「アヤさあ、ホントにオンナなの?」ショウタの顔に悔しさが滲んでいる。
「なんでヨ?」
アヤは橋の欄干に腕をのせて川の流れを漠然と眺めていた。ショウタは欄干を背に、ボールを体に挟んだ状態で座り込んでいる。モールの通りから離れた場所にふたりはいた。
ショウタが騒ぎを起こしてモールに迷惑をかけてれば、その尻ぬぐいはマサヨのところにやって来る。忙しいさなかにそんな面倒が増えれば仕事が遅れてしまうと動揺していた。
ただでさえ、モールで子どもを遊ばせないでと会長からは口うるさく言われており、マサヨのような子持ちでは、かと言って家に閉じ込めておくわけにもいかず、言うことを素直に聞く年頃でもなく思い通りにならない。
ショウタはただ、アヤにサッカーを教えてもらおうとボールを奪おうとしているだけで、通行人が勝手に集まって盛り上がっていることを自分の所為にされては、たまったものではない。「そんな、、 」
「ゴメンなさいっ!」ショウタが言い訳をしようとするとアヤがそれを遮った。
「アタシがいけないんです。ショウタを巻き込んでしまって、ゴメンなさい、、」ボールを両足に挟んだ状態で、手を後ろに組みアヤはあたまを下げた。
取り巻きにしていた人垣は、なんだか居心地が悪くなり、まわりの様子を伺いながらその場を離れて行った。いつまでもアタマを下げているアヤに、マサヨもどうしてかいいかわからず、店先でいつまでもそんなことをさせておくわけにもいかず取り成した。
「わかったから、アタマをあげてちょうだい」
「ショウタは何も悪くないです。どうか決めつけて怒らないでやってください」
「アナタ、どなたなの?」見知らぬ女性が低姿勢でショウタをかばっている。マサヨは振り上げたコブシの落としどころを失い、怒りも失せていく。
「サッカークラブの関係者で、ショウタに今日のおさらいを指導してたら、熱がこもってしまい。やりすぎました。別で続きをやりたいので、ショウタをもう少しお借りしていいですか?」
そういうことならと、マサヨはココではやらなきゃかまわないと釘を刺して、ショウタを預けることを承諾した。その時間で仕事をかたづけようと、いそいそとまた店内に戻ってく。
そんなやりとりのあとふたりはふらりとモールを歩き、ここに行きついた。なんとなく会話も途切れたところショウタの悔しさがぶり返してきた。
「だってさ、サッカーうまいし。オッパイ、ペッチャンこだし、、」
すかさずアヤの右足がショウタの足下をつつく。
「あのさあ、ショウタ、、 もう少し言いようがあるでしょ。ピンチを救ったんだし、それ二重の意味で失礼よネ」
「だってさああ、、」そう言いながらも二重の意味がわかっていない。
「アタシがオトコだったら負けた言い訳が立つって思ってるんでしょ。じゃあさあ、そうやってみんなに言ってまわったら? 実はオトコだったから、負けたってしかたないってさ」
蝶々がヒラヒラとショウタの鼻先を嘲るように飛び回ると、欄干の上にとまり羽根を閉じた。
「ごめんなさい、、」ショウタはぐうの音も出ず首をもたげる。
「ショウタ、サッカーうまくなりたい? それとも誰かのマネをしたいだけなの?」
とまっていた蝶々がまたヒラヒラと舞いはじめた。澄んだ川には小魚が2~3匹で、流れに逆らって尾びれを振っている。
何も言ってこないショウタをみて、アヤが続ける。
「アタシはショウタがうらやましい。戦ってくれる相手がいるからね。倒すべき相手もいる。なんだってできる。負けたってやり返せる次がある」
「 、、アヤはいなかったの?」
ハナシの流れからそうなのかと訊いてみた。アヤは少し間をおいた。訊いてはいけなかったのかもしれない。進むことのなかった小魚は身をひるがえし川岸に進み、流れが弱まったところで回遊しはじめた。
「どうだろ? いたのかもしれないし、見つけられなかったのかもしれない」
