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「ああ、そうだよな。だけどさ、言い訳じゃないけど… 言い訳でいいけど。直前にタイヤ変えたんだ。さすがに山の中で滑らせるような走りじゃタイム出ないから。なるべく中ブルの選んだけど、それが予想以上にグリップして、それなのにそこを使った走りをした。旨みが多かったから。それが駆動系に負荷をかけていった。最終コーナーを回るころはそんなことアタマの片隅にもなかった」
クルマに関しての論理的な説明はできないナイジでも、感覚的な説明はいくらでもできる。それを消化してくれる安ジイが聞いていることで安心して話ができる。
「タイヤの質を落すのは対ロータスを考えた場合、かなり厳しいし、次はこのタイヤを想定して、走り方を組み立てたい。立ち上がりで少しでも早く蹴り出さなきゃどうしても後手にまわっちまう。はじめは自分の感覚より早くコーナーの途中で突然グリップするから、コース幅を有効に使えなかったんだ。自分の想い描いた走りをするのに手間取って、ずいぶんタイムをロスした。だけど、最後の連続コーナーを考えれば、もうワンランク上げたいんだ。あそこで、目いっぱい踏み込めなきゃ… 自分の感覚じゃ、もう5メートル手前から踏み込んでいきたいし、3つめのコーナーでアウト側のギリギリまで膨らまないと4、5とスピードをノッけていけれない。ロータスを出し抜くためには、そこまで攻めなきゃ、勝つためには絶対に引けないところだ」
ナイジの言葉を聞き、安ジイは席を立って何度か拳で腰のあたりを叩くと、オースチンのタイヤに向かい、その場で膝をついて触診をはじめた。
「ふうん、このコンパウンドで駆動系に負荷が掛かるか。もう少し質のいいタイヤじゃあ難しいな。無理なく走れるようにしとかんと」
不破が馬庭から言い使って持ち込んだ新しいタイヤのことを、安ジイもナイジもまだ知らない。
「えっ、いいのか、そんなことしちゃって」
ナイジも安ジイのすぐ後ろまで来て、驚きの言葉と共に中腰にかがむ。
「あのなあ、ナイジ。最初はオマエの腕と当時のタイヤに合わせて調節しておいたんじゃが、オマエの走りの腕も上がったろうし、より強い相手とやりあうためには案配が悪くなってきたな」
「そうなんだ。だからリアの流れの収まりが自分の感覚とズレてたし、コーナーの立ち上がりでグリップしてから次の挙動が固かったんだ。いちいち蹴飛ばされているような感じは、かなり不快だった。もっとスムーズに加速して行かなきゃ時間を無駄に使ってしまう」
あっけらかんと話すナイジだが、半周でクルマの挙動を読み取って理解し、それを乗りこなしてしまい、しかも最終コーナーまでトップタイムに近い走りをしたことがどれだけ大変なことか。まるで気に止めていない様子には、さすがに安ジイも鼻から息を抜き脱力した。
「タイヤはもう少しまともなのにせんと。そうすると足回りに少し幅を持たせた方がいい。いくらヘタっていたとはいえ、何度も強い蹴り出しを駆動系がまともに受け止めたらそうなるだろ。今回の二の舞にならんように見直しをせんとな」
手持ちのコマだけでトップレベルの走りができるのは、ある種の特別な力を持っている証なのであろう。安ジイにはナイジにそれをわかったうえで言っておきたいことがあった。
「なあナイジ、オマエはどんなクルマであっても、その限界を見極めて速く走る力を持っている。これはなかなかできるようなことじゃない。そして、それはもろ刃の剣だ。限界を知ってしまえばそれ以上を追い求めることはない。自分で限界点を線引きしてしまうからだ。だが、どうもそれだけじゃなさそうだな」
意味深げな話の終わり方にナイジは顔をしかませる。
「なあ、ナイジよ。クルマも痛みを感じるってわかってるか?」
「 …イタミ?」
ナイジはそんな突拍子もない言葉にすぐに反応してしまう。不具合を感じることはあっても、それがイコール痛みであるとは理解しがたい。弱った個所があったとしても、それをいったいクルマがどこで感じると言うのだろうか。
