private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第15章 3

2022-07-31 09:33:59 | 本と雑誌

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R.R

「 …ス、ボス。もうすぐ着きやすぜ」
 八起に促され目を覚ませば、マセラッティはサーキットまでの最後の傾斜を登っているところだった。
「ボス、だいぶお疲れのようですね。近頃、よく、うなされてますぜ。さっきのひでえ夕立のせいかもしれませんがね。ええ、あたりが暗くなったかと思ったら、案の定、あっというまに降ってきやがった。どうでしょう、30分ぐらいは降ってたんじゃないですかね。天井を叩く音もかなり、けたたましかったんですが… 気付かれなかったってことは、そりゃ、よほど悪い夢にでも引き込まれてたんでしょう」
 気を遣ってくれる八起の言葉を耳にし、目を覚まそうとしても、なお頭を持ち上げることは困難だった。
 八起に云われるまでもなく疲れが蓄積し続けているのは間違いなく、それと関係があるのか、昔を思い出すことが増えていた。
 自分がいま、成し遂げようとすることは当然として過去からつながっており、無意識の内に回顧するのは当たり前のことなのかもしれない。未来を進めるにあたり、過去への思いを断ち切ろうとする心情が、逆に多くのあやまちを思い起こすことになる。
「なあ、八起。服屋が多くの服を持っている客にさらに服を買わせるには、どうしたらいいと思う」
「はあ? やめてくださいよ、アッシに小難しいハナシは無理ですぜ。とは言え、ボスの口ぶりには興味を惹かれますがね」
 突然、何を言い出すかのかと面喰いながらも馬庭のことを思えば、ここは聞き役に回る必要があると判断した。八起だからこそ言える話もある。
「難しく考える必要はない。答えは簡単で、膨れ上がったポケットには何も入らないってことだ」
「はあ、アッシにはとても簡単に聞こえませんが、問答ですかい?」
 馬庭は鼻から息をこぼして続ける。
「問答なんてものではなく単純な論理だ。いっぱいになったポケットにモノを入れるには、今入っているモノを外に出さなければいけいない。それで言えば、お客にいま持っている服を捨てさせる。つまり、押入れやタンスに仕舞いこんで着なくなった服を捨てさせなければ、客の置かれた精神状態では新しい服を買おうとはしないということだ」
「へえ、でも、どうやって捨てさせるんです。いちいち客の家に行って、これはいらないだの、着れないから捨てろだの、お節介やくんですかい」
 八起はウインカーを左に当てて、サーキットの入場門をくぐる。警備員の一礼に右手を挙げて応える。
「ふふ、それじゃ経費過多で儲けが出ん。それに、他人からああだこうだ言われれば逆に拒絶するのが人というものだろう。対処策はとすれば手持ちの不要となった服を安く買い上げる。もしくは店まで持ってきてもらえれば、代わりに処分するというサービスを行う。これは、実は服屋に喚起されながらも、自分で判断を下している錯覚におちいるため抵抗なく実行してしまう」
「へえ、なるほど、ボス、次は服屋にでも転身するつもりですかい?」
 馬庭はぐるりと首を回して口角をあげる。
「それもいいが、これは金額の差こそあれ、クルマの話でもあるんだ。八起、いいか、我が国もやがて豊かになり、そのうちひとりに一台クルマを手にするようになるだろう。今の主要客である男性客が飽和すれば、次は女性や老人といった新しい購買層に目を向け、それにあわせたクルマが必要とされる。重いハンドル・アクセルにブレーキ、面倒なミッション車なんてものは選択肢から外される。そして、最後には手足も使わず考えるだけで、クルマが勝手に動くようになる。まあ、それはまだ先になるだろうが… 」
「はあ、手足を使わずにですか」漫画の一場面を想像する八起には現実的ではなかったらしい。
「極論だがな。横道にそれてしまったが。では、一通りにクルマが行き渡ったら、次にクルマを売るにはどうする? 今のクルマを手放さない限り、ほとんどの人は新しいクルマを買わないだろ?」
「そりゃ、そうですね。よほどの金持ちじゃなきゃ、ひとりで2台も3台もクルマを持つことはできねえですし。じゃあ、クルマを安く買い上げるなり、処分するなりして次々と新しいのに買い換えさせるってことですかい。それこそ服じゃあるまいし、いうほどうまくいくとは思えませんが」
 マセラッティは地下駐車場への下りのスロープに進入する、ヘタな運転なら嫌な浮遊感が身体に伝わるものだが、八起はクルマのノーズが下がったことを、まったく感じさせず走らせる。
 クルマを駐車位置に停止しても、馬庭は降りようともせず会話を続ける。
「ふつうはそう考えるだろうな。だが、常識というヤツは必ずしも、いつまで経っても常識では在り続けんのだ。同じような毎日を過ごしているつもりでも、そいつは少しづつ変化していく。そして、いつのまにか世界は変わってしまい、昔からそうしていたかのように受け入れられていく。気付かないんだ、誰も、キサマも、わたしも」
 馬庭はここでこめかみを手で抑えた。話しを進めさせていいものか八起は戸惑っていた。そうではあるか馬庭を止めさせる言葉は見つからない。
「時代の潮流は作り出すことができる。望む者の力が強ければ余計にその傾向は強まってくる。どこかの強国のように、政府が国の成長戦略を後押しするならば、買い換えざるを得ない状況を意図的につくることも可能なのさ。まだ乗れる、愛着がある。そういった情緒的なものと、便益と世間の動向ををハカリにかけて、無くしちゃいけない大切なものを失っていく。最初は負い目も感じるだろうが、そのうちに麻痺して、やがては消費こそが美徳と割り切ることができる」
「そんな、もんですか。アッシなんざ、このクルマを懇切丁寧に乗って、一生連れそうつもりでいるんですがね。ボスが買ってくれた大切なクルマだ、もう、車体の隅々まで知り尽くして、自分と一体になってる気がするほど、あ・うんの呼吸で動いてくれる。それを乗り換えて、じゃあ次って気持ちには、ほとほとなれませんがね」
 あきれ返って言う八起に、馬庭は自嘲気味に、そして声のトーンを落として搾り出すように話しはじめた。八起は馬庭のその独白に心音が高鳴った。
「そう、そんな馬鹿野郎が、そのまま、これまでのわたしの人生だった。手の内にあるモノを捨てるということは不安との戦いだ。だが、捨てなければ新しい能力を手にすることはできず、今度は手に入れられない不安と戦うことになる。一度、捨ててしまえば次々と新しい能力を手にするために、同じことを惰性のように続けていく。大切な何かが身から削ぎ落とされていくのがわかっていても、もう止められない。実は手にした能力なんてモノは、無くした大切なものに比べれば、なんの価値もないってことを、自分でもわかっているのに。一度、転がりだした坂では、もう誰も止めることはできないんだ」
「 ……」
 八起は、もはや言葉を閉ざすしかなかった。馬庭が見た悪夢の正体がおぼろげに見えてきた。おいそれと自分から言葉をかけることはためらわれ、馬庭から言葉にして吐き出せることができるなら、少しは好転するではと甘い期待をするが、悪い流れを断ち切るのはやはり、この女性しかいなかった。
 地下駐車場に降りる階段の陰から、レイナが顔を見せると辺りを窺うため顔を左右に振る。馬庭が到着したはずなのにいつまでたっても社長室に戻ってこないので、心配になって様子を見に来たのだ。
 マセラッティの陰影を見つけると、不安げな表情のまま、すぐさま小走りに駆け寄ってくる。スタイルの良い体躯は大きく揺れ、胸が波打っても気に止める余裕もないのは、すこしでも早く馬庭の様子を確かめたいからなのか。そんなレイナの純真な姿は八起には眩しすぎて、とても正視することができず目をそらした。
 急ぐように焦るように、マセラッティのドアがレイナの手をかけるので、あわてて八起がロックを外す。開かれたドアのすぐそばで、馬庭は鉛のように重くなった身体を懸命に持ち上げて、なんとか車外に出た。
 レイナに心配をかけないよう何事もなく立ち振る舞う馬庭に、その姿に無理を感じたレイナはすぐさま手を回し、馬庭を支える。
「大丈夫ですか、社長。私の前では無理なさることはありません。よろしければ、志藤先生に診ていただいてはいかがでしょうか」
 すかさず運転席から回り込んできた八起も、反対側から馬庭を支える。これほど弱々しい姿の割に、やけに体重が重く感じられる。それは、自分で身体を支えきれていないなによりの証拠であった。しかし、馬庭はそこでスッと背を伸ばし、両手でふたりを遮ると息を吐き出し再度、身体に活力を取り戻した。
「心配掛けた。だが、大丈夫だ。何がまずかったかは自分でもわかっている。ただ、志藤先生には診てもらうよ。玲那さん、10分後に行くから、話しをつけておいてくれないか。そうしなければ玲那さんが安心できなさそうだ。八起もな。あぁ、八起、今日は早めに仕事を切り上げるから、このままクルマは待機しておいてくれ。一度、仕事場にもどるよ」
 そう言い残し執務室に戻る専用エレベーターに向かっていった。レイナは八起に一礼すると医務室への通路に足を向けた。
「あっ、玲那女史… さん」
 思いもよらず八起に呼び止められ、驚きと共に振り返る。紺のジャケットに、白いスカートの裾がふわりと広がる。均整のとれた体型は、美術品の女性像でも見ているほどで、目を潤わせてくれる。
「はい?」
「ああ、すんません、急に呼び止めちまって。アッシがしっかりしてないもんだから、ボスを気遣うことができません。運転するぐらいしか能がなくて。もっとボスの力になれるといいんですが。玲那さん、あなたは聡明で気も回るお人だ。どうか、ボスの力になってやってください。いや、アッシがそんなこと言うのもおこがましいですが。それぐらいしかアッシにはできません。どうか、ボスを支えてやってください」
 言葉はたどたどしいが、実直で上司思い、馬庭のことを心から心配している八起の気持ちを、レイナは素直に受け止めることができた。
 自分も馬庭を支えたい思いは誰にも負けないと自負していても、いまだ足手まといになっているのが歯がゆい。一度、八起の場所まで戻りスウェードの鳥打帽を握り締める手を両手で優しく包み込む。
「八起さん。私だって半人前で、何ひとつお力になれるようなことはできていません。でも、少しでも社長のお役に立ちたいとは思っている気持ちは一緒です。私たちの出来ることで、お互い社長を支えられるよう頑張りましょう」
 穏やかな笑顔で、しかし、はっきりと語るレイナを見て、語られる言葉より強い女性である印象を受けた。だからこそ余計に自分の無力さが情けなく思え、そんな自分にも屈託の無い態度で応対してくれるレイナに感謝の思いがこみあげてくる。
「それでは、私は、医務室へ向かいますので。八起さんも、帰りの運転、どうぞ御気を付けて、社長のこと宜しくお願いいたします。それでは、失礼します」
「へえ、こちらこそですが、およろしく、おねがい、いたしますです。はい」
 レイナに手を握られ、丁寧な挨拶に舞い上がり、でたらめな敬語を使う八起に優しく微笑み、再び会釈をして医務室へ向かい歩き出す。
 両手で鳥打帽をクシャクシャにして、その場で感激に浸る八起、女神でも見つめるような視線でレイナの後ろ姿を追いつづけていた。
「はあー、八起さんだってよ。どうしよう… って、どうする?」


