ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

新緑の東北旅行 その6 「奥入瀬渓流」

2010年06月30日 06時45分11秒 | 

・・・十和田湖から流れ出る渓流の一つが奥入瀬渓流です。


  「奥入瀬渓流のながれ」


・・・空間全体が木漏れ日に照らされる新緑に囲まれる中、綺麗な水の流れと、周りの山から流れ込む小さな滝、などから成り立っている、今回の旅の、目玉観光ポイントです。

・・・渓流の中で最大の見所が銚子大滝。
  高さ7m幅20mあり、本流唯一の滝だそうです。


 『銚子大滝』

・・・奥入瀬渓流は全長で14kmもあり、渓流の側に良く整備された散策道があるので、観光には良い場所です。
  特に、新緑の今の季節は空気も良いし、綺麗な水の川のほとりを歩くのは視覚も聴覚も嗅覚も満足する観光地です。

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新緑の東北旅行 その5 「十和田湖 乙女の像」

2010年06月29日 08時00分51秒 | 

・・・旅の二日目は朝、盛岡を出発して一気にバスで北上して、新緑の十和田湖に行きました。

・・・曇りの天気でしたが、雨は降らなかったので、暑くなく、寒くなく、気持の良い気温でした。



・・・十和田湖の観光ポイントはまず高村光太郎の『乙女の像』が挙げられます。

  行きのバスの中で『乙女の像』についての知識、即ち、高村光太郎の夫婦愛の生活、像のモデルは顔部分が奥さんで、身体部分は19才の乙女である、などのティーチングをしっかりとバスガイドから受けてきました。

・・・十和田湖から、100mほど入った小高い山の中に、建物が立派な十和田湖神社がありました。
 この神社は鎌倉時代以前から、修験道の場として栄えた場所で、江戸時代に南部藩の霊場として整備されたそうです。

・・・十和田湖畔はナナカマドの大木が多く、土地の人によると秋の季節には紅葉がすばらしいということです。
 名前は今までに、聞いたことはありましたが、真っ赤になるというナナカマドの紅葉は一度見たいと思いました。

『参考』 ナナカマド
 和名を七かまどと言いますが、非常に燃え難く、七度かまどに入れても燃えきらないとか、炭にならぬとの意味があります。
 しかし燃え難いですが、燃えます。ヨーロッパでは本種の仲間を神聖な木と信じ、墓地に植えたり十字架を作ったりすると言います。

 

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ドライフルーツパンを焼きました。

2010年06月28日 07時36分25秒 | パンつくり

・・・先日、朝のラジオ放送の中で、パン作り入門者でもやれる「簡単なパンの焼き方」として、パン焼き機でパン生地を練って、そのままオープン皿に入れて焼くやり方を紹介していました。

  私としては、久しぶりに、ドライフルーツ入りの菓子パン焼きにチャレンジしました。
  ドライフルーツはブドウ、りんご、メロン、イチゴなどのドライフルーツで生地をこねる時に入れ、一次発酵した生地をオープン皿に入れた後、パン生地の表面にクルミの実を砕いて載せました。

・・・二次発酵は35℃で一時間、焼き時間は200℃で15分間かけました。

・・・表面に卵を塗らなかったので、パンの照りは少ないですが、おいしそうに焼けました。
  試食の味は、ドライフルーツの甘さも加わり普通より甘く仕上がりました。
  焼きたてのフルーツパンはとても香ばしくおいしかったです。

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新緑の東北旅行 その4 「つなぎ温泉」

2010年06月27日 09時09分29秒 | 


・・・この温泉は、今回行くまでは、私は名前も知らない温泉でしたが、温泉の質としてはアルカリ質の良く温まる気持ちの良い温泉でした。



・・・上の写真にも書いてあるように肌に良い湯だそうです。
  つなぎ温泉は盛岡市の西、御所湖のそばにあって、平安時代に開湯した温泉らしいです。
  温泉のそばには繋温泉神社があり、散歩の時、温泉で口を清めました。

