当時の列車で約1時間、スイスのジュネーブまで山岳電車で4^5時間だったかな。

 japan is No 1の日本のバブルの絶頂期の話です。パリコレクションやミラノコレクションのブランド物の高額な洋服やバック、靴やファションフレームがよく売れた時代です。ミラノの工房とでヴェネツィアブランドの「アルレッキーノ」のアジア販売権と東洋人向きの製品製造でイタリアに行ったのです。西洋人との鼻幅の違いを修正また修正で製品化まで2年位かかり何度かミラノを訪れたのです。

 イタリア語の通訳には元日興証券ミラノ支店のファウスタ嬢にお願いしました。ファウスタはお茶の水女子大に留学経験もあり日本語も堪能でした。アジア販売権の契約や東洋人向けの製品製造に頑固なイタリア人職人に立ち向かってくれました。ある連休の土曜日にスイスのジュネーブに行ってみませんかと提案があったので行くことにしたのです。

 ミラノ駅からジュネーブ行の列車の乗り継ぎ地ドモドソラで下車したのです。町を散策してみると山々はきれいで落ち着いた町です。不動産価格が知りたいとファウスタに言うと不動産屋が案内してくれる事になったのです。高台で花が咲き乱れる庭があり築年数は古い感じでしたが室内は4ベッドルームのきれいな間取りの別荘でした。当時の日本円で600万弱でした。

 日本の不動産、高騰の時代。安い、買いだ。ドモドソラでの暮らしは無理で友達との共同所有で投資用に考えたのです。ジュネーブのホテルから東京の親友に300万用意しろと電話をしたのです。一晩考えさせてくれと。翌朝ホテルに電話がありイタリアは遠いし働盛りで老後ならともかく言葉の壁、管理の難しさで投資用でも難しいと・。詐欺、事故物件でなければコロナ禍で値下がりしても現在なら1億円?以上でしょう。不動産屋に断りの電話をファウスタにさせ幻の別荘になったのです。

 現況では中国人がイタリアの不動産を買いあさりビエモンテ州にもコロナ禍を蔓延させ大変なようです。ファウスタはカプチーノや砂糖いっぱいのエスプレッソをのみデブになって笑顔のかわいいおばあちゃんになっているのかな・。小生は限界集落の別荘でしがない自給農業暮らしです。

写真地図はgoogle転用です

 
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大メコン経済圏の回廊

2020-09-02 02:07:26 | 忘備
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 1992年からアジア開発銀行(ADB)主導でメコン流域の5ヶ国タイ・ベトナム・ラオス・カンボジア・ミヤンマ―と中国2省、雲南省・広西チワン族自治区で「大メコン圏経済協力プログラム」が実施されていた。交通・通信・エネルギー・人的資源・環境・貿易・投資・観光・農業の9部門で、先ずは道路開発と整備のインフラ施策がメコン回廊です。2006年に中国2省を除いて5ヶ国の流域約3億3千万人市場の進捗状況と調査取材を兼ねて一人で訪れたのです。

 東西回廊はベトナム・ダナンからラオス・サバンナケット、タイ中央部を東西に横断しミヤンマ―・モーラミヤインまでの全長1450㎞。第二東西回廊はタイ・バンコックからカンボジア・プノンペン、ベトナム・ホーチミン外港のブンタオまで全長950㎞。東北回廊は中国・雲南省昆明からタイ・バンコックまで約2000㎞と昆明からベトナム・ハノイを経てハイホンまで850㎞と2005年には広西チワン族自治区ナンセンからハノイまでの400㎞の3ルートです。(南北回廊の中国内ハノイは未取材)。

 バンコックから列車でラオスとの国境の町ノンカイに。国境超えしラオスの首都ビエンチャンに。ラオス国内をバスで縦断南下しサワンナケートに。国境超えしベトナム・ラオパオにバイタクで古都フエまで南下。フエから列車でダナンに。ダナンから列車でホイアン、クアンガイを経てホーチミンまで。ホーチミンからバスで国境超えしカンボジア・プノンペンに。プノンペンからバスで南下しシアヌークビルと船でココンに。ココンから国境超えしタイ・ハートレックに。ハートレックからバスでバンコックに約2週間のバックパッカーのような大変な調査取材旅でした。その後軍事政権下のミヤンマ―に傾注し7年居住往来したのです。

 5ヶ国とも敬虔な仏教国で人心・勤労・学習意欲も高く大経済圏.アジア最後のフロンティアの息吹を感じました。ラオス南部やカンボジアに縫製や食品の日系企業の進出計画がありました。回廊整備、新設の道路工事は各国髄所で行われ全体的には2^4車線でタイ国内では片道6車線道路も整備されていました。灼熱の道路横断時には50℃以上になり息苦しい。森林伐採などの道路建設や開発と地球自然との整合性の難しさも感じます。今夏の中国などの豪雨洪水被害はインド洋の影響が大きいのは・。 現在では日系企業もタイを中心に大メコン経済圏に多数進出していますが中国・台湾・シンガポール企業などより劣勢です。

 

 
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