private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

エピローグ

2023-01-29 16:35:49 | 連続小説



  それは、毎週土曜日の”オールド・スポート”での朝一番の風景となっていた。
 勢いよく開けられた扉とともに、吹き飛ばされそうなカウベルが大きな音を立てる。
「ミカさーん! 聞いーてくださいよ。ウチのトーちゃんたら、ズルいんですよ」
 扉の前には腰に手をやり、仁王立ちの姿で、頬を膨らませている真陸亜がいる。
「ちょっと、マリアァー。そんなに強く開いたら扉が壊れちゃうでしょ。ウチの店にアタらないでちょうだい」
「だってぇ… 」
 開店前の店内掃除の途中だった美加は、ホウキがまるでこん棒に見えるようにして持ち替える。
「だってじゃないわよ。どーせまた、最後のコーナーでナイジにやられたんでしょ。文句言う前にウデ磨いたら。ナイジはあのコーナーに照準を合わせて、そこで抜けるように仕向けてるんだからさ。わかってて抜かれてるマリアもまだまだよねえ」
 近くのテーブルに片手をついて体をあずけ、笑みを含ませながらたしなめる美加。真陸亜は痛いところをつかれ、ぐうの音もでない。
「 …だってええぇ」
 と、消え入りそうな声でこたえながらも、そこからの言葉が続かない。
 子どもをあやすような顔つきのまま、再び店内を拭きだしながら美加は尋ねた。
「ナイジは?」
「オースチンのボンネット開けてた。古いクルマだから、いろいろガタがきてるみたいで」
「そうね、あれからずいぶん経つからねえ。あらぁ、それじゃマリア。あなた、その古いクルマに負けてるんだから、言い訳はきかないわよねえ」
「うっ、ミカさん。話しの流れとはいえ、イタいところを遠慮無しに… はいはい、早くトーちゃんに勝てるように頑張りますよ。そうしないと、ツアーズに入れてもらえないんだから。でも、ヤツらより速く走れるんだけどなあ」
 がっくりと首を落として落ち込む体裁の真陸亜が、ふたたび顔を上げた時の目は悔しさがにじみ出ていた。美加はさきほどのたしなめる口調から一転して柔からなもの言いになっていた。
「そうでしょうね。ナイジとそこそこ、やりあえるんだから、そこいらの半端な男たちに負けないわよねえ。そういっても、アナタも辛いところね。親の名が売れていると、否が応でも七光り扱いされるし、オンナであることも不利な要因だしね。誰もが納得するぐらい圧倒的な力を見せて、はじめて対等にみられるってところかしら。だからナイジだって、手加減せずにアナタとやりあってるんでしょ。あっ、来たわ」
 今度はゆっくり扉が開いて、ナイジが店内に入ってきた。軽く右手を挙げ、美加に合図だけすると、いつものお決まりの席に腰を下ろす。それを見て美加が厨房にいるハンジに声を掛ける。
 ハンジは厨房の中からチラリとナイジの姿を確認するだけで、再び作業を続けはじめた。しばらくすると香ばしいコーヒーのかおりが店内を包みだす。
 真陸亜は金魚のフンよろしく、美加の仕度のじゃまになろうとも、一向に気にすることなく、おしゃべりを続けている。美加は真陸亜の方へ向かってホウキを動かし、ゴミとともにうっちゃりながら、真陸亜の言葉に対して3倍ぐらいの返答と、軽く皮肉を添えて返していく。美加のマシンガントークは相変わらず健在だ。
 真陸亜の声が高まる都度に、ナイジはそちらへ目をやり苦笑していると、ハンジが淹れたてのコーヒーをテーブルまで運んでくれた。
 ふたりで女性群のかしましいやりとりを見て、ナイジが肩をすくめると、ハンジは少しだけ顔をしかめて腰を叩きながら厨房へ戻って行く。
「 …でもね、不思議なの。トーちゃんと走ってると、周りがスローモーションみたいに見えてきて、すべての状況判断が余裕を持って、自分の意のままにできるような感じがするの。だからひとりで走る時より速く走れてる。自分の力以上を引き出されている感じで…  あーっ、もう、言っててやんなっちゃった」
 何の会話の流れでそうなったのかわからないなか、その真陸亜の言葉だけがハッキリとナイジの耳に届いていた。脳がズレるような、なんともいえない気持ちの悪さと共に意識が時代を遡り、あの時聞いたレース後のマリの言葉を思い出していた。
――アタシね、今日隣に乗って、確信したことがあるの。ナイジのクルマに乗るのは、自分の過ごせなかった時間を取り戻していくためなんだって。ナイジが猛烈なスピードで走り出すと、周りがすべてスローモーションに見えてくるの。最初にクルマに乗せてもらった時に言ったけど『スローモーションを見ているように速い』って。たぶんうまく伝わらなかったんだと思うけど、そういう意味なの。それはいつも、ほかの人が見ているアタシの姿。何をするにも時間が掛かって、モタモタしている。それがナイジのクルマに乗ると状況が一変しちゃう。他の人が経験しないスピードの中で、無くしていた時間を取り戻していくことができる。だからこう続けた『でも、もっと速く走れるよね。』ナイジには申し訳なかったけど、そうすればアタシはもっと自分を取り戻せる。アナタのクルマに乗るってことは、アタシに取っては自分以上を引き出してくれる大切な時間なの。 …アタシにはその時間が大切だった――
 笑顔で嬉しそうに打ち明けてくれるマリの言葉に、その時は言葉の真意もつかめず、わかったようにうなずいてごまかしていた。いつしかその時間の大切さを知ることになり、今ふたたび、自分の娘から同じ言葉を聞かされたのは何かの因縁なのか。
 想いが込められた言葉にこれほどの力があったとは、この時まで知らなかった。自分を奮い立たせる力であり、人生をも決定付けてしまう運命的な啓示。
 マリの意図とは別に、なんだか馬鹿にされたような言いように感じてしまい、変に喰いかかって、あとを追いかけたのがはじまりだった。
 そうでなければふたりの人生は二度と交わらなかったかもしれない。それが運命と思えば運命なのだろうし、偶然といえば偶然なだけで、ただその結果として自分が一番大切なモノを手にすることができたならば、運命だろうが、偶然だろうがどうでもいいと思えた。
――マリ、お前の娘は元気に育ってる。もうすぐオレより速くなる。マリ。そんなんでもいいだろ。なあ、マリ… ――