「そう、痛みだ。いいか、ドライバーが突き詰めようとするものなんて際限ないだろ。手頃なところで止めておこうとする自制心なんかハナッから無い。当たり前だ、オマエもそうだろうが、自分より速く走るクルマを放ってはおけんだろからな。だがな、自然の摂理では何かを足せば、別の何かが引かれる。そうやって帳尻が合うようにできとる。高すぎる要求はどこかに無理が生じる、コーナーでの旋回速度をひとつ上げるために削る体力、それはドライバーだけの話しじゃない。当然、もの言わぬクルマにだって負荷は掛かることになる。車体はねじれ、タイヤは擦れ、サスはたわみ、無理するほどに可動部分のすべてに痛みが走ることになる。どこか一箇所の痛みが増せば、そこを補わなければならないから、庇うように別の部分にも負荷が伝達していく。そこは人間と一緒だ、痛いだの痒いだの言わないが、それをわかってクルマと一緒になってスピードを上げてやらないと、怪我するのは人だけじゃないんだぞ」
ナイジはなにか安ジイに見透かされたような気持ちになり、さり気なく左手を後ろのポケットに突っ込んだ。
「スピードを上げた分、何かを引いてやらなきゃいけないってことか。いや、オレ、自分のことばっかりでそんなこと考えもつかなかった。誰より速く走りたいって思うのは、ドライバーなら誰だってそうだろうけど。速く走ろうとすればするほど、神経も身体も張り詰めて走ることになる。どこかで抜いてやらなきゃ、そんな集中力が続くわけない。 …そうか、キツイのはドライバーだけじゃないんだ」
「そう言うこっちゃな。本当にうまいドライバーはな、うまくクルマの痛みを逃しながら走ることができるんだよ。無理をする前、もしくは無理をした後、手なずけるように、たたえるように」
肩を落として安ジイの言葉を咀嚼するように考え込む。自分は自分の欲求だけを満たしている走りをしてしまった。それは単にクルマに無理を強いるだけの自分勝手なドライビングであった。
マリに言われた言葉を思い出していた。いつかは限界に達してしまうし、永遠にタイムが縮まることはありえない。そんな当たり前の言葉の真意はそんな一般常識でなくて、もっと内なるモノの見方であった。
ナイジが黙り込んでいるのを安ジイは静観していた。正しいも間違いもない、自分で何を判断するかだけだ。走りと共に、考え方も一皮むけるいいチャンスだと見ていた。
走ってる限りそんなところに線引きするようなドライバーはいない。どのような状況であったも時間と空間に余裕を見つけ出して攻めつづける。しかしそれはドライバーの都合だけであり、実際にはそんなものは無いのかもしれないし、勝手な妄想なのかもしれない。
それで無理を強いられるクルマにしてみればいい迷惑であり、あくまでもクルマと一緒になって突き詰めていかなければ、クルマが悲鳴を上げるところを見逃しドライバーが大怪我する。
コーナーの途中で蹴り出された感覚は、オースチンからの警告であった。ねじられて歪んだ車体が真っ直ぐになろうとぶり返しを起こしていただけであった。それであるのに蹴り出しからの加速を利用して、コーナーを立ち上がってタイムを詰めていた。
「アンじい。オースチンはオレの代わりにイタんだんだな」
工場の中にも緩やかな風は流れているようで、窓際に止めてあるバンプラを覆っているシートが緩やかに揺れる。それは湖の水面のように波打っている。音も無く。
「そうだな。ワシらはクルマに手は入れられる。だがな、それで何でもできると思ったら大間違いだ。わかった上で走らないと修理屋は神様じゃない、できる範疇ってものがある。まあ、オマエはオマエで自分にできる仕事をやっとけ」
あごをしゃくりバラされたエンジンパーツの方を指す。
「あっ? ああ、昨日、寝ちまったな、一瞬で。ハハッ、やることやっとかないとな、オッサンに偉そうなこと言った手前さ」
そう言うと、ナイジは立ち上がりカラになったマグカップを安ジイに戻し、パーツが並べられたバットの方に向かった。改めてクランクシャフトを手にして、空き箱の上に放置されたウエスを拾い上げ、汚れを掃って、掃除を再開した。
「予想以上だな、きれいに磨耗しとる。うまく乗ってきたもんだな。なあ、ナイジよ、知っての通り、ワシは余計な肉付けは好まん、だから、このクルマも余分な贅肉は何ひとつ付けておらん。それは、オマエの判断を鈍らせないためでもある。ドライバーを助けるために、クルマの性能を補う様な部品をひとつ付ければ、それだけ、人間の持つ潜在能力、秘められた感性がひとつ失われていくだけだ。クルマの素性を活かしてやれば、ちゃんと応えてくれるし、人は乗りこなすことが出来るのにな」
