R.R
「今日は、長袖なんだね」
しばらく続いた静寂のあとで、ナイジの姿を見直したマリが、自分のことはさておき夏の日にそぐわない格好を指摘するかたちで口を開いた。下をむいていたナイジもその言葉でようやく顔を上げる。なにか複雑な表情をしているように見て取れた。
「ああ、マリの真似ってわけでもないけど、日差しがキツイから。この方が疲れないんだよ、 …多分」
実際は左手首の腫れを隠すための服装だった。マリに疑問を持たれるのは織り込み済みで、それはあらかじめ用意しおいた回答だった。
「そう、日焼けを気にしたのかと思ったけど、そうか、カラダへの負担を減らすこともあるわね」
一週間たてば治ると踏んでいたケガの痛みはいまだ癒えなかった。黒くなったアザも見せるわけにいかず苦肉の策だった。
「あのね、さっき、ナイジがコースを歩いてるの見てて、中学時代のこと思い出してた」
マリが別の話題に移ったことで、ナイジもそこに話しを持っていく。「中学時代? いま?」
「そのネタ、ひっぱるわねえ」笑顔でニラミをきかせておいてマリは話し出す。
左手のこともあり、中学時代のマリは、教員の配慮によって半強制的に文化部に入ることになった。それは好きでもないコーラス部だった。開け放たれた窓から目をやれば、運動部がグランドをところ狭しと練習に励んでいる。
休憩時間はもちろんのこと、練習している時も窓からグランドを眺めていた。それは自分と交わることのない遠い世界だった。
特別身体を動かすことが好きなわけでもないのに、あえて切り離されたことで余計に気に掛かり、グラウンドと、この部屋を隔てている見えない壁が疎ましかった。
ラグビー部やサッカー部、テニス部とか、花形である部活がグラウンドの全体を占め、力強く大きな声が途切れることなく響きわたっている。
サッカー部のキャプテン目当てに、フェンス越しに鈴なりになった女生徒の黄色い歓声も、時折耳に届くありがちな光景も自分とは隔世にあった。
いつも変わらない風景、今日一日の決められた時間、繰り返される日々。それらが気だるさとして自分に圧し掛かってくる。
ある時、見慣れた風景の中に、何度も繰り返される動きが挿入されてきた。以前から居たはずなのに自分が気付かなかっただけだった。それほど目立たない存在であったことはたしかだ。
グラウンドの隅、校舎の影になるようなところで、陸上部がストレッチや、筋トレをしたり、短距離ダッシュを繰り返したりと、誰が見ても地味で、興味を持って長く見つづけようとは思わない練習を、ひとりひとりが寡黙に行っていた。
一度気になったら翌日もその次の日も、どうしてもその風景に目が行ってしまう。自分の見ている世界より、見ていない世界の方が広いに決っている。誰にも気付かれることのない地道な練習は、そうして過去から行われていたのだ。
マリもこれに気づいたのは、見つづけた華やかな映像に対する飽和と、逆に埋もれてしまうほど単調な動きが異端でさえあり、かえって新鮮に目に飛び込んできたからだ。
花形クラブの部員が努力していないわけではないのに、なぜだかその時だけは陸上部の練習風景が、とても意義のあるものとしてマリの目に映りこんでいた。
周りに囚われることなく自分に課せられた課題を黙々と続け、すべきことと目標が自分に見えている。何と戦うべきなのかを理解しているかのように。
そう汲み取ったのはマリの勝手な想像なのだとしても、その時は、そう考えることが必要で、体内に溜まったゆがんだものの見方を解くために、自然と与えられたものといまは理解できた。
結局、自分は、見栄えのいい体裁、耳障りのいい言葉、居心地のいい場所と、楽な方へ流れているだけで、何ひとつまともに直面することを拒んでいたのだ。
すべてを自分のカラダの不具合のせいにして、勝手に居場所を決めて込んで、当り障りのない対応を繰り返す教師からも勝手に居場所を決めさせられ、その場に甘んじていることを認めていた。ナイジの歩く姿を見て、そんな中学時代の葛藤と、あいかわらず変わらずにいられない自分がそこにいた。
「それがさ、マリにしか見えない風景なんじゃない。良かったよな」
「あっ、」「えっ、」ナイジの言葉に驚くマリに驚くナイジ。
「あの、あのね。アタシもナイジが下見しているのを見てて、ナイジにしか見えない風景を見てるんだなって思ってたから。アタシにも自分だけが見える風景があるんだなって… 」
うれしそうにモジモジと話すマリの姿が愛おしかった。
