private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第15章 5

2022-08-14 18:52:05 | 本と雑誌

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R.R
 

 事務所から出かけたところで思い直し、事務机に戻ると、もう一度受話器を取り上げそのまま電話機の上に縦に置く。これでもう邪魔が入ることはない。権力者達のお願いのオンパレードにはほとほとウンザリしていた。
 そうすると権田は事務所を出て、真っ直ぐにナイジの元へ歩を進めた。上目遣いで権田を見つづけるナイジ。その瞳は変に突っ張ったり、大人びたマネをするためだけに権田をけし掛けたとは思えなかった。冷静で澄んだ深い瞳がそこにあった。
 自分が望む目的を遂行するために、未熟ではあるがヤツなりの一途な行動だったのか。そうだとしてもそれをすぐに受け入れて、話しを聞いてやる気にはなれなかった。
 ナイジの前で立ち止まる権田。左手をやけにダランとしているのが気にかかる。手のひらで受けただけのはずで、それほど強い衝撃があったとも思えない。
「みんなどうして今週末にこだわるんだ? そうでなければ、時間に追われる必要はないだろ。別に次のチャンスを見据えれば、オマエだってやりようは幾らでもあるはずだ。オレとつまらん駆け引きする必要もない」
 一度深く目を閉じ、ナイジはどこまで話すべきか考える。
「そうじゃないんだ。すぐ次じゃなきゃダメなんだ。大きな流れが、すべてそこに集結しつつあるのが誰もがわかってる。決められた範囲で結果を出すことでしか何もはじまらないし、終わることもできない。そんなニオイを感じてるんだ。ロータスのヤツだって、不破さんも、それにサーキットの黒幕、マニワだったか? だからみんなそこに照準を合わしてる。アンタだって薄々感じてるはずだろ。これにノラなきゃどうにも落ち着かないってことに。だから尚更なんだろ… 」
 ナイジは大きく肩をおろして息をつく。権田は首を左右に振った。
「ふん、洒落た言葉を使ってりゃ、それなりに大人の世界に首を突っ込んで悦に浸れるつもりか。自分が何でも知ってると言わんばかりだな。オレがマヌケなバックマーカーだと知らしめて、焦らせようという魂胆か?」
 ナイジはこの先、わかり合うことは無いほどの大きな隔たりを権田からかぎとっていた。自分の物言いが悪いのは承知の上でも、このときばかりは歯がゆさが身につまされていた。
「オレはっ! …感じたことを包み込むほど人間が出来てる訳じゃないし、事実を捻じ曲げるほどヒネちゃいない。それに、したいことを誰かの目を伺ってガマンできるほど『それなりの大人』でもない。ただ、それだけなんだ、 …そうだろ?」
 何故そこで自分に賛同を求めてくるのか、権田は笑いそうになるのをこらえる。自分が言っているように確かに物言いは悪く、年配者がそれに賛同すれば自分が折れたと認めなければならない。そんな雰囲気を作ってしまう自分にも納得がいっていないのは御愛嬌というところか。
 安ジイぐらい年が離れていれば、血気盛んな若者の言葉として扱うこともできるのだろう。権田は自分にはまだその器量がなく、相手を立ててまでも事をうまく運ぶ方を選ぶことはできない。
「そんなことは、知らんよ」
 ナイジにそう問われれば、そう返すしかない権田であった。そうであれば自分はもうヤツの手の中であることを認めているようで苦々しかった。
――気に入らねえヤロウだが、レーサーとしての気概だけは買ってやれるがな。――
 そして空白の時間だけが過ぎていった。先に口を開いた方が負けのような雰囲気がそこにはあった。
 ナイジはクルマをドライブすることへの関心はあっても、仕組みや構造には疎く、他のドライバーならそれなりに自分達でカスタマイズしているのに、自分では何もわからないためヘタに手出しもしなかった。
 安ジイが手を掛けたっきり、ロクに整備もしていない状態で、これまで走り続けれたのは、安ジイの初期セッティングのレベルの高さと、クルマの現況を読み取り限界点で走ることができるナイジ。このふたりだからこそなしえた協業でもあった。
 例えどんなクルマであっても、その特性を瞬時に把握し、弱味を消して、強みを活かせる走りができる。走行前にクルマとツナガる、ナイジ独自のセッティング方法がそのドライビングを可能にしていた。
 タイヤを代えてグリップの良くなったオースチンをあっという間に手なずけて、ジュンイチの心配もヨソに、2周目の本ラップで早速、最速タイムを出しかけたことがそれを物語っている。