第18章 6

2023-01-15 16:19:38 | 連続小説

 安藤のアタマにはスタートの時のオースチンのロケットスタートが潜在していた。意識はしていなくてもそれが自分のカラダにまとわりついていた。
 自分も悪いスタートではなかったし、オイルの恩恵も十分にあったはずなのに。それなのにスタートで後塵を拝してしまった理由は何なのか疑問のままここまで来ている。1速から加速しはじめるいま、同じことが繰り返されれば自分に勝ち目がない。
 5連続コーナーをフルスロットルで走ってしまうオースチンは、1速からの加速だとしても、このコーナーで自分を上回るのではないかと、どうしても目に見えないプレッシャーにカラダが苛まれている。
 ひとつのステア、ひとつのシフトチェンジ、ひとつのスロットルワーク。それらに少しづつ密かに影響を及ぼしていくことが顕在してこない。
 コース3つ目でイン側のオースチンがアタマを出しはじめた。ナイジの算段ではこのままアウトに膨らんでいき、コース幅を目いっぱい使って加速していきたい。
 そうすれば自ずとロータスを後ろに追いやれる。スタートの時と同じように、2速、3速に入れる回転数に達するとクラッチを切らずにシフトチェンジする。コーナーリングをしながら行うのは初めてだったが躊躇することはない。やらねば先に立てない。それだけの理由だ。
 マリもナイジの動きにあわせて反応できている。必ずスタートと同じことをしてくると踏んでいた。シフトチェンジの時間が短ければその分、ステアを固定する時間を長くとれる。5連続コーナーをひとつのコーナーに見立てて旋回するには、それほどステアの正確さを要求される。ほんの少しのキックバックでステアが振られれば、2度と同じラインに戻れなくなる。
 継ぎ目を感じさせない加速を続けるオースチンに安藤は脅威を感じていた。自分と何が違うのかわからない。スルスルと先行するオースチンが半車体ほど先行しはじめる。ステアリングを握る手に力が入り、余計に微量なソーイングをしてしまい、車体が安定しない。
「あのヤロウやりやがった。5連続コーナーの前はどうなるかと思ったが、ここを勝負どころとしてハラ括りやがった。鳥肌が立ったぜ」
 不破も、権田も喜びでひきつった顔を赤らめ昂揚していた。抱き合って感激に浸りたいところを抑えて、若いヤツラの手前ここではまだ固い握手をするに留めた。安ジイはまだ射抜くような目つきでオースチンの走りを見守っている。これで終わりではないとばかりに。
 5つめのコーナーにオースチンは半車体ほどリードして入ろうとしている。ロータスは走る場所を限定されてきて思うように加速できていない。観衆は誰もがオースチンの逆転勝利に酔いしれだした。 
 最終コーナーに横っ飛びになってオースチンが入ってくると、ホームストレートの加速がイメージでき、あとはチェッカーを待つばかりと、抜きつ抜かれつの見ごたえ抜群だった素晴らしいレースにふさわしい終焉を待つ雰囲気が出来上がりつつある。
 大きな歓声がうねりとなる中で、甲洲ツアーズの誰もがナイジの勝利を信じようとしたその時、ナイジはスロットルを踏む足元から伝わる嫌な予感を敏感に感じ取っていた。
 ベタ踏みの状態であるにも関わらず、少しづつ力がそがれている。エンジンがミスファイアを起こしてパラパラと高い音を鳴らしはじめた。クルマの力がどこかに吸い取られていった。
「ナイジ… 」
「サージングを起こしてやがる、ガソリンが足りないんだ」
 サイドミラーには、アウト一杯で踏ん張っているロータスが車体を揺らし体勢が決まらないのが目に入る。最後のコーナーを立ち上がろうとするまさにその時、ナイジがなにかを予知したかのようにつぶやいた。
「ダメなんだ。そこは走れない」
 マリにはナイジが未来を予見したかのように聞えた。外側で踏ん張るロータスのタイヤを、割れた路面から生い茂った雑草が掬った。ナイジがコースを下見したときに見つけていた場所だった。
 普段なら通ることのないラインであった。5連続コーナーの入り口から徐々に加速してアウト側に膨らんでいく中、さらにそのアウト側につけていたロータスの不運であった。
「あっ!!」サーキットのすべてが凍りついた。
 コーナーを加速する中、突然リアを滑らせ車体が反転していく。そこにロータスを呼び込んだわけではない。走れる場所、そうでない場所を知り尽くしていたナイジに対し、そこに迷い込んでしまった安藤の悲運であった。
 テールを取られてなすすべのないロータスの横っ面がオースチンの後部にヒットする。加速の最中にリアをブレイクされたオースチンもコントロールを失い同じように反転していく。2台は並列のままクルリと回転してオースチンはランオフエリアのグラベルまで飛び出してしまった。