第15章 2

2022-07-24 12:33:11 | 連続小説

R.R

 いつもと同じ学校からの帰り道であるはずなのに、目に映る町の情景が普段と違って見えたのは、気の持ちようが変わっていったからなのだろうか。
 人気のない古びた町並みで目にする、壊れたまま壁に掛けられている床屋の古時計、風に煽られる錆だらけで読めなくなった金物屋の看板、魚屋の変色したホースから流れ出ている水。それらは、明日なくなっても誰の気にも止められないはずなのに、それでいて過去からの遺留品として永遠に在り続けるようにもみえる。
 すべての目に入る物体は夏の日差しの下で、光と影に選別されてしまった色はモノトーンでしか認識されなくなっており、もはや自分が色彩を失ってしまったのかと戸惑うばかりだ。
 舘石一哉は、その中を歩いていた。毎日通う学校からの帰り道は、ある日を境に、たった一人の家に戻るためだけの存在になっていた。誰も待っておらず、誰も帰ってくることも無い自分の家に。
 いくら進んでも蝉の鳴き声は、自分の影のようについてきた。時折吹き抜ける生暖かい風は、風鈴を慰み程度に鳴らし、すだれを揺らす。それで涼しさを感じされることもなく、方々から目に入ってくる光の乱反射が、目にうるさく暑苦しいだけだった。
 通り過ぎる家の中からは、開けっ放しの窓のから高校野球の実況中継が漏れてきて、人気の無い小路にはラッパや太鼓の音とともに、アナウンサーの甲高い声が行き場も無く押し詰められていく。
 一哉は引っ越した当初から、この町がどうにも好きになれなかった。その傾向は年々鬱積していき、もうなにか行動を起こさなければ耐えられない衝動に駆られていた矢先のことだった。
 地元に根付いている家族の手前、一刻も早くここを出て行きたい気持ちを、口に出すことはできず、それなのにそれを考えない日はなかった。
 往来には人ひとり居ないのに、いつも誰かに監視されているようで、行動のすべてを記録されている気配を常に感じていた。
 歩いていると徐々に頭が下がってきて、上目遣いに辺りを探るようになる。時折立ち止まり、後ろを振り返る回数が増えていった。しだいに、自分の周りに壁を作り、何もしないで生きていくことを強要されている気分になっていく。
 それは真砂の中にジワジワと引き込まれているようで、注意深く気に止めていなければ気付かないほどの微妙な速度で、自分の周囲からすべてを飲み込んでいった。
 周りの人間はそれには気付かないように振る舞い、ただ陽が沈むの待ちつづけ、一日を終わらせる暮らしを続けるのが宿命とされた生活に馴染んでいき、自分もその中に取り込まれていくのが怖かった。
 願いがどんな形で叶えられるのかは、当人だけの意向で進むわけではない。それが、自分が求めていた願いを、家族の不幸と引き換えに手にしたならば、あまりにも残酷な結末といえた。
 自分が求めなければ、こんなことは起きなかったのではと考えてしまえば、いや、どれだけ考えないようにしても、結果的に悪魔と契約してしまった自分が、これまで通りに生きていくのは許しがたかった。
 悲劇はいつだって一瞬の選択の中で起きる。その直前まで、平和そのものだった家族を乗せた車内が恐怖に陥ったのは、右側を走る大型トラックが、まるで運転手を失ったかのように、一哉たちの乗るクルマの進路を遮り、前方を塞いできた。
 左にずれるか、急ブレーキを踏めばよかったのかもしれない。しかし、一哉の父親はスピードを上げトラックの前に出る選択を選んだ。
 今となってはどちらが正しいのか判断はできない。トラックが動きが不慮の事故でなく、一哉の乗るクルマを狙っていたなら、左にずれようが、ブレーキを踏もうが、確実に仕留める行為を続けただろう。
 ならば、それを避けるためには、父親が選んだ、トラックの前に出るのが一番正しい選択だったのかもしれないのだから。
 かわそうとするシトロエンの右後部ドアにトラックの左前部が突き刺さり、後輪が破綻すると、車内は叫喚が渦巻き、シトロエンは大きな弧を描いて、側道の電柱に運転席側のドアから激突し烈しく喰い込み、さらに左側にはトラックがそのまま体を預けてきた。
 一哉が座っていた右後部座席を除き、全てが原型を留めることなく捩じれ曲がっており、そこに乗っていた一哉の家族だった人たちは、もはや人間の形をしていなかった。
 押しつぶされたシートのあいだから、トラックの運転手らしき男が走り去りながらも何度も確認するように、つぶれたシトロエンに目をやっている姿が見えた。
 その顔は恐怖から逃れるというよりも、達成感を含んだ満足げな表情に見えた。それがすべての結論であった。一哉の父親は意図的に狙われ、舘石家は、巻き添えを食う形となったのか、あえて家族もろともの狙いがあったのか。
 命は取り留めたもののこれほどの大事故では、さすがに無傷というわけにはいかず、なんともないと思っていた一哉自身も、たんに激突の衝撃で神経が麻痺して、痛みを感じていなかっただけで、頭や、腕にはガラスの破片などで幾つもの裂傷を負っており、流血とともに神経が蘇ってくると、意識の中で痛みが覚醒していった。
 座っていたシートの色がどす黒く変色してきて、それは自分の血だけではないとしても見慣れない量には慄いてしまう。
 むろんシートだけではなく、シャツも赤味が濃く滲んでいる。さらに、自分から滴り落ちる血のしずくは、断続的にズボンや手の甲に落下して、一向に止まる様子もなく、自分の血が抜けきってしまうのではないかとも思わせた。
 このままでは車中で気を失う危険性もあり、大破したクルマがガソリンに引火して、爆発でも起こせばひとたまりもない。すこしでも早く、意識が確かなうちにクルマから抜け出した方が良いと、頭の中の冷静な自分が弱った体を揺り動かすのに必死になっていた。
 ドアロックを外し、ドアを押してみるが歪んだフレームのせいか少ししか開かない。狭くなったシートの上で身体をねじり、足を外に向け、かかとの部分でドアを何度か蹴飛ばすと、なんとか少しづつ開いていった。どうにか身体を通せるほどの隙間を確保して車外へと脱出する。四つんばいの状態で、なかなか立ち上がることができなかった。
 鼻の奥できな臭い匂いがし、喉の辺りで鉄っぽい血の味がした。身体を向き直し振り返れば、シトロエンがほとんど原型を留めることなく大破している。深海魚の外観にも似た、ぬめりを持つ表層が、無残に光沢を失うほどひしゃけている。
 この外見を見る限り、中に人が入っているとは誰も想像できないだろう。肉親を失った悲しみを実感するより、第三者の立場でしか現実を捉えることができなかったのは、なくしてはいけないものを代償に、自分の望みが叶ってしまったことを、別の次元として切り離しておかなければ、精神を保つことができなかったからだ。
 自分の気持ちを自制しながらも、徐々に意識は遠のいていく。ようやく人が集まってきたようで、言葉として捕まえることはできないが、多くの人の喧騒がゆらゆらと地面から立ち込めていた。
 このときの一哉の記憶は、誰かに抱きかかえられた感触で終わっていた。