「先週、ふたりでコースを歩いたでしょ。ナイジが言った『昨日の自分に勝つ』って言葉が印象に残ってて。だから、さっき下見してる姿を見てたら、スーッと過去の記憶が… 思い出したのか、引き戻されたのか。アタシは未だに変わらない心境にいるぐらいだから、わかんないけど、あの時の陸上部の部員から教えられたのはそれだったんじゃないかって」
「そうだっけ、たいして意味はないよ、口からでまかせだ。けど、下見は地味なのは間違いないけどな」
いつのまにか、ふたりの肩と肩が触れ合っていた。そこからおたがいの鼓動が伝わってくる。
「その、えーっと、地味とか、華やかとか、本人にとって見た目って何の意味も持たないでしょ。周りが勝手に決めつけてるだけで。どれだけ、自分が信念を持ってやりとげるか、他人に勝つことより、自分に負けないことのほうがどれだけ難しいかってことを、教えてもらった気がする」
マリにそう言ってもらい、これまでなら決して口に出すことはなかった、言葉が引き出されていった。潜在意識の中でこんなこと言っても誰も関心ないだろうなという意識から口に出すのを拒んでいた。
「オレさ、自分の行動が人にどんなふうに見られてるかなんて、あんまし気にしてなかった。下見だって、クルマの整備にしたって、イヤイヤやってるわけじゃなくて、好きでやってることだし。そりゃさあ、めんどうになる時もあるよ。そんな時こそ、それを断ち切って、もう一度あたまからやり直さないと。やっぱり見逃してるんだよな。だからどんなに時間がかかってもね。そうして初めて知りたかったことが見えてくるんだ。いや、なんだか道が教えてくれるんだ。だからこそ、絶対に手を抜かずにやらなきゃいけない。一度、手を抜くと、その感覚が身体に染み付いて、知らない間にそれが普通になっている。平たい道をただ漠然と歩いている自分に、あるとき愕然と気が付くんだ。求めるものが手に入らないことは、すべては自分への甘えのせいなんだって」
「自分だけが見えた風景は、実は向こう側から教えてくれる情報でもあるのね」
ナイジの右手がひざの上に重ねられたマリの両手に触れた。こんな話にも的確に回答まで導いてもらえる。ナイジはそこに心安らいでいくことで、心の奥でしこりとなっていた思いも吐き出すことができる。
「なんだかね、初めて走ったオールドコースでいきなりタイム出したみたいに思われてるけど、さすがにそれはムリだ。コースを見て、道を見て、路面を見て、それでウォームアップランで刷り合わせて、インラップで答え合わせする。それでようやく思い描いた走りができたんだ。それだってまだ100%には満たない」
マリもゆっくりとナイジの核心へ進んで行く。
「あのね、このあいだもそう話してくれたよね。でも、ただそう思ってるだけなのと、それを実践することとのあいだには、とてつもない差があるって改めて、感じた… 」
「オレもそう、感じてる。 …昨日、走った後、ホームストレートでクルマから降りたとき、スタンドにいる人たちのひとつひとつの顔が見えた。拍手が湧き起こった時、一体なにごとかと思った。レースを走るってことは自分のことだけじゃなく、見てる人にも多くの影響を与えられるんだって。これまで走ってる時なんか観衆の顔も視線も見えてないし、自分が気持ちよく走ってればどうでも良いことだった。だからって自分のやり方が変わるわけじゃないけど、やっぱり、それを知ってるのと、知らないでいるのでは違うだろからさ。そうやってオレたちは形成されていくんだ。自分の意思とズレててもわからないぐらいの逸脱を繰り返しながら」
ナイジの反応に何度もうなずき、こらえきれないマリはすぐに言葉を返した。
「そう、そうなの、アタシもそれが強く伝わってきた。自分では何にも変えていないつもりでも、集った経験は、本人でも、ううん、本人だからこそわからないほどの微量な調整を勝手に加えてしまっている。それが、ある時、突然、以前とは考えが異なっていることに気付いて、実は自分の意思には一貫性がまったく無いことを知る。自分には嘘つけないから。誰だってそうなのよね」
ナイジは深い目をしていた。自分の言葉とマリの言葉が混ぜ合わさり、意識さえも一本の線になっていく。これまでにない刺激が脳内を心地良く撹拌していくのがわかる。
「あっ、あの、これ、お弁当。作ってきたんだけど、食べて。お腹空いてるでしょ」