 ロータスは運よくコーナーに踏みとどまり、速度もそれほど落とすことなく最終コーナーを立ち上がっていく。それを見ながらナイジはステアリングを握ったまま動くことはなかった。その左の手首はレース前より明らかに腫れあがっている。闘いが終わったことを知り、アドレナリンも引いていき痛みが蘇ってくる。
「 …ナイジ、どうするの?」
「どうもこうも、もう動かないんだ。あともう少しだったけど、でもこれがレースだ… 」
 グラベルで弾んだ時のショックか、エンジンはストールしていた。それともガソリンが空になってしまったのかもしれない。
「そんなの …アタシはイヤ」
 マリの声は静かでも力強く、ナイジは一瞬たじろぐ。そしてマリの方へ目をやる。そこには涙と汗で濡れた顔が必死に何かを訴えていた。その顔の中心で力強い瞳がナイジに向けられている。袖口で顔と口元を拭うと、そのままの勢いでシートベルトを外す。
「あきらめるのは何時だってできるんでしょ、だから、  絶対にあきらめない」
 そう言うと、ドアを開け車外に飛び出していった。いつものシニカルな物言いが、いまのマリには逆作用したようで、反論することもできずナイジは唇を噛み、下を向いた。悔しい気持ちがないわけじゃない、マリの前で無理していただけだ。
「あきらめるなって、このクルマ、もう動かないんだぜ」
『ガクン』
 クルマに振動が伝わった。何事かと思い辺りを見回す。グラベルにハマったオースチンが少しづつ前進している。もしやと思いリアウインドウに顔を向けると、そこにはマリが歯をくいしばり、顔をいがませながらオースチンを押している。
「 …あいつ」
 ナイジは自分が情けなくなった。運だツキだと何かのせいだけにして、自分がしたことへの後始末をしようとしない。感情を表に出さないのも、結局は体裁ばかりを気にしているからだ。
 ギアをニュートラルにもどすとクラッチを離し、自分もマリを手伝うべく身体を起こしかけると、オースチンがさらに加速しはじめた。再び振り返ればジュンイチもリクオも、それにゴウまでの甲洲ツアーズの仲間たちがマリに代わってオースチンを押していた。
 はじめはゆるゆるとしか進まなかったオースチンも、一度勢いがつくとスムーズに進みはじめる。コースまで戻るとナイジは一か八かでスターターキーをひねる。押しがけの勢いを持って『ブルッン』と音を立ててエンジンが蘇った。完全にガソリンがなくなったわけではなかったようだ。
 リクオがドアを開けてマリをシートに戻そうとする。それを制したナイジはクルマを降りてマリのところまで近寄る。余計なことをして怒りをかったのではないかと心配するマリはうつむいてままに「ナイジ、勝手なことして… 」「マリ、悪かったな。誘っておいて途中でお終いはないよな」すかさずナイジは詫びを言わせない。
 腫れあがった左手を差し伸べるナイジ。リクオたちは一歩、二歩と後退し、ふたりの領域を侵すことをはばかりながらも、スタンドの観衆の目に入らないようにふたりの周りを囲んで外を向いた。
 ナイジは周りの仲間の粋な計らいに感謝しつつ、マリの頬につたう涙の後を指でなぞる。そしてわざとあきれた口調で切り出した。
「ホントに負けず嫌いだな。 …お節介だし。でも、それ以上にマリは強いし、カッコいいよ、オレなんかの何十倍もね。これじゃあマリを助けるどころか、お荷物になっちまうな」
 何も言わず下を向いたまま、なんども首を振るマリ。その瞳に留まりきらない涙が幾重にもつたった頬は赤く、一文字にしばった唇は小刻みに震えていた。もう、何かひとことでも声を掛けられれば、堪えていた言葉が一気にあふれ出そうで、口を硬く閉ざしている。
「ナイジっ、ちゃんとマリさまをゴールまで届けろよ」リクオが痺れを切らしてそう言うと、ナイジは首を振る。「ゴールするのはオレじゃない」
 言葉の意味を理解できないリクオをよそに、ナイジはマリをドライビングシートに引っ張っていく。何が何だかわからないマリは戸惑うばかりだ。「ちょっと、ダメよそんなの」「オレの左手もうイタくてしかたないからさ。できないんだ。だからな」そう言ってマリを押し込み自分はナビにまわる。
「だからなって。もう、どうなっても知らないからね」頬をふくらますマリは助手席に座るナイジを睨む。
「なにかさ、こうなることが決まってたような気がするんだ。オレがマリに運転を教えたのもきっとそのためだったんだってね」
 そんなふうに言われればマリも反論できない。それがここまでの流れとしてあるならば全うすることでこの先も開けていく「じゃあ、行きますよ」そうでありながら半ばヤケになってオースチンをスタートさせる。ゆっくりと。
「うまいじゃん。誰に教わったの?」からかわれて舌を出すマリ。「アタシのお荷物になる人だけど?」
 2速にシフトアップすると、どうやら本格的にガソリンが無くなってきたらしく、加速もせずにユルユルと進んで行く。ロータスはゴールラインの前で止まっていた。安藤はクルマを降りて腹に含んだ表情で笑っている。
