窓から見下ろすと、露天風呂が見える。
白い湯煙で全体は見渡せない。
混浴だから、女性はいない。
とりわけ、部屋から見られるのがいやなのだろう。
平日の遅い時間だから、男性客も姿がない。
今日は麻衣の誕生日だ。
一年前の記憶がよみがえる。
「もうすぐ、君の誕生日だね」
「よく覚えていたわね。ねえ、お祝いが欲しいわ」
「いいよ。何でも言ってごらん」
「温泉に連れて行って。北陸に混浴の露天風呂があるそうよ」
「いいよ」
そして、1年前の今日、僕らはこの旅館へ来た。
僕のドイツ車は高速で威力を発揮する。
追い越し車線を走っていると、前の車がどんどん左へ車線変更した。
あっという間に、温泉宿に到着した。
食事を済ませ、しばらく休んでから、深夜の露天風呂に二人で入った。
人けはなかった。
見上げると、湯煙の向こうにカシオペアが見えていた。
次の朝、目を覚ますと、麻衣の姿は消えていた。
書置きがあった。客室に備えられたメモ帳に。
「今までありがとう。しばらく消えます。探さないで」
僕には麻衣が消えた理由に心当たりがなかった。
携帯に電話してみた。
留守番電話になっていた。
帰りの高速のドライブは楽しいものではなかった。
麻衣との思い出が蘇ってくる。
振り払うように、僕はアクセルを強く踏み込んだ。
それ以来、麻衣には電話もかけていない。
けれど、今日、この宿に来てしまった。
思い出を取り戻したかったのか。
過去は戻せないのに。
携帯が鳴った。
画面を見て目を疑う。
「麻衣」と表示されている。
「はい」
「私。1年ぶりね。今、どこにいると思う?」
「分かるはずないだろう。今までどうしてたの?どうして突然僕の前から去ったの?」
麻衣はそれには答えず、「窓の下を見て」と言った。
見下ろすと、さっきまで無人だった露天風呂に女性の姿がある。
麻衣だ。裸のまま、湯煙の向こうで携帯を耳に当て、こちらを見上げて立っている。
僕は驚いて言った。
「他の人が見るよ。お湯に入って。今、行くから」
僕はダッシュで露天風呂に行き、麻衣を見つけた。
「伊豆の踊子みたいでしょう?」
「何やってんだか。ハッピーバースディ」
「ありがとう。1年間消えていたわけを話すわね」
「いいよ。君が帰ってきてくれた。もう、消えないと約束してくれ。この1年間、気が狂いそうだった」
「相変わらず優しい人ね。その優しさから逃げていたんだわ。
でも、もう、逃げない。あなたの優しさは、私の帰る場所。それが分かったから、ここへ来たの。
ホテルに問い合わせて、あなたの名前で予約があるのを知ったとき、涙が出たわ」
僕は空を仰いだ。
湯煙の向こうに、カシオペアが輝いていた。