 葬儀の日、親族側の列に独り、ぽつんと座る一哉は、両の拳を固く握ったまま頭を垂らして、ピクリとも動くことはなかった。
 出血はあったが深いキズではなく、簡単な治療を受けて1日の入院だけですんだ。退院すると葬儀は会社側と縁者ですでに段取られており、怪我のこともあるので無理して出席する必要はないといわれた本音は、どちらかといえば姿を見せて欲しくなかったということであろう。
 変なことを口走られては旨くないし、怪我をした姿を人目にさらされるのさえ迷惑であるはずだ。同情をひかれて社内の世論を味方につけられても困る会社側の思惑が見て取れた。正面に座る会社役員の連中は沈痛な面持ちをしているものの、時おり耳打ちを繰り返しては苦みばしった顔を見せていた。
 いざという時のために縁者側にも会社の息のかかった人間を忍び込ませており、何か一哉に動きがあれば口を封じ取り押さえる手はずが整っていた。しょせんは事故と、怪我の後の中学生の言うことで、精神に異常をきたしていたとでもなんとでも言い訳がたつ。
 それにしても固まった身体を動かさず、黙している一哉の姿からは、そんな準備も取り越し苦労だったと思えるほどで、いささか拍子抜けしてしまっていた。
 一哉としては自分の預かり知らぬところで、両親を葬られることは、なんともやりきれない思いもあり、自分が居ることで、会社側の営利に利用されないように、少しでも抑止力になればという思いが、無理をしてでも出席した理由であった。そこで縁者の中に知らない顔が散見しているのを目にし、さらに不信感を増幅させ、人為的な事故を疑う気持ちを増幅させていった。
 縁者側の席からも、遠慮がちではあるが、好き勝手な囁きが飛び交っていた。一哉の耳には入らないように小声で話しているし、紛れ込んだ会社の人間が威嚇するように咳払いをするため、途切れがちな会話の全貌は明らかではなくとも、『労働組合』、『煙たい存在』、『融通が利かない』などの単語から連想していけば話しの内容はひとつにまとまっていく。
 さらには『厄介払い』という言葉からは、父親の置かれていた立場と、今回の事故との因果関係が明確になってくる。
 若くして会社の労働組合で相談役の立場にいた父親の舘石寛治は、毎年、会社側との労使交渉を取りまとめ調整をはかりつつ、労働者の立場向上や権利拡大に貢献しており、現場を預かる多くの管理者から絶大な信頼を得ていた。
 そんな中、社会構造の変化は徐々に労働組合の活動を過去の遺物に変えていき、労働者の中からも力関係の強い者は、会社側になびいた方が享受できる利権が多くなると考えだした。
 どこにでも金に目がくらんだあげく抜け駆けする人間はいるもので、会社側に買収された数人の組合役員が、舘石に第一線から退いてもらうよう裏工作を続けていた。
 それでも数年来の功績や、弱きを助ける人柄から、力を持たない多くの作業員からの舘石の人徳は絶大で、その立場は揺ぎないものであり、また、舘石自身もそんな声に応えようと、さらに強固な組合を構築することを目指していった。思うように事が進まず、業を煮やしはじめた首謀者達は遂に最終手段にでる決断をくだしたのだった。
 囁かれる言葉を継ぎ足せば、だいたいこんな内容の話だろう。大国で起こる騒動が2年後のこの国に必ずやって来た時代だ。そう考えれば、一哉が感じる町からの雰囲気は気のせいではなく、舘石家はいつの頃か常に監視の目に晒されていたのだ。
 父親の置かれた状況から、自分の周りの嫌疑に居心地の悪さを覚え、ここから離れることを望んだ挙句、事故を呼び込み家族を亡き者にしてしまった。
 もちろん、すべてを自分の所為にしてしまうことは背負い過ぎであり、むしろ愚かな負の連鎖になるとはわかっている。ただ、どうしても正の世界を裏返せば、そこに介在しているのはやはり成るべくしてなった結果であると受け入れた。
 知らない間に少しづつ目に見えないほどの砂が堆積していき、いつのまにか足は動かすことができなくなり、そしてある時を境に、いままでの倍以上の速さで回りは埋め尽くされ、身動きが取れないようになってしまったようだった。
 最大の不幸は自分が生き残ってしまったことなのかもしれず、奇跡的に生き残った一哉には、神が自分に何を求めているのか知る必要があった。その答えを出すためにだけ、この先、生きていく羽目になるのだと。それ以外に、この状況に対して自分を納得させる理由を、なにひとつ持ち合わせることができそうになかった。
 ただ、神が自分に下した裁決を消化できていないいま、精神の均衡が取れないままに、どうにもその先へ進むことはできない。動くことはすなわち、家族の不幸から得た利潤に手を付けることを意味する。
 なにかにすがりついたり、別の誰かに転化している場合ではないならば、異常な自分を体内の奥へ追いやることで、ケリをつけようとしていた。
 復讐するのは自分自身、自らが生み出した罪の代償を支払うことが、これらすべての解決に必要な行動である。そう考えれば、父に手を掛けた人々も同様に、自分の罪の一部となった不幸な人間ともいえ、無用に巻き込まれた哀れな存在と憐れんだ。
 物事に動きがあるのは、すべてにおいて心が存在する。どんな些細なことも、大きな事件も、人が望むからゆえ起きる。自らが動かした天秤の針にも関わらず、元に戻すために賄われる熱量を稼ぐには、相当な体力を要することとなる。
 それは自分本位だけではなく他人の力量の干渉も大きく影響してくるからだ。人が普段の生活をしている中でも熱量は消費されていき、放出量が人により時間により異なってくる。
 その飽和量が全体の中に収まっていれば大きな事件には発展せず、同じ属性に棲む誰か一人でもその力を制御できず、限界点を越える放出を続けるとことで、天秤は片側にかしぎ、表面張力を保っていた水面はこぼれ落ち、膨らみきった風船は破裂してしまう。
 それからしばらくして、やはり生き心地が悪かったのであろう。父殺害を企てたの真の首謀者である創業者の馬庭家は、なにも行動を起こさず静かに生活を続けていた一哉に対して、せめてもの罪滅ぼしのつもりでもあったのだろうか、救いの手を差し伸べてきた。
 一哉は自分の描いた未来図を完成させるためにも、それを断る理由はどこにもなかった。それは、内に入り込み寝首を掻き切るためではなく、あくまでも自分への贖罪を達成するために選んだ道であった。
 それが結果的に馬庭商事の主要部門の売り上げを右肩上がりで増加させ、後継ぎである嫡男より優れた会社運営能力を示し、事実上会社経営を掌握したことで、当初の目的に反して父親のあだ討ちをした形になってしまった。
 嫡男である馬庭浩一郎は、根っからのクルマ好きでありスピード狂で、会社の仕事とかこつけて高級スポーツカーを何台も乗りましていた。街で走るのに飽きれば当然次に向かうのはサーキットで一番になることだ。実際に腕もよく、会社経営をするよりもそちらのほうが性格にあっていた。
 とは言え、跡取りをいつまでもサーキットでクルマ遊びさせておくのは体裁が悪く、会長が実行した逆転技は、一哉を正式に馬庭家の籍に迎え入れ、浩一郎を籍から抜き一切の後継ぎとしての権利をはく奪した。
 一哉がバカな真似を起こさないように、自分の目の届くところに置くために生活を保障し、会社に就職させて人並みの人生を暮らしてくれればいいはずだった。それが一哉は謀反を起こすどころか、会社に利益をもたらし続け、ここまで大きくしてくれた功労者になっていた。
 年をとり灰汁も抜けきった馬庭会長はここまでくれば、一哉に会社を渡しても未練もなく、経営能力のない浩一郎がそれを望むなら、自分の手から放してやろうと決断したのだった。
 一哉は、会社経営を軌道に乗せたあと、会長が鬼門に帰すとすぐに役員会で社長辞任を申し入れ、自分は唯一の不良債権となっていた、サーキット運営事業の再建のみ力を注ぐことで後退した。
 それは事実上の馬庭家からのからの足引きであったのに、おもしろいもので、その中で本当に自分が相対せねばならない真の敵を知ることとなる。