 平良はその光景を見てニヤリと口端を上げる。自分のピットレーン前にいる、呆気に取られたチェッカーマンに声を掛ける。
「おい、チェッカー振ってやれよ。ゴールだろ」
 平良のシャレた計らいに地崎も満足げに笑みをもらし、親指を立てた手を大きく上に掲げたあと、コースに入ってオールドレースのシーンを思わせる派手なチェッカーアクションをする。
 それを引き金に各ツアーズのドライバーからスタッフからがコースになだれ込んで、拍手喝采でオースチンを取り囲む。そして一様に甲洲ツアーズに対しても拍手とシュプレヒコールを送りはじめていた。
 他のツアーズの面々は同じレーシングドライバーとして、レースに関わる者として、甲洲ツアーズの仲間意識を羨ましかった。それが出臼の濱南ツアーズでは決してありえないことも。
 スタンドの観衆も、その一連の行動や、ピットでの盛り上がりを目にして、多くの目がその光景を羨しそうに見つめはじめていた。ひとつの成果に対して関わった者達が健闘をたたえ合う姿に、レースに対する純粋な想いがあふれていた。自分もそんな仲間になりたいと多くの者の心を揺さぶる。
 ゴールしたオースチンの周りを囲むツアーズの面々の喧騒振りを見て、リクオもジュンイチも、ミキオもリョウタも、そしてゴウまでがお互い手を取り合い、身を寄せ合い、健闘を称えあいオースチンの元へ進んだ。
 けして誰もがお互いを好きあっている仲良しグループではないし、いまの時間をたまたま一緒に闘っているだけのつながりで、ことあれば出し抜いて自分がもっといい環境で戦えるドライバーになりたいとしのぎを削りあっている。
 そんな間柄であってもこのときだけは助け合いの気持ちをわけあって、同じ感情を共有できたことが嬉しかった。それが短く儚いつながりであっても。いまだけはそれでいいと思えた。そんな姿が他のツアーズや、観衆には眩しかったのだ。
「なにやってんだかな。あのお嬢ちゃんの行動が、ヤツラをまとめちまいやがった。何か変るキッカケになるのかもな、アイツらにとっても。まったく、後始末するオレの身にもなれって。やっぱりオレにはデカすぎた夢だった… ってわけだ」
 その光景を見る不破は、脱力しながらも権田や安ジイと共に、優しい目で自分のツアーズの仲間を眺めていた。
 収まらないのは、なにも得るモノがなくなった出臼だった。不破の元に駆け寄って不満をぶちまける。
「不破さん。わかってますよね。レース中にマーシャル以外がコースに入って。クルマを押すなんて前代未聞です。審議にかけますからね。最悪甲州ツアーズの除名も覚悟してくださいよ」
 不破はこの雰囲気に水を差す発言に我慢ならないが何も言い返せないでいると、そのあいだに割って入る者がいた。
「除名の覚悟をするのはどっちになるかな? 出臼よ、最終コーナーのマーシャルが洗いざらい吐いたぜ。ボスの前でゆっくり話を聞かせてもらおうか。ボスは寛大だから悪いようにはしないと思うが、オレはそうじゃないって知ってるよな」
 そこには最終コーナーから駆け付けた八起がいた。突然の出来事に出臼は対処できない。目が泳ぎ、どう取り繕うか考えるも、手荒な八起を前に心拍数が上がるばかりだ。
「八起さん。公然の場です。暴力は… 」
 八起は出臼の首に腕を回し頭をなでる仕草をする。
「安心しろ。ここではやんねえから」
 肩を震わす出臼に、権田も安ジイも苦笑いだ。
 多くの人々に取り囲まれたオースチンの中で、マリはナイジの腫れあがった左手を取り熱量を感じ取る。人の目を気にしてか声を押し殺して泣いているようで、その振動がナイジに伝わってくる。ナイジはマリの泣き声が漏れないよう、顔を覆い押し付けるように強く抱きしめてみた。もうマリは堪える必要はなかった。
 ふたりはサーキットの中心に居ながらも、そこはもう、誰も手を伸ばすことのできない空間になっていた。
「ナイジ、ナイジ、すごいね、一生懸命やるってすごいことだね。アタシは臆病で、いい訳ばかり用意して、できないことを自分の目の届かないところに隠してた。ナイジが引っ張ってくれたから、これまでアタシの人生では触れるはずのなかったことが体験できた。やるまえから諦めないで、少しでも可能性があるなら、行動することが大切だってことも教えてもらえた。ありがと、ありがとうね。ナイジ… 」
 ナイジは何も言えずに、何度も首を左右に振るだけだった。天を仰ぐその瞳には顔をしかめて必死になって堪える涙が潤む。静まり返ったサーキットにふたりの思いが重なりあっていた。
 肩を叩いてマリの勇気を称えた。マリはうなづきなからも顔を手で覆い、再び力なくナイジの胸にカラダを落としこむ。
「ありがとな、オレみたいなヤツの人生に関わってくれて。あの時マリが勇気を持ってノックしてくれたから、オレはすくわれたんだ」
 そんなオースチンを囲んで誰もが笑顔だった。この女性の勇気ある姿に心を動かされ、素直に力を貸し合い、損得勘定を抜きにして行動できたことに満足していた。


