ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

政治家になるには資格が必要?

2024年01月16日 21時27分59秒 | エッセイ

今の政治家の行動、発言などを報道で聞く限り、基本的義務である国民の代表という意識がまるで認められない。
しかも、人間としてのモラルに至っては、全日本国民の中でも、悪いレベルの人間の代表のように見える。

考えてみるに、弁護士や、医師、教師などの職業はみんな国家資格が必要である。
これらの職業を含めて政治家の職業を考えると金銭的にも、社会的地位も、ランクは上のほうの職業である。

確かに、弁護士や医師、教師の中にも、道徳的によくない人も、たまにいますが、資格をはく奪されるという罰則があるが、政治家はそういうこと、仕組みとしてない。

この人たちによって、われわれを守る法律が作られることを考えると、弁護士並みの資格が絶対必要だと思いますが・・・?。

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年と共にできなくなること

2023年10月20日 22時54分24秒 | エッセイ

後期高齢者になると、最近できなくなったことを嘆く回数が多くなる。

最初はすぐ物忘れする等の頭の働きの低下ことから始まって、最近は、身体的にも、足が上に上がらくなったなどと範囲も広くなってきた。

この前できてたことができなくなる気持ちの落胆は大きい。
最近生活の中で二つ事を頭と身体での同時進行することは最近できなくなってきた大きな項目です。
ラジオ体操でも、音楽を聴きながら、リズムをとって、手をたたいたり、開いたりの運動を、一つ順番を急に変えると音楽に乗ってやれなくなるとかも、その例です。

今までやれていたことが、やれなくなるというのは、精神的にも、落ち込む、嫌なことなので、すぐ忘れるが、後期高齢者ともなると、毎日のように、やれなくなることが増え、やれることの貯金が少なくなっていく。

遠くにいる娘の子供が、今ちょうど、幼児の発達時期なので、娘が、毎日のようにできるようになったことを記録のつもりかもしれないが、LINEやインスタの動画で報告してくれる。
孫の場合は毎日のように、この歌が歌えるようになったとか、この言葉が言えるようになったとか、できることが増えていく。
そして、その速度はとても速い。

孫と私は、行ってみれば、人間の始まりと終わりの見本であり、そして、一番変化が激しい時期らしい。孫の場合はうれしくもあり、自分の場合は少しづつ、終わりに近ずく覚悟を促されているようでもあり、その心境は複雑である。

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小学生との2時間

2023年01月14日 21時34分29秒 | エッセイ

私は元々、サラリーマンを終えた時から、人間関係の煩わしさと無縁の毎日を送ることを理想としてきた。

しかし、心身ともバランスのとれた生活を送るためには、多少の人間関係の気遣い等は必要であることも感じたので、昨年の春から、新たに少年・少女工作教室の指導員を始めた。

指導のメイン講師は二度くらいであとは、講師サポート役が五回くらい務めるので、勤めは、おおよそ、2か月に一度くらいの役割ではある。
子供と一緒にいる時間は2時間の間だけです。
しかし、メインの指導員を務めるときは、実施する製作する工作物の選定から、材料・工具の調達、進め方の構想と実現化、資料の作成と、必要期間は一か月程度必要になる。
そして、現場でやる前に、一度作ってみて問題を探る作業も大事である。

大方の講師は、工数を省略するために、世の中に出回っている、動画、子供対象の種本から、適当なものを剪定されて、企画されているようです。

私は幸い、リタイアーしてから、毎日をモノづくりに明け暮れていたので、ネタを掘り返し、その中から、子供でもできるもので、興味の持ちそうなものを剪定して、工作物の題材にしている。

今日は革を使った、アクセサリー的なものを作ることを題材にして、工作教室を終えてきました。



生徒はいろんな子供がいて、何度も顔を合わせている内に、その子の特徴を知り、工作する姿や、出来上がりを喜ぶ顔を見ていると、終わった後は、疲れて、今後やりたくないなーと思っていた気持ちを、吹き飛ばしてくれます。

ほぼ一年経過しましたが、今のところ、さらに、もう一年続けてみようかと思っています。

 

 

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やたら句読点を打つのは年寄りの文章

2022年12月21日 21時45分59秒 | エッセイ

新聞のコラムにLINEの文章について、いろんな読者の意見が掲載されていた。

「やたら句読点を打つのは年寄りの文章」と書いてある記事に目がとまった。

その記事の中には、最近の若い人のLINEの文章には
①「テレビで」というところを、「テレで」と書いたり、
②「了解」という単語の代わりに「おけ」(オッケーの意味)、など、LINEで使われる単語は、もはや、外国語と同じで、違う言語のようなものであると書いてあった。

