農民組合ポスター(年代不詳)
1922年の農民運動①小作争議 (読書メモー「日本労働年鑑」第4集)
前年1921年(大正10年)の凶作もあり、小作農民の運動は燎原の火のごとく全国の農村を席巻した。1922年に入るや組織的に、また戦術もするどく猛烈に地主に殺到した。かくして都会における労働争議の多くが不況下の資本家の攻勢で労働者が惨敗したことに対して、農村における小作農民の争議は、徹頭徹尾小作農民の積極的運動で各地の勝利を実現した。
4月9日神戸において賀川豊彦らによって結成された日本農民組合は、たちまち、支部総数200余、組合員総数7万人に達し、各地に連合会を組織し、秋に各地一斉に「小作料永久3割減」の要求を地主に提出し、堂々の陣容をもって地主を圧倒せんと飛躍的な発展を示した。小作農民の戦術は、「統一要求、小作料永久3割減」「小作農地返還」「小作料不納同盟」「大衆的示威行動」「地域連合会」で、各地において百戦百勝の概観であった。勿論、小作料永久3割減をそのまま実現はしなかったが、永久1割5分から2割5分減で解決した所が多かったのである。
(小作料)
内務省調査による「地主と小作農民の収益歩合の比較」では、地主の収益歩合の最も多いのは、岐阜県西濃地方と大分県日出郡の<地主八分小作農民二分>であり、次いで埼玉県と佐賀県の<地主七分七厘小作農民二分三厘>。大阪、長野、長崎、青森、福井、島根、和歌山、愛媛の<地主七分小作農民三分>、その他の府県はおおむね<地主六分小作農民四分>である。北海道の一部の<地主二分小作農民八分>など地主の取り分が少ない所は、大概荒地・痩地である。
1922年(大正11年)の全国の小作争議 総件数298件
1922年全国の主な小作争議
1、兵庫県朝来郡栗賀村争議
1919年(大正8年)以来小作争議が続いていたが、前年1921年12月2日に全面的解決が実現し、小作料の減額などの和解覚書と仲裁書を締結した。
2、三重県鈴鹿郡関町争議、小作料3割減を勝ち取る
関町の小作農民130余名は団結し、昨年来の凶作による小作料の4割減を要求したが、地主60余名は「1割7分5厘減」を回答した。小作農民はなお4割減を要求し、1922年1月8日から同町小学校に集合し、盛んに気勢を上げ続けた。9日は警官が出動したが、ついに町長の斡旋により「小作料3割減」で両者合意し解決した。
3、奈良県宇智郡野原村の小作一揆
同村の小作農民150余名は地主に対して3割から4割の小作料減額を再三要求したが、地主側が頑として応じないため、小作農民は同村十輪寺において協議を重ね、もはや平和的手段では解決の望みがないと、ついに1922年1月18日午後一時に警鐘を乱打し同寺を出発し、デモを行いながら、最初国松四郎左衛門宅に押し寄せ、交渉の結果「4割減」を承諾させた。次に的場橧太郎宅に押し寄せ同様に勝利した。しかし、さらに馬場市右衛門宅に押し寄せて交渉したが、市右衛門は頑として小作料減額を拒否し続けたため、小作農民側は大いに憤激し、小石、酒瓶、こんにゃく玉等を手あたり次第に投げつけるなど乱暴を働いた。警官が出動し農民代表4名を五条署に引致し、54名を騒擾罪で告発し鎮圧した。
4、賀川県木田郡西植田村の小作争議
2月2日突然、木田郡西植田村に争議が勃発し、5の農民約100名が、地主に対して「過去7ヵ年の凶作に対して小作料の減額」を要求した。地主側が断然小作側の要求を拒絶したので小作側は大いに憤慨し11日をもって「小作地全部の返還」を決議した。
5、新潟県長岡市川崎町の小作争議
大地主高野重勝は、2月小作人80余名に今年からの小作料の値上げを通告してきた。そしてこれに応じない者は小作地を取り上げると宣言した。小作人は大いに憤激し、小作地全部を返還した。これを見た自作農民たちは小作人に大いに同情し、自分の耕地を小作人に分けた。
6、兵庫県明石郡神出村の小作争議
9名の小作農民は不作を理由として小作料減額を要求したが、地主が拒絶したため、小作料の支払いをやめた。1月16日地主は裁判に訴えたため、事態は大きくなり、近くの村々の小作農民が連帯し、25日明石市中崎公会堂で大会を開催して大々的な示威運動を計画した。事態は容易ならざる様相をみせてきた。村長らの調停で、小作人組合を組織し、ここに地主からの貯蓄金の提供する、地主は訴訟の取り下げなどで解決した。
7、大阪府三島郡三島村の小作争議
昨年来から小作農民28名が地主24名に対して、小作料減額要求と稲の品種をめぐって争っていたが、地主側は頑として譲らず事態はすこぶる紛糾した。1922年3月ようやく解決した。
8、岡山県児島郡藤田村開墾地大曲農場の小作争議
小作農民115名は、「小作料3割減額」「検見法を廃止し、定米法を採用しろ」を要求したが、地主側は2月15日にいたり全部拒絶するとともに従わない場合は法的手段にでる、小作契約も解約すると通告してきた。
9、大阪府北河内郡津田村の小作争議
小作農民200名は、前年の凶作で生活が窮迫し、その極に達していた。小作農民は団結して、地主100余名に小作料の減額を要求した。77名の地主は改善策を承諾したが、他の6名の地主は頑として応じてこなかった。3月8日郡内の小作農民大会を開催し600人の小作農民が集合して気勢をあげた。これを知った6名の地主があわてて態度を変えたため、4月21日解決した。