第18章 5

2023-01-08 16:29:18 | 連続小説

 安藤の背中が熱くなってきた。審判の時はもう間近に迫っている。5連続コーナーをもうすぐ向かえようとしているのに、いまだオースチンを引き離すことはできなかった。
 それどころか自分の動きは完全に読まれ、オースチンに影法師のように後ろに付かれている。あの若いドライバーは前回よりもあきらかに一段階上のドライビングをしていた。
 先程までの登りのぎこちない走りから一転して、なぜここまで急変できたのか。安藤には何がどうなっているのか理解できず、引きずったままここまできてしまった。
 あの若造は、それこそ若さに起因するであろう伸びシロを、真剣勝負の最中でも目に見えてわかるほどに成長を遂げてきた。自分にない腕を持っていながら、なお走りの中で、さらに新たな力を身に付けていくことに嫉妬さえ覚えた。
 とはいえ安藤もこのまま指を加えて、その時を待つだけというつもりもない。相手が雨後の若竹のように成長していくならば、自分もこれまでに培った経験と技術からなる、老練なドライビングテクニックを駆使して、相手にのしかかり、一時的でも成長を止め、さらには凌駕するつもりだ。
 下りに入ってから思い通りの走りでなかったとしても、好き勝手に後ろに付かせていたわけでもない。悪いなりにも来るべき時に向けてのタネは蒔き続けてある。
 後方のオースチンに見せつけるように、イン側のスペースをコーナーごとに少しづつ広くしており、今は半車体ほどになっている。
 これはタイヤのグリップが厳しくて、しっかりとインに付けないところを見せるためのフェイクだ。ロータスのタイヤがズルズルとグリップを失っていくであろうことを考慮し、5連続コーナーの前でオースチンは仕掛け、あとは一気に5連続コーナーを使って撒くってくる算段であろう。
 そのタイミングで温存しておいたタイヤのグリップを目いっぱいに使ってインを締め、必要以上のブレーキングをオースチンに掛けさせれば、5連続コーナーを有効に使えるほど加速は戻ってこない。
 オースチンがロータスのリズムで走ってくれているのも好都合だった。染み込んだ馴れは咄嗟に別の動きをしようとしても、身体が付いてこないことが往々にしてある。あとはエサ(ロータス)に喰い付くサカナ(オースチン)を静かに待つだけだった。
――自分にない武器なら、使えないようにすればいい。それが対面レースでの闘いだ。さあ、引っかかってきやがれ――

 高まる歓声と、クルマの走行音が八起の耳に届き出した。もうすぐ5連続コーナーに出てしまう。先入観を持つことはいけないが、5連続コーナーに入ってしまえば最終コーナースタンドから一望できるため、誰にも気付かれずコースに何か仕掛けるのは不可能だと踏んでいた。
――とすれば、その手前のコーナーまででギリギリか――
 もう後戻りはできない。コースラインに目を凝らし、タイヤに伝わる普段ならない変化を感じ取らなければならない。一定のスピードを保ちながらも広い範囲を調べなければならないために、ウォームアップランの時におこなうジグザグ運転をする。ステアリングを握る手に汗が滲んでくる。
 最後のマーシャルポストが見えた。もうダメだと八起は内心でホゾを噛んだ。マーシャルがいる所で何かを仕掛けるなんてことは不可能だ。
――見逃しちまったのか。オレとしたことが。これじゃあボスに顔向けできねえ――
 万事休す。しかめっ面の八起の目に、マーシャルの動きが挙動不審に映った。何度もこちらを振り向きポストに向かって走っていく。
『ザザッ』
 その時ほんの小さな、それこそ微細な感触があった。タイヤから腰に伝わる微動から不安定な動きを捉えた。いつもコースを回るスピードなら直ぐにわかったのだろう。今日のように慎重に走ってコースを確認しているため、逆に捕らえづらく見逃してしまうところだった。
 首筋の辺りになんとも気分の悪いモヤが立ち込める。八起はまだクルマを止めずトロトロと流していた。本当にここでいいのか、この先ではないのか。もしここではなく、この先であれば自分は重大な失態を犯すことになる。
 先程から耳に届きはじめた2台のスキール音が次第に近づいてくる。クルマを降りて確かめていてはもう間に合わないタイミングだ。ようやくマーシャルポストに位置したコースマーシャルの顔を伺う。
 この状況になればすべてを疑ってかかって見えてしまう余計なバイアスがかかる。なにか怯えたような表情にも見えるし、マーシャルカーがこのタイミングで走っていることに何の疑問も持たず、確認をしようとしないのも変だ。
 早くこの場から去って欲しいと思っているのか。八起は腹を決めるしかなかった。ステアリングを切り、コースの奥にクルマを止める。見上げたバックミラーに2台のクルマが迫っていた。
「間に合うのか?!」