思い出したようにか、照れ隠しだったのか、黄色のナフキンに包まれベンチに置かれていた弁当箱を両手を伸ばしてナイジに差し出す。
「ホント? スゲエ、料理できるんだ。家庭実習? もういいって? あっ、そうだ、コッチこいよ。いい場所があるんだ、そこで食おうぜ」
そう言うと席を立ち上がり、ひとりスタンドの出口に向かうナイジにあわてて付いて行くマリ。
「ちょっといま、サラッとイヤミ言ったでしょ。アタシだってお料理ぐらいできるわよ。 …時間かかるけど」
「えっ、ああ、悪い悪い。気にすんな、率直な感想だから」
「もう、全然フォローになってないよ」
スタンドを離れて、裏道をしばらく行くと池の淵に葦が群生しているところに出た。近づくほどに何やら鳴き声が聞えてくる。そばによれば数匹の鳥が輪唱を重ねて鳴いていた。葦に隠されて姿は見えないが、この池の淵に巣食っているのだろう。
「アナタって野犬みたいに方々のけもの道を知ってるのね。いままでよっぽど暇だったのねえ。あれ、何の鳥かしら」
風にあおられさざ波が立つと、キラキラと湖面が揺れた。
「ちょっといま、サラッとイヤミ言ったよな」マリはペロリと舌を出す。「これでおあいこでしょ」
「へっ、まあいいや。これはさ、鴨だよ、鴨の親子さ、ここのどこかで暮らしてるんだ。面白いよな、姿は見えないけど鳴き声だけで生活が感じられる。たまに親鳥が飛び立って、エサを探しに行くだろ。帰ってくるとまた、ああやって雛鳥が大合唱だ、エサよこせって」
「よこせって… 自分を棚に置いちゃって。ミカさんにコブタちゃんっていわれるほど食べるくせにね」
「ひでえな、そんなこと言ってた? いまさ、腹減っちゃって何食ってもおいしい状況なんだ。助かったよ、これだけハラ減ってたら、なに食ってもうまいしな」
「もう、ぜんぜん期待されてないのね。でも大丈夫? そんなにお腹空いてるんじゃ、これだけじゃたりないんじゃない? ちゃんとした食事、取ったほうがいいのかしら」
「このところ、バタバタしてて、まともな時間にまともに食ってなくて、お金も無いし」
その言葉を聞いたマリは、自分がナイジのことをまだなにも知らないと改めてさせられた。ひとり暮らしを思わせる話は、本人やリクオの会話でうかがい知れていた。毎回外食するわけにもいかないだろうし、そこでどんな生活をしているのか。お金に不自由していることも気になる。
心配げな顔をするマリも、私生活までズケズケと介入するにはまだ気が引ける。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。オレ、ザツに出来てるから。それに空腹の方が都合のいいこともあるんだ」
ナイジは手頃な場所を見つけ座り込み、マリも大きな石が段になっているところに腰をかけた。めずらしくマリの目線の方が高い位置になる。
「よくわかんないけどさ、いろいろと冴えてくるんだ。それに、闘う気にもなってくる。何でかな、空腹感が闘争本能にすり替わっていくのかもしれない。メシを食えないのは、コイツのせいだって感じで、倒さない限り永遠に食事にありつけないとかね」
心配させないようにふざけて言ってくるナイジに合わせるしかない。
「なにそれ、精神的に凄いって話しなのか、ただ食い意地張ってんだけなのか、ぜんぜんわかなんないでしょ」
「わっ、すげえ、サンドイッチとおかず? …かな?」マリの気遣いもよそに、ナイジはひとり弁当を開けてしまう。
「それね、ミカさんが作ってたの見て参考にしたの。スクランブルエッグとホウレンソウのバターソテー、それに、ハムとかトマト、お好みで挟んで食べてみて」
「へへっ、うまそう。オレ、いろんな味で少しづつ食べるの好きだからちょうどいいや」
「あの、良かったら。ナイジの口に合うならこれからも作ってくるけど。あっ、でもあまり満腹にならないほうがいいのよね。闘争本能が出てこないと困るみたいだから」
「ほんと。いいよ、いいよ、イッパイ作っても。腹いっぱいでも、オレ負けないから。おっ、うめえ、塩分濃い目で丁度いいな」
お弁当を気に入ってもらえた安心感も手伝い、マリは吹きだしてしまった。
「フフッ、なによそれ? どっちよ? いい加減ねえ。塩辛くない? この時期汗かくから、塩分多めにしたんだけど。運動中にね塩分足りないと意識がぼやけちゃったりするって聞いたから」
「へえ、そうなの。マリってさ、物知りだよね。オレの知らないこといっぱい知ってる。オレが知らなさすぎるだけか? まあ、知らなくても何とか生きてこれたけど」
