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「令」は「今」の誤りではないのか

2022-06-09 11:30:34 | 古典の解読

  わたしは自分のブログ『「令和」と万葉集』(2019年4月)の中で、万葉集から採られたことが明らかにされている元号「令和」について、その意味などに言及しています。その時に、「この文字は間違っているのではないか」という一つ大きな疑問が湧き起こったのですが、確信が得られないためブログの中で言及することは避けました。

 なぜそのようにしたのかということですが、確信がなかったことと、「令和」という元号にケチをつけることになるのを恐れたからです。私は「令和」という用字は令と和の立派な結びつきで素晴らしい意味を持っていると考えています。

 が、私の抱いた疑問をそのまま放置しておくことは、いくつかの万葉集の難訓歌を解読してきたという自負のある私には耐えがたいことのように思われ、ここに疑問の形で提出することにしたいと思います。

 

「令和」の「令」は「今」の誤字ではないのか

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

 

  現在の年号の「令和」(* 注1)は万葉集の歌の題詞から採られたことが明らかにされている。万葉集巻五 815番からはじまる32首の歌の題詞の漢文の中に「令」が出てくる。原文は次のようになっている。

梅花歌卅二首并序

天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也

  于時初春月 氣淑風梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香  加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封穀而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈   於是盖天坐地促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足  若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠

武都紀多知 波流能吉多婆 可久斯許曾 烏梅乎々岐都々 多努之岐乎倍米 (815番) (正月むつきたち 春のきたらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ) 

 この文章の前半をこなれた現代語に訳にしてみたい(* 注2)

梅の花の歌32首 あわせて序  天平2年(730年)正月13日、帥老(大宰府の長官の大伴旅人)の家に集まって 宴会を開いた。   時は、初春令月、気は良く風は穏やかである。梅は鏡の前で使う白粉のように白く咲き、蘭はにおい袋のような香りをただよわせている。(後の訳は省略し、32首の最初の歌、815番の歌とその現代語訳を次に示す)

正月むつきたち 春のきたらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ (815番) (正月となり、春がきたなら、このように梅を招き寄せつつ楽しくやろう)

  「令和」という言葉が万葉集からとられたという報道を受けて、万葉集の著作(『万葉難訓歌の解読』(泉書院刊 1992年))もある私は万葉集815番の歌とその題詞を原文で読み、手元にある数冊の万葉集の本(日本古典文学大系本万葉集など)の解説を精読した。その第一印象は「あれ、この“令月”はおかしくないか?」ということだった。  

 「仲春令月」という言葉がある。旧暦では1月(初春)、2月(仲春)、3月(晩春)が春にあたる。そして、「令月」は仲春の2月を指す言葉として使うのが普通である(と私は考えている)。『文選』の張平子の帰田賦に「於是仲春令月、時和気清」とあり、“仲春”とは2月のことであり、“令月”のことである。つまり、仲春=2月=令月ということになる。

 『文選』は朝廷での文書報告等をしなければならない当時の高級官僚にとっては必須の“辞書(用例辞典)”である。大友旅人や山上憶良などの“高級官僚歌人”にとっては日常的に使う“文章辞典”と考えられ、「仲春令月」の用例などは知っていたのではないか、と私には思われるのである。「仲春令月」を知っていたが敢えて「令月=良い月」の意味で使ったと考えられないことはないが、それなら別の表現でもよかったはずである。「よい」や「うるわしい」や「うつくしい」を意味する漢字から適切なものを選べばよいのに、と私は考えてしまう。たとえば、万葉集には使われていない漢字であるが、「劭」や「琇」を“うるわしい”や“うつくしい”の意味で使えばよい。(※「劭月」や「琇月」という言葉が漢語として用いられたことがなければ使うことは避ける可能性がかなりあるが・・・)

 万葉集の815番の歌のところでは「令月」は文字通り「良い月」の意味で使われており、“2月”を意味してはいない、と諸家は見ている。が、その考え方と「令」という用字に対する取扱いは果たして正しいのだろうか。