しかし、私たちが若いころに習った国語学習では、文章は人に伝わることを第一に文章を作ることを習った。
したがって、句読点は人にわかってもらう文章作りの基礎であると私は、考えている。


  例えば、先のコラムに載せられていた、句読点が大事な文章例として、

「デンプンが分解されなくなった」という言葉と、「デンプンが分解され、なくなった」と、という文章では、二つの文章の伝える意味は、まるで違ってくる。

特に、仮名文字のみで書かれた文章においては、句読点は、とても大事と思う。
以上、年寄の「あるある」の感想文でした。

 

 

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今を楽しみたい

2022年07月04日 23時03分00秒 | エッセイ

若い頃は、死ぬという事に、近寄りがたい怖さを感じていた。
葬式で、死人の顔を見ることも怖かった。
そんなことも、身近な人がなくなるようになると、死というものが身近になってきて、毎日の出来事の一つであるような感覚が多くなった。

親が死んだときは、まだ私も壮年で、死のことを深く考える事なく、両親を見送ってしまった。
最近、五年の間に、兄弟二人を見送った。
両親とは違う身近な人間が、いなくなって、そのことで、自分の人生の中の、死という終りを何とか上手く迎えたいと考えるようになった。

そして、先に逝った兄二人の死に方を見ていて、その死が参考になるとともに、死というものを一人の人間として、理解が少しできたように思えた。

今は、もう一寸生きていたい。
何をしたいわけではないが、今の幸せで、気持ちが良い生活を続けたいという思いが強い。
そのために、今は、少しは努力して、死を先延ばしにして、今を楽しみたいと思っている。
それにしても、それを邪魔するが、コロナによる規制である。

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赤ん坊はすごい

2022年02月17日 18時04分03秒 | エッセイ

私は毎年、何かしら、年を取ったなーと感じる時がある。

例えば、自転車に乗る時、サドルを跨ぐ足が上がらなくて、自転車に乗れずにこけそうになった。
他に、ガードレールを跨ぐときに、ガードレールの高さに足が上がらない。
ちょっと前まで、意識しなくて、出来てたことが、出来ないと、年を感じる。

それに引き換え、赤ん坊は昨日まで、出来なかった事が急に今日は出来るようになる。 
昨日まで、寝かしておけば、上を向いたままであったのが、急に、寝返りが出来るようになり、びっくりする。

私の場合と反対の出来事である。
相手が赤ん坊の場合は、未だ、私の方が出来る事のたくわえが、赤ん坊よりたくさん、あるので、余裕であるが・・・。
相手が、中学生ともなると、出来ることが、相手に追い抜かれてしまう。
私の方が出来ることが少なくなっていく。

何時も、遠方の赤ん坊の動画を見ていて、びっくりすることが多い。

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人生はトータルするとプラス・マイナスゼロ

2021年11月14日 15時56分00秒 | エッセイ

私が、娘によく言う言葉に「人生はトータルするとプラス・マイナスゼロだよ!!」というフレーズがあります。

今日の新聞の読者欄に、その読者は、寂聴さんの言葉として、「人生は苦である」という言葉に助けられたとあった。

その文章には、その人は、今まで、経済的困難、病気、配偶者の精神的な病と色んな困難に立ち向かったらしい。そして、フト、幸福な人を見ていて、その人も、いずれ人生の苦に向き合うと思われ、そうなると、世の中の人は皆は苦を抱えて、生きているのだと思えてくる、そして、「人生は苦である」という言葉は、何故か、明るさと覚悟を与えてくれたと書いてあった。

人間考えることはみんな同じだと思った。
大抵の場合、世の中に起こりうることは良いことも起こり売れば、悪いこともおこり、長く見ると、その両方は五分五分であるようだ。
そんな経験から、「人生はトータルするとプラス・マイナスゼロ」と考えるのは、私が人生において苦しい時に、自分を前向きにさせたい時に考え付いた語句である。
そして、人生において、楽しい時もまた、「人生はトータルするとプラス・マイナスゼロ」と考えて、自分を戒め、あまり浮かれて、周りが見えなくなるのを注意した。

今までの長い人生、数年単位で考えて見ても、「人生はトータルするとプラス・マイナスゼロ」であるように思う。
幸福と不幸の波は、私を人生という水面に浮かべながら、私を上下に動かし、時と共に過ぎ去っていくようです。

