ぶらり一人旅と趣味の世界

気まぐれ日記
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お気に入り 猫との出会い

よくある光景・・・対照的

2014-04-29 | 歴史

 

沈没船事故で被災者家族号泣 震災で泣かぬ日本人に韓国人驚く- NEWSポストセブン(2014年4月28日07時00分)

「なんで助けてくれないの」と泣き崩れる母親に、「何千人でも投入して今すぐ助けろ」と怒鳴る父親……高校の修学旅行生ら数百人規模の犠牲者を出した韓国のセウォル号沈没事故は、日本にも大きな衝撃を与えた。とりわけ日本人にとって印象的だったのは、被災者の家族らがこのように、あたりもはばからず、激しく号泣する姿だった。

 家族らの激情は、政府への怒りに転化し、慰問した朴槿恵大統領に対して「嘘つくなこの野郎!」「こんなところに来ないで早く対策を立てろ!」と罵声を浴びせるほどだった。

「自分にはここまでできない」──おそらく多くの日本人がこう思ったはずだ。3年前の東日本大震災では、被災者や遺族らが心痛を押し隠す姿、不平を洩らすことなく耐え忍ぶ姿が目に付いた。

 人災としかいいようがない今回の沈没事故と、地震・津波という自然災害とではもちろん比較はできないが、日本では、こういった事態に際して感情を抑え、「気丈に振る舞う」ことが美徳とされてきた。震災当時、韓国人らは逆に、「なぜ日本人は泣かないのか」と驚いたという。

 この違いはどこから生まれるのか。これは決して、どちらが良い・悪いという話ではない。両国の間の文化的ギャップが、象徴的に現われているのである。

 

国民性ということでしょう。 


なかなか・・・新しい時代が?

2013-12-10 | 歴史

新しい時代が・・・・・・

中国や韓国の大使・首相では・・・ありえないことですが。 

 

 

 

○○ケネディ大使が長崎訪問=原爆資料館を視察- 時事通信(2013年12月10日12時27分)

 キャロライン・ケネディ駐日米大使は10日午前、被爆地の長崎市を訪問した。ケネディ氏は1978年に広島を訪問しているが、長崎訪問は初めて。

 大使は長崎原爆資料館を訪れ、出迎えた田上富久市長と笑顔で握手。その後、長崎原爆での被害の実態や投下直後の惨状を示した展示室を視察し、被爆者の土山秀夫元長崎大学長(88)らから被爆体験などを聞いた。

 視察後、ケネディ大使はメッセージなどを書き残す「芳名録」に記帳。記者団に対し「資料館への訪問で、核軍縮の取り組みへの思いを新たにした」と感想を述べた。視察中、大使は終始メモを取りながら真剣な様子で、土山氏は「被爆者の米国に対する気持ちをくみ取ろうとしているのがよくうかがえた」と話した。 

○○

ケネディ駐日米大使、長崎訪問 就任後初「心動かされた」- 共同通信(2013年12月10日10時10分)

 キャロライン・ケネディ駐日米大使は10日、被爆地の長崎市を訪問した。原爆資料館を視察し「深く心を動かされた。可能な限り、被爆者の活動を支援していきたい」と所感を述べた。11月の大使就任後、被爆地を訪れるのは初めて。

 ケネディ大使は資料館で元長崎大学長の土山秀夫氏(88)ら被爆者3人と懇談。「核軍縮に向けてさらに努力すべきだと感じた」と述べたという。大使は視察後、父親のケネディ元米大統領が核軍縮プロセスを始めたことに触れ「オバマ大統領も核軍縮に向け尽力している」と強調した。

 

 


石川啄木の再評価

2013-03-05 | 歴史

 

 

 

 

 

僕は文学青年でもないし、・・・あまり、小学校・中学・高校時代も本は読みませんでした。勿論、マンガなども。読むのも遅く、文系は苦手でした・・・。

でも、高校の試験期間などに、勉強しないといけないのに無償に読みたくなったり、大学時代、講義の合間に、一人、図書館で本を読んでいたことあります。

高校以前だと、武者小路、福永武彦、学生時代だと、ハイネ、若山牧水、・・・・

石川啄木は少し、かじった程度。

最近、入門書的雑誌を購入したんですが、石川啄木・宮沢賢治・山頭火・・・など。

そのなかで、啄木に関して、・・・「時代閉塞の現状」という記事を発見して、あらためて、石川啄木の偉大さを痛感したわけです。

「抒情」の発見、「ふるさと」の発見、「暮らし」の発見、とともに、「時代閉塞」という政治思想的な発見・・・?