第15章 1

2022-07-17 16:21:23 | 連続小説

R.R


 店内で盛り上る連中を目にして、アラトの満足感は大きくなり、その余韻にひたっていた。
 今夜の『オールド・スポート』では、ひとつのウワサ話が、すべてのテーブルで話題の中心として語られている。
 土砂降りに近い夕立の雨の中、駆け込むように入ってきた人々で、店内はあっという間に満席となった。叩きつけるような雨は、しばらくのあいだ止みそうもないことが、窓から見える山々が灰色のモヤの中に消えていくことでもわかる。
 店内では誰が話すでもなく例の『ウワサ』で持ちきりになっている。自分の情報こそが正しいとばかりに、敢えて大声を出しまわりを牽制する者もいた。
 突然の来客の中、15あるすべてのテーブルがうまっており、大忙しで給仕をするミカの耳にも時折に届く『アカダ』・『ナイジ』の符丁が、何を意味しているのか気になってしかたがないのに、フロアと厨房を行ったり来たりでは話しがつながらず、悶々とする苛立ちだけが積み重なっていくばかりだった。
 アラトが出臼からの指示で、『ウワサ』を伝播すると、瞬く間にひろがっていき、その浸透具合がこの店の中でも実感でる。宣伝効果として申し分のない成果を上げているといえた。
 その出元が自分だけだとアラトは思っているので、まるで自分がこのサーキットを動かしているような気にもなる。もちろん出臼が使っているはアラトだけではない。
 アラトの次の仕事は『ウワサ』とともに広がった全体意見としての期待、つまり、話が膨らんで尾ひれ背びれがついた部分を刈り取り、出臼に報告することにあった。むしろそう言った地道な仕事の方をアラトに託されていた。
 集められた情報から、サーキットに来る観衆が何を望んでいるのか、それを具現化するための施策をどう準備しておけばよいのかをあらかじめ考え、段取りを整えておくことができる。
 馬庭のサロンがその手で牛耳られており、出臼にとって手の届かない不可侵領域な場所ならば、自分は観衆を手中に置き、人為的な操作により掌握し、共感を得ることで、馬庭に自分の価値を示す必要がある。
 そして、もうひとつ、各ツアーズを思いのままに動かすために、先手先手を見越して先に手を打っておくことで、他のGMに存在感を見せつけることができる。
 アラトは出臼にいろいろと含められ、甲洲ツアーズのゴウに声をかけていた。ゴウにも思うところはあったらしく、情報屋で事情通のアラトから聞きいておきたいことがあったのか、向こうから言い寄ってきたのは渡りに舟となった。
 まわりの活況に比べてふたりの座るテーブルは取り残されているようであった。アラトはゴウが苛立っているのをわかって、さらに焦らすように言葉を少なくして、ゴウが先走るのを待っている。
 情報源がこちらにあるのなら、あえて安売りする必要もなく、ゴウから言葉を引き出してからコチラの出方を決められる。
「エーッ! ホントに?」
「本当、本当、たのしみだよな。今度の週末は絶対ハズせねえ」
 つい今しがた席に付いたふたりづれも、さっそく例の話しをしはじめている。
 方々のテーブルでとり行われている浮ついた会話の数々が、余計にゴウの癪に障り、その話題の中心がナイジであるならば尚更で、腕を椅子の背もたれに掛け、身体を斜にしてそちらのテーブルに睨みをきかす。
 訳も分からず、いきなり厳つい男に睨まれる格好になった先の若者は、変に絡まれてもかなわないと、身をかがめ小声になっていった。
「チッ」舌打ちをして身体を正面に戻すゴウ、アラトは周りを見渡してニヤニヤとし、こんな状態だと言わんばかりの態度をとる。
「フン、どうやら単なるデマでもなさそうだな。なにやってんだ不破さんも」
 アラトはどのネタから小出しにしていこうか思案していると、不満を口にしたゴウは、いいかげんしびれを切らして切り込んでくる。
「もったいぶるなって、どうせ色々とニギってんだろ? それでどこにハメ込むつもりなんだ?」
「ゴウさん、それは、ウワサ通りじゃないんですか。今度の日曜日、本戦の前か、いやたぶん後でしょ… 」
 そこに、ふたりがオーダーした食事が運ばれてきた。アラトにはカレーライスが、ゴウはハンバーグステーキとチキングリルが大盛りのライスと共に配膳された。
 額の汗でも拭うかのようにミカは腕を額に当て周りを見渡し、最後に厨房に目をやり、ハンジが後ろを向いているのを確認すると。
「ねえねえ、アラトくん。なんかナイジがとんでもないことになってるみたいだけど、どうなってんの? どのテーブルからもそんな話しが聞えてくるけど、何かあったの?」
 ミカもアラトが情報通であると知っているので、これ幸いと問いただしてきた。ゴウにとってはじゃまくさい存在だとしても、さすがにミカを無下に追い払うわけにもいかず、黙って先に食事を済ませることにした。
 ミカはゴウに小さくあたまをさげ、アラトの脇にしゃがみ込んで話しを急かした。
「なんです、ミカさん知らないんですか。もう、結構なウワサになってんですよ。今日の本戦でナイジのヤツ、突然走ったと思ったら、なかなかのタイム出しちゃいましてね。おかげでオレも酷い目にあいましたよ… 」
 ゴウが何のことかと顔を上げる。ついタイム計測の時を思い出し、苦い記憶を愚痴ってしまった。
 カズナリにろくでもない話しを聞かされ、気分が悪くなったところへ、ロータスが最速タイムを出してお役御免で早々に引き返そうとしていたところ、まさかのナイジが好タイムでアラトが担当の第3計測所へ向かってきた。
 いまでも計測したタイムに自信が持てない中、そのタイムが区間最速となってしまったため、生きた心地がしなかった。トータルで見ればそのタイムが大きな誤差があるとも思えず、胸をなでおろした。結果的にナイジのタイムが取り消しになったおかげで、そこを追求されることはなくなったため、今は自慢話として披露していた。
 アラトは話しを元に戻す。
「あっ、そうは言っても、フィニッシュラインを越える前にスピンしちゃうし、それに車検後に無断でタイヤ交換したから、記録上はノータイムになるみたいですけどね。途中までは区間新も出して、あっ、それオレが計測してたんですけどね。いやあ、あとはゴールするばっかりだったんですけど、だからその区間新も公式記録にならないし」
「何で?」訝しがるミカ。
「うーん、建前としては、車検後のタイヤ交換が規則違反ってことになってますけど。たいしたタイヤ履いたわけでもないんで、それが何のアドバンテージにならないことはみんな知ってますよ。ようは、その方が次の対戦が盛り上がるってやつでしょ」
「不当な採決を受けて、観衆の同情を買う。ってことかしら?」
 ミカの合いの手にアラトはますます口が滑らかになっていく。ウワサを流すために、何度も喋ってきたことなので、ずいぶん流暢になってきた。
「そうそう、ただでさえ、相手のロータスは他所モンで。ほら、国民性ってやつで半官贔屓のところあるじゃないですか。そんな図式を作ってんでしょう。それも、これも、ナイジのヤツがあの走りで、サーキット全体を自分の味方に付けちまったからなんでしょうがね。お偉いさんは皆、金の成る方へたなびくから。おのずとソッチの方向へ持っていくんでしょ」
「ふーん、じゃあ、そんな苦境をバネに、ナイジの奮闘をみんなが期待するって寸法なの?」
「さあ、そこまでは… 」
 そう言いながらも、アラトはいかにも何かを知っていそうな顔つきだった。ミカはさらにアラトの機嫌を取りつつ、知ってることを洗いざらい喋らせようとしたところへ、厨房から鍋を叩く音が耳に入った。ミカが戻ってこないので、ハンジが次の料理が仕上がった合図を送っているのだ。
「あん、もお、いいところなのに。アラトくんまた後で聞かせてね、今日はゆっくりしてってちょうだいよ。コーヒーサービスするからね。あっ、お隣のひとも」
 ミカはゴウにも愛想をふり、後ろ髪を引かれながらも、しかたなくテーブルを離れていく。
 この会話の間に半分ほど食べ終わっていたゴウは、ミカのおかげで労せず自分の聞きたい話しを聞くことができた。