・・・この地は地下水が豊富らしくて、ホテルの周りを散歩していた時、近くの鎮守さんで地の人がわき水をペットボトルに入れているのに出会いました。

・・・朝の散歩の時に立ち寄った御所湖のそばの公園には少女像が建っていて、薄靄の湖の景色はとても素敵でした。

・・・つなぎ温泉に宿泊した、次の日は、曇り空の中をバスで十和田湖に向かいました。

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新緑の東北旅行 その3 「中尊寺」

2010年06月26日 10時38分53秒 | 

・・・中尊寺は850年に開山され、12世紀に奥州藤原氏の清衡によって大規模に建設されたものである。
   
       奥州藤原氏の由来については下記の『参考』を読んでください。

・・・上の写真と同じ画面構成で、旅行本などの写真によく採用されているが、たいてい写真には横にある金色堂の碑は写っていない。
 本などに採用されている写真の画面に碑が入ってない理由は、画面のバランスの問題か不明ではありますが。
 写真の建物は金色堂ではなく昭和40年に作られた新覆堂です。1124年に金色堂が建てられた時は何も覆いがなく、自然環境にさらされていたが鎌倉時代後期に全体を覆う覆堂が建立され、昭和になって、本体の修理と共に覆堂も新しくなった。


  「ガラスケースに入った金色堂の写真」

・・・見学は写真禁止なので、本から転載した。
  金色堂は覆堂の中のガラスケースに入っていて、写真のように全体が金箔で包まれている。

…中尊寺の見学の最後に参道に有名な弁慶の像が祀ってある「弁慶堂」がありました。


・・・中尊寺は小高い丘にあって、参道から眼下に北上川が見渡せました。
  高速道路が現代を思い出させます。



・・・中尊寺を見学して。バスに乗る時から、雨が降り出しました。
 今回の旅は天候の面では本当にラッキーな旅でした。

・・・中尊寺の見学の後は宿泊する盛岡から西に行った「つなぎ温泉」に東北自動車道で北上しました。

 

『参考』
 藤原清衡は
陸奥国(後の磐城国亘理の豪族亘理経清と、安倍頼時の娘の間の子として生まれる。亘理経清は、藤原北家藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に名前が見えていることから、当時藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。父・経清は前九年の役源頼義に反旗を翻し安倍氏に味方したが厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。
 
清原家には、清衡の異父異母兄になる武貞の長子真衡、清衡、異父弟になる家衡があったうえに、吉彦秀武清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。
 
秀武が真衡に背くと、清衡、家衡は秀武に同調して、真衡が秀武討伐に出羽に向かった隙に、真衡の本拠を攻撃した。しかし、陸奥守であった源義家が真衡を支援して清衡、家衡を攻め、清衡、家衡は大敗して逃走し、義家に降伏する。だが、出羽に向かった真衡が直後に急死し、清衡、家衡は、義家の裁定で清原氏の所領を分割相続することになる。義家の裁定は清衡に有利なものであったと推測されており、義家が清原氏弱体化を意図し対立を煽ったとする見解が多数存在している。当然、家衡は裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷属を皆殺しにする。義家は難を逃れた清衡に助力し、家衡を滅ぼした。
 
後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが、一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。時に寛治元年(1087年)清衡32歳の事である。その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった
 
嘉保年中(1094年 - 1095年)頃には、磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手。1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。
 
金銀螺鈿をちりばめた金色堂の落慶の翌年(大治3年)、当時としては長命の73歳で没した。金色堂に納められた清衡の遺骸を調査した結果、血液型はAB型であり、曾孫の泰衡まで四代直系で矛盾はないとされる。清衡の顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で、鼻筋が通っている。身長は159cm、手の形は小さく華奢。四肢の筋はよく発達している。体形は痩せ形。レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮が見られ、脳溢血、脳栓塞、脳腫瘍などによる半身不随であったと見られる。発症時期は快方が見込めなくなった頃に妻が筆写納経を行った1117年 - 1119年頃ではないかと推測されている。没年齢は歯の状態から70歳以上と見られ、史料の没年齢と矛盾はないとされる。

 

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新緑の東北旅行 その2  「松島」

2010年06月25日 08時30分27秒 | 

・・・旅行の最初に松島の瑞巌寺にいきました。

・・・瑞巌寺は828年創建で、1609年に伊達政宗が復興した名刹で本堂ゃ庫裏が国宝で伊達氏の菩提寺として栄えてきました。
 参道の奥には古来より亡き人を供養した洞窟遺跡群があり、私にはなかなか素晴らしい遺跡と思えました。

