生麦沖で愛友丸に積まれた進駐軍闇物資は、静岡の焼津で降ろされた。
そして、その後の愛友丸の航海は至って順調であった。
北は北海道の函館や釧路あたりまで行った。北海道へは進駐軍の横流し物資を運び、帰りは北洋の海産物で船倉は一杯になった。
東北の塩釜、釜石、気仙沼あたりでは主に闇米を積み、降ろすのは生麦や追浜(三浦半島)など東京に近い港であった。
耕一は愛友丸の仕事を一生懸命やったので、機関長に信頼され、健さんや他の仲間にも可愛がられた。
やがて、一航海が終わるたびに機関長から給料を貰うようになった。
その給料の札束は、耕一が仕事に慣れるにつれ、次第に厚くなって行った。
半年後には、普通の勤め人がもらう給料の10倍以上の額を貰うまでになった。
「こんなにもらって良いのだろうか・・・・・」
最初、耕一は少し不安になったが、そんな気持ちは次第に消え、財布の中に札束が沢山入っているのが当たり前になって行った。
そんな耕一であったが、夜になると明子とのあの夜のことを思い出した。会うのが待ち遠しくてしかたがなかった。船がどこかの港に着くたびに、その想いを手紙に書いて明子に送った。
たくさんのお土産を抱えて耕一が明子を訪ねて行くと、彼女はいつも耕一の好物の茶碗蒸しや肉じゃがを作って待っていてくれた。そして一緒に風呂に入り、お互いの身体を洗いあった。
だが、二人の甘い夜はいつもあっという間に過ぎ、次の港へと愛好丸は慌しく出航した。
しかし、横浜に近い生麦や追浜に寄航した時は、船長は、4、5日そこで船を停泊させることがあった。
船長は横浜に家族が住んでいたので、そこへ帰る必要があたのだ。
そんな時は、当直を船に残して、みんな陸(おか)に上がる。
そして、海の男達は船旅の疲れを癒すため横浜の歓楽街へ遊びに行った。
その当時、野毛山界隈には金持ちが遊ぶ花街が復活しつつあり、また真金町や黄金町地区には庶民が遊ぶ遊郭なども整備されつつあった。
愛友丸の男達は、札束で膨らんだ財布をポケットに入れて、意気揚々と横浜の花街へと繰り出して行ったのだった。
続く・・・・・・
耕一にとって明子さんとの暮らしがそれへと進展するんでしょうか。
荒々しい船乗りの純粋な部分が見えますね。
やはり癒されるのは家庭でしょうか。
耕一さんのお財布の中がだんだん豊かになって、
お金が人を変えないでくれたら良いのですが・・・。
横浜の歓楽街、まさか行ったりしないですよね。
できれば当直であって欲しい。
早く明子さんと結婚して、横浜で暮らしたら良いのになぁって、思います。
やはり温かい家庭が一番だと思います。
でもその温かい家庭がなかなか難しいのですよね・・・・
夏雪草さん
うーーん、なかなか鋭いご指摘。
拙者の筆も鈍ってきそうです。
あぁ、元々それほど鋭くはないか・・・・