 初春と同じ意味で「孟春」という言葉があるが、現代の私たちは「初春」という言葉をよく正月に用いる。“初春=正月=(旧暦の)1月”である。諸家は「令月」の「令」が単に「良い:good、excellent」の意味で用いられており「令月」という二文字の結合で「2月:February」を意味していないとする。が、もし、“令月=(旧暦)2月”と言う意味で用いることが通常であるとすると、「初春令月」は、「初春(1月)は令月(2月)だ」ということになり、奇妙な並びになる。このため、諸家はこの場合「仲春令月」という連接の「令月」は「2月」を意味せず、文字通りの意味(=良い月)とする。

 当時の歌人たちは政府の高級官吏であり、文章には非常に敏感な(うるさい)人たちであったと考えてよい。彼らは文章(漢文)を書く仕事が多かった、というよりそれが彼らの主要な仕事であった者も多かったはずである。彼らの手元には詩文集の『文選』や字書の『玉篇』や百科事典に相当する『芸文類聚』などがあったと思われる。これらの辞書類を参照しながら万葉歌人たちは漢文を書き、万葉仮名で和歌を書いたのだ(『玉篇』の原本の完全なものは中国にはなく日本にしか残っていなかった)

 したがって、「仲春が令月で2月」であり、「1月は正月で初春、または孟春」であることはここの題詞(序)を書いた人物は十分理解していたはずである。当時文章に敏感でうるさいと見られる歌人たちが「初春(=1月)令月(=2月);1月は2月」という意味になりかねない言葉の連接を選ぶだろうか? これが私が「令月」に対して最初にいだいた疑問である。

 では「令」ではないとしたら何が正しいか? すぐ思いつくのは“令”ではなく“今”である。令と今は非常によく似ている。楷書体でも酷似しているのだから、少しくずした書体になれば見分けはつかない。令と今の誤字を示している万葉関係の本は、『万葉集 本文篇(塙書房刊)や日本古典文学本『万葉集(2)』などでは、3070番の歌の「今不有十方」の“今”が『万葉集童蒙抄』では「令」となっていることを指摘している。『万葉集総索引 漢字篇』(平凡社刊)では“今”が5箇所ほど“令”の誤字として扱われている。つまり、今と令は非常によく似ていてお互いに間違われる可能性が高いということである。

 では、815番の題詞(序)の漢文中の「令月」が「今月」の間違いとしたらどうなるのか。意味が通るのか。

天平2年(730年)正月13日、帥老(大宰府の長官の大伴旅人)の家に集まって 宴会を開いた。

 時は、初春の今月、気は良く風は穏やかである。梅は鏡の前で使う白粉のように白く咲き、蘭はにおい袋のような香りをただよわせている。 (後略)

 今月の後に日付(13日)を入れたほうが安定した表現になるような気もするが、「今月」だけでもおかしくないだろう。

 さて、ここで「初春今月」のような言葉の連接が可能なことを、現代の日本語の表現から類推してみたい。   

*****************

昭和58年3月5日午後、自宅に私の友人三人を招き食事会を催した。この三名は私の友人であるとともに吉田の友人でもある。

 早春の今月(の5日)、私と三名の友人はインドへと旅立つ吉田を空港で見送った。まだ少し肌寒いが、明るい陽光のさすなか、彼の乗る飛行機は雲間へと消えていった。あと、何年かはもう吉田にあって親しく話をすることができないのだ、と思うとなぜか涙が浮かんできた。

 吉田を見送ったあと、残った4人は我が家に直行し、妻の手料理を楽しみながら、皆で短歌を作ることにした。

  ① 早春の陽光をうけ 君はゆく ジェット機の音 雲間に残し  (友を見送るという架空の設定をし、拙い歌を詠んだのも、梅花の作歌の状況を理解してもらうため。御寛容にお願いします)

**********************

 上の状況設定は私が仮につくたもの(フィクション)である。この中で「早春の今月」という言い方、つまり、早春と今月の結び付きは異様なものではなく、可能な表現である。「晩秋の今月」という言い方もできる。ということは「初春の今月」という言い方は可能であるということになる。上の「早春」はもちろん現代の私たちが使う早春で3月のことである(早春は昔は初春と同じ意味で陰暦1月を意味した)が、時を万葉の時代に移したとき、この「初春今月」という言い方が可能であるか、もう少し検討してみたい。   