高校生になってからは部活に入らずに、ひとりで練習を続けていた。何かと戦うことにもう疲れていた。自分の技を高めることだけに集中していた。
比べる対象は何もなく、うまくなったのかどうかもわからない。こなせる技は増えていった。それが何の役に立つのか、どの場面で使えるのか、何もわからない。
ただ誰とも争わない状況に気持ちが楽になると同時に、もう一度誰かと戦ってみたいという気持ちを、いろんな理由をつけて押し殺していた。
それが今日、ショウタと戦うことで、ひとつひとつ検証出来ていった。真剣に戦うことに理由はいらなかった。あの日の自分と相対させながら、なによりも本気になっていく自分を止められなかった。
それと同時にわかったことは、どれだけ練習を重ねてきても、小学校4年の自分を越えられていないことだった。もちろん技術はあの時とは雲泥の差ではあった。
あの時のカラダの動きは脊髄反射で反応していた。誰よりもうまくなりたいと渇望した。誰にも負けたくないと貪欲だった。いまの自分は技術はあってもその根本的な部分が劣化していたことに気づいた。
時は戻ってこない。どんなに望んでも。もう一度はないのだ。その時にやるべきこと、やりたいことをしておかなければ後悔だけが後に残る。
「あのさショウタは、アタシと勝負してて、悔しいばっかりだった? 悔しくて何とかしたくって、やり返したくて、、」
ショウタはジロりと上目遣いになった。悔しかったに決まっている。
「 、、悔しい気持ちがあるうちはいいよ。まだショウタは戦える。でもね悔しがってやるより、楽しんでやったほうがいいんじゃない」
ショウタはアヤの言う事をポカンと聞いていた。悔しさをバネに強くなるのがマンガや、アニメで見たヒーローだ。楽しんで戦ったらヒーローではない。
アヤは今はそうでもしかたないとショウタの顔を優しく見た。自分もわかっていなかった。サッカーをすることで敵を作り、敵に打ち勝って認めさせることが目的になっていた。
「自分よりうまい相手がいたらワクワクしない? どうやって倒してやろうかって楽しくてしかたないけどな」
アヤはショウタと戦ってるとき、いつも笑ってた。それは楽しんでいるというより、バカにされているとしか思えなかった。
「ボクだって、うまくなりたいんだけど、、」
ショウタはアヤに何を言われても、どうすればいいか判断がつかないままだ。それがわかっていれば、これまでもやっていたし、このままではわからずに日々を過ごしてしまうのも目に見えている。
自分は本当に上達できるのか、母親に苦労をかけてまでやるほどの価値があるのか、そうまでしてやった結果が報われるのか。
時折りこんな刺激を受けて少しはモチベーションが上がったりするが、それを継続させるまでの熱量にはならない。そうであったことを後悔するのは、やはりアヤぐらいの年齢になってからなのか。
あって当たり前の環境を用意されている者は、そのありがたみを知ることはなく、手に入れられない環境にある者は、なにをどうあがいてもその恩恵を受けることはない。
その分あがくことへの熱量が高まり、自分の力量以上を発揮できることもある。自分をここまで高めることはできたのは逆説的に言えば、目の前にある障害のおかげだったとアヤは感じていた。
「あのね、ショウタ。なんでもできるコがウマくなれるわけじゃないヨ。できることが少なくて、たくさん詰め込めなけりゃ、できたことだけを磨いて自分の武器にすればいい。そうすればその武器は誰にも負けない力を持ち、ショウタが戦うための強い味方になるんだから」
なんだかゲームの攻略でも指導されているようだった。ショウタは自分ができることが少ないから、仕方がないと言われている気になっていた。サワムラやアヤのようなテクニックをマネするなどおこがましいと。