 

 

 

 

 

 

 

 


明治14年の政変

2013-03-05 | 歴史

 

 

今回、初めて中津へ行ったんですが、福沢諭吉の出身地・・・初めても発見。

これは、今の日本の問題の原点かもしれません。いわゆる、官僚主導の政策・・・政党は見せかけだけで、実際は官僚支配という今日の状況の原点かもしれません。

慶応・早稲田などの民間にたいして、東大などの官僚の構図が見えてきました

 

 

 

 


海賊・・・行為!

2013-02-27 | 歴史

表現としては、ピッタリ! 

 

○○シー・シェパードは「海賊」、米控訴裁が認定- AFPBB News(2013年2月27日14時42分)

【2月27日 AFP=時事】米第9巡回控訴裁判所は25日、反捕鯨団体シー・シェパード(Sea Shepherd Conservation Society)を「海賊」として認定し、日本の調査捕鯨従事者によるシー・シェパードの提訴への道を開く決定を下した。

 第9巡回控訴裁判所のアレックス・コジンスキー(Alex Kozinski)裁判長は、海賊になるために「義足や眼帯は不要」と述べ、日本の捕鯨従事者に不利な決定を下した下級審の判断を覆した。また同裁判長は捕鯨従事者を「調査員」と呼んだ。

「船で体当たりし、酸の入ったガラス瓶を投げつけ、金属で強化したロープを海に投げてスクリューや方向舵の損壊を試み、フック付きの発煙弾や閃光弾を撃ち、強力なレーザー光線をほかの船に向ける者がいれば、それは疑いようのない海賊だ」(コジンスキー裁判長)

 シー・シェパードは長年にわたり、南極海で行われる調査捕鯨を妨害してきた。日本鯨類研究所(Institute of Cetacean Research)などは、公海でのシー・シェパードの活動禁止を求める訴訟を米国で起こしていた。

 第9巡回控訴裁判所は今回の判決で、日本鯨類研究所によるシー・シェパードの提訴を認め、裁判を一審とは別の地方裁判所判事に差し戻すべきとの判断を下した。(c)AFP=時事/AFPBB News


美保関事件

2012-11-21 | 歴史

今回の一人旅での発見のひとつとして、美保関事件というのをしりました。

海の八甲田とも呼ばれる、海軍の事故らしいですが、真相は隠されたまま・・・・・

美保関灯台の展望所の近くに、この碑がありました。ほとんどの人は見ることなく、通り過ぎてしまいますが、僕は観光地のこういう、さりげない碑などはなるべく見るようにしています。

歴史ではなかなか教わらない、その土地土地の埋もれた歴史が発見できたりすることあるので。

五本松公園には慰霊碑がありました。・・・・でも、かなり風化していましたが。 

 

 

 

 

昭和2年8月24日深夜、旧日本海軍が軍事演習のため連合艦隊の戦艦「長門」、「陸奥」、空母「加賀」など 63隻が美保湾を埋め尽くし、大演習を行った際に軽巡洋艦「神通」と2等駆逐艦「蕨」、軽巡洋艦「那珂」と2等駆逐艦「葦」が二重衝突を起こし、119人が犠牲となられた。

 

 


目には目を

2012-09-29 | 歴史

尖閣批判にはチベットを! 

 

「中国のものだ」尖閣問題で米主要紙に全面広告- 読売新聞(2012年9月29日11時51分)

 【ワシントン=中島健太郎】中国の英字紙「チャイナ・デイリー」は28日付のワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズなどの米主要紙に「釣魚島(尖閣諸島の中国名)は中国のものだ」という見出しの全面広告を掲載した。

 広告は、尖閣諸島が「古来、中国の領土で、争う余地のない主権を中国が有している」とし、「日本による『国有化』は中国の主権を侵害し、反ファシスト戦争の結果を拒否するものだ」などと、中国政府と同様の主張を展開している。

 藤崎一郎駐米大使は28日の記者会見で、広告掲載について、「一方的な意見を米国の主要紙が大きな形で取り上げることは誤解を与える」と述べ、ワシントン・ポスト紙に抗議したことを明らかにした。各地の総領事館も、広告を掲載した新聞社に抗議した。

 

 

反論・・・「チベットはチベット人のものだ、中国人は出て行け! 」

 

 