 

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ハングル文字について

2021年06月24日 06時00分44秒 | エッセイ

・・・学生時代は勉強としての言語は、暗記が多いと感じて、嫌っていたのである。
   今は時間があるので、気の向くまま、色々な言語をかじってみると、言語も以外に面白い。
   英語はラジオ講座の講師の先生が、論理的な言葉で説明があり気に入っている。

   話は変わるが、10年前、韓国に旅行した時に、電車や看板などがハングルのみで書かれていて、旅行するには、とても不便な国だと思った、しかし、その時にハングル文字に興味を持った。
   最近、興味本位で、ハングルをかじってみたところ、この言語は日本語と大変近いことに、気づいた。
   歴史的に、朝鮮民族は有史以来、中国という大国の傍にあって、地勢的に中国の属国となってきた、したがって、言葉も中世までは中国人と同じ漢字を使っていたので、ハングルの歴史はごく最近、五百年くらいのものである。

   翻って、日本も、奈良時代までは、漢字を使って文章を書いていた、歴史的に、韓国と、とても良く似た成り立ちである。
   したがって、韓国も昔から使う単語は漢字文字が多く、最近になって、すべてハングル表記になったらしく、漢字発音の単語が多い。
   だから、日本語に似通った、発音の単語がたくさんあってなじみやすい。

   また、紀元前後の古代において、朝鮮半島の南部と日本列島の九州北部は行ったり来たりの間柄で、民族的にも、極めて近く、ほぼ同じ言葉を使っていたのではと思う。こんな成り立ちだから、言葉の順序とか、使う単語とか、尊敬語と助詞の使い方などが、両国の言語はとてもよく似ている。

   初めて、ハングルに接すると、文字が異なるので、初めは取っつきにくいが、やってみると表音文字なので、そんなに、理解が難しい事は無い。私の場合は、最近は物覚えが悪いので、単語の発音はすぐに忘れるが、文字を読むのは少しできるようになった。

   使う事もない言語だと思うので、これ以上、私はこの言語を使えるように進化することはないが、言語学習を通じて、韓国の文化を知る事には、これからも興味が続きそうである。

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記憶力について

2021年02月08日 08時03分17秒 | エッセイ

・・・記憶力と言っても、私はその関係の学問を学んだことはないので、今回は、自分なりに記憶力とはと、考えてみた。

   年とともに、記憶力の低下するのは、万人平等であるらしい。

   筋肉は鍛えれば、衰えをある程度防げると聞いている。
   実際、私も、毎日、鉄アレイを使って、腕の筋肉を一日に、40から50回くらい動かしている。
   たいした努力ではないが、毎日やることで、その効果は確かにあるようで、心なしか腕の太さが以前より太くなった。

   さて、問題の記憶力についてですが、記憶するというのは、私の数少ない知識では、
   たくさんの神経細胞が、パソコンの記憶素子と同じように、外部刺激に対して、それを物理変化に変えて、神経細胞で保持している。
   年とともに、再生が効かない神経細胞が消滅することによって、記憶力が衰えることを防げない。

   ここまでは、記憶について知っている知識ですが、自分なりに「記憶力とは」という事を考えて見た。

   一番最初に思いついたのは、学生時代の試験勉強での暗記作業である。
   特に、定期の試験で、教養学部の哲学の試験は完全に山を張って、前日に紙一枚分にまとめた難解な単語がちりばめられた文章を一時間くらいかけて、暗記し、寝ないでいった試験場で、答案用紙に頭の中の答案を一字一句書き写し、結果、百点を取ったことがあった、この頃が我が人生の記憶力の最も素晴らしい時期であった。
   しかし、それ以来、徐々に記憶力は衰え、今では、自動車の免許試験の認知症テストを受けて四苦八苦する記憶力になってしまった。
   上に書いたことは誰しも経験することで、だから如何したらいいかの対策は、思いつかない。

   そこで、記憶力の定量的な例について、思いついたのは、ソロバン塾で覚えた暗算のスキルです。

   暗算は頭の中に、ソロバンの玉の配置を思い浮かべ、耳から入ってくる、数値の情報を聞きながら、頭の中で、自分の指を思い浮かべて、ソロバン玉を動かすわけです。
   常に、頭の中に、数値情報に対応した、ソロバンの玉の位置が、頭の中で玉を指ではじいて、ソロバン玉の配置が変化していき、計算が終わったときの、ソロバン玉の配置から、最終的答えが読み取れる仕組みです。

