ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

昔の思い出

2021年01月19日 07時37分08秒 | 思い出

・・・年を取るとともに、昔のことを文章に残して記録したくなってきた。
   そんな親の手前勝手な記録を残されたら、子供は、親の死んだあと、始末に困るだろうから、いい加減なことで文章は書けないが、ブログなら消えていくから許されるでしょう。

   私たちが小学生の頃の男性の先生は殆どが戦争から帰ってきた人たちでした。
   子供が悪さをしては、しばしば、戦争の話を持ち出されて、平和が良い、いかに戦争は良くなかったかと説教されたものです。

   一時期、米ソの宇宙ロケットが、打ち上げられた影響で、鉛筆のキャップに、セルロイドの削り滓や、花火の火薬を詰めて密封し、ろうそくの火で温め、キャップをつぶして詰めた口から煙が噴き出して、キャップをロケットのように飛ばす遊びをしたものです。
   その遊びを先生に見つかり、鉄砲の弾を引き合いに出されて、いかに密封した火薬は怖いかを、何人もの戦争体験者の先生から説教されたことを覚えている。

   そのほかの記憶に、戦争体験者の先生はよく生徒を叩いた、頭を軽く、拳固でコツン程度はいいとしても、ほっぺを平手打ちされると、とてつもなく痛かったことを覚えている。 今時だったら、新聞記事ものである。

   だからと言って、あの時代の体罰有りの教育が良くなかったとは思えないのが不思議である。
   ただ、体罰も含め、あの頃が懐かしいだけである。

 

   

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昔はどうしていたのか

2020年08月13日 08時36分01秒 | 思い出

・・・夕方の散歩の途中で、夫婦で話していた会話です。

    

    「外に出ると地獄だね!!」

    「クーラーなどなかった時代、我々はどうして、いたんだったかなー ? 」

    熱中症に注意して!!、というマスコミの報道と、
    自分自身の体力の低下を考えて、太陽が出ている間の多くの時間を
    クーラーのある部屋で過ごし、夕方になって、
    陽が西に傾くと、外に出てくる生活を続けていると、
    誰だって、この年に人は、上とまったく同じ考えが口から出てくる。

    多分、60歳以上の人は同じような思いを持っているのではと思う。

    実際、どうしていたか、思い出せないのは、
    きっと、昔は暑さに耐えるのが精いっぱいで、それほど、夏の暑さについて、当たり前としてか、考えてなかったからではと思う。
    

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「よろしゅう、お帰り」

2020年02月07日 07時07分02秒 | 思い出

・・・昨日の新聞の読者記事に「行ってお帰り」と言う広島弁の挨拶言葉についての話が紹介されていた。

   著者が小学生の頃、母から、学校に行くときにかけられた言葉らしい。

   その内容を読んで、私も子供の頃、表題の「よろしゅう、お帰り」という言葉を母親から、かけられたことを思い出しました。
   私は、大阪の摂津地方の出身なのですが、「行ってらっしゃい」と言う言葉はあまり言わなくて、家をでて行くときに、母親は「よろしゅう、お帰り」といったように覚えている。
   この言葉の違いから、母親が子供を送りだす言葉として、地方によって、愛情のこもった表現が、いろいろとあることだろうと想像する。

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学校の先生にゆとりを

2018年02月05日 07時16分18秒 | 思い出

・・・報道などによると、学校の先生の勤務時間はとても長いそうである。

   その理由で、最も大きな問題の一つは、子供の教育内容や時間、その指導方法が先生自身で決められない事が多いからであるように、私は思う。

   国が決めた基本方針に沿って、自治体によって、教育内容の具体的項目から、時間数、クラブ活動の仕方、行動の仕方など細かく決められていれば、先生は単なる作業労働者で、普通の会社で云う、作業手順と労働時間を決められた工場作業員と全く同じと考えられる、
   更に悪いことに、先生の場合は、普通の会社のように、その労働内容を改善や工夫で変えていくことが出来ないところにある。