・・・東北の名刹の境内は樹齢400年を超える古杉が茂る、まっすぐな参道が荘厳な雰囲気を感じました。

・・・瑞巌寺を拝観した後、遊覧船に乗って松島湾を一周しました。
  小型船で45分間の涼しい風の気持ちの良いクルージングでした。
  ここのクルージングの売りは、乗船後、買い求めた餌を食べに、船を追って飛んでくるウミネコでした。


 「乗客の餌を目当てに目の前に飛んでくるウミネコ」

・・・目を引く景色としては浸食され奇形になった島々ですが、その中で、「鐘島」と云う島が形も良く絵になる島でした。


      「鐘島」

・・・この島は四つの洞門があり波が打ち寄せた時の波の音がすることから、この名前がついたとのことで、島の波打ち際にあいた穴が、見学ポイントです。

・・・午後からは回復した天気の下、東北自動車道で約70km北上した平泉にある中尊寺にいきました。
  中尊寺の見学記は明日のプログに載せます。

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その1 新緑の東北の旅は天気に恵まれました。 

2010年06月24日 11時30分09秒 | 

・・・久しぶりの国内ツアーに行ってきました。昨日、家に帰ってきました。 

  旅行の出発前は、天気予報では、向こう1週間くらいは雨の毎日の様な内容だったので、旅行中、1日でも傘なしで歩ければと思っていました。

 結果、訪れる先々で、天気が回復して、8か所訪れて、その内、7か所は傘がいらないで見学、体験ができました。

・・・出発場所のセントレア空港は雨模様で水溜りのある状況でした。


 「空港デッキで巡回するトヨタのロボットカー」

・・・飛行機が北に行くほど空の様子は良くなっていき、幸先の良い旅行となりました。


 「飛行機の横に富士山が見えました」

・・・朝の九時半に仙台空港に着き、そこから、バスによる東北五県をまたぐ新緑を見る旅行が始まりました。
 明日から、旅行の内容をつづります。

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東北旅行に行ってきます。

2010年06月19日 08時50分22秒 | 

・・・明日から四日間の予定で東北地方の旅に行ってきます。
  予定は早朝中部空港から仙台空港へ行きます。


 「るるぶの表紙に乗っている場所は行きます」 

・・・行く予定の観光地は松島、中尊寺、十和田湖、奥入瀬渓流、白神山地、玉川温泉、田沢湖、角館、蔵王です。

天気があまり良くなさそうですが、どの観光地も一度も行っていない場所なので楽しみにしています。
 帰ってから、このプログに旅の記事を書きます。
 

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玄関に飾ってあるラクダの絵

2010年06月18日 06時43分43秒 | 油絵

・・・過日、エジプトに往った友人の写真を見て、玄関に飾るF4号の額に入る小さな絵を描きました。

・・・私の好きな平山郁夫のラクダの絵をイメージして描きました。
 描いてから、思うような色がなかなか出せなくて絵を描き直したのですが、今度は絵全体の構図のバランスが良くなくて、途中で絵を描くのを止めたまま、額に入れています。

・・・何時かまた描き直したいと思っていますが。

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カラスの行水

2010年06月17日 08時35分08秒 | 自転車

・・・真夏の様な陽差しの中を自転車に乗って、汗をかいてきました。
  私が住んでいるこの地域は、まだまだ自然が多く残っていますので、家から、少し走ると池があったり川があったり、林があったりと目を楽しませる風景を見ることが出来、自転車で走っていて、のんびりとした気持ちになります。

・・・たまたま、雑木林の中に紛れ込だ時に、急にうるさくカラスが鳴いている場所に近ずいきました。
 自転車で走っている道を横に入る間道の方を見るとカラスが五、六匹、小さな池で水浴びしていました。
 まさしく「カラスの行水」です。