 それだけに、タイヤを変えたばかりのオースチンの駆動系に負荷をかけて、壊れるまで走り続けてしまったのは、レースに勝つという別のバイアスに自分が飲み込まれてしまっていたと認めざるを得なかった。
「しかし、こんなんなるまでコキ使われて。オマエも災難だったな」
 権田が、オースチンの後部を手でなでて覗き込む。自分の失敗の度合いを検分されていくことに、ナイジは歯がゆい思いだ。つい言い訳のように走る前のあの違和感を、そんな話しはけして権田に受け入れられるはずもないのに口にしてしまった。
「レース前に感じてたのに… いつもやってるんだ。シートに座ってクルマの隅々まで神経を張り巡らせて探っていく。あの時、後ろの方で嫌な感じがあった。微かな痛みの声が伝わってきたんだ… あの時の感じを意識の片隅に残しておけばよかったのに、自分自身が昂ぶっていたし、なんとかなるだろって、甘く考えてもいた。そのタイミングでピットアウトを余儀なくされたことも言い訳に過ぎない。それに、どれだけ準備をしていても、あの状況でスロットルをコントロールできたのか。そう思えば自爆は、ヤツに勝つためにわずかな奇跡に賭けてしまった自分への報いなんだ」
 ナイジと会話を交わすほどに権田の反目は強くなるばかりだ。一度ずれた会話の掛け違いから元の軌道に戻るのは難しいといえた。
 ナイジが何かを伝えたい思いは感じられる。しかし権田にはナイジの話しをまともに取り合うことはできなかった。それを丸ごと飲み込んでしまえば、この若造の特異な能力を認め、自分の仕事を否定することになってしまう。
「オマエ、何を言ってるのか自分でわかってんのか? そういう話しは布団の中でひとりでやってろ。やっぱりあれか、気違いとナントカは紙一重だな」
 ナイジの力量をまだ目にしていない権田は、見てもいない能力を認めるわけにはいかないため、あえて『天才』の方をぼかした。
 ナイジはしばし、押し黙る、言うべき言葉を慎重に模索している。工場に染みついたオイルの匂いに身体が慣れてきたらしく、ようやく気にならなくなっていた。
「ひとりよがりなのはわかってる。それでもアンタなら受け止めてくれるのかもと思った。オレは感じたことをそのまま言葉にすると、その感覚が身体から抜け出てしまうんだ。自分でも不思議と思えることを言えば、誰も信じるはずもなく、かわいそうにその感覚が宙で行き場を失っていく。じゃあどうやってそれを相手に伝えればいい? オレには何も見えていないし、見ることもできない。でも、感じることはできる。何を使えばいいか、どれが使えないのか。そこでは、正しいとか間違っているという判断は何の意味も持たない。だからヤツより速く走ることができるって後押しが欲しいだけなんだ。アンタからその言葉が聞きたいんだ。その自信があるんだろ? これは、皮肉じゃない。そうだろ、不破さんがアンタに頼んだってことは、アンタにはそれだけの能力があるってことだ」
 権田は顔を歪ませる。
「アンタ、アンタって、馴れなれしいんだよ。それに、あいかわらず禅問答のような言葉をならべて、ケムにまこうってハラか。そういったシャレた言葉あそびはヨソでやってくれ。誰も彼もがそんな機知にとんだ会話を好むわけじゃないんだぜ」
 精一杯の厭味を言ったつもりの権田だったが、ナイジは何が気に入らないのかが理解できていない。これまでに経験してきた言葉の壁を再び味わう。
 いままでも言うべき言葉を選んで話すようにしてた。変に理屈を捏ね繰り回すつもりも、言葉で相手をねじ伏せるつもりない。ただ、本心をそのまま言葉であらわそうとすれば、誰もが変わり者だと色眼鏡でみてくる。そして結論的にはを相手を不快な思いにさせてしまう。
 やはり権田にもそれがうまくつたわらない。これまでならそこで線引きをしていたが、今回は簡単に断ち切るわけにはいかなかった。戦うための手段は少しでも持ち手に加えておきたい。それなのに、喘げば、喘ぐほど泥沼にはまっていくようで簡単には次の言葉が出てこない。
 なぜかマリには自分の気持ちを10言わなくてもそれ以上に理解してくれる。あの言葉のやり取りに随分助けられ、楽になっていたところが今は裏目に出ている。
 だんだんと痛々しい表情に変わっていくナイジに、権田も気勢がそがれていった。この若者が多くの大人の気持ちを捉え、勝ち馬に乗ろうという思惑を背負わされているのかと思えば、少しは不憫にも感じられる。
 権田は、もはや、なんでもいいから、仕事に取り掛かるキッカケだけが欲しかった。