すぐそこにある成果は、捕まえられないからこそ捕まえようとして、捕まえるために自分を高め、それでも届かないことで継続し続けることができる。
手の届く場所に最初からあり、いつでも自分のモノにできるならば、誰が努力を惜しんでそれを手に入れようとするだろうか。
「誰かのせいでこうなったとは思わないように、自分で決めなよ。ショウタは自分で決められるポジションがあるんだからさ」
ショウタは小さく肯いた。肯いてみたものの本当はアヤの言葉が正解なのかわからなかった。アヤがそう言ったからそうなんだと肯定した。
ポジションはフォワードがやりたかった。コーチにはフォワードは希望者が多いから、別のポジションも考えておけと言われた。余り見込みがないのだろう。何れにせよアヤの言っている意味とは違う。
まわりには自分よりうまいコがいっぱいいた。ショウタもそうなりたいのになれない。練習だってしてるのにうまくなる感じがしない。コーチもいろいろ教えてくれるけど、やってみせると少しこまったカオをして、何回もくり返せと言うだけだった。
アヤは足下にあった小石を蹴って川に落下させた。水面にしぶきと波紋が拡がり、ある場所まで来ると流れに取り込まれて消えてしまう。川は何もなかったように、すぐにいつもの表情へ戻っていった。
アヤの目にも当然ショウタの不味いところは見えていた。自分ならこうするのにとか、こうすればいいのにとか幾つも注意点が浮かんだ。
自分はそれを大人から指摘されるのがイヤだった。反発して余計にやらないこともあった。かつて自分に線引きをした大人に嫌悪感を抱いていたはずなのに、自分がその立場になれば同じであることに心が痛んだ。悲しくて涙が出る。
「どうしたの、アヤ? 泣いてるの?」
「ボクさあ、ガンバるからさあ、泣かないでよ。うまくなるように努力するからさあ」
なんとかしてアヤを励まそうと、ショウタはそんな見当違いのことを言い出した。アヤは洟を啜って涙をこらえた。
「そういうことはお母さんにいいなよ。そんなことよりさあ、ショウタ。どうするの?」
「なにが?」ショウタはおとなの女性の涙を見てドキドキしていた。
「サッカー教えてってハナシ」あきれてアヤがそう言った。
「でも、ボク、ボール取れなかったよ」
「アタシは、イイよ、、 ショウタが望むんなら」
「ホント!? 、、でもボク、アヤにお金払えないよ」
「なにショウタ。アンタ、お金払ってナニ教えてもらうつもりなの?」
アヤのこれまでおかれた環境と、持ちえる能力を何のために使えるかを考えたとき。それがもしショウタの役に立つならそれでいい。ショウタが持ち得た力が、それを持たない人の支えになるなら、同じようにしてくれればいい。それが自分への対価になるはずだとアヤは思った。
「そういうことは、アタシからボール取れるようになってから言いなヨ」
ショウタの腹に収まっていたボールをアヤは足先で掻き出す。コロコロと橋の向こう側へボールは転がっていく。
「あっ、ズルいぞ」これはズルいといえた。ショウタは立ち上がってボールを奪いに行く。
アヤも続いた「アタシね見た目より大きいんだヨ」。変なところで意地を張るアヤだった。
ショウタはボールを自分のモノにしたと確信した。アヤのスキを出し抜いて、あっという間にボールを奪取できたと脳内興奮が全開になった。
それなのにショウタの足先がボールに触れようとしたその時、ボールは消えて無くなっていた。まぼろしを見ているのかと目をパチクリとさせる。
ショウタの足先より、一瞬早くアヤの足がボールに触れていた。
ショウタの目線では見えない部分を足先で引っ掛けるとボールはアヤの元へ転がり、トゥで持ち上げられショウタの背丈の分だけループして背後にポトリと落ちていた。
勢いがついているショウタは前のめりになり、無様に地面に這いつくばってしまう。その上を飛び越えたアヤはボールを足下に保持し、腰に手を当てて振り返る。