 「逃げてしまった後のカラスの行水の池」

・・・カラスの水浴びは、生まれて初めて見ましたが、池の水の中で、羽ばたきながら水浴びをしている黒い体が、池の水で光っている姿が印象的でした。 

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血液検査の結果、コレステロール値が良くなかった

2010年06月16日 07時42分44秒 | エッセイ

・・・比較的、運動をしている方だと思うが、結果的にみると適度な運動は食欲増進による食事の増加が、運動によるエネルギーの代謝量を上回って、その差分が、脂質の蓄積にまわされ、それが血液検査の総コレステロール値を上げるらしい。
 
  ここ数年、病院に通い、コレステロール値を下げる薬を貰って、毎日、飲んでいる。

・・・若い医者に食事を減らして、体重を下げてくださいと云われているが、医者のアドバイスがなかなか、私には実行できないのが情けない。
 
 今日は頑張って、薬を飲まずに、コレステロール値を下げる為に一つの対策を実施することにしました。

・・・その対策と云うのは、「食べ過ぎを防ぐために、一日、何を食べて、食べたものはどれくらいのカロリーになるのか、を自分でノートに付けて記録し、明らかにする」ことです。

・・・テレビなんかでダイエットの話題は良く出てきます。
 その中で、なるほどと思うダイエットの方法は自分の現状(体重、食べた量、体脂肪など)を毎日、数値化して、「これではいけない」という気持ちを常に持ち続けてダ゜イエットすると云う方法です。

・・・私がトライしてみようと思ったのは自分が食べている量を定量的に把握してみようと思ったことです。
  早速帰ってきてトライしてみました。
 昼ごはんに奥さんが作ってくれたスパゲッティーミートソースと果物のデザートです。
 カロリー表とキッチン秤で料理を計測し、カロリーを計算してみました。

 「計算結果」 スパゲッティーミートソース 720kcal
         果物のデザート                     72kcal
                       合計             792kcal

・・・私の必要カロリーは身長から計算すると1800kcal/日だから毎食の平均必要エネルギーは600kcal/食です。
  したがって192kcalオーバーしていることが判かりました。
  今日の昼は、カロリーオーバーを意識して、何時も食べている量よりも、食事の量を減らしてもらったのですが、計算の結果、オーバーしていることが判りました。
 食事の内容のデーターを明らかにすることで、いかに日ごろ、必要以上に食事を、食べているかが判りました。 
 
「参考」

①一日に必要なエネルギーの計算式

                 

②スパゲッティーミートソースをレストランで食べた時のカロリーは

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歴史書「豊前石塚山古墳  筑紫政権からヤマト政権へ」を読んで

2010年06月15日 08時34分56秒 | 読書


・・・私の場合、日本の古代史で一番興味深く、謎の多いのが、三世紀の倭国です。
  二世紀前半までは中国古代史に北九州にあった、古代国家(倭の奴国、伊都国、末蘆国)のことが記述されている。
  そして、それに対応するような考古学的発掘による出土品が豊富にある。


・・・四世紀になると奈良盆地に現れる前方後円墳に代表される古墳時代になり、以後のヤマト政権につながる。
  この時代になると、記紀の記述がかなりの量で記載され、又、それに対応する考古学的な出土品が多く出てきて、かなり古代史の謎が明らかになってくる。

・・・本書に紹介されている豊前石塚山古墳は三世紀末頃に築造されたと考えられている北九州で定形型古墳としては最大、最古の前方後円墳である。

 
 「古墳時代初期の頃の代表的古墳の分布・大きさの図」

・・・初期の古墳時代の主な古墳は大きさで云うと圧倒的に畿内の古墳が大きさ・数とも圧倒しているが、本書の豊前石塚山古墳は畿内の主要な椿井大塚山古墳、黒塚古墳などにひけをとらない初期の古墳である。

・・・三世紀末と云うと中国の史記に倭国について記載されている記事のうち、最後にあられる倭国の情報は泰始二年(266年)の晋の武帝紀に"倭の女王(卑弥呼の跡継ぎの台与)の使者が晋に朝貢した"事について、である。
  その後、高句麗の好大王の碑文に"391年、倭軍の侵攻"が現れるまでの130年間はこの地方の古代史の史料から消える。
 したがって、歴史の大きな変化の時でありながら手がかりが少ない時代である。