「ナイジはアタシの知らないこといっぱい知っているから、同じことよ。それに、ナイジは理屈じゃなくて、現実に即応してくのよ。アタシにとってはその方が凄いと思えるけどね」
口の中に一杯詰め込んだモノを一通り咀嚼し終わるのを見て、水筒に入れてあった紅茶をカップに注ぎナイジに手渡す。そんなひとつひとつの動作が嬉しくもあり、照れくさくもあった。
「ありがと。ほんと助かったよ。これでコドクに灯が付いた」
”コドクニ”の意味合いが理解できなかった。それをいま聞き返すのは無意味に思えそのままにしておく。
「今日は、コースの観察して、何か見えたものがあったの? 先週と違う新しい発見」
「ああ、見えたよ。そういう言いかた良いな。うん、悪くない。見えたものは、走ってもいいところと、走っちゃいけないところ。クルマに乗ってたら絶対に見えなかった。たったそれだけのことだけど、ないがしろにしてたらしっぺ返しを喰らう」
「面白いね。同じモノをみてても、アタシにはまったく別の姿を見せてる。アナタが見えてるものはアタシには見えない」
「まあ、見えなくていいこともある、見えることで臆病になる事だってあるんだから」
「えっ、ああ、そう、そうかもね。知らないことのほうが幸せなこともあるわね。お互いに」
今度はマリの言葉の真意が見えていない。これもまた流しておくことにする。
「はっ? ああ… ううん、そうかな? そうだな」
「いったい何時から歩いてたの?」
「んっ、ああ、今日? 4時くらいかな。陽が出てすぐだから」
あっけらかんと言い放つナイジ。
「4時っ? えっ、5時間も歩いてたの!?」
ナイジにとっては驚くことではなかった。先週はむしろマリがいたから早めに切り上げただけで、本戦を闘ったあと、もう一度確認しておきたいところは無数にあった。
「そうそう、今日もう一回、検査しないといけないんだ。大丈夫なのにさ、医務室行けって言われた」
あいまいな返答をするナイジに、この時のマリの真意はわかっていない。ただ、少し寂しげな物言いには引っかかる部分もあり、それを消し去るように再び明るい表情で、ナイジにとって意外な質問をしてきた。
「あっ、そうなのね。いいよ、念のため診てもらったほうが。 …ねえ、ナイジは今日走るの?」
マリの質問の意味が一瞬、理解できなかった。自分でいうのもなんだが今日のロータスとの対決は結構な話題になっているはずだ。もちろん興味のない人間には耳にも届かないだろうが、少なくともレースに関係している者なら、今一番の熱い話題なのは間違いない。
あえて、情報から耳を閉ざしていたのか、たまたま、そのような環境にいなかったのか。返答の遅いナイジを見るマリは不安そうな表情にも見て取れる。
「えっ、ああ、走るよ、ロータスのヤツとやるんだ」
マリの気持ちを汲み取り、努めて少ない情報のみを口にする。
「そう、オースチン直ったのね。よかったね。今日走れるんだ。頑張ってね」
マリの表情からは不安の色が消えていた。レギュレーションをよく知らないマリが、ロータスとやりあうことを特別と感じないのは仕方がないことだった。どうやら、マリの心配事はオースチンの具合と、ナイジが今週も走れるのかどうかについてだけのようだ。
不確かな情報は要らない、真実だけを直接自分から聞くために今日まで待っていたのだと理解したい。
「オレ、なんかずっとマリに逢いたくてしかたなかった。あれも言いたい、これも言いたいってアタマをめぐっていた。それなのに、いざ逢ってみると、なんかみんな大したことじゃなかったみたいで、そもそも、何を言いたかったのか忘れちまった」
ナイジはマリの肩を引き寄せ、跳ね上がったマリの髪を胸で受け止めた。寄りかかる体勢のマリは、とまどいながらもいつしかナイジに身を任せていく。
それだけでもう充分だった。余計な言葉は要らない。何も応える必要も無い。大丈夫じゃない自分を見せても平気だし、大丈夫じゃない相手も受け入れられる。
ただどうしても左手のことは言い出せなかった。それは弱味を見せたくないとか、心配をかけたくないとかといった簡単なことではなく、いま言えば、自分はもう闘えなくなると確信でき、それをマリが負担と思ってしまう危惧からのことであった。それだけは絶対に避けなければいけなかった。
相変わらず続く、鳥の鳴き声だけが分散的に空に吸収されていくなかで、ふたりの周りだけが取り残されていく。とても脆く、そして強く。