 「今月」という用字は万葉集では題詞の漢文に2回ほど出てくる。4073番の題詞に、

  今月十四日を以て深見村に到来し、~状を奉ること不備。

    三月十五日 大伴宿禰池主

また、4132番の歌の題詞に、

  駅使を迎ふる事に依りて、今月十五日に部下加賀郡に到来~~何をか思はむ。短筆不宣。

    勝宝元年十二月十五日

というように万葉集の中で使われている。「今月」は題詞の漢文中で使われているので「コンゲツ」と音読みしても「このつき」と訓読みしてもよい。4073番の歌では、大伴池主が3月15日にこの文章を書き、前日の出来事に対して「今月14日を以て」と書き記し、3月の代わりに今月としている。4132番の歌では勝宝元年12月15日にその日の出来事を記述し、その日を「今月15日」と表現している。これらの「今月」は現代の私たちが使う「今月」と同じである。

 歴史書である日本書紀や古事記では「今月」は用いられていないが、「是月このつき」は頻繁に出てくる。たとえば、日本書紀の仁徳天皇の十三年のところに、

 冬十月、造和珥池。是月、築横野堤。(冬十月に和珥池わにのいけを造る。是の月つきに横野堤を築く。※「是月」は訓読みでは「このつき」となる)

とあり、「是月」はその前に出てきた「十月」をさしている。これは、歴史書の編纂は事件の起こったずっと後に編纂するので同時的に(同じ月の中で)使う「今月」は使えないということである。英語で言えば、“是月=that month”で“今月=this month”ということになる(英語ではthatをつかうべき場合でも日本語では「この」や「これ」を使う方が適切な場合がある。「是月」を「この月」とするのもこの用法である)。

  さて、万葉集815番の歌の「初春令月」を(私以外の)全ての研究者は、「令」は正しい文字であるとし、「時初春令月」を、 

時に、初春しょしゅんの令月れいげつにして  (日本古典文学全集本万葉集の訳)

時に初春の令き月にして  (万葉集全講より)

時に、初春の令月にして  (日本古典文学大系本万葉集の訳)

時に、初春しょしゅんの令月れいげつにして  (新潮日本古典集成本万葉集の訳)

というように読んでいる(訳している)。私が見た諸本では「令月=良き月」として疑うことはない。

 万葉歌人たちの多くは先にも少し述べたように漢字・漢文の熟達者たちである。山上億良は遣唐使となり唐に留学しており、中国語の通訳もできたという(「□◆□◆英検1級」の資格があってもビジネス英語が書けない者がいるという。外国語の習得で最も難しいのはきちんとした文章を書くことである。山上億良らの万葉歌人の多くは今で言えば、“漢文検定の超1級”の保持者であろう)。当時、漢文を書くということは国の役人としての彼らの仕事である。今で言えば、文部官僚も財務官僚もみな報告書や通達書を英語で書いていたのと同じである。彼らの手元には前述した『玉篇』や『芸文類聚』などの字書類が(仕事上ぜひとも必要で)あったはずである。当時は遣唐使が派遣され、民間の貿易船も往来していたと考えられる。朝鮮半島との交流もある。文物がかなり自由に取り引きされていた時代と考えればよい。当時はかなりインターナショナル(国際的)な時代だった。

 この傾向は、筑紫歌壇の歌人たちが活躍した時代(730年を中心とした前後数年間)をもっとさかのぼる時代から続く傾向である。大化の改新(645年)に成功した中大兄皇子(のちの天智天皇)の新政権は、中国流の律令国家の建設を目指す中、朝鮮半島とも緊密に接触しており、白村江の戦い(663年)の大敗北と百済、高句麗の滅亡の中で両国から多数の亡命者を受入れた。この時代に百済と高句麗からの亡命文化人の助言、協力によってはじめて学校制度がつくられた(このような時代背景の中で“歌聖”と称される“用字の達人”柿本人麻呂が登場した)。665年に遣唐使が再開され、唐との交流も正常化されていく方向にすすんだ。この国際的(インターナショナル)な時代が続く中で旅人、億良の筑紫歌壇が形成された。