   一般の会社で、効率を上げるために、よく行われていることは、工場などの集団活動の結果を向上するためには、労働内容の難易度によって作業内容を、分けて、労働者の資質によって作業を割り当てることである。

   単純労働ほど、作業の手順等の遣り方を細かく決めて、訓練を受けてなくても、どんな人でも実行できるようにする、質の高い労働ほど、管理指標を大きく定め、労働者に任せる範囲を多くすれば、トータルとして、集団が生み出す結果は良くなり、時間などや工数が節約できる。

   私が思うに、トータルコストを考えるのなら、先生の労働内容をもっと分析することによって、先生の質によって、また、先生でない、低コスト労働を導入することによって、教育全体として、同じインプットで、質の良い先生は質の高い労働を少ない労働時間で発揮できるのではと思う。

   学校の教育と云えども、もっと、優れた、日本の管理手法を取り入れた教育活動で、仕事をするべき様に思うが。

   新聞報道によれば、フィンランドは教育水準が高い国ではあるが、担任教員は担当授業に選任すればよいようになっていて、残業はなく、時間中でも、かなりのゆとりを持って仕事にあたっていると新聞に書いてあった。  
   教育のいろいろな部分が分業になっているらしい。 
   これからは人材が日本の重要な資源であることはますます、重視される、教育行政に私の言うようなことが必要であることは、フィンランドの例を見ても明らかである。
 
   昔から、日本では、問題解決に向き合った時に、精神論による対策を、合理的思考に基づく対策より優先させ、国民を変な方向に導き、悪い結果は担当者の向上精神の不足の所為にする、指導者が多い、こんな考えはいい加減に、何とかしてほしいものだ。

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小学校の帰り道

2017年10月01日 09時39分30秒 | 思い出

・・・私が小学生の頃、通っていた小学校から、実家までの帰宅に要する時間は大人の足で10分くらいの道を、毎日、寄り道をしながら30分くらいかけて、友達と帰ったことを思い出す。
  幾つかの商店の前を通り、色んな職人の仕事場の前を見物し、近所の草むらの中を探索し、あそびながら帰ったものである。

  今でも覚えている、寄り道していた商店、職人さんの仕事場としては、コンニャク屋、タバコ屋、文房具屋、駄菓子屋、ブリキ屋、パン屋、風呂屋などです。
  特に、私はコンニャク屋さんとブリキ屋さんの職人さんの店先で、度々、作業をじっと見ていた覚えがある。
  今は町中にない商売屋さんです。

  他に、文房具屋さんの店先には、縁台があって、その縁台に、当時で70才くらいのおじいさんが座っていて、私たち小学生のの話相手をしてくれた。
  そのおじいさんは右手の親指の先が無くて、何故ないのか聞くと、日露戦争で、弾が当たって無くなったと聞いて、戦争の怖さを感じたことを、今でも、はっきりと覚えている。

  昔は、日日の生活の場に、小さな子供が触れる大人の仕事場ゃ話をするチャンスがあって、また、色んな大人とかかわれる機会が多く、その中でいろんなことを学んだような覚えがある。

  日露戦争の詳しい事も、その時、小学生の低学年の私が、家に帰って親に質問して知った知識でした。

  テレビなどで知る最近の事情によれば、若い人が自分が物心ついてから知ったこと以外は、ほとんど知らないことが多いように思って不思議だったのですが、こんなところに今の若い人の問題があるのかもしれません。

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大阪弁について

2016年04月21日 06時01分51秒 | 思い出

・・・最近、テレビに出ている外人のタレントで、漢字をネタに笑いを取っている人がいる。
 
  彼が云っているのを聞くと、日本語は面白いと思うことがある。

  例えば、「首を切る」、こうして漢字だけを見るとすごい言葉ですが、会社を止めさせることを「首を切る」と云う。
  命に係わる事ではない事なのに、「首を切る」と云う。