・・・石塚山古墳の重要性は古墳の主が葬られたのは、邪馬台国の女王の台与が晋に使者を送った266年から2~30年後の三世紀の末なので、石塚山古墳の調査から判る情報がこの時代の謎を解明するのに役立つからである。

 

・・・石塚山古墳の出土品にある三角縁神獣鏡と云う古代の銅鏡が大変重要な情報を提供してくれる。
  三角縁神獣鏡は同じ鋳型から制作され、製造時の傷の痕跡を他の古墳の出土鏡と比較研究することから判ったことは、古くに作られた鏡は畿内の主要な古墳から出土しており、それより、新しく作られた鏡は石塚山古墳から出土し、石塚山古墳出土鏡より更に新しい鏡は北九州の小さな古墳から出土していることが分かった。


「同じ鏡が、どの古墳から出ているかの図」

・・・更に、石塚山古墳は奈良盆地東南の初期のヤマト政権の古墳である箸墓古墳(全長275m)の形とまったく相似形で大きさは畿内の主要な椿井大塚山(全長180m)、黒塚古墳(全長130m)に準じる全長130mもある。

・・・石塚山古墳の形、大きさ、出土品の鏡等の研究から判ったことは、
  この古墳の被葬者は北九州東北部に本拠を置きその役割はヤマト政権の為に大陸・朝鮮半島へのルートを確保することであり、ヤマト政権にとって重要な人物で、北九州の国々の首長の上位に君臨したらしいと著者は推定している。


「魏志倭人伝での邪馬台国への航路」

・・・私はこの本を読んで、三世紀前半に奈良盆地の東南部に邪馬台国が出現し、
  三世紀末には卑弥呼の系統の王が巨大な古墳を作る古代ヤマト政権を作り上げ、
  その後、朝鮮半島に侵攻していき、五世紀の倭の五王の時代につながっていくのだと云う想像を強く持ちました。

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キュウリの"はつなり"

2010年06月14日 06時52分16秒 | 植栽


・・・今年も庭のプランターにキュウリの苗を二本植えた。


・・・昨年は花が咲いた時には、交配することが必要なことを知らなくて、実が上手く、みのらなかったのですが、今年は、早々に一本、"はつなり"のキュウリを収穫することが出来ました。

・・・上の写真のように一本収穫すると次の日にすぐ新しくキュウリの実が大きくなります。
 写真の小さな実は先っぽに、まだ花弁をつけています。
 この実も三日ほどで収穫できます。

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自転車の写真散歩をしてきました。

2010年06月13日 09時14分41秒 | 自転車

・・・気がつくと今日は運動をしていなかったということで、自転車に乗って近くを散歩してきました。当家の近所は昔はミカンが植わっていた山を削って宅地化した土地なので、高低差が結構ある地形です。
 そのために、自転車で一時間ほど走ってくると、走った距離は大したことはありませんが、運動量としては私の場合は、かなりの量になります。

・・・民家の庭の花をまず撮ってきました。

 

・・・山道を走っていると一面に花が咲いている場所に出会いました。

・・・次に小さなため池の公園に行きました。
  池の一部で睡蓮を育ていました。 花が綺麗に咲いていました。

・・・いろいろな花を見て、写真を撮って、一時間で、走った距離は合計10kmでした。

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「デジスコ」を改造して写真をとりました。

2010年06月12日 08時23分10秒 | 写真

・・・先日、試作したデジスコでは商店が合わなかったので、アルミパイプで制作したフレームを改造して何とか写真を撮影しました。

   
 「本の挿絵」  「最初に試作したもの」  「試作機を改造したもの」

・・・アルミフレームを切断、接合して焦点距離を30mm短くした。それでもなかなか、クリアーの写真が撮れなくて、いろいろチャレンジして撮った写真を次に示す。


 「通常の状態で撮った写真 (広角25mm) 」


  「試作したデジスコで同じカメラを使って撮った写真」

・・・広角の25mmで撮った写真に比べて、約20倍くらいの倍率と思う。
  写真の質は良くないが一応、クリアーな写真は撮影できた。
  今後の課題は①扱いやすい ②剛性がある ③軽量である などを考えて、設計から作り直したいと思った。

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