「まったくよ、大人びてんだか、成長しきれてないのかよくわからんヤツだ。オマエだってオレと不毛な言葉のやり取りしたってしかたないとわかったろ」
 ナイジはしばらく体を動かさずに権田を斜に見ていた。そして絞り出すように一言を発した。
「オレにチカラを貸して欲しい… 」そう言って少しアタマを下げた。それがナイジにできる精一杯であった。
 権田はカラダが痺れる感覚を抑え込むようにアタマを振って、そんなナイジを押しのけるとオースチンのドアを開き、ボンネットのロックを外す、軽く浮き上がったボンネットとボディーの隙間に手を入れ、エンジンルームを開く。
 つい立になる治具でボンネットカバーを固定し、大腿部にあるポケットからペンライトを取り出すと口に咥え、内部を繁々と見回しはじめた。
 軍手を外した両手でエンジンルームにある機器をひとつひとつチェックしていく。当然のようにヒーターが外されており、剥き出しになったエンジン周辺は綺麗に経年劣化している。
――なるほどな、そうゆうことか、外観からは考えられないほど、きれいに消耗しているな。意識してそうしたわけじゃないだろが、正しくクルマをドライブしたことで、自然とこうなった。もしくは、ヤツのドライビングスタイルが元々クルマに優しい走りだということか。――
 権田は腰を立て、両手を組んだ。ナイジはあごを引いたまま権田の動きを眺めていた。
「何か、気になるとこがあるのか?」
「いいや、別に。ただ、こんなもんだろうと。なあ、オレは依頼された仕事は手抜かりなくやる。オマエがもし、プラスアルファを望むのなら、つまりゼロスタートからのアドバンテージが欲しいなら、それはオマエの領分だろ。オレが手をかけるにはやれる範囲ってモンがある、オマエは気に入らんだろうが、時間との兼ね合いってやつだ。ひとにそれだけ意見するんなら、少しは自分で汗かいてみろ」
 ナイジはキツネにつままれたかの如く、キョトンとする。
「オレが? オレにできることがあるのか?」
 呆れたとばかりの権田は肩をすくめる。
「あのな、クルマの内部なんて基本的にそれほどたいしたモンじゃない、しょせん金属が組み合わさって駆動につなげているだけだ。加速を良くするには、そう、駆動を邪魔する抵抗を徹底的に少なくする、その小さな積み重ねをおろそかにしなきゃ、最後のひと伸びが変わってくるだろう。天からのおすそ分けってやつだ」
 ナイジは鼻を掻いた「似合ってないけど」。
 権田はムッとしながらも「オマエに合わせてみただけだ… いいか、エンジンを降ろすぞ、手伝え」。
 手際よく天井から吊り下げられたクレーンを引っ張ってくると、エンジンをくくり付ける。ドライバーなどの工具がサイズ別に並べられたトレイをエンジンの上に置いて、一つ一つ接続部分を取り外していきナイジに手渡すとそれをパンの上にボルト・ナット・ワッシャーなどの治具を整然と並べていく。
 ナイジは初めて見る光景ではあるが、それがかなりのスピードで行われていると容易に想像がついた。ひとつの無駄もない動作、的確な工具を選び、錆付いたり、山の欠けたネジを魔法でもかけたかのようにあっというまに外していく。
 ナイジにクレーンを曳かせエンジンを持ち上げる。権田は接続部分を丁寧に切り離し無理が無いかを確認しながら接続部分をパージしていく。
 持ち上がったエンジンをベンチの上に移し固定するとエンジンヘッドをはずす作業にとりかかった、中からクランク・シャフト・シリンダーヘッドを取り出しバットの上に並べる、最後にカーボンがこべりついたチャンピオン製のプラグを外した。
「このウエスを使って、汚れを落すんだ。どこまでやるかはいちいち言わない、オマエが納得するまでやればいい。軍手は使うなよ、素手でやるんだ、糸くずが付着する。ただし、手を切らんように気をつけろ。オレは仕事の続きをやらなきゃならんから、もう邪魔するな」
 ナイジにウエスを手渡すとイタリア車に向かってしまった。しばしウエスを手に状況の把握に努める。とりあえず汚れが一番少ないシャフトを手にして汚れを拭ってみた。しかし、思ったとおり簡単には汚れは落ちない。転がっていた空き箱を持ってきて椅子代わりに腰掛けて、ウエスのきれいな部分を使って何度も拭うと多少は汚れも落ちてきた。
 しばらくの間は身体が無意識のうちでも一連の動作を繰り返すことができたが、腰掛けたことで疲れが一気に押し寄せ脳内の血流は鈍り、しだいに意識が遠くなっていく。
 その中で昨日からの出来事が何の連続性も持たずコマ送りされていくのは、脳が勝手に記憶を整理したがっているからなのだろうか。