「なんだ、そういうシナリオだったのか。結局は上の方もニューヒーローを売り込もうって算段だ。本戦からはずして試作的なレースと思わせておけば、よしんばロータスが勝っても痛くない。もしナイジが勝てばもうけもの。なんにしろ、次の展開に引っ張って膨らますことができるってとこか」
 アラトはようやくカレーライスにスプーンを入れると、含みを持たせた言い方でゴウを挑発する。
「だからねえ、変に前座で盛り上がっちゃったら、その後の本戦が軽く見られちゃまずいでしょ。最悪、観衆に席でも立たれたら目も当てられないし。最後に持ってきて、本戦を見た後のお楽しみって方がいいんでしょうね。それで観衆がどっちに振れるのか、見極めたいってのもあるんじゃないですか。ナイジの扱いをどうするのかは、上も決めあぐねているみたいですよ」
 他人事のように言うが、そこまで上と精通していることを、さり気なくゴウに見せつけている。さらに言えば当日に至る前に観衆がどちらを求めているのか、その部分の反応を吸い上げるのも、アラトに与えられている命題だ。
 ゴウはアラトの意見と、上層部の方向性を掛け合わせて選択肢を模索すべく押し黙ってしまった。アラトは問題提起だけして、今はひたすらカレーを口に運び出す。
 混乱しはじめているゴウに、今日の本来の目的をいつ切り出そうか、間を測っていた。膨れ上がった頬のまま冷たい水を流し込み、ようやく口が空になったところで上目遣いにゴウの方を見る。
「そんなことより、いいんですか? ナイジみたいなポッと出に、いいとこ持ってかれちゃって。これまでゴウさん達が必死でやってきたツアーズが、踏み台にされてるんですよ」
 手に持ったスプーンでゴウを差す。
「おれに何を言わせなたいんだ?」
 突然、自分について振られたゴウは、アラトの挑発の真意を問いただす。
「こないだの走りはたまたま偶然だった。本当は大したことない。格好の舞台を用意してもらっておいて、そこでやらかしちまえばナイジだってもうお終いでしょ。いや、実際まだ、なにもしてないんだからナイジのヤツ。あの日がヤツの人生最良の日だったってことでもいいんじゃないですか」
「なんだ、さっきの話と違うじゃないか、いったいどっちに付くつもりなんだ」
「さあ? それはオレにはわかりませんから… それより、ゴウさん。ナイジのヤツ、陰でゴウさんのことひどく言ってるみたいですよ。口ばっかりで、大したこと無いとかどうとか。オレ、リクとアイツがそんな話してるの聞いちゃったんですよ」
 途端、ゴウの顔がピクピクと痙攣するのが見て取れた。
「なるほど、とんだスター気取りだ。今まで汗一つかかず、好き勝手やってきたヤツがいい目みるってのは旨くねえハナシだ」
「ですよね。つまり、結局はそこなんですよ、上のほうも実際は持て余してるみたいですし。これまでハスに構えて反体制的な態度をしてきたようなヤツでしょ? 変に人気が出ちゃったけど、どうせ上の言うこと聞く気もないから余計扱いづらいみたいで。上としたら少し暴れさせて使い切ったら消えてもらう方が都合いいんですよ。できれば担ぎ出した不破さんと一緒にね。そうすれば甲洲ツアーズの後釜は… 出臼さんはゴウさんのこと買ってるみたいですよ、不破さんの下で冷や飯食わされてかわいそうだって」
 できすぎた話ではあったが自分を評価されて嫌な気にはならない。そのうえで甘い言葉に乗らないように慎重に言葉を選んだ。
「そうやって、指宿ん時もタネ撒いたのか? オマエもいろいろと良いように使われてるんじゃないのか」
「そうかもしれませんけどね、オレだって、ここで生き残ってくにはやらなきゃならないことでもあるんです。どうせこれ以上速く走れるわけでなし、かといっていまさら他で職捜す気にもならない。ココでクルマ関係の仕事に関わっていきたいんですよ。オレみたいなヤツは便利屋でもなんでも、上に重宝されるようにならないと、代わりが誰でもできるなら存在価値なしじゃないですか。ロータスのヤツが居座るんなら、ますますオレになんかチャンスは無いでしょ。つまりもう走れないってことです。ナイジには悪いけど、競争社会なんだから。しょせんどこでも足の引っ張り合いはあるんだし。自分が勝ち残るためなら、誰かを踏み台にしてもしかたないと思ってますよ。誰だってきれいな手のままで生きてきたわけじゃないんだから」
 ゴウの言葉に対して反発心もありつつ、自分の立場を正当化しようとする思いが、驚くほどスムーズな言葉になって出てきた。他人から見れば自己中心的な意見と批判されかねないことも、自分の生きる道として正当化できる言葉を用意しなければ虚しくなるばかりで、そこには切実なる思いが含まれていた。
 突然真剣な口調になったアラトに少々面食らったゴウにも、キレイごとを言わないアラトに同意できる部分もあった。椅子に身体をあずけた身を低くして目を伏せる。
「まあ、別に、オマエを咎めるつもりは無い。オマエがやらなきゃ、別の誰かがやらされてることだ。しょせんは全体の総意、いや、上層部の金勘定のなれの果てか」
 アラトの立場をどうこう言える自分ではないことはゴウも十分わかっていた。それどころか年齢的なことを考えれば、自分の方がもっと早く考えてしかるべきだ。
 不破がジュンイチや今回のようにナイジに目を掛け、とっておきの持ち駒として立場を確立しようとしているいま、自分のツアーズ内での存在はぼやけていく一方で、将来に何の保証があるわけでもない。
 不破に恨みはないし、十分世話になったことはたしかだ。しかし、アラトの執着心を目にすれば自分の甘さだけが身にしみり、他人の心配をしている場合ではないとあらためて身につまされる。
「 …で、オレにどうしろと?」
「スイマセン、ちょっと、ひとりで喋っちゃいまして。あのう、それは、オレがどうのこうの言うことじゃないですから、ゴウさんの気持ち次第ですよ。ドライバーとしてこのまま終わるのか、アタマを取るか。不破さんのこともありますから、それでもノルのかソルのかはゴウさん次第です」
「ふうん、まあ、そうなるかな」
 腕を組み、天を仰ぐ、ナイジを貶めるにはレースで失敗させるのが最も効果的だ。とすればおのずと選択肢は決ってくる。再びひとりで考え事をしはじめたゴウを横目に、アラトは気付かれないようにほくそえんでいた。
 アラト自身の弱さを見せつつ話しの流れを作っていくのは、出臼からの入れ知恵だった。自分でも驚くほどに感情的に、心情に働きかけて話すことができ、まんまとゴウがハマっているのが良くわかる。人間は弱いものだ。それが自分の立場や将来に関わることならばなおさらだ。
――ゴウさんも、そんなんじゃあ、いつまで経っても遣われる側だぜ――
 出臼にとって、地崎や平良はそれほど問題ではなく、一度、死に体だった不破が、今回のことで唐突に目の上のタンコブになってきた。サーキットに対して影響力のないうちは良かったのに、手持ちの駒に力があるならば、放っておくわけにもいかない。
 ドライバー育成能力のある不破に、いつまでも大きな顔をされるのは煩わしいし、この先のこともある。組みづらい相手ならば、いっそ居なくなった方が助かる。恩を売った形でゴウをGMに充てれば、自分の手駒として扱うことができる。外堀から徐々に埋めていき、本丸を落す最終目的のためならば有効な手段だ。
 店の外の雨音が静かになってきた頃を見計らって、数組の客がそれを機に席を立ちはじめる。
 ゴウは難しい顔をして考え事をはじめたきり黙りこくってしまった。腕を組んだり、髪の毛を掻き揚げたり、額をコブシで突付いたりして、たえず身体を動かしている。その仕草を見ているアラトは自分の仕掛けでゴウがここまで、揺さぶられていることに対して快感さえ感じはじめる。
 そうすると、もっとゴウを揺さぶりたくなってきた。周りの席に人が少なくなってきたのをいいことに、せめてもの慰み代わりにと、取って置きのネタを披露しはじめる。
 ひとつの目的が達成され、よほど気が楽になったのだろう。いまここでゴウを相手にネタを披露する価値がどれほどあるかわからなくても、軽くなった口はもはや止められなかった。
「ゴウさんって、舘石さんの『ウワサ』って知ってます?」