「ズルいぞ!」ズルくはないが、大人げはなかった。ショウタが転ぶように仕向けたプレーだ。
「ほら、どうした? そんなんじゃ、いつまでたっても補欠だゾ」アヤがそう言って煽ってくる。
ショウタは言われたくないことを面前で公にされて、アタマに血が昇ってしまう。そんな調子では普段できていることさえできやしない。いいようにアヤのトラップに引っかかり続ける。
アヤは決して手を抜かなかった。子どもだろうが、能力の有る無しに関わらず、勝負事には常に真剣に向き合うつもりだ。
ショウタにサッカーを教えたくないわけではない。相手に勝ちを譲って手にしたモノに何の価値はないと、自分のこれまでの経験がそうさせていた。
やれ年下だから、女のコだからと勝負の土俵にもあげてもらえず、お手盛りの勝ちを与えられてきた。そんなものは屈辱でしかなかった。
アヤもまた小さい頃からクラブチームに入り、おとこの子と一緒にボールを蹴っていた。誰よりも練習してクラブの中では上位のテクニックを持つまでになっていった。
男女の力量に差が出る年齢になり、他の女の子が辞めていったり、他の女子スポーツに移って行っても、アヤは男子と一緒にプレーした。
同年代の男子では相手にならず、年上とマッチアップするようになっても、アヤは相手を出し抜いて競り勝つことができた。それなのにアヤが上手くなればなるほど、自分の居所はなくなっていった。
「ほら、行けっ! もう少しだ」
何を争っているのか知らない人だかりも、子どもがからかわれているようで、判官びいきもありショウタにヤンヤと声援を送りはじめた。
そうなると恥ずかしさもあって気持ちが空回りしてしまう。慌てて立ち上がりアヤに向かうが足がもつれてもう一度転ぶ。脛が擦傷し血が滲む。
そんなショウタをさらに小バカにするように、アヤはボクシングで言う所のスウェーで身を引きながらボールを保持する。
ショウタは追いかけても、追いかけても、すんでのところでボールが逃げていく。アヤがそのタイミングを見計らって、取れそうなところでボールを引いていた。
あと少しで取れないことが続き、それがショウタのやる気を継続させている。同時にムダな動きが多くなり直ぐに息が上がってくる。
誰もがアヤと対峙するのを嫌がっていた。そして誰もが真剣にアヤと戦うのを止めてしまった。
戦いの最中でそうされる分には、まだ仕方ないと割り切ることができた。誰の目にもそれが明らかであり、コーチからも叱責が飛んだ。
そうすると今度は勝負が終わってから、コーチやアヤがいないところで手を抜いてやったとか、勝たしてやったとか言われることになった。
全力で戦って手にしたはずの成果は、その言葉で何の価値もなくなって行った。コーチが注意していないのだから本気でないはずもなく、アヤにも自分の能力が優った手応えがあった。それなのに、それは多分にオンナに負けた恥ずかしさをごまかすために言っていることだった。
オトコ仲間はみんな、そもそもオンナ相手に真剣になるなんてありえないなどと言い捨てていた。アヤには真剣勝負を証明する手立てなどなく、実力で優った手応えがあっても、誰もそれを信じることはなかった。
孤立していくアヤの居場所は心理的にも、物理的にもなくなっていき、アヤは誰とも戦うことができなくなっていた。
まわりの大人たちはみんなアヤを慰めた。オンナの子なのによく頑張った。それが枕詞についた。そしてそのあとには、もう十分やったじゃないかと、終わりを示唆する言葉が続けられた。
どのみち小学校を卒業すれば、女子はクラブに残ることはできない。報われない戦いを続けるだけの動機が溶解されていった。
「ガンバレ、ボウズ!」「それ、そこだ!」など、思い思いの声援が飛ぶ。
人だかりからのそんな声援に、何かのイベントかと足を止めて、通りがかりの人々がさらに増え、身を乗り出して様子をうかがう。