  また、お互いの関係を断つことを「手を切る」と云う。
  文字通りだと、「手を切る」と云う事は、大変な行為であるが、実はそれほどのことではない。

  こんな言葉の言い回しは日本だけではなく、英語を勉強していても、よく出くわす。

  振り返って、私は大阪出身だが、大阪弁にも独特の言い回しがある、
  その中で商売言葉に「値引く」ことを、「まける」と云う言い方がある、
  売る側が損をすることから、売る側からは「負ける」と云ったらしい。
  同じ、値引きの意味で、「勉強する」とも云う言い方もある、
  この方が、「負ける」より、売る側が、頑張っている感があって、私は好きだった。

  テレビなどで、昔の大阪弁などを耳にすると、子どもの頃や家族を、思い出して、懐かしくなる。

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会社の外の幸せ

2016年01月14日 07時11分22秒 | 思い出

・・・勤めしている時は、毎日の仕事で頭がいっぱいで、常に会社の仕事を中心に物事を考えての生活で暮らしていた。

  会社生活もいつも順調とは限らないで、上手くいかないときに、フト我に返って、毎日を振り返り、これからの人生を考える時がある、この経験は誰でも経験することです。
  自分の今の生活を振り返る時に、「このまま会社で働くのは何か違うのではと、考えて、残り少ない人生好きなことをやらなくては」と考えることも良くある。
  そこから、人生を変える人もあれば、そのままの人生を進む人もいる、人それぞれです。

  私も50歳を前に、そんな場面を経験した。
  丁度、サラリーマンのキャリアにとって大事な時でした。
  しかし、50代の年代は仕事としては、専門職の仕事はなく、人を相手にした仕事の時期でした。
  50代の10年間を今までどおりに、仕事にささげるか、其れとも、会社以外の自分の為の人生をそこからスタートするか、考えたことを思い出します。

  その時に、自分で考えて下した判断が、今になって振り返って、正しかったかどうか、よく分かりませんが、その時から、今まで過ごしてきた人生は自分で望んだような満足な人生を過ごせたように思います。 

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この親にして、この子あり

2016年01月04日 07時14分22秒 | 思い出

・・・親になった瞬間はなかなか、この言葉は判らないものであるが、しつけとか言われる期間が過ぎ、子どもが成人した時に、どうにも修正できない自分の子供の行動を見て、「親の子と云う事、知らぬは親ばかり」と云う事を知る。
  子供が小さなときは、其れなりに自分流に、色々と考え教育しているつもりであるが、その結果は、親の習慣や、癖、考え方は、子どもを形作っていく。

  成人した子供と話をしたり、一緒に行動している時に客観的に彼らを見ていて、ふと、自分の癖や習慣を指摘されているようで嫌になる事がある。
  つまりは自分の良くない部分を子供で修正することは無理なことで、今となっては手遅れではあるが、自分を変えなくては、其れは可能にならない。

  しかし、子どもの癖を見ていると、一緒に暮らしていない、私の両親の癖を子供が持っていたりして驚くことがある。
  これも間接的に、知らず知らずに、親の私を通じて、私の親が、私の子供に影響を与えているのである。
  ひょっとして、そうして地域の風習や、もっと大きく云うと、人種の特性などが形作られていくのかもしれない。

  私は子供に伝えたい大切な事があります、それは「我慢」と云う事です。
  特に、わたしたち以降の世代は、物質的に、我慢が必要でない世界で育ってきた人が多い。
  これは戦後の物質不足の厳しい時代に育ってきた我々が、子どもの世代に、しつけとして、残していくべきことかと思う。

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適正な額の年収

2015年06月29日 07時04分02秒 | 思い出

・・・最近の報道なので、日本でも会社経営者の年収が高額になり、ニュースになる事がある。
  年収が一億円を超すような人の懐を考えると、我々貧乏人にはそんな高額の年収をどうやって使っているのであろうかと余計な詮索をしてしまう。

  そんなことを考えていると、昔のことを思い出した。
  その昔、若くて会社で仕事が面白かった頃、直属の課長などが自分の仕事の結果によって、自分より、高額の年収を貰っているのが、腹立たしく思ったことが、あった。
  その後、自分が、若い人に比べて、何倍かの高額の年収を得ていた時は、どういう成果を出せば、胸を張って、その収入の、正当性を言えるのか、時に触れ、考えていたことを思い出しました。