ナイジが聞いていようがいよまいが、安ジイは気にせず話を続ける。
「だいたいクルマは、多少やりづらい部分があった方がいいんだ。少しの毒は人間の抵抗力を活性化させてくれる。良い部分と悪い部分が棲み分けることによって、人は偏ることなく、その中で最大限の能力を発揮することができるんだ。温室で育った人間には外敵から身を守ることもできんようになる。クルマの安定性が高ければ高いほど、ヒトはクルマに乗せられちまうんだ。そうするとな、ドライバーのアタマや、身体は鈍くなる。とっさの事に反応できない。そこで、軽く不安定な方向へ振っておく。これは口で言うほど簡単なことじゃない。正に技術屋の腕であり、微妙なサジ加減なわけよ。するとどうなるか、ドライバーは常にクルマと向き合って正の方向へ持っていこうとして、自分でクルマを御することに集中する。そのお陰で、鋭利になった神経が想定外の出来事にも対処していくわけだ」
ひとつのシャフトを仕上げたナイジはそれをバッドに戻し、次のシャフトに取り掛かる。
「アンじいの実体験は戦闘機からきてるからな。オレなんか想像もつかない」
「フン、戦時中の戦闘機は、そういう造りをしてあったんだ。不安定な機体に全神経を研ぎ澄ませて長距離を操舵し、相手と一戦交えて帰ってくると披露困憊でフラフラになっとった。それでも生きて帰ってきた。帰還率が尋常でなく高かったのは、常に極限の集中力で戦闘機と対峙していたからだ。若くして多くのエースパイロットが生まれ、戦闘機もしっかりと整備をすれば何回でも飛ぶことが出来た。それが、軍の放漫を増長させる皮肉な結果となった。いつまでも旧型の戦闘機を飛ばし続け、エースパイロットを使い捨ての駒ように損耗していき、弱体化の一途をたどっていった。終戦間際の学徒動員兵士じゃどうにもならんかった。ふん、どのみち行ったっきりの飛行しかせんから、それでも困らんかったようだがな。こうしたら勝てたとかそんなことを言うつもりはない。戦争は悲惨で辛い記憶しかない。それでもあのパイロット達は、ワシにとっては国を護る神様みたいなものだった… 」
安ジイが組み立てたオースチンに乗るようになって、真剣勝負をしたあとに、どっと疲れが出るのはそのせいなのかと妙に納得してしまう。
当時から優秀な整備士であり、その時の経験が、今のクルマのセッティングにも応用できているという話しは聞いたことがあった。戦争の実体験を聞いたのは初めてで、あまりにも非現実的な話から見えたものは、せめて自分が整備した機械で人を死なせたくないという強い想いだった。
「あの日、オマエの隣に乗ったワシは、小さいながらも可能性を見ることができた。まだ、芽も出てなかったがな。オマエはクルマを選ぶドライバーじゃない、クルマを生かす走りができる人間だ。たいしたクルマでなくとも自分の走りができるように持っていける。それがオマエだ。だからこそ、このオースチンを仕上げる気にもなった」
こそばゆいナイジは自分の頬を指で掻くと、そこにオイルの黒いあとが残った。
「この頃のドライバーは自分が楽するような装備を競って付けている。それに、まがい物のようなオイルやガソリンまで造られる始末だ。クルマの進化は止められん、ワシもそれを否定はせんが、多すぎる援助装置は同時に危険を察知する判断も鈍らせる。薬に頼りすぎる人間が、病気の本質をぼかしてしまい自己再生能力を消失してしまうのと同じようにな。だが、本当に怖いのはそれだけじゃない」
シリンダーヘッドに取り掛かっているナイジも興味があるのか聞き耳を立てている。
「ナイジよ、人間ちゅうもんは適当なところで満足を得ることを知らん。すべては『過ぎたるは、及ばざるが如し』。ワシの若い頃に比べれば、今は何でも便利になったもんだ。湯をそそげばコーヒーも淹れることができる。だがな、そこだけが追及され、それだけが価値を持ってくるとな、人がひとつ便利を手に入れることで、多くの幸せが奪われていくことに誰れもが気付かんくなってくる。それが、一番恐ろしいことなのにな。この先、いったいクルマがどこに行ってしまうのか、つまらんことにならんといいが。まあ、新しい技術について行けん年寄りの戯言だ… 」
