気になること 忘れずにいたいこと 嬉しいこと

社会 科学 美術 環境 省エネ 俳句

文芸祭「連句の祭典」について

2014-07-24 11:03:03 | 記録
 2014年7月23日(水)
 第29回国民文化祭・あきた2014県民参加事業 文芸祭「連句の祭典」が、来る平成26年10月11日(土)~10月12日(日)に秋田県連句協会の主催で恊働大町ビルで開催される。
 最初に、国民文化祭を担当する秋田県観光文化スポーツ部国民文化祭推進課との打ち合わせ内容について、当会事務局の佐藤康子さんから説明があった。そして、連句協会との情報交換と進行や備品調達などについての意見の擦り合わせがあり、100~150名の参加者を見込んでおり、8月9月の例会で準備の詳細についての打ち合わせをするようにと本部の指示があった。また、連句年鑑の購入についての依頼があり、購入者の取りまとめをして、連句に入った。
 今日は、本郡講師の伊藤稜志さんと狩野康子さんの指導で「夏・秋・冬・春」をテーマに半歌仙を巻いた。5月6月の例会をお休みしたので、勘が戻るまで随分時間がかかった。
 指導していただくと投句が生き生きと動きはじめ、情景がくっきりと脳裏に浮かんでくる。連句の楽しさは、いろいろな約束事の煩わしさを度外視するほどメンバーとのやり取りができることが魅力だし、指導を受けている場合には、即、添削を受け自らが了解の上投句に反映出来ることである。
 俳句の句会の場合は、投句が、会誌に氏名を記されて掲載されて「こんな句、読んだかな!?」というケースが度々あり、知人から「あんな句、読んでるの??」と指摘されることが往々にしてあることだ。つまり投句した本人が分からない程変形してしまっている句に、投句した本人が反映しようと考えていた精神的な背景すら原型を留めないことがあるのだ。精神的な背景は、本人しか預かり知らぬことで、他人に語るべきことではないし、語っても分かってもらえることでもない。選句者と投句者には、越えられない心の有り様についての境界のようなものがあり、選者は、自分の度量を試されるという重荷を背負っているのだ。
 昨今、高齢化が云々されているが、連句には、高齢者ならではの人生の厚みを感じられる深い配慮と思いの深さが通奏低音のように連なっている。ことさら、言葉を連ねて言募ることは必要ないのだ。
 今日は,天気予報の通り、時間が経つに連れて雨脚が激しくなり、終会近くには土砂降りになった。
 千秋公園中土橋の堀の大賀ハスが、見頃になっている。もう花が終わって、種を結んでいる花托もある。建機レンタルのアクティオの灯火機が設置されているので、夜間も楽しめる。蓮の花と葉の鮮やかな緑のコントラストが美しく、お堀一面に広がっている様は、幻想の世界へ誘うかのようだ。