  そういう経験から、自分なりに考えることは、一般社員に比べて、かなりの高額の収入に見合う仕事の成果は、
  日々の日日の目前の作業をこなすだけでは到底、その収入は得られない、少なくとも、一年単位の長いスパンで、会社の業務や売上が変わるような仕事をしなくては、その収入は得られないと考えられる、ほとんどの会社での自分の時間を、会社の売り上げが増える仕事のために頭を使うべきである。
  目の前の自分の職務上の仕事では、純粋にその成果のみを金額換算すれば、若い人の給料の二倍程度までが許される限度額である。

  そう云う考えに立てば、例えば、私なりの計算では、年収一億円と云う額は、一年に会社収入が、その人の成果によって営業利益で少なくとも毎年数億円以上増えるような成果を得ることが要求されるように思う。
  ほんとにそんな仕事をしている人がいるのか、現実問題として、ちょっと疑問に思う。

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家系図

2015年06月03日 07時03分41秒 | 思い出

・・・兄から、貰った、実家の過去帳の写しから、年代を調べたり、その時どんなことがあったかなどを調べながら、私の家系図を作っています。

  私から数えて六代前の1800年ごろの先祖様から始まる「私の家系図」を描くことが出来ました。
  又、その頃の、地域の地図なども、インタネットで探すと、見つけることが出来て、やってみるとなかなか面白い作業です。
  分かったことの一つに、私の家系は江戸時代、明治時代に生きた人も、75歳くらいの長命の家系のようです。

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隣国の未来

2015年01月08日 07時41分15秒 | 思い出

・・・テレビや新聞などの中国や韓国の現状の報道を見ていて、何年か前の日本と何が同じであろうかと考える。 

  平均年収を見ると韓国は日本の二分の一、中国は日本の三分の一らしい。
  従って、ほとんど、生活程度は同じと考えてよいだろう。

  車の所有や住宅の所有もほぼ同じ程度らしい。
  しかし、自由な発言や、報道、出版は日本より遅れているらしい。

  半世紀前の日本と同じ平均年収を考えるとインドネシアやタイなどの場合が同じらしい。
  その時期と云うのは、私たちが、ほぼ学校を卒業した時期である。

  そう考えると、日本が五十年かけて歩んできた、生活水準の向上の努力は、アジアの年収が増えるスピードを考えるとこれから10年くらいで、インドネシアは中国に追いつくと思う。
  従って、これらの国の生活レベル向上速度は、日本が歩んできた給料上昇の速度などの生活レベルに比べて約五倍の速度と計算出来る。
  そうなると、生活レベルは上がるが、社会環境や国の文化などが追い付いていかない状況となる。

  これから、先はどうなるのだろうか。
  人の後を追う時は真似すればよいのですが、近くまで追いつくと基本的には、マネ出来なくなり、日本の過去を見ればわかるが、これ以上、追いつけないと思います。
  ある段階からの国の発展の程度を判断するには、社会の仕組み、国民の基本能力、保有資源などの総合力で決まっていくと思う。

  それらを考えると、中国、韓国は、早急には、日本とは、同じにはならないと思う。

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草抜きをする母の思い出

2014年04月28日 07時29分18秒 | 思い出

・・・今朝、庭の植物の水やりも終わり、ふと気が付くと、暖かくなって勢いよく、でてきた雑草の草抜きを、自然と、している自分に気が付いた。
  かなり以前、母が生きていたころ、我が家に滞在すると、決まって、時間があると、庭で草抜きをしていた姿を思い出した。  年をとると、知らないうちに自分の姿や、行動が、両親に似てくるものである事を、改めて思った。

  私の母は、子どもの頃、自分の母親を早くなくして、下の兄弟の世話をしなくてはならない家庭環境で暮らしていたため、何時も、躰を動かしていないと気が済まない性格でした。 年をとって我が家に来ても、時間があるとテレビを見ているより、草を抜居たりして会居る方が性格にあっていたらしい。
  今になって思うと、いずれ直ぐに夫婦二人だけの生活や、近い将来、訪れる死ぬことなど、を考えると、両親が年老いころに云っていた、自分が今考えている同じこと事を、その時は、なんと冷たく、聞いていたかと、反省しながら思い返す事でしょう。

