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弥生の銅鐸、修羅、熊野路と伊勢

2014-07-19 00:55:44 | 記録
2014年7月18日(金)6月下旬に南紀・伊勢を訪れたが、考古学上の新発見が相次いだことを踏まえて、現在と未来を考えてみたい。

謎のリングは弥生時代? 銅鐸とともに奈良の民家に保管 朝日新聞 塚本和人2014年6月3日16時24分 

 「奈良県大淀町の民家で、弥生中期とみられる銅鐸(どうたく)とともに、円筒形の棒に複数のリングがくっついた銅製品が見つかった。棒は、ベルのように銅鐸内部につるして触れあうことで音を鳴らす「舌(ぜつ)」、リングは舌と銅鐸をつなぐ「鎖」とみられるが、弥生時代の鎖はこれまで確認されておらず、研究者は注目している。
 奈良県桜井市の市纒向(まき 奈良県桜井市の市纒向(まきむく)学研究センターが研究紀要「纒向学研究第2号」で報告した。
 銅鐸は高さ37・5センチ、最大幅27センチ、重さ約2・9キロで、上部と片面がほぼ失われていた。斜めの格子文様と、連続する渦巻き文様が横帯の上下に分けて施された「横帯分割型」で、奈良県では初めて確認された。
 舌は長さ9・9センチ、太さ1・6センチ。鎖は長さ約15センチで、6個の縦長のリングをつないでいた。舌・鎖が銅鐸と同じ弥生のものかは不明だが、国内で舌が銅鐸とともに出土した例は4点しかなく、鎖状の製品は5~6世紀の古墳時代の副葬品(馬具や装身具)が最古とされる。
 いずれも民家の離れで箱の中に保管されてきたが、出土時期や場所は不明。ただ、付着した土の分析から大淀町周辺で出土した可能性が高いという。
 難波洋三・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(考古学)によると、横帯分割型は兵庫、岡山、香川など瀬戸内東部での出土が多く、それらは弥生中期終わりごろ(紀元前1~1世紀初めごろ)に高い技術力を持った工人集団の拠点だった可能性が強いという。
 中国大陸では殷王朝(前16~前11世紀)の時代から青銅製祭器などの取っ手にリングを付ける技術があった。難波さんは「瀬戸内東部が、(漢の武帝が置いた)朝鮮半島の楽浪郡などを通じて大陸と何らかの関係があり、技術が伝わっていたのかも」と推測する。
 石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「弥生時代なら布きれでも革でもよかったのに、なぜ鎖でつなごうとしたのか。そう思いつく技術や情報が瀬戸内東部にあった可能性を考えざるを得ない」と話す。
 橋本輝彦・市纒向学研究センター主任研究員は「瀬戸内東部で作られた銅鐸が大阪湾から和歌山、紀の川(吉野川)をさかのぼって伝わったのでは」とみる。(塚本和人)」


「まさか修羅が…」 昨年度も調査の現場、橿考研関係者驚き 奈良 産経新聞 7月4日(金)7時55分配信
 「橿考研が3日、橿原市石川町の県道建設予定地で出土したと発表した鎌倉~室町時代(13~14世紀)の運搬具「修羅(しゅら)」。考古資料として全国でこれまでに7例が確認されているが、県内で見つかったのは初めてだ。昨年度も同じ現場で調査を行っていた関係者らは「まさか修羅が出てくるとは思わなかった」と驚いた様子だった。

現場は近鉄橿原神宮前駅の近くで、周囲にはマンションが建ち並ぶ。今年度の発掘調査は4月から始まったが先月24日、地表下約2・5メートルの当時の川跡から、修羅の一部が突然姿を現した。最初に見えたのは、後ろの部分。掘り進めると前部の先端部が現れ、そこで初めて修羅とわかったという。

調査を担当する鈴木一議(かずよし)主任研究員は「これまで現場周辺で見つかっているのは弥生時代の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)や藤原宮の時代の建物跡。昨年度も同じ川跡を掘っていたが、まさか修羅が見つかるとは想定外だった」と話す。

昭和53年に大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳の周濠で出土した修羅(全長8・8メートル)は全国的にも有名だ。出土から半年後、その修羅を復元し、巨石を運搬する再現実験が大和川の河川敷で行われた。その実験で使われた巨石(14トン)は寄贈を受け現在、橿考研付属博物館の敷地内に展示されている。

菅谷文則所長は「橿考研は修羅とは縁が深い。今回見つかった修羅も、未完成品だが形をとどめている素晴らしいものだ。中型で巨石というよりは建築工事などに使う木材を運ぶために作ろうとしたのだろう」と話している。」

 
 南紀の海岸に沿って、潮岬を経て勝浦に至った旅程で感じたことは、鳶が常に低空飛行していたこと。近大の養殖設備が点在していることやウミガメの産卵地があり、鳶の捕食対象になっているとのことだった。熊野路に至る旅程では、豪雨被害の爪痕が痛々しく残り、復旧作業が至る所で行なわれ、原風景を取り戻す努力が行なわれていた。大門坂、飛瀧神社、那智滝とわずかに残っている王子の道寄りに、八咫烏をシンボルにするサッカーの女子チームの優勝祈念の碑と女子選手たちの手形が印象的だった。

 大淀町の民家に保管されていた尖頭部が欠落し、左の鰭が残っていた銅鐸。舌と輪は同銅鐸のものか同定されていないが、大事に保管され良い状態で発見され、分析結果が待ちどうしい。
 発掘調査が何度も行われていたていた橿原市石川町の県道建設予定地で出土した修羅は、建築材の運搬用だったとのことだが、この地域で発掘される修羅の数を考えると、古代の巨大な材の運搬に工夫をこらした人々の営みが推察され、今日の技術革新に繋がる、常により使いやすくを追求していく心意気が感じられる。