第14章 9

2022-07-10 14:20:03 | 連続小説

――まったく、なんてことだ! よりによって不破さんのところの若造に持ってかれるとは。 …最悪のシナリオじゃないかっ!――
 会議室へ向かう途中の出臼は、早足を止めることもなく顔をいがませたまま、一向に腹の虫が納まりそうにない。
 出臼は濱南ツアーズのGMの立場にいながらも、これまでドライバーを一人前にしたことはなく、レギュラードライバーは初めから力を持っていた者達であり、今回の指宿のように他のツアーズから好条件で引き抜いてきた、いわば出来上がったドライバーをかき集めた偏重したメンバーで構成されている。
 不破が若手の育成能力に長けていることに異存はなかった。自分の方針としてツアーズを編成する構造が、他とは異なっているのは割り切っていたことだ。
 しかし、こう次々と優秀なドライバーを輩出し、ましてやここ一番で突如その才能を開花されれば面白くないのは当たり前だ。
 出臼にとってドライバーとは、レースに勝利するための要因の一部にしかすぎず。路面状況や、天候などのレース環境から導きだしたセッティングと、他のツアーズの出走順をデータ化したものから、最適な対戦相手を選び出すことにより、数十通りのレースプランを立てる戦略で常勝軍団として君臨していた。
 より勝利を確実にするために、出来上がった優秀なドライバーを手に入れるのが最も効率的と考えており、一発はあるが不安定なドライバーや、これから成長を期待できる若手などには目もくれなかった。
 そもそも、ツアーズのトップという立場で、ドライバー達と共にレースを戦うことより、サーキットの運営であったり、レースのオーガナイズであったりと、馬庭が寡占している興行部分にも早く参画したい思いが強く、ツアーズでの成功実績を足がかりにして馬庭へ近づき、あわよくば足元をすくって伸し上がろうと野望を持っている。
 今回は自分が描いたと自負している、外部を巻き込んでの今までにない大きなアングルだけに、失敗は絶対に許されなかった。それなのに、だった。
――だいたい、指宿のヤツがもう少しまともに走っていれば、あんなヨソモノに重きを置く必要もなくてすんだんだ。いや、もう少し効果的に違う使い方もできたのに。どいつもこいつも、オレの足を引っ張るようなマネばかりしやがって――
 不満の矛先はすぐにドライバーの方へ向けられた。不破のもとでエースとして活躍していた指宿に、甲洲ツアーズより倍の報奨金と、常勝チームでのエースの座を条件に移籍を提案し契約にこぎつけた。その前の年は平良のところで不満を持っていた準エースを引き抜いてエースに据えた。
 今回の指宿のケースはツアーズの相性の問題で、濱南ツアーズのレース方針とうまく順応できず、次第に不振に陥っていったものと結論付けている。
 指宿の言い分としては、ツアーズの勝利のために歯車の一部になる働きを求められ、一から十まで細かく指示を入れてくるレーススタイルに、ドライバーとしてやりがいを見出せず。言われた通りに走るだけなら誰が走っても同じで、自分である必要性も感じられなくなってしまったことだった。
 その中で出臼への不信感も増長し、特長であったはずの思い切りのよい走りは鳴りをひそめ、ここ一発での伸びが出なくなり、指宿のいい面が消えてしまった。
 それにもまして本人も気付いていなかったことが、自分にとって不破という存在がいかに強かったかを思い知らされ、練習中やレース前にかけられた一言、二言が、随分と自分の力になっていたとは、不調の理由として出臼には口が裂けても言えなかった。
 不調といってもそこはエースを張ってきたドライバーであり、他と見劣りするような走りではなく。事実、今日も安藤、ジュンイチに次ぐ3番手のタイムを記録しており、自分の仕事はしっかりと全うしている。
 それでも、出臼とはお互いの信頼関係はもはや成り立っておらず、今年のシーズンが終われば契約を打ち切ることは既成事実だった。
 ドライバーとは常に業務重視で付き合い、感情に煽動されることなく、好き嫌いで扱いを変えるようなことはしなかった。ただ、ツアーズや、ひいては自分にとって不利益を被る要因の一つになれば、排除するのも止む無しと結論付けるだけだった。
 契約の段階で何を求めているか明確に示し、仕事のやり方を詰めて合意に至っている前提であったはずなのに、走りはじめたら性に合わない、やり方が気に入らないでは話にならない。
 指宿の心情が理解できないまま、話し合いを持ってお互い修正することもなく、一度掛け間違えたボタンは二度とも元に戻ることはなかった。
 もうひとつ、出臼を苛立たせる出来事がレース終了後に起きた。こともあろうに安藤から直接、一対一での勝負を要求してきた。
 もともと出臼は安藤のように野性的で直感的なタイプは苦手であり、常に西田を介して話しを進めてきた。直接話し掛けられたのは初めてで、それだけでも嫌悪感を抑えるのに精いっぱいであり、西田と相談すると言ってその場を切り上げた。
 平静を装い応対はしたつもりでも、その顔はあきらかに引きつっていたはずだ。安藤としてみれば二度も恥じをかかされた手前、自分の気が済むように早く決着を付けたいことは容易に想像はついた。それで出臼のアングルが終わってしまえば、これまで時間をかけて段取ってきたことがまったく無駄骨に終わってしまう。
 ――これ以上の失態は許されない、そうでなければ馬庭さんに笑われる。いや、その前に平良さんや知崎さんにだって、なに言われるか分かったもんじゃない。自分がやったことは、こともあろうに不破さんのツアーズを引き立てる役に回っただけで、なんの利益も得ていない。何のために裏でいろいろと工作したのか、流れを引き戻さないと… ――
 冷静にならなければと思いつつも進む足取りはさらに早まり、ついつい勢いよく会議室の扉を開けていた。部屋の中では机に腰をかけた体勢で平良と地崎が、想像どおりのニヤついた顔で、なにやら話しをしており、出臼の方を向くふたりは明らかに小バカにした顔つきだ。
「おう、これは、これは、作家大先生。おどろいたねえ、いったい何時シナリオを書き換えたんですかい。予想外の展開でお客さんも大喜びでしたな。ハハハーッ」
 愛用のブリーフケースを机の上に大きな音を立てて置く。
「地崎さん、厭味を言うのは止めてもらえませんか。その件に関してとても相手をする気分じゃありません」
「イヤミ? いやいや、オレら、真面目に感心してるんだぜ。あんな結末、誰にも想像できなかったからな。しかし、あのロータスのヤツ、とんだ噛ませイヌになっちまったもんだ。自分の駒まで欺いたのなら、それはそれで恐れ入るね。馬庭さんもビックリのどんでん返しってわけだ」
 今度は平良が被せてくる。出臼は静かに椅子を引いて腰を下ろした。地崎たちの言葉に反論したいのはやまやまではあるが、いちいち言葉に喰いついていたら切りがない。冷静に対応して、この先の主導権を取り戻すことが先決だ。
「無駄口をしている時間はありませんよ。現実的な話しをしましょう。いくら、不破さんのところのナンバー5(最終走者)が多くの観衆を魅了したからといって、リザルトは2番手タイムです。甲洲ツアーズの合計タイムを合算してもウチには及びません。 …不破さんはまた遅刻ですか? ロータスの安藤は、舘石さんのコースレコードを1秒更新した。ニューレコードです。それが、今日のレースのすべてです」
 最初から破るなら1秒までと西野とは取り決めしてあった。実際に安藤が本気を出せば3秒は上回われる予測はついていた。最初から限界を出してしまえばこの先につながらないと、あえて抑えて設定したタイムであった。
「出臼さんよ、それは違うな。現実的とは、アンタの頭の中だけのことだ、数字も記録も紙の上だけのことだろ。だがな、事実は大勢の人の目に焼きついた記憶であり、人々の心にまで届いたアイツの走りだけなんだよ」
 そこに右足を引きずりながら、不破がオットリ刀で会議室に入ってきた。幹部会で不破が聞かれたこと以外を口にするのは久しぶりで、ましてや、出臼に対して意見を言うとは平良も地崎も思いもよらず、顔を見合わせ、肩をすくめる。
 自分を批判するような言い方をされた出臼は即座に言い返す。
「さっきから黙って聞いていれば、ずいぶんと大きなことをおっしゃいますね。よほど変なものにでも取り憑かれたのか、それとも強力な武器を手に入れて気持ちが大きくなっているのか? なれないことをすると足元をすくわれますよ。自分の立場を自覚した方がいいと思いますが?」
 極力冷静さを保ち、精一杯言い返したつもりでも、不破は余裕を持ってその言葉を受け流された。
「オマエさんに言われなくたって、自分のウツワはわかってるつもりだ。これはオレの言葉じゃねえ、今日のレースを目にした人たちを代弁しているつもりだがな。ずいぶんと頭に血が昇っているとみえる。たかがオレなんかをやりこめないと自尊心が保てねえとは」
 風見鶏の地崎が旗色のいい方に賛同の声を上げる。
「そうだな、そりゃ、不破の言い分が正しいわな。オマエさんがどんなに数字や記録にこだわろうと、そんなものだけじゃ観客は喜ばんし、また見に来ようとは思わんだろ。それで一人勝ちに満足してるのはソッチだけだし、客が減ってきてるのは、そこにも一因があると思えんのなら、どれだけ大きなアングルを組んだって先はねえだろ」
 相手の口車に乗ってはいけない、もう一度、風向きをこちらに吹かせたい出臼は、皆を落ち着かせるため、あえて話しを最初に戻し、筋道立てて自分の正論を打つ。
「不破さん、観衆を自分の見方に付けたかのような言い方は感心しませんね。私を動揺させようとしても無駄ですよ。それに今回のアングルは幹部会での決定事項で馬庭さんの決済もおりてるんです。いいですか、“オールド・コース”での舘石さんが持つ最速ラップをよそ者であるロータスが塗り替えて、そこをベースにして各ツアーズのエースがタイムを刻んでニューレコードを更新していく、それで今シーズンを盛り上げていこうって話しでまとまったはずです。今日だってその方向でうまくいっていた、ウチの指宿が2秒まで迫り、不破さんとこの今年売出し中の新エースがそれを1秒詰めた、最後にロータスが最速ラップを1秒更新する。絵に描いたような流れだった。来週は平良さんや地崎さんとこのエースだって黙っちゃいない。それでシーズンのストーリーが盛り上がっていく予定だったのに… いきなり最終走者にリザーブを持ってきて、サーキットにできつつあった流れをぶち壊してしまった。もちろん、真剣勝負でやっているレースですから、そういった予想外のことが起きるのはしかたありません。突如大化けするドライバーがいままでなかったわけでもありませんし、レースを活性化させる一つの要因でしょう。しかし、先程もいったようにシーズンの組み立て、シーズンの流れはある程度作りこんでおくのが我々の仕事です。あれほどのドライバーがいるのなら、事前に話してもらい共通認識して、どこでセールするか考えて使わなければ方向性もなにもあったモンじゃない。いったい誰の入れ知恵ですか、あなただけで段取ったとは到底思えない。 …そうか」
 一気に捲くし立て、やや熱くなりかけた頭だったが、不破への厭味のつもりで言いかけた言葉から、不意にその先にあるものにつながっていった。
 カマをかけて不破が口を滑らせれば、立場を逆転させるためのかっこうのネタになる。そう思えば主導権を取り返したような気にもなり、ならば、不破を揺さぶってやろうと俄然気持ちに余裕がでてきた。あごを上げいきなり上目づかいになると。
「馬庭さんですね。あの人がアナタを影で操っていた… そうゆうことですか、やけに強気な態度もそう考えれば納得がいきます。しょせんアナタはトラの威を借ることぐらいしかできないでしょうからね」
 その言葉に、平良も地崎も成る程とばかりに納得しはじめた。不破としては見当外れだと言い返したかった矢先、馬庭の進言を受けナイジを最終走者に持ってきた手前、それを全否定するほどの気持ちの強さは持ち合わせていなかった。
 馬庭の後押しがなければ、ナイジを最終走者に持ってくることはなかっただろう。幾らかナイジに期待を持っていたものの、二番手ぐらいの目立ないところで走らせようと当初は考えていた。