   私の場合は、小6まで、ソロバンを習っていたので、3桁から4桁の15回の足し算の操作が、塾に通っている頃は、やれていました。
   社会人になってからも、若い頃はまだ、計算機が普及してなくて、仕事でソロバンをはじいていて、少しは暗算がやれました、時とともに、暗算訓練をしなくなると、頭に思い浮かべれるソロバン玉の列が3桁から4桁の数値の計算分であるソロバン玉5列分くらいから、すぐ3列くらいに減ってしまいます。
   しかし、まだソロバン玉の映像は思い浮かべることができたのですが、中年を過ぎる頃になると、頭にカスミがかかってきて、ソロバン玉の1列の映像でも、頭にはっきり思い浮かべれなくなってきました。
   今では、頭の中の指が操作する直接のソロバン玉しか、思い浮かべれなくなって、結果、かろうじて一桁の足し算しか出きなくなってしまいました。

   出来なくなってからの暗算している時の状況を言うと、頭の中のソロバンの景色が、カスミがかかってボヤけてくることと、それに加えて、頭の中に発生する自分しか聞こえないノイズ音が大きくなって集中できず、ソロバンの玉の位置の映像を思い浮かべようとするが、映像がカスミの向こうにあって、ぼやけて思い浮かべが出来なくなっています。

   この頭のもやもやとした、カスミとノイズをどうやって減らすかが、記憶力の回復につながるのではと方策を考えています。

   そのためには、考えを集中する動作訓練を繰り返しやることが頭の筋肉を鍛えることにならないのだろうか。
   体の状態をよくするために、ぐっすり眠ることを心がければ、短期的にも、心を集中出来無いのだろうかなどと考えています。

   

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日本人の名字は二文字なのは?

2020年02月04日 07時14分11秒 | エッセイ

・・・先日、ヤマトと言う地名の表記についての由来を、ここに書いた。


  その内容は、「続日本紀」の和銅六年(714年)条に「畿内七道の諸国、郡、郷の名は好字(二字や良い意味を持つ字のこと)を書け」とあり、倭(ヤマト)が大倭(ヤマト)と改められている。 

  そこで、そのことから、私が連想したのは日本人の名前は漢字二文字が多い、これも、ひょっとして、「続日本記」の好字の影響かと思って、インターネットで調べてみた。

  しかしながら、予想に反して、基本、日本人は古代の豪族の名字も二文字が多い、われわれも良く知っている、蘇我、物部、大伴、春日、出雲、吉備などです。

  そして、中世になって、日本人は地名から取って、名字を付けることが多くなり、そういうところからも、日本人の名字は二文字になったようです。

  参考までに、中国人は一文字の名前が多いのですが、朝鮮半島の人は古代、日本と同じで名字は二文字が多かったそうです。しかし、新羅が朝鮮半島を統一してから、中国にまねて、名字を一文字にしたようで、現在は一文字の名字が多くなったようです。

 

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人間が枯れるということ

2019年12月10日 07時15分04秒 | エッセイ

・・・昼のテレビ番組に、「やすらぎの刻 道」という若い時にタレントだった人だけの老人ホームを舞台にした、連続ドラマがある。

   老人にも色々ある、テレビに出ている俳優は、老人と云っても、若い時と変わっていない、髪も黒々としているし、顔も皺が少ない、体形も変わらない、なんでこんな様子で居られるのかと不思議な人もいる。
   しかし、ほとんどの俳優は雰囲気は若いときそのままに、その人とわかり、全体が老けた感じではあるが、髪形・服装・アクセサリーを若い時のままにしているものだから、体形や皺の多さは隠せなくて、ギャップとして、老いがより厳しく感じられてしまうことがある。
   こういう人は、歳をとっても、若い時と同じ外見でいたいという願望が感じられる。
   これも、老人の有り方として、あるべき在り方かもしれない。

   一般の老人の場合は、今までの人生経験から、歳をとっていくにつれて、周りの人の世話にならざるを得なくなるし、社会の中で、助ける側から、助けられる側に変わっていくことを自覚している。
   助けられる側に回った時は、老人は若い時と同じ感じより、老人らしく枯れた感じになっていく方が、生きていきやすいように思う。

   人間が枯れるというのは、植物が水分が抜けて、脂分も抜けて行くのが枯れると同じで、その人持っている欲とか、色気とか、才気とかが自然と消えて行って、その人の存在が、安らぎを与えるような感じを言うのではと思う。