今のショウタは、昔のアヤだ。人々は小さなショウタを無責任に応援する。そうあることで自分の寛容性であったり、公平性を再確認している。自分は弱い者の側であることに安心感を持つことができる。ショウタにもいつかそれが逆転する日がやってくる。
アヤは背後に人だかりを感知したところでスウェーすると見せかけ、右側3メートルほど先に立っていた男性の足下を抜くようにアウトサイドからパスを出し、自分も人だかりから外に出た。
股抜きをされた男性は驚いて後ろを振り返る。ボールの位置はショウタとアヤとの丁度真ん中で止まった。ショウタは小さいカラダを利用して、自らその男性の股をショートカットして潜り抜ける。
男性はショウタのジャマをしないよう、地団駄を踏むように足をバタつかせると、ドッと笑いがあふれた。
ショウタが抜け出した先には、アヤがすでに待ち構えている。悔しがるショウタを嘲笑うかのようにボールをけり上げると、重力を感じさせないようなふわりとした軌道を描き、対向する側の人だかりの前にポトリと落下しようとする。
そのまま弾んで外に出ると読んだショウタは、人垣の周りを走って反対側に向かう。人々はそんなショウタを目で追いかけ「いそげ」「まにあうぞ」と声をかける。
みんながショウタに声をかける。そうするとなんだか自分が有名選手にでもなった気分になってきた。全力で動き回ってキツイはずなのに、練習なら足を止めてしまうはずなのに、カラダは軽くボールへの執着心は消えることはない。
ボールの軌道を考慮すれば、ワンバウンドして人垣を越え、ショウタが先回りしたその場所に来ると想定された。誰もがショウタの読みを肯定して、これで勝負ありだと確信する。
かくしてボールはバウンドすると人垣の外ではなく、方向とは逆に中心に向かって弾んだ。強烈な逆回転がかかけられており、反対側へ弾むように仕向けられていた。そしてその先にはアヤが悠々と待ち構えていた。
「そんなんで、アタシに教えてもらおうなんて、甘いねエ」
「オーッ」という歓声とともに、拍手がわき起こった。想定外の出来事に、アヤのテクニックに誰もが感心していた。
時間にして3分も経っていないのに、ムダな動きばかりしているショウタは、さすがに子どもと言えど肩で息をして、次の一歩が出なくなっている。
アヤはボールとショウタを走らせているだけなので、汗もかいていない。足でボールを押さえつけているアヤに、ショウタは動きを止めてボールを睨めつける。
動きがなくなり群衆から野次が飛ぶ「どうした、もう降参か?」。そんな声を耳にしてショウタは焦るばっかりで、何の手だても思い浮かばない。
これだけ良いようにかわされては、やみくもにボールを追っかけてもムダだとは、こども心にもわかっている。勢いで戦える時間も終った。相手を疲れさせるどころか、自分だけが疲労困憊だ。
自分を応援してくれていた人たちも、ショウタの不甲斐なさや、ボールを取れそうもない手詰まりに、今やアンチに変わってきている。アヤの次の技に期待しはじめている。そうすると増々力が削がれていくようだ。
一体自分は何と戦っているのか。それはアヤも同じであった。戦う自信があるのに戦わせてもらえない。対等で有りたいのに拒否され続けた。オンナだからという理由で。弾き出されれば弾き出されるほどに、意地になっていった。戦うべき相手はソレではないはずなのに。
当時は女子がサッカーを行う環境はまだ整のっておらず、あったとしても主要都市の一部に限られていた。それも誰もが進めるような開かれた場所ではなく、登竜門を駆け登ってきた一部のエリートしか門戸を叩けない。
さらに言えば、入ったからといってサッカーに専念して生活ができるわけでなく、食い扶持は自分でなんとかしなければならない過酷な現実が待っている。