 それが初めてのドライバーを送り出す不破のやり方で、あまりプレッシャーの掛からない場面で伸び伸びと走らせることを目的としていた。
 しかしあの時、馬庭から受けた命令にも指示にに乗ってしまったのは、馬庭もやはりナイジに何かを感じていると思え、それに自分も掛けてみようという気になったからだ。そのように仕向けられたのは自分の弱わさと、馬庭のカリスマ性の前になすすべがなかったからだ。
 勢いを増した出臼はさらに続ける。
「ほらね、ぐうの音も出ない。しかし、そうなると、馬庭さんのしたことは幹部会の決定事項に叛いたことになりますね。これは背任行為じゃありませんか。われわれを欺いて、自分の利己的な考えで不破さんのツアーズを操作した。もしそれで何らかの不当な利益、この場合特に金銭に限ったことではありませんが、それを手に入れているとしたら、これはかなり問題ではありませんか?」
 そう言って、平良や地崎を交互に見回した。災い転じて福となす。もし、これで、馬庭を不利な立場に持って行くことができれば、利用されただけの不破とともに失脚させることができるかもしれないと頭が回転しはじめた。
 このタイミングを逃す手はない、よしんば馬庭に何もやましい考えがなかったとしても、不破の線から無理やり引き込むこともできる。
 慌てたのは不破だった、自分が取った安易な行動や言動から馬庭にまで火の粉が被るのはやぶさかではない。なんとか、自分の範囲内で留めなければならないと思った。
「オレがリザーブドライバーの交代の届を出したのは、会議が終わってからだろ。馬庭さんがそれを見たのはその時だ。どこに口を挟む時間があったんだ。仮に出走順に口出しできたとしても最後に走ったからといって、あれだけの走りができるなんて保証はどこにもない。思い違いもはなはだしいんじゃないのか」
 そもそも不破本人にさえナイジがあれほどやるとは想像もできなかったのに。
「それにな、オマエさんは、ヤツが何も残していないというが、第3計測ポイントで最速タイムを出している。ということは区間最速レコードだ。これはまぎれもなくオマエさんが大好きな数字という記録が残ってるんだぜ」
 出臼にはその程度の反論は通じなかった。数字とルールを前面に押し出して、ことを運ぼうと考えていた手前、それに対する予防線をいくつも用意はしてあった。
「不破さん、話しの本筋をすりかえないでいただきたいですね。まあ、区間最速タイムのことを言い出すとは思ってました。残念ですが、そんなタイムどうにでもできますよ。あのナンバー5は車検後タイヤ交換してますね。走行後の車両検査でわかっていることです。もちろんそれらが直接タイムに影響するとは限らないと、私にだってわかってますよ。しかし、規則違反は即タイム取り消しです。それがここのルールですから。他にも叩けばいろいろとホコリがでてきそうですね。不破さんのこの申請書だって危ういものです。『エントリードライバー腹痛のため』なんて書いてありますが、もう一度、志藤先生のところに行ったっていいんですよ。もし仮病でドライバーを交代させているなら悪質なルール違反で、お客さんも黙っちゃいないでしょ。特に“馬券”で損した人たちにはね」
 出臼は当初、目を通そうとしなかった変更申請書を手に握り、不破の前にちらつかせた。もはや、不破の反撃など出臼には取るに足りないものであった。ここに来るまでに講じておいた対策で充分対応てきる。
「まあ、ずいぶんと派手にやったつもりでしょうが、しょせんはそこまでなんですよ、実戦で培われた勘や職人的な読みだけでレースを戦っている人は。たしかに、まれに功を奏して勝負を制することもあるでしょう。ですが長期的視野に立ち、最終的に勝利を得るには少しココが足りません。いわゆる詰めが甘いというところですね」
 調子に乗った出臼は自分の前頭葉を指差す。これがこの場では逆効果になった。出臼に煮え湯を飲まされたこともある地崎や、不破と同じようにドライバー上がりで職人肌の平良にまでケンカを売ってしまったことになってしまった。
「ずいぶん大きなことを言うじゃねえか。ルールだ規則だなどごたく並べるが、自分の都合のいいようにツアーズをこねくり回してるのは、オマエさんの方だろ。エリート面してデータや情報戦でみみっちい勝ち方しかできねえくせによ。不破が馬庭さんと何かしたとか、どうかなんてたいした問題じゃねえだろ。あのナンバー5は見るものを熱くさせた。明らかに今日のサーキットの主役だったぜ。タイヤだのルールだの、ハライタが仮病だあ、そんな小せえことにイチャモンつけて情けねえと思わないのか。オラァ嫌だね。ソッチ側についてレースの魂まで売っちまうのは、まっぴらだ」
 さすがに、出臼も不味いと思ったのか、「あっ、いえ。そういうつもりでは… 」と、自己防衛を計ろうとしても、すでに時は遅かった。
「そういうつもりも、どうもねえだろ。今日のあの若造の走りに何も感じないようなヤツにツアーズのアタマとる資格はねえんじゃないのか。自分だけいい目みようと利益主義に走ってるのはオマエさんの方だろ。叩けばホコリが出るのはどっちだ。今までコッチにもそれなりのほどこしを回して貰ってたから黙っていたが、レースや、ドライバーの本質をわかっちゃいないヤツに牛耳られるのだけはゴメンだぜ」
 再び風向きが変ったのを見計らい、ここが勝負どころだと踏んだ不破が。
「まあまあ、お二人さん、そう攻め立ててもしかたない。幹部会の趣旨はお客さんの望むレースをどう展開していくか話し会う場所なんだから。なあ、みんな、今日のレースを観て次にお客さんが期待するものは何だ。それは、誰が一番速いかではなく、どっちが一番速いか、なんじゃないか?」
 平良も地崎も不破が何を言いたいのかこの時点では見当がつかなかった。ただ、妙に説得力を持つ語りに吸い込まれていったのは確かだ。
「オレは常々引っかかっていたんだよ。たしかに今のレギュレーションは成熟され、それなりに楽しめてもいる。だが、さっき平良が言った、“ドライバーの本質をわかっちゃいない“と、オレが思うドライバーの本質ってのは、それですべてが決っちまうことに、どうもスッキリしないってことなんだよ。オレには以前から考えていた案がある、今のタイムアタック方式を生かしつつ、最終的にはそれを2台で同時に闘わせる方法だ」
「どうゆうことだ?」
 平良が興味深々に聞いてくる。
「つまりだ。いままでと同じように、1~5レグでタイムアタックを行う。各レグの中で1番早いタイムを出したものを振り分けて、タイムの遅い順に対面で決着をつける。ここで勝ち上がった方が、次のステージに進み最終的にトップタイムの者と対決する。もちろんタイム差でのポイントも割り振り、順位のポイントと合算する。これで、レースの見方はより複雑化してポイントが読みづらくなるし、タイムアタックで力を出し切れなかった実力者が対面対決を制して1位になる事だってある。なにより、その日一番早いヤツを対面勝負で決着させ、そいつを見ることができる2度の旨みがある。あれからもう5年だ。危険回避と言うことで直接対戦は避けるレース方式が取られてきたが、やはり、クルマが競走することにおいてそれは避けられることじゃない。客が見たいものを提供しなくちゃ興行は成り立たんよ。まあ、今シーズンからいきなり導入するってのもいまさらは無理だろ。その試作、叩き台ということで、出臼のとこのロータスとウチのオースチンと直接対決をやらせてみちゃどうだ。そもそも門外漢のロータスとウチのリザーブなら、本来のシーズンの戦いには含まれていなかったメンバーだ、試験的に使っても本戦に害は及ぼさない。そいつらが、ここまで盛り上げてくれたんだ、それをお客に還元しない手は無いんじゃないか?」
「そら、おもしれえ。間違いなく呼べるぞ」
 不破も実のところは、結論から逆算して考えた苦肉の策だった。最終的に1対1で戦わせるために、現状のタイムアタック方式も否定せず辻褄を合わせ、会議室に来るまでに何とか捻り出した案だった。
 以前から対面決着の競走を復活させたいと思っていたことと、ナイジの気持ちを汲んでやろうとしたことから無理やりつなげてみたが、喋りながら適当に肉付けして広げていった割にはなかなか様になったものだと、自分でも驚いている。
 出臼は、黙って不破の提案を聞いていた。ふしぶしにアラは感じられ、そのままを実行に移すには無理がありそうだが、そこから旨みを引き出そうと様々な打算を始めた。
 不破の案に丸乗りするのは気が進まないが、レース形式としての魅力は感じられた。やはり、背後に馬庭の存在も見え隠れしても、同じ轍を踏むわけにもいかず口にするのははばかれた。
 不破の案を飲めば安藤の件も同時に解決するし、そもそも外部ドライバーの正しい使い方であるのかもしれない。それに、今後の本戦を不破のところのナンバー5に引っ掻き回されるのも避けることができる。
 試験施行というやりかたも効果的に思えた。これで客の受けがよければ、前回の優勝者と今回の優勝者を次回、直接対決させるという方法もあり、次へ、次へとつながるアングルが作れる。
 とはいえ、すぐに尻尾を振って飛びつくわけには行かない。それでは自分を安売りしてしまうことになるし、いま自分の置かれた状況では、渋々この案を承諾するという流れを作る必要がある。
 ただ、不破が言い出してくれたことで、もし、なんらかの問題や不具合が起きた場合でも、結局は不破に責任を取ってもらえばいいだけになる。3人のGMの視線は出臼に集まっていた。
「たしかに、面白い案ではありますが、いくら試験実施とはいえ直接対決については幹部会だけでは決定することはできません。馬庭さんに一度上げて、それで承諾されれば実行に移してもいいのではないかと」
 乗り気の地崎が声を上げる。
「やるなら早い方がいい、来週とかな」
 この頃の会議では見受けられない、積極的にその場で意見が各GMから出てくる。続いて、平良が提案する。
「トップレベルで“告知”しよう。それで、反応をみればいい。世論がコッチにつけば馬庭さんだって無視するわけにはいかんだろ」
 “告知”というのは宣伝ではなく「口コミ」を利用したもので、人を使い作為的に噂を広めることを差し、GM間の隠語として使われている。
 何か新しい施行を実施したいと判断した時、それに対する世間の反応をうかがうために“ウワサ”を流し、その反応で是非を決めたり、調整を行ったりしていた。広める範囲も内容により1~3まであり、トップレベルのレベル3は最高基準。もっとも大きく広めて情報を収集することを意味していた。
「それでは、ある程度、幹部会が先導して進めてしまって良いということですね」
「既成事実を作っちまえば馬庭さんも、首を振れねえだろ。反応が悪ければ、もう一度仕切りなおせばいいことだ」
 平良や、地崎の言質をここまで取っておけば出臼も楽だ。心の中でほくそえむ。ここで言う建前と心の中では裏腹で、必ず実行するつもりでいた。
「わかりました、それでは、トップレベルでスプレー(拡散)して反応をみて、馬庭さんに進言することにしましょう、それでいいですね」
 もはや、誰も出臼の話しを聞いていなかった、各々がすき放題にああだこうだとアイデアを出し合い、ひいては思い出話やレース論、ドライバー技術論などに花を咲かせ始めていた。
 出臼はさっさと資料をまとめて会議室を後にした。従来ならば会議とはいえ、事前に決っていたことの共通確認と念のための連絡を行うに過ぎなかった。
 それほどまで、用意周到に段取り、根回しをした末のものだったが、今日は明らかに会議の色が違っていた。出臼は面白くなかったが、今の混沌とした状況の中でロートルの3人が勝手に盛り上がってくれたのは好都合だった。
 3人が主導すればするほど、こけた場合の身の振り方がやりやすくなる。逆に上手く事がすすめば、ロータスの男をからめてそこから新たなアングルを考えればいい。
 どちらに転んでも自分には都合が良く、会議では不破に引いた立場を見せたことが項を奏した。これが元となり結果オーライの満足できる会議となった。
――また、時代を巻き戻す気か? せいぜい老戦士同士の夢を語り合っているといいさ。後悔して泣き言いってもあとの祭りだ――
 ほくそ笑む出臼のいく手を阻む本当の敵は3人のGMではなく、馬庭のもとでいままさに潜在下にあった才覚を発揮させようとするひとりの女性であった。