 リズムを刻んでいたステアリングを握る人差し指がピタリと止まって、ナイジの左手が伸びてくる。呼応するマリも素早くギアを滑らせる。3から2速へゲートに沿って瞬時にシフトダウンすると、ブレーキングと共にノーズに荷重がかかり後輪からは抜ける。
 行き場を失った車重はリアを外側に押し出し、ナチュラルオーバーステアを保ちながら、インのギリギリを見据えてオースチンはコーナーに飛び込んでいく。
 マリも会心のシフトチェンジにしてやったりの表情だ。これまでにないスピードでオースチンはロータスに襲い掛かっていくと、今度はロータスの動きがスローモーションに見えた。
――周りの動きがゆっくりと動いていく。あの時と同じだわ――
 ロータスは段々とイン側が苦しくなり、インに着けなくなっている。そこに飛び込むオースチンを遮れない。ナイジの頭の中ではその算段だった。が、次の瞬間ロータスは吸い付くようにインを押さえ、ブレーキライトが目を覆い尽くす。
「くっ!」声を漏らすが、ロータスのオトコにハメられたことを悔やんでいる暇はない。すぐさまステアリングをソーイングしてノーズをロータスの外側に向ける。
 一度切り角を決めたステアリングを緩めるには勇気が必要だ。どれほど戻せば次のプランに即したラインに乗せることができるか、そしてコーナーをクリアし加速できるポイントに持っていけるかを読み解かなければならない。
 ロータスとの位置関係を見ながら瞬時に決断を迫られた。ほんの少しステアリングを戻しただけでも、クルマにかかるヨーイングとともに予測より大きく外側に振られる。ところがピタリとイン側に付いたロータスは、やはり堪えきれないのか、クリップに付く前に外側へ膨らんできた。
 それを逃すナイジではない。少し外に振ったステアをキッカケに、蛇角を与えカウンターをあてると、テールが流れた状態のオースチンは、上手い具合にコーナーの中ほどでノーズがインを向いた。
「なっ?!」再び、ナイジが声を上げる。そこで初めて何故インに付いたロータスが外側に膨らんできた理由を知った。タイヤが厳しかった訳でも、安藤がミスした訳でもない。マーシャルには見えない私服の男がコースに半身を出してオイル旗を振っている。
「どうして今頃、オイルだとっ!」

  安藤は後ろのオースチンを待っていた。最終5連続コーナー直前のコーナーに差し掛かる時、これまでより広くインを開けた。当然のようにして勝負を掛けてきたオースチンはそこを突いてくる。
「喰いついたっ!」身震いをして、安藤はインを締めにかかる。
 いけるはずのスペースを消されて、必要以上のハードブレーキングをさせ、立ち直りを遅らせる。そのタイミングはピンポイントしかない、遅すぎればインにノーズをねじ込まれ、早すぎてはアウト側から被せられてしまう。
 狙い済ました僅かな刹那をつくと、これ以上とない瞬間を制した。オースチンのドライバーに煌々と照らされた赤いテールランプを拝ませる。
 しかしオースチンはスピードを殺さない。ブレーキを選択せずにステアリング操作で外に振り、ロータスをかわしにかかる。
「へっ、悪あがきしてもムダだ。もっと外に追い出してやるぜ! うわっ!!」
 左側のシート座る西野は、なぜ、安藤が奇声を発したのかわからない。右側の安藤にはクリップにつくはずの場所に、マーシャルとおぼしき男が旗を振っているのを先に捉えていた。
 もっとも先に西野が見つける機会があったとしても、恐怖のためほとんど正面を見ることができていない西野の目にそれが止まることはなかっただろう。それほどまで今日の安藤のドライビングは烈しく、厳しく、そして速かった。
「今頃オイルだあ? なにやってんだっ!!」
 怒鳴りながらステアリングを修正する。ライン変更を余儀なくされるが、イン側を保ったまま必要以上にアウトに膨らむまいと、スレスレのラインを通過していく。振りかざすフラッグにサイドミラーが擦れ合い、オイル旗は弾き飛ばされ宙を舞った。
 続いてインを差してきたオースチンも同じようにリアをブレイクさせアウトに追いやられるところを、カウンターを切った体勢で踏ん張ろうとする。
 ナイジの目の先でロータスが横を向いていく。ドライビングシートの安藤はナイジに一瞥をくれ、不敵に先を見た。助手席の西野は頭を抱え込んでいる。
 行く手を塞がれた状態のオースチンは、ロータスに合わせて車体を横にするしかない。急激なステアをあて、リアタイヤを滑らせて、ロータスにぶつからないように車体を並行に持っていく。
 マリにはもうなにがどうなっているのかわからない。目の前の景色が右から左へと凄いスピードで流れていく。普段目にすることない景色の動きと横からの重力に目が回り、意識が飛びそうになる。
 最小限のタイムロスで押さえる手立てを打つナイジは、すかさずクラッチを切り、ギアをニュートラルにもどすためにシフトノブに手をかける。目を閉じてしまっているマリは、ナイジの手が触れてもどこにギアを入れるのかわからない。
 ナイジの手が触れてギア操作を求められていることを知る。「あっ」
「まだ終わりじゃないっ!」ナイジは無理やりギアをつかむ。痛みは感じない。アドレナリンが痛みを消している「1に入れるぞ」
 正面を向いた時に、ここからヨーイドンのゼロスタートとなる。1速でスタートダッシュするためにギアを入れておく。「はいっ」
 二台はそうして縦列駐車の態勢でコースを横滑りしていく。そのまま5連続コーナーにアタマが向くやいなやスロットルを踏み込む。アウトにオースチン、インはロータス。もはやどちらが有利とかはなくなっていた。
 最終コーナーのスタンドに陣取る観衆は、いったい何が起こっているのか訳がわからなかった。2台のクルマがコーナーのブライドから、横滑りで出てきたと思ったら再び加速しはじめた。そんなアクロバティックな走行を目の当たりにし、大騒ぎの拍手喝采だ。
 一方ホームストレートの観衆には何を盛り上がっているのかわからない。ようやく5連続コーナーを並走してくる2台のクルマが目に入ってきた。コーナーごとに加速してくるのが手に取るようにわかり、加速の勢いのままフルスロットルで立ち上がってくる。爆発する歓声。
「いったいどうなるんだ」「ストレート勝負まで続くのか!?」
 甲州ツアーズのピットやガレージ屋上も気が気ではないながらも大盛り上がりだ。
 それに反して出臼は舌打ちをする。――アイツ、失敗したな――