こんなところで燻ぶっていては埋もれてしまうと、クラブのコーチや関係者アヤのことを思って、遠方の県にある女子クラブのある小学校への転入を勧めてくれた。
それしかサッカーを続ける選択肢はなく、仕方がないこと誰もがしたり顔でそう言った。そんな慰め言葉を聞く度に何か敗北を受け入れるようで相容れなかった。それが体のいい厄介払いだともわかっていた。
アヤの実力を知り、いくつかのクラブが勧誘に来ていた。家から離れた場所に頼る先もなく、そのために引っ越しが出来るような家庭環境ではないため、アヤの耳に入る前に両親から断りを入れていた。ハナからサッカーでメシを食べて行くコに育てるつもりはなかった。
もとよりアヤもそんなことを望んでいなかった。自分はオトコより上手いこと証明したいわけでも、他の女子と違うところを見せたいわけでもない。ましてや女子フットボーラーの立場を改善するためのアイコンになりたいわけでもない。
ただ最高の舞台があるならば、そこで戦いたいだけだった。
クラブチームへはいかず中学校の時は男子のサッカー部に入った。練習はできても、試合に出れないことは承知のうえだった。
練習をしていて自分でも十分対等にできると確信できただけで、それで十分だった。アヤは小学校の時のように自我を出すことなく、自分のほうができるとアピールすることもなく、男子をプレーでやり込めることもしなかった。
練習が終われば、マネージャーの仕事もした。道具の片付けから汚れ落とし、部室の掃除にグラウンドのトンボかけ。練習スケジュールの作成から、対外試合の予定組など、キャプテンや顧問の先生と一緒になって準備した。
そんなアヤの姿を見て、男子は安心したような雰囲気になり、アヤがそのままでいてくれることを望んでいたように、言葉も態度も柔らかくなっていった。
遠くから自分の個性が塗り固められていくようだった。高校に進んだアヤは、もうサッカーを止めてしまった。
「ショウタ! アンタなにやってんの!」マサヨがこの騒ぎに気付き店先で叫んだ。
母親に知られることなど考えもせず、戦いに集中していたショウタはビックっと身体を硬直させた。
「スッげーんだ、サワムラ選手。こうして、こうして」
ショウタは、店先でサッカーボールを足でコントロールする。足先とスネでボールをはさんでから、ボールを中心に足先を一回転させて、もう一度ボールをはさんで止めるトラップを見せようとする。
小さい足でボールをはさむのにはまだ無理があり、サワムラのやったようにはうまくいかず、すぐにボールはこぼれ落ちて転々と店先に転がっていく。
「ちょっと、店先でボール蹴っちゃダメだって、いつも言ってるでしょ」
売り物の花に当たったら大変と、話をそこそこに聞いていた母親のマサヨは、ボールが転がってくるのを見ると驚いてすぐに制止する。
「けってないだろ」ショウタは口先をとがらせて反発する。
今日の出来事を母親に聞いて欲しく、あえて店先でやっているのに、そんな言われ方をされて悔しい思いもあり、そんな屁理屈を言ってしまう。
「口ごたえしないの!」不毛なやりとりにマサヨもイラついてしまい、つい言葉がキツくなる。
今日はショウタが通っているサッカークラブで交流会があり、トップチームの選手がショウタの練習場にやって来た。
ショウタがあこがれているサワムラが、パフォーマンスでリフティングから相手を出し抜くようなトラッププレーを見せて喝采を浴びていた。
ショウタも目を輝かせて、サワムラの動きをひとつも見逃さないとばかりに、最前列で食い入るように見ていた。
帰りのミーティングでコーチに、あれはプロのプレーだからオマエたちにはまだ早く、マネせずに基本のプレーを忠実に練習するようと釘をさされても、ショウタはサワムラのプレーを自分もできるようになりたくて、家に帰ってから練習しようと決めていた。
