岸本晃の住民プロデューサーNEWS

日テレドキュメント、すでに住民ディレクターだった。

 熊本の民放時代には日本テレビの全国番組を色々と制作しましたが、良心的と言われていたNNNドキュメンタリー番組も制作しました。

 放送は日曜日の夜11時半で視聴率はあまりない時間帯です。が、とはいえ全国放送の番組ですから数%とはいえ数十万人が見ていました。タイトルは「俺達のいも」~朝焼けの農場の挑戦~ でした。全国から集まった青年達が10数名、藍より青い海で知られる天草の山の頂上近くを開墾し有機農場によるコミュニティを作リはじめていました。

 開墾と行ってもプロのみかん農家があきらめて手放した農地で大きな岩がごろごろしていました。それこそユンボーで岩を崩し力ずくの開墾作業が毎日のように続いていました。もう25年近く前のことでまだ無農薬や有機農業が知られていない時代です。共同宿舎を建て荒れ地でも出来るサツマイモから事業展開し西武百貨店にルートをつくるなど馬力がありました。

 リーダーは世界を2周半したと豪語する京都出身の元事業家でしたが彼が夢見たコミュニティはどんなものか?仲間と地域と融合できるか?日本に実現するのか?がわたしの関心事で貫くテーマでした。その頃から自分の取材に責任を持つために自ら姿を出してリポートしました。結局数年後にリーダーは事業を断念、仲間達も次々と挫折しますがわたしには何が問題だったのか、このような事業がなぜ実現できないかとの疑問がずっとありました。

 既存の地域というコミュニティと新しいコミュニティが交じり合わなかったのだろうと推察していました。地域住民から乖離してコミュニティはあり得ない、がわたしの結論でした。当時、芸術家や大学教授、彼らのような新農民が熊本各地に新天地を求めてやってきましたが地域住民との融合ができなかったのです。

 住民ディレクターという発想はこの頃からあって、まずは地域住民になること、「郷にいれば郷に従う」ことからじゃないと地域づくりの何事もはじまらないと考えました。主張よりは受容。住民ディレクターの地味ながらも確実な歩みの要になる精神は天草にしょっちゅう通う中、身体で覚えていきました。作業も手伝い、酒も大いに飲み、語り合う、わたし自身は今と同じやり方でしたが番組はオマケとは言えませんでした。

 テレビ局ですから番組制作に縛られ実際の生活や地域の動きに専念できない立場が次第に面倒になっていきました。放送が終わると次の番組制作が待っています。番組が終わってからこそが当事者としての自分が問われます。平成8年に局を退職して番組ではなくまちづくりをメインにして起業、ずっと今まで当時の気持ちを胸にやってきました。そして今、東峰村に暮らしています。


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