10、兵庫県印南郡伊保村字中島の小作争議
小作農民は農事組合を結成し、地主13名に小作料の2割5分の減額を要求したが、地主が拒否したため、数百余名の小作農民が小作地の返還を申し入れた。地主側は1割5分減を回答してきた。4月28日農民側はあくまで2割5分減を要求すると決議し事態すこぶる容易ならざるものとなってきた。5日、小作料永久2割減で解決した。
11、東京府下南多摩郡小宮村の小作料争議
小宮村の小作農民50余名は昨年末、同盟して地主8名に対し小作料3割減を要求したが、地主側から拒絶されたため、12月26日全員誓約書に記名捺印して小作地返還の敢行をすることを決定したが、それでも地主側は折れようとはせず、事態はますます悪化していった。今年の5月になっても解決はせず、このままでいけば今年の稲の植え付けも不可能になる寸前で地主側は狼狽し小作料3割減を受け入れてきた。小作農民側も小作地返還の申し出を撤回し解決した。
12、兵庫県印南郡阿弥陀村の小作争議
阿弥陀村の小作農民300余名は4月末地主260余名に対して小作料永久2割減を要求した。地主側の抵抗により、小作農民側は小作地返還の挙に出た。地主側は地主同盟会を組織し結束を固め、小作農民から返還された土地は地主の共同耕作地とすることも決めた。小作側は毎に寺院や青年会場に集合して結束を強め、争議が解決しない限り、(一)、地主家庭にどのような吉・凶の出来事が起きても絶対に、地主宅には近づかない。(一)、各とも一斉に水入役(用水・灌漑担当)を辞任して、用水路・ため池等の普譜に出ないことを決定した。争議は極度に白熱した。6月5日朝に至り小作料低減で落着した。
13、山梨県西山梨郡住吉村の小作争議
住吉村小作組合の小作料減額要求に対して、地主側は争議の中心である上村組の小作人全員の耕地を取上げて、株式形式の耕作組合を作り、他から人夫を雇い入れて耕作をさせる計画を立てた。地主側は、この計画を内容証明書郵便で小作農民に送りつけてきた。これには農民は激怒し、もし本当に上村組の小作人全員の耕地を取上げてきた場合は、住吉村の小作人は互いに耕地を分け合い、また出稼ぎもし、あくまで結束を固めようと決定した。18日に至り、地主側は返還された耕地に人夫を雇い入れて手入れを始めたため、小作農民側は、耕作権の無視だと憤慨し自ら植え付けを開始した。地主はこれに対し、警察官の出動を要請し、21日官憲は、業務執行妨害罪として15名の小作農民を甲府裁判所検事局に送った。事態は著しく悪化してきた。小作組合側はあくまで3割減を要求し、容れられない場合は絶対に耕作をしないし耕地を返還すると決議した。27日には、小作農民側が地主側の咋男を乱打する事件も起きた。29日「相当減額する」等でようやく解決した。
14、北海道河西支庁神楽村御料地における小作制度争議
もともと御料地には、親小作と称する者が、宮内庁と小作農民の間に介在し小作料を不当に搾取し、そのため小作農民の生活は実に窮迫していた。2月23日、この不合理な制度を無くすために同地の小作農民300名は結束した立ち上がった。日本農民総同盟の支援を受け旭川銀座にて北海道農民大会を開催し以下の決議をした。
一、我らは合理的主張を貫徹するため北海道農民の即時団結を期す
一、政府は我らを企業者と認めたる事によって、我らは現在の奴隷的請負労働者の境遇を脱却する権利と自由を有す
一、我らは在来の小作料均等制を排し、年々の収穫を基礎とし小作組合対地主の協定によることを至当と認む
一、我らは社会建設の上に小作人及び中農の最も必要なることを確認したるがゆえに横暴なる地主は絶対に排斥す
一、我ら北海道の小作人は御料地と植民地とを問わず小作料平均2割5分の軽減を要求す
3月に入り小作農民側代表は、上京し宮内省その他に直接陳情した。一旦は親小作側と小作農民側で和解したが、6月になり親小作側が不当な介入をしてきたため、争議が再燃した。8月ようやく協調が成立し、小作料減額と小作農民300名と親小作が共同で「神楽村御料地耕作吉参組合」(一種の労資協調的農業委員会)の結成等で解決した。
15、福岡県嘉穂郡内野村の小作料争議の惨敗
同村の小作農民は昨年小作料2割減を要求した。何人かの地主は、1割8分減を承認したが、他の地主は要求を拒絶してきたため交渉は決裂した。ついに5月に至り、小作農民側は耕地33町歩を返還した。地主側は返還地を地主5人の共同耕地とし筑後方面から人夫を雇いいれて耕作を始めた。追い詰められた小作農民側は10月に至り、2割減要求の撤回と1割6分減での小作復活を申し出た。結局以後5年間は、1割5分減と決まり、小作農民側の惨敗となった。
16、長野県埴科郡戸倉村の小作料争議
前年末、戸倉村の小作農民147名は農事組合を組織し、地主46名に対し小作料2割5分減を要求した。しかし、地主側は1割~1割5分減を回答し小作農民側の要求には応じなかった。不満を強めた小作農民側は小作地返還を申し出る者が続出し、本年4月にはその数、数百名に及んだ。ここにおいて地主側は全部の小作地に対して1割5分減とし、さらに今年度に限り2割減と回答したが、小作農民は4月28日の協議会においてこの提案の受け入れを拒否した。田植えの時機も迫り、ついに5月5日地主側は小作料を永久2割減とし、かつ不作の場合はさらに協議することとし、農事組合に通告し解決した。