交流会には誰もが両親揃って見学に来ており、今日ばかりは母親や父親と一緒に帰っていく。そんなチームメイトの姿を見ながら、ショウタはひとりで家路を急いだ。
仕事の都合で交流会に顔を出せない母親に、今日の出来事を聞いて欲しいし、この練習を見てもらいたくて店の前でやっているのに、母親のマサヨはかまってられる状況ではない。
今日はお得意さんからの注文が入っており、明日の納品の準備をしながら、来店客の対応にも追われていた。
店をひとりでキリモミしているマサヨは、クラブの集いがあるからといってその度に休むわけにもいかず、これまではすべて欠席していた。ショウタに寂しい思いをさせているのはわかっている。
それも高い月謝を払うために少しでも売り上げを伸ばさなければならないからと、入会するときに約束していたことであり、人手が足りなくてもバイトを雇う費用も抑えるために、ひとりで頑張っていることもショウタに理解して欲しい。
ショウタもそれはわかっていても、まだ小さい子どもだ。かまって欲しい日もある。特に今日のような特別な日であれば興奮も抑えられないだろう。
マサヨにしてもそれは重々承知していた。それなのにキツく当たってしまう自分にもストレスを感じてしまう。マサヨは肩をすくめて店の中に戻っていく。
頬を膨らませて、腹いせもあってボールをモールの通路に向かって蹴飛ばすショウタ。力なく転がっていくボールは通行している女性の足に当たって止まった。
ショウタがゴメンなさいと言おうとすると、その女性は足の甲ですくうようにボールを持ち上げ、つま先をクイッと上げてボールを宙に浮かせ、膝でワンクッション経由して額の上でピタリと止めた。フードがあたまからずり落ちて、ショートのブラウンヘアーが少し揺れる。
一連の流れるような動きにショウタの目は奪われた。女性はアゴをあげたまま額の上でボールをキープしているので、ショウタの方を見下ろす。
「キミのボール?」ショウタは声がでない。コクりと首をタテに振る。
女性は首を横にして落下させたボールを肩で弾ませてから、左足でボールをコントロールしてショウタの前で弾ませた。ワンバウンドして胸の前に来たボールをショウタはキャッチした。
「コラー、手ェ使っちゃダメだろ」膝丈のチェックスカートの腰元に両手を添えて、ショウタにクレームをつける。
「おねえちゃん。じょうずだね。プロの選手?」
女性はその問いには答えず、ゆったりとしたTシャツのハーフ袖から、細身の腕を伸ばして指先でボールを寄こせと合図した。ショウタは手にしたボールを下に落として、彼女にヒールパスを出した。
「わたしは、アヤ。まだプロじゃないけどね、、 」
コロコロとアヤの足下に転がるボールは、スッと前後に入れ替えた右足底で止めてから、素早く足裏で滑らせた。紺色のスニーカーが踊るようにステップを踏む。ボールは逆回転がかかって跳ね上がり、踵で蹴り上げられる。
「キミは?」ボールはアタマを越して、シルバーのネックレスが揺れるアヤの胸元を通り、Ⅴ字にした足首にスッポリと収まった。今日サワムラが見せた止め技と同じだった。
名前を聞かれたと判断したショウタは、名前と小学校4年であることを伝える。「フーン」とアヤは言い、振り上げた右足からボールを放ち、前かがみになって両腕をいからせた肩甲骨のあいだでボールを止めた。
顔の位置がさがってショウタの目線の位置まで降りて来た。
「おねえちゃん、スゴイね。どうしたらそんなにうまくできるの?」
「ショウタもサッカーやってんでしょ? だったらさ、ボールといっつも一緒にいなきゃ」
そう言ってアヤは背を正す。背中のボールがスルスルと、アヤのお尻から太もも、ふくらはぎを通って再び踵で蹴り上げられる。今度は持ち上げた膝の上に吸い付く。
「おねえちゃんも、そうしてうまくなったの?」
膝の上にあるボールを凝視しながら言うと、その目線が下にさがっていく。アヤが折り曲げていた足を延ばしてボールを足先まで滑らせていく。