第18章 4

2023-01-01 13:59:52 | 連続小説

 それはスローモーションのようにして目に映り込んできた。マリのサイドウィンドに接近するロータスは、平走するのもつかの間、最適なライン取りからの加速の違いを見せつけ、一気にオースチンを抜き去って行った。
 マリがどれほどギアに力を込めようと、オースチンにプラスアルファの力が加わることはなく、ましてやロータスの加速が鈍るわけでもない。
 追い抜かれた現実だけが自分の無力さを痛いほど知らしめていた。いつ仕掛けてくるのかと背後からの過重をここまで苦しく感じ続け、それを自分自身で過度に捉えすぎて、できること以上をやろうとした挙句にかえって細かいミスを連発していた。
 もしもゆるされるなら1コーナーからやり直したいとの思いが、失敗の数々が脳裏にこびりつき、気持ちを前向きにすることなく切り替えを妨げていた。
 ナイジは何も言ってこないが、ロータスに差されたコーナーの手前で、ナイジの動きに対して一瞬の遅れでギアシフトしてしまい、トルクが地面に伝わらない時間を発生させていた。
 当初心配した通り、そんな小さなミスが次の操作を遅らせ、ステアリングを切るタイミングも、スロットルを踏み込むポイントも後手後手に回っていった。それがロータスに隙を見せることになり、イン側にスペースを与える原因をつくってしまった。
 薄目で恐る恐るナイジの様子をうかがう。以外にもナイジの目は死んではいなかった。それどころか、楽しんでいる余裕さえ見て取れる。
「終わったことは考えるな。先だけ見て走るんだ」
 そんなマリの心情を察したかのように、ナイジが声をかける。その言葉はマリのミスを咎めるどころか、まるでここで抜かれることを予測し、次のシナリオへ進む単なる過程であるほどにさえ力強く聞こえる。
 同時にギアチェンジも烈しく鋭くなり、マリの手を介しているとは思えないほど、本当にケガをして痛みがあるのかと疑うほどに、自分の感性で操作しはじめている。
 これまでのように押さえ込もうとする受動的な走りは姿を消し、もう一度抜き返すための能動的意欲に切り替わっていった。
 なんのために無理を承知でナイジが自分をナビに座らせたのか。これまでと同じ気持ちのままならばここに座っている価値はない。それをもう一度問われているようで、マリの気持ちを奮い立たせるには充分なナイジの戦う姿勢がそこにあった。
 そんなナイジが還ってきたのは、マリのひたむきなシフトワークを見て勇気づけられたとも知らず、ふたりはお互いに弱い自分を知り、強い相手を垣間見ては修正を重ねていった。
 緩い下り勾配が続くコースは細かいコーナーの繰り返しで、クルマの荷重を加味したブレーキ操作と、自分の中の猜疑心に真っ向に向き合い、スロットルをどれだけ早くから開けられるかが問われる自制心との戦いだ。
 ナイジの目の前にいるロータスはそれ程離れてはいかない。これまで自分がやられたようにオースチンを完膚なまでに押さえ込むことで、自分のテクニックを観衆に見せようとしているのだ。
 そんな2台の超接近戦はロータスのテールバンパーと、オースチンのフロントバンパーが、見えない糸でくくりつけてあると思われるほど一定の距離を保ちつつ、コーナーの前では同じように減速し、コーナーを旋回し、そして立ち上がっていく。
 黒と白のクルマはボールルームで踊る一流ダンサーと見間違うほど息を合わせ、コースの幅全域を使って一糸乱れぬ体勢でダンスを踊り続けた。
 ロータスが抜いたことで歓声を上げた観衆は、いつしか2台が折り重なって走る姿に魅了され、誰もが口をあけたまま、声をなくしていった。センチどころかミリ単位の隙間で走りつづける2台のクルマの美麗な挙動に、これがレースであることを忘れさせられるほどだ。
 そんな走りも、外で見ているほど車内は優雅でも華麗でもない。レーサーでもないマリにとってはここまでも劣悪な環境下であったのに、ナイジがマリの存在を意識しなくなり、もう一段階上の次元に行ってしまってからは、それがさらに一層ひどくなっていた。
 そんなナイジの進化した走りの中で、マリにもまた独自に新しい対応力が生まれていた。少しでもナイジの左手と一体化したギアチェンジを心がけていたマリは、目でナイジの動きを追わずとも、コーナーを見ながらナイジからの波動を感じるようになっていった。
 シフトに添えたマリの手に、ナイジの熱量が接近してくる。その温度を感じ取ってシフトを動かすタイミングが計れるようになり、ナイジの手が触れた時には既にマリは適切なシフトチェンジの始動をはじめていた。
 最初だけ少し驚いて目線を動かそうとしたナイジは、集中しているマリを目端に捉え、その流れに身を任せることにした。そうなればシフトチェンジが面白いぐらいにハマってくる。ふたりが呼び込んだ奇跡であり、そうなればと望んでいたマリとの一体感であった。
 マリはもうアタマで考えなくとも、この感覚を肌に伝わる空気の動きだけで捉えられるようになっていた。少しでも思考を介すれば、またたくまにそれは破綻し、元に戻らなくなるってしまう諸刃の剣でもあった。
 その恩恵を余すところなく受けとめて、レーシングスピードが上がったナイジのドライビングによって、ハードブレーキングの度に身体は前のめりになり、シートベルトが容赦なく胸部から腹部を圧迫する。
 すぐさま次の加速でシートに押し付けられ、息つくひまもないまま肺が締め付けられる。それでも、ナイジに余計な気を遣わせまいと嗚咽をこらえ、吐瀉物を飲み込み、苦しみを表情や声に出さないように耐え続けた。
 その度に目からこぼれた涙は、ブレーキングから加速へ移る一瞬の無重力状態時にマリから解き放たれ、空中を浮遊する雫となる。車中に浮かんだ糸の切れた真珠の珠のような複数の涙の粒は、次の加速の重力がかかると再び自分に戻ってくる。
 何度同じようにコーナーを回ったのだろう。マリの目の前にあるロータスのテールエンドはコーナーでもストレートでも常に同じ位置にある。いつ激突してもおかしくないほどの距離しかなく、実際のスピードより体感的にはかなりの速さの中に在り続ける。
 それは身体への負担もさることながら、いつ恐怖に負けても不思議でない闘いが果てることなく続いていく。奥歯はかみ合わず、心臓が高鳴り続け、身体の震えが止まらない。
 コーナーへの減速の度にぶつかるのではないかと心臓が締め付けられる。そんな過酷な状況の中でも2度とシフトを遅らせるわけにはいかない。クルマの挙動を感じ、コースを読み取り、熱量を察知しつづけるマリは、なにより早くナイジの意志を読み取りたい。一秒でも早くナイジの脳波を感じたい。その思いだけが崩れ落ちそうな今の自分を支えていた。
――もっとうまくやらなきゃ。これ以上ナイジの足を引っ張っりたくない。ううん、そんなことよりロータスを抜き返すんだから――
 マリは自分に言い聞かせる。ナイジとともに成長していくなかで、登り区間よりも同調してきたシフトチェンジに、ナイジはもはやアシストを受けている感覚はなくなってきた。
 登り区間とは別人のようなナイジの走りに、安藤は手を焼きはじめていた。一度崩れたリズムは簡単には戻ってこない。オースチンを抑えこむ走りは、いつしかオースチンを抑えるというよりも、流れの中に巻き込まれる走りになっていた。
 ステアリングを指先で弾きながらリズムを取るナイジは、前を走るロータスの一手先の動きが先読みでき、ドライビングにゆとりが生まれ、いつしか縦走する2台のクルマを俯瞰で捉えるようになっていった。
 5連コーナーの前で先行するならば、仕掛けるのは今しかない。ステアリングをつかむ手に力がこもる。それを目にしたマリにも、今からナイジが勝負をかけるのが伝わってくる。緊張感から乾ききった喉がそれでも小さく鳴ってしまった。