 ○ 引用・・・・○

誰が歴史を書いたかで歴史は大きく違う。中国の歴史は明らかに漢民族(漢族)の歴史だ。漢民族は中国語を話し、漢字で歴史と文化を残している。中国は56の民族が存在するが、92パーセントが漢民族。これに中国以外に生活する華僑も加わり漢民族の文化圏は広大だ。中国の少数民族問題というのは、漢民族以外の問題をいう。

もっとも漢民族が統一民族かどうかは断定できない側面がある。同じ中国語でも標準語以外に広東語、上海語などの方言があるが、日本の方言のように想像ができる域ではなく、お互いにまったく通じないと言われている。衣食住も北と南では大きく違う。しかし、中国のナショナリズムの中では他国の民族に対し漢民族の意識は強く、少数民族に対しる意識の中でも漢民族という意識ははっきりとしている。

中国では圧倒的な存在の漢民族なのだが、歴史の中では挫折もあるし優越性ばかりを語れない多民族国家の弱さもある。中国の歴史はひとつの王朝が統一する歴史と複数の王朝が乱立する分裂の歴史が繰り返されているが、漢民族がその主役を演じて中国の歴史を築いてきた。

ところが、重要な局面で漢民族以外に征服されている。それは二つの時代があり、ひとつは「元」。チンギス・ハーンがモンゴル諸部族を統一し勢力を拡大する中で彼の孫であるフビライ・ハーンが南宋を滅ぼし中国を征服した。巨大なモンゴル帝国の支配は西と東を安全につなぎ、貿易や文化の交流が盛んに行われた。マルコ・ポーロの東方見聞録はこの時代に書かれ、モンゴル帝国の繁栄はヨーロッパに広く伝わった。また同じ騎馬民族のチベット族が信仰したラマ教(チベット仏教)が宮廷では盛んになり各地に寺院が建立された。

たまたま「元」という国号を使ったから中国の歴史にうまく組み込まれているが、この時代はモンゴル人あっての中国で、今までの中国の歴史はここで終わってもおかしくないものだ。

約一世紀後に漢民族が明王朝を起こしてモンゴル勢力を北方に追いやったため中国は再び漢民族の歴史に戻った。漢民族が歴史をつづる時点で一時的に「モンゴル王朝」が中国を治めた歴史になったが、恐らく、モンゴルの歴史の中ではモンゴルが中国の歴史に出入りしたという意識はないはずだ。

もう一つは、日本とも深く関わる「清」だ。漢民族の「明」を満州族の「清」が征服する。清はオランダ人を追い出し台湾を領有し、モンゴルやチベット、東トルキスタンのジュンガルと勢いよく支配を広げた。中国人の象徴のように後頭部以外の髪を剃って後頭部の頭髪を編んで流している辮髪は満州族の風習で、これを漢民族に強要したのがこの時代だ。従わないと死刑にさせられたので清が滅びるまで続いた。

清はアヘン戦争をイギリスにより仕掛けられヨーロッパ列強による植民地化の危機にさらされた。これに日本とロシアが加わり、日本は日清戦争をおこし多額の賠償金を清に払わせることになると同時に台湾を領有した。清朝は外国勢力に国土を売る結果となり中国分割の不安は民衆の闘争を呼び起こすことになった。辛亥革命はこの流れに従うように起こり、中華民国建国のきっかけとなった。中国の王朝支配の歴史はここで終わる。革命の始まりは人民の発起とされるが、その根底には満州族の支配に対する漢民族の反発があったとされている。

もうひとつ、漢民族の優越性をストレートに語れない多民族国家の弱さは、支配が引きずる傷だ。たとえば、少数民族の一つに数えられている朝鮮族は、日本が朝鮮半島を統治する20世紀初頭に逃れてきた朝鮮人が中国に移住した人たちもいれば、明から清の時代に戦争捕虜として連れてこられた人々の子孫もいる。その中で漢民族との融合を図っているのだが、どこに朝鮮族のアイデンティティを求めたらいいのか、まだ乗り越える途上にある。

さらに、中国で圧倒的な多数を占める漢民族は、広大な領土の中では南東の半分に居住していて、残りの半分は少数民族で形成されている。また、それにつれて中国語圏も国土の東半分で西半分はチベット・ビルマ語派が占めている。数の上では多数を占めている中国語を話す漢民族は、領土の観点からすれば中国の半分ということになる。