  今、一緒に生活している、子どもたちにそのことを話しても、その頃の自分と同じ受け止め方だろうと想像するとそのことを話す気にもなれない。
  気持ちを落ち着かすために、そうして、少しづつ人間は進化してきたかと、自分の話の落ちどころを考えてしまう。

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思い出の酒

2014年04月27日 09時20分18秒 | 思い出

・・・私は夕食時にその時の料理と気分に合わせて飲む酒を選ぶ。     家で食事をするが多いので、量は多くないが、白・赤ワイン、色々な焼酎、スコッチ、ビールなどから、毎日、選びながら、いただく。  
 日本酒の在庫が無くなったので、スーパーのイオンに行って銘柄を選んでいた時に、フト目に留まったのが、京都伏見の「玉乃光」です。

     

  昨年亡くなった友達が、彼の友達から毎年いただいて飲んでいる、とブログに書いているのを読んだ記憶がよみがえったので、急に飲んでみたくなって買ってきた。  その友達は、子供のころからの付き合いで、いまだに、なにかにつけて、心に浮かぶ。
  今は、今日の夕食は魚だったら、日本酒に合うので良いのになー、と期待してしまいました。

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勉強の仕方

2013年12月17日 07時04分48秒 | 思い出
・・・私は学生時代、数学、英語などの授業は好きでなく、理科、歴史などは好きでした。  今、考えると私は、現実社会と結びついた学問が好きだったようです。 数学も子供の頃は面白かったのですが、大学時代に習った数学は、現実と関係のない公式を理解することに、抵抗があって、好きになれなかった。  しかし、会社に入って、好き嫌いにかかわらず、仕事をしていく上で、数学の微積分が必要になってきたときは、仕事と対応すると数学がよく理解できるので、その意味を理解できることによる、面白さが出てきました。 また、英語も外国の専門文献を読むには、どうしても必要な道具で、毎日接しているうちにそれなりに嫌いではなくなっていきました。
  今の政府は子どものころから、英語教育をする事が、使える英語教育と考えているようですが、私は、上に書いた経験から、英語教育は、始める時期より、実生活の中と関係することが、使える英語教育の実践だと思う。 外国の人と交流を持つ機会を増やす、とか、英語を使って、他の学問を学ぶなど、英語の必要性を増やす事によることが、より英語に興味を持って勉強する方法であるように思う。
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友達の死

2013年08月15日 08時02分07秒 | 思い出

・・・小学校・中学校と一緒だった友達の奥さんから、「昨日の朝、親友が亡くなった」との知らせがありました。 最初、彼が入院した時は、とても心配したが、一時、病状が安定し、退院したと聞いていたので、少し安心していた。 彼は、病気の程度については、深く触れなかった。 彼の周囲の人と彼が一緒に病気と戦っているので、私は、彼が、負担にならずに気持ち的に楽になる付き合いをしたいと思って、病気になってからも、それまでと同じように、ただ、それまでより、少し頻度を増やして、主にメールと手紙でお互いの近況を知らせ合っていた。  
   彼とは、社会に出てからは深い付き合いもしなかったが、退職して、パソコンのメールやブログで、お互いとよく行き来しているような関係になって、同じ趣味をして、作品の写真を見せあい、それを楽しみながら交流していた。

   この年になると、死と云うのは、身近なものになるのではあるが、彼の死は、少し早すぎたように思う。 私より元気な人と思っていたのに、残念です。 住んでいる場所が、 遠方に、暮らしていて、これまで、パソコンのブログで、私の様子を知らせていたので、亡くなったこれからも、彼がどこかで私のブログを、今も読んでいてくれている気がします。
  そして、出来るのであれば、仲の良い奥さんを遠くから、何時も見守っていてあげてください。
  ご冥福を祈ります。 合掌

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