 八起は焦り始めていた。コースの半分を周回し終えようとしているのに、捜しているものは見つからない。スタートのカウントダウンをはじめるサイレンが耳に届き、なおのこと焦燥感に苛まれていく。
 いつまでも時間を掛けて調べている訳にもいかないと急ぐ一方、万が一見逃したことを考えると慎重にならざるを得ない。
 もう5分もすれば走ってくる2台に追いつかれてしまうだろう。この先何も見つからないとしても引き返すことはできない。本当に何もなければいいのだが、馬庭の確信めいた指示を聞いたからには、それはあり得ないだろう。
 馬庭があるといえば必ずそれはある。それが長い付き合いの中で得た経験値であり現実だった。それだけに、一周して何もありませんでしたではすまされない。
 真夏の太陽の下でコース状況を確認するには、照り返しも厳しく簡単な作業ではない。何度も目をシバつかせせては、きつく目を閉じて回復を図るが、すぐに目は乾き酷使からくる霞みもはなはだしかった。
「ボスも無茶言うぜ、この短時間で。砂漠で砂金を捜すようなもんだ」
 愚痴のひとつも言いたくなる。グリッド上でのトラブルの顛末を報告した電話で、すぐさま次の指令を受けることになった。出臼の静観を決め込む態度に引っ掛かりを覚えた馬庭は、その要因を推理しある仮定を立て、その検証をするため八起に指示をする。
「八起、今から直ぐにマーシャルカーでコースを回ってくれ。なんらかの危険な状態があるはずだ」
「えっ! いいんですかい。そんなことして?」
 八起が思わず声を荒げる。そして、周りを見渡し再び声をひそめた。
「すいません、ボス。でもどうして」
「時間がない、説明は後だ。私がお前に無意味なことを頼んだことがあるか?」
 めずらしく、最後は苛立った口調になっていた。もとより、そんな押し問答をしている場合ではないし、馬庭に命令されたことの意味を問う必要も本来はない。ただ、余りにも突飛で、このタイミングであったゆえ、思わず口をついて出てしまっただけだ。
「いえ、はい、わかりました」
 それでも簡単な仕事ではないと何度も首を振る八起だった。
 どんな状況であれ走らせてしまえば自分の有利な展開に持っていける。そんな思惑を読み取ることができ、そうであればレースが開始された後に何らかのトラブルが起きればいいわけで、それをすべてオースチンやロータスのドライバーや不破なりに責任を取らせる。あわよくば自分まで巻き込めればと考えているのかもしれない。
 手っ取り早くクルマに細工をすることもできるが、レース後の車検を考えれば旨いやりかたではないだろう。ならばコースに何らかの仕掛けをした方が隠蔽しやすく、そのせいでドライビングミスを犯しても、コース状況のせいかドライバーのせいか、後から判断するのは難しい。
 トラブルの後、その場を元通りにしておけば証拠は残らないため、自分の部下をマーシャルにして工作させればさほど手間はかかならいだろう。それが馬庭のくだした結論だった。
 スキール音と、エンジン音が徐々に近づいてくる。
「どこだ。考えろ、どこにオレなら仕掛ける?」