中国の少数民族問題は実に複雑で、チベット問題も宗教の自由と民族自立の観点から解決すべきだとするのはキリスト教的な西欧文明の歴史観から言えることで、漢民族中心の歴史から見れば、まだ途上の問題だ。外部からの解決策がことの本質を解決できるはずもない。

参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2008:「中国」「辛亥革命」「朝鮮」「漢民族」 

 

**

中国人の理屈でいうと、彼らの周りの土地・海域はすべて自分達のものであるということにないかねません。

一体、いつから中国領土という理屈になるのか、はっきりわかりませんが、今の中華人民共和国という国がでは、いつから中国を統治していたのか。勿論、他民族国家で、少数民族のことなど無視、また漢民族でも言語がかなり異なり、何をもって中国というのか。過去に、多くの王朝が交代し、他民族に支配されたことも。

今の中華人民共和国と、過去の王朝の間に中国という統一国家の正当性が継承されているのかすら不明。何を持って過去からズート中国領土という理屈が成り立つのでしょうか。

日本のように、島国で、他民族から侵略されたこともなく、ほぼ一貫して、同じ歴史観・言語のもと、存続してきた国とはちがうと思います。勿論、アイヌ・琉球など多少は少数民族の問題は、あるわけですが。

仮に、中国というものが、過去の歴史から引き継がれて、 国際的に認められたとしても、その支配・勢力地域はその時代により変化し、異なる可能性大!

尖閣列島は中国領という正当性を証明することなど困難です。中国という概念すら何を持って中国、中国領土というのかすら・・・規定できないわけですから。

今の中国と清・明・元・宗・・・などが同じかどうか? 別の国家ともみれるかもしれません? 

 

19-20世紀以降でしょうが、普通は、国家間の条約締結などをもとにして、国境線を画定する以外、明確な証明手段はないんです。 

 

アメリカはインディアンのものだ!という理屈すら成立するわけです。でも、それを認めるわけにはいかないわけです。

ロシアの広大な領土も、ロシア人が南方・東方に進出して、ここはロシア領だと宣言したんでしょう。でも、そこには、少数民族が存在していたはずで、でも、彼らの権利は歴史上・抹殺されてしまって、歴史からは葬られ存在しないわけです。占領した、征服したものの理屈で、歴史がつくられているわけです。

ロシアは、アラスカをアメリカに売ってしまったんですが、今のロシアが、アメリカにあの頃の王朝が勝手に売ったので、ロシアに返せ!・・・などということはありえません。そこには、歴史上、ちゃんと条約として締結したという、事実が存在するから。

 

今の尖閣列島の問題も、国際法上の手続き、あるいは条約としてちゃんと残っているか、締結した事実が存在するかが重要なはず。

それを無視するならば、力で自分の領土をいくらでも拡張できることに・・・過去に支配していたと、勝手に言いがかりをつけて。

その過去は、今のあなた達と継続性すら疑問なんですが。 

 

下関講和条約、ポーツマス条約、千島樺太交換条約、日露不可侵条約、サンフランンシスコ講和条約・・・など。 それを無視するならば、無法者国家というしかなし!

恥ずかしいと思いますが。世界の笑いものになって、軽蔑されることを期待したいです。 

だいたい、近代以前・・18世紀以前ぐらい・・・国境など、大体の勢力圏ぐらいで、はっきりなどしていなかったはず。中国でも、時代時代によりその支配王朝の勢力範囲はかなり違いあり。また、地域の住民は、お互いに交易をして、共存共栄していたわけです。明確な国境という概念すらなかったかもしれません。

中国でいえば、その勢力圏として、はっきりとしたものとして残っているのは、万里の長城かもしれません。見方によっては、万里の長城より以北は漢民族の勢力圏とはいえないあいまいな共存共栄・・緩衝地帯のようなものかもしれません。 いいかえれば、中国というのは、漢民族が少数民族を支配する植民地帝国のようなものかもしれないわけです。漢民族が少数あるいは地方の弱小民族を支配する(チベット、満州・・・・)・・・非民主主義的、共産党独裁国家!

