こんにちは・・(^_-)-☆
また曇り始めてきましたね?・・
午後1時現在は、めちゃ暑いですね・・(^_-)-☆
30℃を超えています?・・(^_-)-☆
今日は先日29日に大淀町に行って聞いてきた日本で最初の仏像について書きますね・・(^_-)-☆
これを江戸時代に著した絵巻が2巻世尊寺にあるんですが・・
どんなことが書かれているかの要旨を書きますね・・(^_-)-☆
欽明天皇14年、梵音を奏でて光を放つ樟木が茅渟の海を漂流しているとの報告が和泉の国より天皇になされる。
勅使として派遣された屋栖野古連は、沖に漂う樟木を引き揚げて都に持ち帰り、その霊瑞を天皇に奉聞する。
天皇はこの霊木で何を造るべきか、五十太神と三輪太神とに占わせたところ、ともに仏像に造るべきことを託宣される。
天皇が仏像を造ることを命ずると天下に疫病が流行した。
物部尾輿と中臣鎌子とは、これを天皇が異域の法に帰依したために我が国諸神が怒りをなしたものとして仏教排斥を称えた。
樟木が二体の仏像となると天下の疫病は止み、人々は仏教をますます尊崇した。
ところが、敏達天皇十四年、物部守屋連らは、仏教排斥として豊浦堂に放火した。
屋栖野古連と池辺直氷田は、両尊を堂から取り出して稲の中奥深くに隠したので消失を免れた。
用明天皇二年、聖徳太子は、蘇我馬子とともに物部守屋を誅烕し、仏法を大いに興隆した。
樟木の両尊を稲の中から探し出したが、不思議なことに傷みも無く比蘇寺に安置された。
比蘇寺とは、吉野寺のことであり、今の現光寺(江戸時代)のことである。
現光寺縁起絵巻上巻は、一段から六段にわたって書かれているんですね。
その仏が、現在の世尊寺本尊でもある放光樟像です・・(^_-)-☆
これが記録に残る国内佛第一号なんですね・・(^_-)-☆
その絵巻物が入っている箱です・・(^_-)-☆
この続きはまた明日に・・(^_-)-☆
今日も良い日であります様に・・(^_-)-☆