   歳とともに、そうなるには、若い時と同じ環境、人間関係、考え方を持っていては、そうはならない。
   人生をある時に、それまでの環境を全て、切り替えて、考えを変えた新しい人生を歩まないとそうはならないと思う。

    本当に枯淡の境地になって、時の経過と同じくして、人として枯れる事が、老人のうまい老い方の様に思える。

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悠々自適

2019年12月05日 05時59分54秒 | エッセイ

・・・毎日、朝起きると日常の雑務はもちろん、趣味として創作意欲にかられるテーマに、朝からすぐに取り掛かることが多い、たまに、外出することもあるが、それは週に一度くらいである。
  
   しかし、健康のための、散歩は毎日のように一時間は歩いてくる、これから寒くなるのは、外出する意欲が鈍るので、困ったことである。
   そんな、毎日であっても、何かの折に、するべき目的が見つからないため、しばらく、何もしないで、考える時間ができることがある。

   そんなときには、ついつい、こんなことをして、人は人生を終えていくのかと、先行きのネガティブスインキングに陥ることがある。
     
   仕事を退職し、次の日から、毎日、会社に行かず、朝から、寝るまで、何にも追いかけられることなく、毎日、自分のしたいことをやるだけで、いいのだと、思った瞬間はこみ上げる喜びを感じ、開放感に浸っていた日の事を思い出す。

   仕事が楽しくなくなったのは、引退を決意して、後輩に職を譲り、ただ毎日、会社に行けばよいだけに成った時から、一年間、毎日を早くやめたい、早く時間が過ぎて、退職したいそれだけで、一年を過ごしていた。

   そして、満を持して、退職した次の日から、色んな趣味をやってきた、思いつくまま、数えると20項目もあった、そして、10年経ったすっかり「悠々自適」が身についた、毎日が土曜日の様に、休日で、且つ、次の日も休日と云う毎日を過ごす。

   

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何を始めるにも遅すぎることはない

2019年09月17日 05時56分57秒 | エッセイ

・・・年を取ると、体力と知力の衰えを理由に、出来ないことを嘆くことが多くなります。

   しかし、あの「冨嶽36景」で有名な葛飾北斎は88才でなくなる時に、「後、五年の命を保てれば、本当の画家に成れたのに」と云ったそうです。
        さらに、彼の代表作である「冨嶽36景」は70才を過ぎてからの刊行で、彼自身の言葉によると、70歳前の作品は大したものが無かったと言ったそうです。

    今の世の中、人生百年と云われていますが、75歳を超えると後期高齢者と云って、最晩年のような感じを受けますが、葛飾北斎のような人もいるので、私もこれから、もつと先を見て、頑張りたいと思いました。

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かな文字の特徴

2019年09月09日 07時57分30秒 | エッセイ

・・・ラジオでの講演を聞いていて、私にとって、目新しく、面白いことを勉強した。
   その時の話し手は書道家であった。

   話の内容は、
   かな文字は漢字と違って、表音文字であるから、言葉として、いくつかのかな文字が続けて、一つの単語を表す。
   したがって、かな文字は原則として、字を縦に続けて書けるような形と筆順でできているという。

   即ち、かな文字は筆で書きやすいように、画数はニ画、三画からなり、最初は縦棒、横棒、点からなり、描き始めやすく、丸を書く時も、右上がりの楕円です。
   文字の最後のはらいや、止めは、次の文字につながるような仕組みに、なっているという。
    
   そういわれてみれば、昔のかな文字の文章は、筆で続き文字で書かれている。
   同じ、表音文字であるアルファベットも続けて書けるような筆記体の文字が存在する。

   今まで、考えたこともないことがらなので、こんなこともまた、勉強してみたいと思った。

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水面の泡沫

2018年08月09日 06時00分06秒 | エッセイ

・・・新聞のコラムにこんな話がありました。

   日本の著名な生物学者が、鴨長明の方丈記の冒頭の文章について述べている、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」。
   私が彼の文章を読んでの感想を簡単にまとめて書くと「この文章ほど、生命の動的平衡を的確に表した文章はない」と、新聞に書いていた。

   生物学者は、方丈記の内容と異なることを感想として、書いているが、その理由は生物の細胞は物質を合成することより、分解することをを重要視しているらしいことが最近分かってきた事によるとさらに書いている。
   鴨長明は方丈記で、不思議と川面のよどみの泡の消える事を、発生することより、先に文章に書いているからだそうです。
   
   人の考えと云うのは面白い。  同じことを、見方を考えると、面白いことが世の中にこのほかにも、いろいろとありそうです。

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