彼らに、尖閣列島を、侵略とか不法占領とかいう資格すらないわけです。 彼ら自信が、少数民族を支配・その領土を占領しているわけですから。

こんな国が、国連常任理事国をとして、大手を振って日本を非難する資格など毛頭ないわけです。 

 

 ○○追記・・・10/22(月)

嘘つきと裏切り 日本人は「恥ずかしい」で中国人は「賢い」
2010.12.24 10:00

櫻井さんの記事より・・・・・

尖閣問題を受けた世論調査では、現在の日中関係を「悪い」と回答した人が実に90%にのぼり、87%の人が中国を「信頼できない」とした。だが、ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、中国の「嘘と裏切り」が、その軍事力・経済力を背景に、新たなフェーズに入ったと指摘する。

* * *
1978年4月、その夏の日中平和友好条約締結を前に、100隻以上の武装中国船団が尖閣諸島付近で領海を侵犯。当時、


駅の位置

2012-09-21 | 歴史

地方に行くと、繁華街・市街地と駅が離れていることが、よくあります。駅から、歩いて20-30分とかバスなどで行かないとならないところも。

実感した・行ったことある都市としては、米沢・松江・松山など・・・・・・恐らく、かなりの多くがそうかも?

その理由がよくわかりませんでした。もう、明治維新後、あらたに鉄道を通すのに、市街地・繁華街への鉄道敷設ができないので・・・?とも、思ってました。

勿論、それもあるんでしょうが、このあいだ、呉で観光循環バスに乗って、ボランティアガイドさんの解説を聴きましたところ・・・・SLの煙とススで、みんな迷惑するので、市街地から離れたところに駅・鉄道を作ったということらしいです、少なくとも呉では。大きな都市ではそうもいかないでしょうが、地方の城下町などではそうなのかもしれません。

ついでに、呉は太平洋戦争末期、アメリカ軍の空爆を受けたわけですが、あえて、海岸の港湾施設のある一体は空襲しなかったらしいです。恐らく、占領後にアメリカ軍が利用できるように、あえて空襲しなかったのではないか、ということらしいです。 


会津の悲劇 歴史の裏側

2012-09-12 | 歴史

○○

リヒヤルト・ハイゼに関しての引用・・・以下  今回、飯盛山の観光ボランティアガイドさんより、ハイゼさんに関して、はじめて説明を聴けました。 

白虎隊の墓のある広場に、ドイツ・イタリアから贈られた、記念碑・塔があります。戦前の三国同盟の影響もあり、戦後・進駐軍により、一部・削られたり、破壊されているようですが。でも、日本の一地方のことがヨーロッパから、どうして?賞賛されたのか・・・・

それを紹介にたのが、この、ハイゼさんということらしいです。ハイゼさんは、ここに、希望して葬られているそうです。 本人と、お子さんも、日本人と結婚・・・

 

 

 

『リヒャルト・ハイゼ物語 白虎隊の丘に眠る或るドイツ人の半生』
 ■

知られざる歴史明かす労作


 福島県会津若松市の飯盛山(いいもりやま)といえば、白虎隊の墳墓の地として有名だ。

 この山に上ると、時に地元の人の口から「ハイゼ先生」ということばを聞くことがある。本書は、今は飯盛山の一角に眠るその「ハイゼ先生」ことドイツ人リヒャルト・ハイゼ(1869~1940年)の評伝である。

 バルト海に面した軍港キールの生まれ、キール大学を病気中退後、志願兵として軍務についたハイゼが来日したきっかけは、1901(明治34)年、ロンドンで英語教育の先駆者である神田乃武(ないぶ)高等商業学校(現・一橋大学)教諭と知り合い、同校のドイツ語講師として呼ばれたためらしい。翌年、34歳にして初来日したハイゼは、お雇い外国人の特権というべきか、松方正義、井上馨、山県有朋ら明治の元勲たちに会見。時代相を理解する一方で、日本の近代革命の裏には、戊辰戦争、西南戦争といった悲劇が隠されていたことも知るのである。

 特に会津藩白虎隊の生き残りの東京帝国大学総長山川健次郎から「白虎隊の悲話」について教えられたことは、プロイセン仕込みの軍人教育を心がけてきたハイゼに強烈な印象を与えた。

 ある夏、会津若松を訪ねて「白虎隊の丘」に上ったハイゼは十九士の墓前に佇(たたず)み、「若き英雄たちの精霊らしきもの」の幻影を見る。かれが感動したのは、白虎隊の少年たちがゲルマン魂にも通じる忠誠心をもって死を怖(おそ)れることなく行動したからであった。

 そこからハイゼは武士道について考察し、清らかさを愛でる神道、敬虔(けいけん)さを重んじる儒教、人間性を賛美する仏教がその根底にある、と結論づけるに至る。かれは1924(大正13)年に帰国するが、ヨーロッパの物質偏重主義になじめず、1937(昭和12)年に数え69歳にして日本を再訪。白虎隊の墓にも参拝し、その3年後に北京で客死すると、遺言によって飯盛山に葬られた。