 フラッシュバックする映像に吸い込まれていくと、気付かないうちに目は閉じられ何度も頭が落下する。その内に脳が機能の停止を求め、身体は行動を拒否しはじめる。
 壊れて動かなくなった細胞は排除され、その空間を埋めるように再び生まれいずる細胞は、今日の経験を含んだ新芽として力強く頭をもたげる。再生に取り掛かる身体が余分な熱量を使うことを拒み、ナイジの意識は遮断された、同時に左手に握られたシャフトは静かに地面に横たわった。
 深く前のめりになり、動かなくなったナイジを目にすると、権田はゆっくりと側へ近づいてきた「おい」と一言声を掛けるが、何の反応も示さない。
「まったく、どういう神経してるんだよ、すぐ寝ちまうとは」
 横たわったシャフトを手にし、あらためて見回してみる。汚れは取りきれていないことを確認しつつ、やはり接触部分がきれいに均一に磨耗しているところに目がいってしまう。
「どうした」
 一瞬驚きをもって、声の方に目をやった。そこに不破の姿を捉えると硬直が消えた。
「早かったですね。よっぽどお気に入りのようだ。そのボウヤはオヤスミ中ですよ」
「ああん、そのようだな、あいかわらずたいしたタマだ。オマエとやりあったっんだろ。言いつけられた作業してる中に寝ちまうとはな、それとも単なる無神経か。ハッハッハッ。どっちでもいいか、そんなこと」
「不破さん見てください、このシャフト、まあ他の部分もそうなんですけどね」
 シャフトを手渡すと不破も一瞥する。
「なんだ、悪くないじゃないか。もっと、酷でえのかと。10年オチだろ、上手いこと乗ってるな。ってか、これで、レースしてたんだろ。いや、たしかに、そんなには走ってねえけどよ。それでも、これはなあ… たしか、2年前に安ジイがオーバーホールして、それが最後の大仕事だったよな。去年の点検はそれほど手を入れてないはずだ。そうはいってもな」
「たしかに、安ジイとは気が合いそうですね、整備に手間を掛けさせない、楽させてくれるドライバーですよ。本人が意識しているのかどうかはわかりませんけど、この状態でここまでこれたのは奇跡的ですがね。そんなこと言ったらますますハナが高くなる。 …さっき本人が妄想みたいなこと言ってましたよ、運転席からクルマの不具合を見つけ出すことができる… みたいなことをね。オレはそんな与太話は信じちゃいないですけど」
「ナイジがか?」そこで、不破は大きな溜め息をついた「はあーっ、 …オレは昔、同じ事を言われたことがある」。
「えっ、不破さんが? 誰にですか?」
「出走前に突然言い出すんだ、右のリアに引っかかってるのがあるから取ってくれって、覗き込んだら、ネコが飛び出してきやがった、ネコにも驚いたけど、それを言い当てたことの方がよほど腰を抜かしたぜ。誰だと思う、 …そう、舘石さんの、最後の出走前のことだ」
 権田は胸のポケットを探りはじめた。半分以上がクシャクシャになっているラッキーストライクをようやく手にとる。その中から拠れた煙草を口に咥え、先程の事務室の中での光景を再現するようにマッチの在りかを探しポケットを一巡し手を突っ込む。そうして最後に胸ポケットにあるマッチを取り出して風を避けながら火をつけた。
「不破さんは、コイツが舘石さんと同レベルだと?」
「さあな、そこまではわからん。次にオマエが手にかけたクルマで走ればわかるかもな。オレもオマエも」
 大きく吸い込んだ煙を一気に吐き出す権田「だから、仕事しろと?」。
「どうとるかはオマエさん次第だ。勘違いするな、舘石さんの話しを持ち出したのはそのためじゃない、オマエがいまのことを言いださなきゃ、思い出しもしなかったことだ。ああ、馬庭さんからな、タイヤ、預かってきた。履かせろとよ。新品だが、丁寧に慣らしてあって状態もいい。これだけでも充分新戦力になる。それに合わせてセッティングもして欲しい。変なところに過重が加わらんようにな。悪いが面倒見てくれや」
「わかってますよ、もう、腹決めましたから。それより、コイツどうします?」
「夏だからな、カゼひくことも無いだろ、でも、まあ、羽織るもんぐらいは掛けといてやるか」
 権田は、事務所のロッカーからいつも自分が使っている仮眠用のシーツを取り出してきて、座った状態で両膝の上に伏せているナイジに掛けてやった。
 自分はこの若者に嫉妬心を持っているのだ。自分が持ちえない能力、そして多分、自分が手を加えた仕事を超越しクルマを乗りこなしてしまうであろうこのオトコに、技術屋としてのプライドが余りにもはかなく打ち砕かれることを予感していた。