ナイジは汚れだしたウエスを広げ、汚れの無い白い部分を探していた。安ジイは正面だけを見据えていた。手頃な白い部分を見つけ出すと、その部分を使って磨きはじめる。
「オレとアンじいとでは、出発点が違うから。オレ達はあるのが当然の世界に生まれてきた時点で、既に比べられない差がそこにはあるんだ。時間や便利が金で買える時代がはじまっていた。その分知恵が足りないもんだからアンじいには物足りなさや不安がある。常に今がスタートラインでオレ達は生きてるんだ。楽しみが欠落していくのはしかたないんだろう。アンじいが言うそれが自然の摂理ってヤツなら、オレ達はなにか便利を手に入れるたびに、目に見えない何かを失くして、それに気づいた時にはもう取り返しがつかなくなっているんだ」
安ジイは悲しそうな笑いを含んでいた。
「クルマの進歩の差で速さに優劣がつけられるようになったら、ドライバーの本質は今とは違うところに行ってしまう。そうやって、自分達が知らない間にエレベーターにでも乗って、違う価値観の場所へ大勢で運ばれていくんなら、そりゃ、受け入れがたい話だ。それが、世の中を動かしていると自負している一握りのヤツラの企みなら尚更ね」
「ふっ、ほらまた、ソッチへ持ってくなオマエは。まあ、わからんでもないが、若いうちは体制に対し穿った目を向けるもんだ。いいか、そうは言ってもな野に放たれ自由になった羊は、しばらく自由を謳歌するが結局は不安になり帰属を求め、ほっといても自ら檻の中へ戻ってくる。人もこれと同じだ。その結果、一握りが羊を支配し、野生を求めた羊は屍となる、これもまた自然の摂理だ」
“それでオマエはどうするつもりなのか”と選択を求められている気分になった。檻に戻るのか屍になるのか、羊であれば、その二択しか用意されていない。羊以外なら自分もまた同じ穴の狢である。妙に絡まる空気がわずらわしくなってきた。
「それはある意味、いまのオレには消化できず、そしてある意味すでに消化済みになっている。オレは自分で選択しておきながら、決められた行動パターンを繰り返しているだけだから」
うつむいた顔から灰色の瞳がナイジを見上げた。
「そんな、目で見ないでくれよ。これまで生きてきて染みついたタチは簡単に抜けるもんじゃないだろ。ただ、それをわかった上でやってくのと、知らないまま踊らされるのじゃあ雲泥の差だ」
安ジイの思考は過去と現在とを行き来していた。ナイジの青臭さが自分を若かった頃へと引き戻してく。そうでありつづけたかった自分、もうそれを止めようとしている自分。知らない内に二面性を造り出していることに気付いていない。それを若さという括りで終わらせるのもしかたないのだろう。
「オマエがそれでいいならワシはなにも言うことはない。オマエも気付いていると思うが、多くの人間がオマエの、まだ見えざる才能に期待し神輿に担ぎ上げようとしとる。そうすると、聞きたくない言葉も耳に入ってくるし、利用しようとするヤツも出てくる。上手く立ち回ることができんオマエは引きずり込まれるだけだぞ」
「オレは何も世の中をひっくり返そうだなんて思っちゃいない。ただ、世の中をいいようにかき回してるヤツらのコマにはなりたくないだけだ。オレがあのサーキットの鍵になるのだとしたら、どこでオレの手中にあるその力を見せつけるか決めることができる… 」
ナイジの顔は決して欺瞞に満ちたものではなく、言葉からは真逆で寂しげであった。神輿に担がれるのも、引きずり降ろされるのも自分の範疇ではない。勝手にまわりが動いているなら、それをやめさせる権利だけは行使したかった。
「ワシはこれまでにも、力があってもそれを出し切れなかったヤツ、無いなりの力で精一杯やり切ったヤツ、そして、有り余る才能を存分に発揮したヤツと、多くの範例を目にしてきた。そいつはすべて、ソイツ等の人生だ。他人のせいにすり替える気持ちもわからんでないが、乗り越えれんヤツは、結局はそれだけのモンでしかない。オマエが自分をどうするのかは自分次第で、どんな結果が出ようともそれがオマエの人生だ。それを受け入れられないならば、何をしても成長は無い。それは留まりつづけることより無意味なことだろう」
ナイジは何も返事をすることはなかった、ヘッドカバーを磨くリズムが時折不協和音を起こす。しばらく経ってから小さくうなずく。深く刻まれた皺の奥から覗く安ジイの消耗した瞳が優しく受け止めていた。