 細い糸と糸を紡(つむ)ぎあわせるようにしてハイゼ一家の歩みを初めて跡づけた本書は、地味ながら好感の持てる労作である。(瀬野文教著/中央公論新社・1995円)

 

○○

「道は一筋なり」・・・・・郡上八幡 

 

 郡上八幡から、脱藩して、応援に・・・

○○

 

 

  

バルトの楽園の主人公

 

 

 

 

 

 

 

★★

そもそも、会津の悲劇は、幕末、京都守護職を拝命したことから、始まるのでしょう・・・

幕末、あるは、もう江戸・中期には、徳川家の権力は、ただの、中央主権体制の形だけで、軍備・教育において、地方のむしろ、外様の長州・薩摩などが、はるかに・・・力があったかも。

江戸時代というのは、中央集権というのは参勤交代などの形だけで、実態は地方分権で、地方の有力藩の方は、幕府より実態はむしろ、優勢だったかもしれません。教育・人材・近代化・武力・・・など。

 幕末、長州征伐も、幕府は命令するだけで、実戦部隊はすべて他藩の寄せ集め・・幕府の本体なるものがはたして存在したのか、軍艦以外において。

幕末・維新後の人材でも、勝海舟・榎本孝明ぐらいしか、歴史には出てきません・・・・・官僚組織のような感じに?

京都守護職も、幕府みずからはないわけですから。自分ですればいいのに、代わりにしてもらうしか力がないということ! 

ただ、命令するだけの、親方日の丸と同じ・・・

 

会津藩は、この苦境を幕末・から・・・ズート背負い続けてきたのでしょう・・・

でも、喜多方駅で約1:30分ぐらい、駅で見てましたが、学生など、駅員さんにちゃんと挨拶するし、座りこんでいる人など一人もいません。教育というのがいかに大切かということでしょう。 

 

会津の悲劇というのは、今の時代の官僚の無責任体制にだぶって見えてしまうわけです。最後まで、信念を貫いたのは、幕府ではなく、会津だったわけですから。 

来年の「八重の桜」では、そこらへんを忠実に描いてほしいですが。 

会津の悲劇は、また、福島の悲劇にも、だぶって見えてしまいます。

でも、この、苦境から、また人材が育ってくるんでしょう・・・それを期待したいと思います。 

 

 

 

 


長浜にて

2012-08-22 | 歴史

直流と交流に関して・・・鉄道スクエアー

 

明治政府は、敦賀-長浜間の鉄道建設を急いだその理由は、北陸と関西の物流もあるでしょうが、恐らく、対ロシアの関係があるのでは?

明治の鉄道建設の優先順位は、経済上と軍事上であったのだと思います。経済上では、大都市間のみならず、資源確保の観点から、石炭などの輸送経路として、優先的に建設されたものもあるようです。 

 

 

直流と交流・・・昔は交流・・・最近は直流!

問題は長距離列車で、交流と直流の区間を運行する場合・・・ディーゼルにするか、交直両用の機関車にするか?

大阪から敦賀まで、新快速が延長・運行になりましたが、これは、直流区間が敦賀まで延長されたから。 だそうです。そういゆう、具体的なことは一般の人は知りません。ただ、サービス向上のダイヤ改正ということで。

ちなみに、どうして、JRでは新快速とか、快速とかいうのか?

それは、特急とか急行とかいうと、特急・急行の運賃が発生してしまうんです。国鉄時代からの延長でしょうが、特急や急行はその特別運賃が決まっています。ですから、実質は特急や急行と同じレベルなんですが、新快速・快速などと言っているんだと思います。・・・私的見解。・・ 

 

 

 

長浜の発展に寄与したのは、秀吉・・ということらしいです・・・富国神社もあり。

安藤家には櫓山人が滞在。 

 


驕る、韓国、久しからず!

