愛詩tel by shig

プロカメラマン、詩人、小説家
shig による
写真、詩、小説、エッセイ、料理、政治、経済etc..

湯煙の向こうに

2009年03月25日 17時09分53秒 | 写真詩

Roten_12


窓から見下ろすと、露天風呂が見える。

 

白い湯煙で全体は見渡せない。
 

混浴だから、女性はいない。

とりわけ、部屋から見られるのがいやなのだろう。
 

平日の遅い時間だから、男性客も姿がない。

今日は麻衣の誕生日だ。
一年前の記憶がよみがえる。

「もうすぐ、君の誕生日だね」 
 

「よく覚えていたわね。ねえ、お祝いが欲しいわ」
 

「いいよ。何でも言ってごらん」
 

「温泉に連れて行って。北陸に混浴の露天風呂があるそうよ」
 

「いいよ」
 

そして、1年前の今日、僕らはこの旅館へ来た。

僕のドイツ車は高速で威力を発揮する。

追い越し車線を走っていると、前の車がどんどん左へ車線変更した。
あっという間に、温泉宿に到着した。
 

食事を済ませ、しばらく休んでから、深夜の露天風呂に二人で入った。
 

人けはなかった。

見上げると、湯煙の向こうにカシオペアが見えていた。
 

次の朝、目を覚ますと、麻衣の姿は消えていた。 

書置きがあった。客室に備えられたメモ帳に。
 

「今までありがとう。しばらく消えます。探さないで」
 

僕には麻衣が消えた理由に心当たりがなかった。

携帯に電話してみた。
留守番電話になっていた。
帰りの高速のドライブは楽しいものではなかった。

麻衣との思い出が蘇ってくる。 

振り払うように、僕はアクセルを強く踏み込んだ。


それ以来、麻衣には電話もかけていない。
けれど、今日、この宿に来てしまった。

思い出を取り戻したかったのか。

過去は戻せないのに。


携帯が鳴った。

画面を見て目を疑う。

「麻衣」と表示されている。

「はい」


「私。1年ぶりね。今、どこにいると思う?」


「分かるはずないだろう。今までどうしてたの?どうして突然僕の前から去ったの?」


麻衣はそれには答えず、「窓の下を見て」と言った。

見下ろすと、さっきまで無人だった露天風呂に女性の姿がある。

麻衣だ。裸のまま、湯煙の向こうで携帯を耳に当て、こちらを見上げて立っている。

僕は驚いて言った。

「他の人が見るよ。お湯に入って。今、行くから」

僕はダッシュで露天風呂に行き、麻衣を見つけた。


「伊豆の踊子みたいでしょう?」


「何やってんだか。ハッピーバースディ」


「ありがとう。1年間消えていたわけを話すわね」


「いいよ。君が帰ってきてくれた。もう、消えないと約束してくれ。この1年間、気が狂いそうだった」


「相変わらず優しい人ね。その優しさから逃げていたんだわ。

でも、もう、逃げない。あなたの優しさは、私の帰る場所。それが分かったから、ここへ来たの。

ホテルに問い合わせて、あなたの名前で予約があるのを知ったとき、涙が出たわ」


僕は空を仰いだ。


湯煙の向こうに、カシオペアが輝いていた。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 最初に見た景色 | トップ | おいしい水 »

写真詩」カテゴリの最新記事