まにあっく懐パチ・懐スロ

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(90年代のパチンコ・パチスロ情報がメイン)

ラプソディ(西陣、権利モノ)

2013-03-28 18:25:01 | 権利モノ

1993年(平成5年)に西陣から登場した2回権利モノ「ラプソディ」

★賞球…7&15

★出玉…約4600個(2回権利時)

★サブデジタルに「77」で10回権利(約22000個)


当時、一発タイプの権利物として、各地で人気を博した。サブデジ「77」=2万発オーバーの魔力にやられた中毒者も、後を絶たなかった。都内・神奈川での設置はかなり多かったと記憶する。

 

(ゲーム性フローチャート)

(1)天横から、盤面上部(天下)の一穴クルーンに入賞させる。

(2)クルーン下のタテ型6穴回転盤のV穴に入賞させる(振分け率…1/6)。

(3)V入賞後、左の二桁サブデジタルで権利回数を決定(※註)。「77」で10回権利、その他は2回権利。

(4)権利発生後は右打ち。右回転体と下段アタッカーの連動で玉を増やす(16ラウンド)

(5)16R終了後も右打ちを継続。右回転体下の「START」チャッカー通過で、その下の二桁ミニデジタルが回転する。ここに「77」が出ると、クルーン下の電チューが開放(5.8秒or5カウントまで)。回転盤に玉が3個入れば、2回目の権利獲得は確実となる。

 

(※註)サブデジタルに「77」で10回権利だが、9回目の権利時に再びサブデジタルの抽選が発生する。ここで「77」が出ると、19回、28回、37回…と権利回数が延々と伸びる可能性もあった。運が良ければ、一撃10万発オーバーも可能なスペックだったのだ。但し、サブデジに「77」が出る可能性は「1/16」。


 

(現役時の思い出)

はじめて本機と出会ったのは、私鉄O線・M遊園駅北口の「銀座ホール」という店だ。

確か、スロの4号機「トロピカーナ」(ユニバーサル)を打っていて、さんざん揉まれた挙句に飲まれたので、フラッとパチのシマに移動したら、まだ新しい盤面の本機が1シマズラッと並んでいた。

その時の第一印象は、「お、ハネモノのニューナパームみたいなヤクモノの台があるぞ」というものだった。

実は、本機が登場する以前、同じ西陣から「ニューナパーム」(1992年)というハネモノが出ており、私はこの台が大好きだった。ニューナパームの役物は、本機と同じ「縦型の6穴回転体」(うち一つがV穴)になっていて、この回転体と両脇にある「発射装置」が織りなす玉の動きに、私はすっかり魅了されてしまった。


西陣「ニューナパーム」(1992年、新要件ハネモノ)※出玉の少ない兄弟機「P2」も存在。

 

で、そのニューナパームの回転体を彷彿とさせるラプソディに遭遇して、初見ながら何となく親近感を覚えたのだ。ただ、シマの様子には、ハネモノコーナーのようなマッタリ感はなく、かつての一発台コーナーで体感した「鉄火場」的な雰囲気が漂っていた。

私は、この店で一発台の「キャラバン」「ジャスティ」「ファミリー」にハマった時期があり、ラプソディに出会った事で、「あの一発の興奮よ、再び」という懐かしい感覚が湧いてきた。

以来、スロで調子が悪い時など、「運試し」のような感覚で、本機にしばしば座るようになった。銀座ホールのラプソディは無制限で、釘はそれ程甘くはなく、大当りへの道は楽ではなかった。さらに、かつてこのシマで味わったほろ苦い思い出も蘇る。

ある日、スロ勝負を終えてラプソディのシマに行くと、どこかで見たような顔の若者がシマに陣取っていた。良く見ると、その男は小学校の時に同級だった「K」という友人に良く似ていた。「似ていた」というより、あれは明らかに「K」本人だったと自信を持って言える。銀座ホールのあるM遊園駅は、当時の地元だったY駅から二つ隣りだったので、こんな「ニアミス」も起こり得ることではあった。

その時、「よっ、久しぶり」と、Kとの再会を喜び合えば良かったものを、私は「パチ屋」という場所での再会に妙なためらいを感じて、声をかけそびれてしまった。小学生の時分に「真面目な優等生」で通っていた私には、大学の講義をサボって地元近くのホールでKと鉢合わせたことに、何となく引け目を感じたのだろう。一方のKは、至近距離にいた私に気付くこともなく、黙々とラプソディのカド台を打ち続けていた。

結局、その日以降、私は銀座ホールのラプソディのシマに寄りつくことはなかった。ただ、銀座ホールの近くには「スター」という系列店があり、ここにもラプソディ(一回交換)が置いてあったので、その後は専ら「スター」で打つようになった。

「コチラの店にもKが来たら、どうしようか…」と、いつもドキドキしながら玉を弾いていたが、結局「スター」でKと会う事はなかった。そして、スターに何度か通っているうちに、待望の「77」を引くことも出来た。サブデジタルで「7」のリーチが掛かり、何周かして右デジタルが「7」で静かに止まった瞬間の衝撃は、今も忘れられない。

当時は「2.2円交換」とレートが低く、金額にして5万円ほどの勝ち額だったが、なにか天下を獲ったような優越感に浸る事が出来た。財布の中身がおぼつかない学生時代だったので、なおさらのことである。

 

回転体タイプの宿命である「ドツキ」や「回転盤の周期を狙った止打ち攻略」などで、最後は丸裸にされた感のあるラプソディ。だが、間違いなく平成のパチンコ史に名を残した「名機」であろう。