2012-08-18 | 歴史

2012-08-18
おごる韓国、久しからず [ 編集 ]
カテゴリー: 日記急激に失速する韓国経済 輸出急ブレーキ、住宅バブル崩壊- J-CAST(2012年8月17日18時50分)

韓国経済が急激に失速している。一番の原因は、これまで韓国経済を引っ張ってきた原動力である輸出に陰りが見え始めたためだ。

輸出に次いで内需の鈍化も懸念されている。住宅価格の下落とそれに伴う消費や投資の抑制がみられ、バブル崩壊以降日本が苦しんだ「日本型長期デフレ」の兆候が現れている、との指摘も少なくない。
好調に見えたのはヒュンダイやサムスンだけ

韓国の輸出は、2012年7月の通関ベースで前年同月に比べて8.8%減と大きく減った。マイナス幅は3年ぶりの高い数値だという。

これまで韓国の輸出をけん引してきた自動車の輸出が頭打ちになったのをはじめ、船舶や石油化学製品、携帯電話など主力製品の輸出が急速に落ち込んだ。

韓国の輸出額は国内総生産(GDP)対比で50%を超える。「輸出国」といわれる日本でもGDP対比では10%半ばだから、輸出依存度の高さは圧倒的だ。そのため、輸出の不振は即韓国経済の失速に直結する。

なかでも韓国経済を支えてきたのが欧州連合(EU)向けの輸出。EUとは自由貿易協定(FTA)を結んでいる。そのEU向けが12年1~6月期には前年同期に比べて16.0%も減った。EU諸国の債務危機から発した景気低迷が影響した。

さらには中国向けも1.2%減った。第一生命経済研究所経済調査部の主任エコノミスト、西氏は、「中国向け輸出の減少はボディブローのように効いています」と話す。韓国の素材や部品メーカーは中国を介して、間接的にEU向け輸出を増やしてきたからだ。

急激に輸出が悪化した原因を西濱氏は、「韓国はヒュンダイやサムスンといった大手企業が輸出をけん引してきました。それらの企業の業績が好調だったから韓国経済も好調に見えてきたといってもいいでしょう。大手と中小の格差は大きく、いわば弱肉強食の状況を抱えた、いびつな成長してきた危うさがそもそもありました」と説明。そうした矛盾や弱点が表面化してきたとみている。

悪い材料はまだある。これまで安かったウォンが上昇してきたのだ。ウォンは5月に1ドル1180ウォンの高値を付けたが、8月1日にはその時からさらに5%上昇し、1ドル1126ウォンとなった。ウォンの上昇が輸出に少なからず影響してきた。
住宅ローンの負担増で消費冷え込む

韓国経済の低迷は、ソウル市内などにおける住宅市況の悪化も大きく影響している。日本総合研究所によると、「韓国では投資目的での住宅購入が多い」という。値上がり期待で借金して購入した住宅の価格下落で、消費意欲も失いつつある。さらに金利が高止まりしているので、家計の住宅ローンの返済負担が増えて重く圧しかかっている。

実質所得の伸び悩みや、消費者ローンにあたる、ノンバンクの家計向けローンの不良債権比率も上昇しているという。

前出の第一生命経済研究所の西氏は、「韓国にも、かつての日本のような住宅神話がありますからね」と話し、不動産バブルの崩壊に伴う消費低迷を懸念する。

そういったインフレ圧力の低下と景気減速を受けて、韓国銀行(中央銀行)は7月12日、約3年半ぶりに政策金利を0.25ポイント引き下げた。「今後の追加利下げの可能性も高い」とみている。

西濱氏は、「輸出の不振で貿易収支が悪化すれば、1997年や2008年の通貨危機が思い起こされ、海外から外貨を呼び込みにくくなります。韓国にとってそれは避けたいから、輸出を増やすしかない。一方で内需を喚起したいが、低金利や財政負担で景気を下支えすれば、日本型の長期デフレのリスクは高まります」と指摘。韓国は大きな曲がり角に立たされているようだ。

 

** ウォン高の原因は、スイス中銀による、為替介入によるものかもしれず。 

 

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最近の中国・韓国の半日感情の盛り上がり?に関して 。

尖閣列島に上陸した連中は、ヤーサンなんでしょうか? 彼らの不例な態度を見て、同じ国民として、恥ずかしく思わないんでしょうか? 世界第2位の経済大国として、それにふさわしい品格が要求されるのですが、彼らにとっては、ルール・倫理観・理性など感じられず。これは、中国人全体にいえることのように感じます。交通違反、割り込み・・・など平気のようですから。

物まねし放題で、特許・著作権など無視、そのくせ、自分たちが世界中の商標などを登録して、自分のものにしてしまう。日本の技術協力でできた新幹線は逆に、自分たちが開発したといい、特許登録!