第14章 8

2022-07-03 18:43:41 | 連続小説

 ナイジが診察室に入ると、小柄だが芯の強そうな初老の男が上目遣いにのぞき込んできて、品定めをするように目線が広く動いている。
 ナイジはこの医師がマリの伯父であると聞き、なるべく自分の感情をオモテに出さないよう気をつけた。心証が悪いのはあたりまえで、これ以上変に勘ぐられるのも困る。
 志藤は顎のあたりを人差し指で掻き出すと、何かを理解したように一度目を閉じる。ナイジの背後にマリが寄り添うように立つのを見て、気に入らないのか鼻を鳴らす。
「マリ、ここはいいから外に出てなさい」
 すべてを把握したような強い口調だった。マリは躊躇した半身を残しつつナイジと志藤を交互に見て「わかりました。なにかあれば呼んでください」と言い残して出ていった。ナイジはそれを振り返らない。
 ひとりになったナイジを志藤はもう一度、あたまのてっぺんから足の先までをつぶさに観察する。
「ふん、元気そうじゃないか。まあ、これも決りだ。やるこたあ、やらんとな。さてと、目ェつぶって、片足で立ってみろ。そう、案山子みたいにしてな。ふうん、もう一方も、同じようにして。そうだ、まあ、いいだろ、じゃあ座って。目の動き診るからこのペンライトの光を見てろ」
 ナイジが言うとおりに丸椅子に腰かけると、志藤は胸ポケットからペンシル状のライトを取り出し灯りを点け、見開かれたナイジの瞳孔を刺激し黒目の動きを確認する。そのあいだ、志藤のこめかみには何度か皺が寄った。
 その動きにいちいち反応しないように、他ごとを考えるナイジ。痛む左手はカムフラージュされた右手と同様にだらんとさげたままだ。
「いいだろ、極めて正常だ。なんの問題もない。見かけに寄らず頑丈な体をしとるし、芯もつよそうだな」
 そう言うと、後頭部を手のひらで叩き少し顔を歪ませる。しばらくその仕草を続けたあと、ペンライトを胸ポケットにしまい込みカルテに書き込みをはじめた。
「おしまい、 …ですか」 
 丸椅子の上で落ち着かないナイジは、アラが出ないうちに早めに診療室を出たく、催促のつもりで言ってみた。鼻をつく消毒液の匂いも不快でしかない。
 志藤はペンを走らせるのを止めて「他にどこか気になるところはあるのか?」と言う。ナイジは自分のカラダを見回して、そして首を横に振る。やはり余計な口をきけば痛くない腹を探られると相手のでかたを待った。
 そんなナイジに「なあ、ここに来たのは初めてか?」と問いかける。先程までのつんけんとした口調と打って変わって、穏やかな話し方だった。
 ナイジは自分から漂い出るすべてをオモテに出さないよう気配を消し、そうしておいて質問の意味がわからないといった風に、首をかしげ志藤の次の言葉を待った。
「まあ、いいさ、アタマは大丈夫だがな。いいか、ごまかそうとすると他に影響がでてくるぞ、来週も走りたいなら止めやせんがね。そこまで、診るのは決まりじゃないんでな。自己申告がなけりゃ、医者も万能じゃない」
 暗に別の悪い部分を知っているような口ぶりをしてくる。カマをかけているとも思えない態度にナイジは一度天をあおいだ。
「敵に自分の弱みを見せるのは勝負ごとにおいてご法度だ。ただし、それを逆手に取ることもできる。それはなにも敵だけじゃないがな」
「絶対に他言はしないでほしい。カルテに書かくのもだ」いどむような目つきのナイジは、それが受け入れなければ即座に席を立つつもりだ。
 その言葉に志藤は大きく笑う。
「以前にそんな言葉を聞いたことがある。今日は舘石のタイムが破られたそうじゃないか。それもなにかのめぐりあわせってやつか」
「むかしばなしはどうでもいい。それにそのタイムはオレが破ったわけでもない」つい悔しそうに唇を噛んでいた。
「そうせくな。外で待つマリに心配をかけるのが気になるか」志藤はニヤリと笑った。
 相手のペースにまんまと乗っていた。弱味を見せた時点でそうなるのは必然で、そこからいろいろと切り崩しにかかってくるつもりなのか。ナイジは後悔しかかっていた。
「自分の気持ちをオモテに出すのが嫌いみたいだな。それも悪くないが相手にそれを悟らせては逆効果だ。相手が何を考えているのか迷わせる。それで主導権が握れる」
 志藤はカルテを閉じて、クッションの利いたイスに深く座った。そしてナイジの目を見据える。
 診断室に静寂がおとずれた。机の上にはペンや、聴診器や、なにかしらの資料が乱雑に置かれていた。それに反してテーブルの書棚や、部屋の中はきれいにかたずけられている。マリが気づくごとに整理整頓している姿がうかがえる。
 ナイジは左手を前に伸ばした。志藤はそれを手に取り触診をはじめる。痛点に指が触れそうになるところで手を離す。
「骨には異常はないがな。これから腫れてくるし、痣も出てくるだろう。飲み薬と塗り薬ぐらいは出すことができるが。マリに黙っているつもりはないだろ」
「どれぐらいかかる」そこが一番気にかかるところであった。そこに触れない志藤にナイジはイラ立ってしまいすぐに「スイマセン」とあやまる。
「安静にしとれば2週間といったところだろ」志藤の答えにナイジは目を閉じた。
「腕を吊るどころか、包帯もせんつもりだろ。それでは不意に動かして悪化させる。ましてやシフトチェンジを繰り返せば治るものも治らんくなるぞ」
 ナイジは志藤が話しはじめると、椅子を離れ軽く一礼して診療室を出て行ってしまった。それを特に咎めるようすもなくやりすごし、処方箋を書こうとした手を止めペンを置き、ナイジが消えた扉の先に椅子を回し身体を向ける。
――あれだけの、動体視力を持ったヤツはなかなかお目にかかれんな。それに、先読みしてくるぐらい直ぐにワシの言動を把握してくる。 …左手の怪我、必死に隠そうとしとったが。まあ、無理強いしたって逆効果になるタイプの人間だ。自分でどうするか決めるだろ。久しぶりにレーサーらしいヤツにあったな――
 検査を終えたナイジは、左手に一度目をやっておいて、すぐに右手でマリを手招きして呼び寄せる。心配げなマリがそばにくる。
「長かったけど、どうだったの?」
「脳に異常はなしだってよ」嘘は言っていないが、言うべきことも言えていない。
「良かった。ドクはね、あんな感じだけど、ウデは間違いないの。お墨付きをもらえればもう安心ね」
 そうやって喜ばれるとよけい言いづらくなる。
「それよりマリさ、今日どうやって帰るんだ?」
「ああ、あのね、いつもは伯父さんに送り迎えしてもらってるの。昨日はね、ウソついて友達と一緒に帰って、そのまま泊まってくるって。ハハ、言っちゃった。ミエミエだったかしら?」
 ナイジはそれを受けて、あえて他人事を話すように言い返す。
「うわ、悪いヤツだな。そんなこと言って、きっとロクでもないオトコを追っかけてたんだろ」
 たおやかな笑みは、さかのぼった記憶から自然とそうなったのか、マリは小さく首を左右に振った。
「ううん、とっても素敵な人だったよ、運転も、 …キッスもね」
「 …へっ、あ、あの」今度は、ナイジが固まる。
「え、そこで黙んないでよ。言っている方が恥ずかしくなっちゃうじゃない」
「いや、オレの方が十分恥ずかしいけど… 」
 照れながら、鼻先をかくナイジに、マリは頬を膨らませたあとで笑いだす。
「そうね、誉められるのはなれてないし、今日は勝手が違って、もう満腹だったしね」
 苦笑いだったナイジは真顔に変わる。
「 …あのさ、オレ、オースチン直さないといけない。不破さんに相談してからだけど、しばらく掛かりそうで。よかったよ、マリ帰りどうしてるのかと思って。なんだったらリクさんに頼もうかと、ちょっと危険だけどな、ハハ、いろんな意味で」
「ううん、大丈夫よ、今日は伯父さんに付き合わなきゃ、機嫌直してもらわないとね。来週、サーキットでまた会えるから、それまで楽しみにしてる」
「ああ、そうだな、あのさ、その、オレ… 」
 何かまとまったセリフでも言えれば良かったが、しかし、そんな思いが強いほど、逆にひとカケラの言葉も思い浮かばない。めずらしく、ためらいがちなナイジを見てマリが首を振る。
「あのね、ナイジ。アタシね、この週末すっごく楽しかった。色んなことが起きて、これまでのアタシの一生分より充実した2日間だった気がする。こんな日が自分に来るなんて、今まで想像もできなかった。ナイジも目的が出来て頑張ったし、よかったね。いままでの走りの中で一番素敵だったよ。最後は残念だったけど、でも、もっといい走りができるって思えた。そんな予感がしてならないの。オースチン、早く直るといいね。アタシはなにもできないけど、信じてるよ。きっと、来週また、ナイジが走ってることを」
 自分も同じようなことをマリに言いたかったナイジは、申し訳なさそうに下を向く。オースチンも自分も治るのかいまの段階では何とも言えない。
「うぉーい、マリ、いつまでくっちゃべっとるんだ、早くかたずけて帰るぞ、今日は、夕食作ってくれるんだろうな。まったく、昨日は茶漬けで食った気がせんかったわ。だいたいな… 」
 言いたいことだけ言うと、その後はまた、愚痴がはじまる。ふたりは肩をすぼめて、笑いあった。志藤は薬を処方するつもりはないようだ。それをすればマリの知るところとなってしまう。
 なにが正しいか今の段階ではわからず、それでも自分の意思を尊重してくれた志藤に感謝しつつ、マリに真実を述べていないことを心で詫びた。
「じゃあ、またな」そう言うのが精一杯であった。そうして唐突にその場を立ち去ろうとする。
 マリの手がナイジを引き寄せる、暖かく柔らかな手が。沈黙の時間でも、そのあいだはふたりを幸せへと導いてくれる。温もりに包まれるほど、1秒でも離れることが苦しくなるのはわかっていた。愛おしさと、切なさと、心の弱さが混濁し、それらが反発を繰り返している。
 いったいどこにすがりつけばよくて、相手に何を求められているのかわらない。ただ、今からやらなければならないことをタテにして、一度断ち切るための名目にしか過ぎなくとも、納得させるしかなかった。
 そうして無言のままふたりは離れていった、明日になんの約束もできないまま、それでもお互いを信じる心だけはつながっていると、それぐらいしか支え合えるものを持てないまま。
 ナイジはとぼとぼと通路を歩いていく、もう振り返ることはない。そうすれば余計につらくなる。
――なんだろ、この感じかた。あたり前だけどナイジの傍を離れたくない。それが今、求められていることではないのに――
「どうやら、オマエさんのお目当てはアイツだったみたいだな。ふん、なかなかいい目をしとる、さすが、ワシの姪じゃな」
 ちゃっかりと、ふたりの様子を覗き見していたらしく志藤がそこにいた。
「伯父さん。趣味悪いわよ、覗き見なんて」
「伯父さんじゃない、ドクと呼びなさい。だいたい悪いのはオマエの方だろ。ワシに嘘ついて外泊しおって。まったく、これじゃあ恭一郎に合わせる顔がないわ。まあ、たいしたこともなかったみたいだし、今回は大目にみとこうかの。この頃じゃ中学生だって、“チュ“ぐらいするからの。ワッハッハハーッ」
「もーっ、そんなとこまで聞いてたの。夕食作らないからね」
 そういいながらも、志藤と腕を組み一緒になって歩いていく。ナイジを認めてくれている発言に満更でもないマリだった。