 梅花の序と32首の和歌を見ると、万葉歌人たちは仕事で漢文を用い、余暇には和歌をつくり息抜きをしていたように私には思われる。

  さて、当時は漢文の時代であり(現在は英語の時代であろう)、多数の万葉歌人たちが漢文、漢字を駆使して作歌していた時代である。彼らが「仲春令月」を知らないようには思えないし、その言葉の連接を無視して「新春令月」と言うだろうか、という疑問がこの小文を書いた理由である。

 日本人の漢字・漢文・漢籍に対する能力は飛鳥・奈良時代をピークに平安時代に遣唐使が廃止されて以降、下がりはじめたと考えられる。そして、明治時代になり英語などの欧米語も入るようになり、さらに、日本人の漢文力は低下し、戦後、漢文の読める優秀な人が亡くなっていく中で現在の状況があるように思う。 

 

(* 注1) 「令和」の意味は、2019年4月に書いたブログ『「令和」と万葉集と漢文』の中で、

令和  令(よい good, excellent;うるわしい beautiful)  和(平和、調和、協調 peace,  harmony)

令和=excellent peace(優れた平和); beautiful harmony(美しい調和)  

② 令和  令=make(~させる); 和=get on well(仲良くする)

令和=令v和=和せしむ=make~get on well (with each other)=~を仲良くさせる

 *(May) God and Buddha make all the nations get on well with each other!

令和 令(よい good, excellent;うるわしい beautiful)  和(=倭=大和=日本 Japan)

令和=beautiful Japan(美しい日本) ※この③はブログのコメント欄に追加記入したもの

 ※「令」という文字は万葉集中では「令節(良い時節)」というように「令=よい(良、佳、好)」の意味で使われており、「令」が「今」の誤りとしても、「令和」という文字は万葉集から採ったということになる。

(* 注2) 本文中では煩瑣になるため避けたが、この注で原文の用字をできるだけそのまま使って題詞を現代語に訳してみたい。

 梅花の歌32首 併せて序   天平二年正月十三日、帥老(大宰府の長官の大伴旅人)の邸宅に萃あつまって 宴會を申ひらいた。  時は、初春令月、気は淑く風は和やわらぎ、梅は鏡の前の白粉のように(白く)披き 蘭は珮後の香りを薫らせている。  加以さらにあけぼのの嶺に移なびく雲、 松は羅うすぎぬ(のベール)を掛けて盖きぬがさを傾けている(ように見える)。 夕ゆうべの岫ほらに霧を結ぶ。  鳥は穀ベールに封じこめられて林に迷う。 庭には舞う新蝶しんちょう。 空には歸える故鴈こがん。  是ここで天を盖きぬがさにし、地を坐席として、 膝を促ちかづけ觴さかずきを飛ばす。一室の裏うちに言ことばを忘れ 衿えりを煙霞の外に開いて淡然として自らを開放する。 快然として自ら足る。  若し翰苑(=文章)(* 3)で非ければ何を以て心情こころを攄(=述)べられようか。漢詩には落梅の篇を紀しるす。古と今と夫れ何どこが異なるのか。 宜よろしく園梅の賦(=詩)をつくり聊いささか短歌を詠もう。 (※できるだけ原文の漢字(用字)を残して現代語訳をしよとしたが、今では使わない難解な漢字も多く、その漢字を残すこととわかりやすい現代語訳は相反関係にあり、残念ながら、こなれた訳になっていない。)

(* 注3) 「翰苑」を「文章」としたが、当時、おそらく唐から輸入されていたと考えられる百科事典の『翰苑』と掛けているのではないだろうか。大宰府天満宮に平安時代の貴重な写本『翰苑 巻第三十』が保管されている。『翰苑』の写本は中国には皆無で、日本にのみ“巻第30”が奇跡的に残った(残りの29巻は日本でも散逸した。散逸した理由の一つは翰苑が当時よく使用される辞書で残しておくほど貴重なものと考えられなかったためかもしれない)。これは1954年に国宝指定された。当時からすでに日本にもたらされていたと思われる『翰苑』も万葉歌人たちは参照したのではなかろうか。 (2022年6月9日記)