こんな国が、世界第2位の経済大国として、世界中を闊歩されては、世界中が迷惑。

韓国に関しては、大統領のこのところの、反日的・行動・言動。

ついには、「天皇陛下は韓国にくるなら謝罪すべき」などという・失礼さ!

だいたい、韓国の大統領に「天皇」のことをいわれる筋合いなどないんですから。大統領などとは次元の違う・存在なんですから。

僕は、学生時代から30代ぐらいまでは、思想的には左より、非武装中立、 ・・・・・

天皇制に関しても、天皇制を利用して、国粋主義・右よりの方向にもっていこうとすることには、反発してました。ただ、天皇は、明治以来、立憲君主制で、天皇自体は具体的に国政を指導したりすることはほとんどなかった・あくまでも議会などの決定を承認するだけ・・・・そういう、象徴的な存在であったようです。

天皇制はともかく、天皇は少なくとも、尊敬できる人であるということが、少しずつわかってきたように思います。戦後、あるいは震災後、国民を励ますために、忙しい合間に地方を回っている姿など見ると特に・・・

マッカーサーも、戦後、戦争責任を追及しようと思っていたんでしょうが、天皇陛下との会談後、逆に天皇擁護の方に考えが変わったように・・・・

彼らが、考えていた天皇とは、全く違うことがわかったんだと思うわけです。

ですから、韓国のただの大統領に、天皇が謝罪しろ・・などといわれる筋合いはない・・・・この発言に、我慢強い日本人も、いくらなんでの怒り爆発! 

もし、中国がイギリスに「エリザベス女王はアヘン戦争のことを謝罪すべき・・」と言ったら、大変なことになります。勿論、いいませんが。

それくらい、韓国の大統領の発言は問題では? 

大統領と、王や天皇は次元が少し違うんです・・・世界の常識だと思いますが。むしろ、内政干渉に値するかも?

イギリスやアメリカに訪問したときも、そんなこと言う人はいなかったし、でも、戦没者の慰霊はされたように思いますが・・それが礼儀というものでしょうから。 

韓流とか、k-pop とか、全く関心なんですが、そんなのもすべて吹っ飛んでしまうほうがいいのかも。 

 

元寇の時、高句麗は元とともに、日本に来襲、極悪非道の残虐行為あり・・・・・過去のこと言ったらきりなし。 

 

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追記・・日本側の抗議の親書をつき返す・・・・外交上ありえず!

韓国大統領が土下座でもしない限り、収拾はつかず! 

もう、同じ、反日なら、北朝鮮と変わりないので、韓国無視して、拉致問題を解決して、国交正常化でもしてしまえば? 

 

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2012.8.25

負けまして、おめでとうございます・・・・サムスンさん 

 

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韓国と中国は今は仲よしこよし状態。

でも、近い将来、北朝鮮問題をめぐり、対立激化する可能性もあります。驕る韓国久しからず。 


歴史の裏話・・・幕末・大洲藩

2012-07-19 | 歴史

 

 


 

 

坂本竜馬のブームぐらいから、大洲でも、幕末の時代の歴史の展示館がオープンしました。1-2年前はもっと活動されていたようですが、今は展示の資料ぐらいでしょうか?

大洲藩は松平の今治・松山・西条藩などの間の小さな藩ですが、以外と幕末に重要な役割を果たしたようです。有名なのは、坂本竜馬の「いろは丸事件 」・・・いろは丸は、大洲藩から坂本竜馬が借りたものとして。坂本竜馬とのつながりは、高知からの脱藩の道が大洲・・経由ということもあるのか?そこしかなかったんでしょう? 

大洲藩は幕末に、倒幕へと舵をとるわけですが、意外と、長州との関係もあったようです。

幕末、長州軍が京都へ向かう時に、西宮への上陸を助けたということが、展示資料からわかりました・・・。 

 

あと、長州・毛利に関して。

長州藩(毛利)・・・長州・本藩(本家)・・・萩藩 ≒長州藩

         ・・・長州・支藩(末家)・・・長府藩(長府毛利家)、徳山藩、岩国藩(萩は認めず)・・・・ 

長州藩というのは、広い意味では全体・・・狭い意味では萩藩(山口藩)ということらしいです・・・一般的には 

 

ただ、前にもいいましたが、歴史の教科書で、幕末になり急に長州という言葉・呼び方がでてくるので・・・・ 

 

新谷藩というのも、大洲藩の支藩なので・・明治天皇が東京へ行くとき・先軍・後陣を勤めたということ。