ボールが脛をつたって足先に来ると、ボールを回転させながら右足と、左足で交互にリフティングを繰り返しはじめた。それが答えなのか。
「ねえ、アヤ、ボクにサッカー教えてよ」
ラフな格好の女性が、ショッピングモールの真ん中でリフティングを繰り返していればどうしても目立ってしまい、少しづつ人の輪ができはじめていた。
「さんづけしなよ。まあアヤでいいか、、」
ショウタもアヤもそんなことはお構いなしに話しを続ける。
「クラブに入ってんだろ?」
アヤはショウタの着ているクラブチームのユニフォームを見て、自分の胸を差してそう言う。クラブのネームが印刷されていることを伝えている。
トップチームのジュニアに所属していると知れてしまい、ショウタはいまさらながらにユニフォームのチーム名を手で隠す。
小学校4年生で試合にも出してもらえない。練習と言えば基本の反復ばかりだ。それが重要なことだとはわかっていても、一生懸命やる動機にはどうしてもつながらなかった。
子ども心にも会費の支払いで母親に迷惑をかけていることも気になっていた。こんな調子で続けていてもうまくなれる気がしなかった。
「なあ、いいだろ? おしえてよ」
リフティングを続けるアヤに脈があると、ショウタはたたみかけてくる。
ボールを中心に足先をクルリと回し、また足先でつつく。そんな小技をからめると、まわりの人垣から歓声があがる。ショウタは自分の手柄のようにまわりを自慢げに見回す。
「わたしから、ボールを奪うことができたら教えてあげてもいいかな、、 」
そう言うとアヤは宙を舞っていたボールを地面に転がし前方1mの場所にセットした。
「えっ、ホント?」言うが早いかショウタは、すかさずそのボールに喰いつこうとする。
瞬時のことでアヤも気を抜いていたのかもしれない。あっというまにショウタの足先がボールに届く。
あのーと、突然呼びかけられて、ダイキは驚いてそちらに目をやる。
大人しそうな女性が申し訳なさそうに立っていた。
「スイマセン、ここのピアノの演奏は8時までなんです」
さらに申し訳なさそうに、消え入るような声で何かを指差してそう言った。ダイキがその指の先を見ると、木枠に立てられたボードに、ピアノの演奏に関する但し書きが貼られていた。
”演奏は午後8時まで”確かにそう書かれている。酔いざましに飲み屋から歩いているので、かれこれ10時は過ぎているだろう。
ボードがある反対側から椅子に腰かけたので、ダイキは気づいていなかった。謝罪の意味でアタマを下げ、長居は無用と腰をあげようとすると、アキがあわてて言った。
「いえ、悪いのはわたしなんです、、」
ダイキは意味がわからない。少し首をひねる。
「 、、わたしが忘れてたんです。本当は8時になったらピアノのカバーを下ろして、カギをかけてシートをしなくちゃいけないのに。それを忘れてて、、」
通りがかりのダイキに、それを釈明しても仕方ないはずだ。ダイキは咎めるつもりもない。
近頃ではそういったミスをなじったり、逆ギレすることもあるので下手に出ているのか。それに酒が入っているとわかるダイキを警戒するのも仕方がないところか。
「いえ、悪いのはこちらです。注意書き見落として。それに、それを見なくたって、こんな時間に非常識ですよね」
なるべく丁寧に、相手に対して敬意を込めてこたえた。
「あっ、いえ、ピアノの音が聴こえてきて、思い出せてよかったです。以前も忘れてた事があって、それも夜中に音が流れてきて、慌てて止めに行ったら、酔っぱらいサンで、、 出してあるから弾いてもいいと思うだろって、怒鳴られて、それで随分と長い間、お叱りをうけて、、 」
アキはそう言って下を向いた。やはりダイキが想像した通り、そんな過去の苦い記憶が彼女にはあったのだ。お叱りなどと柔らかい表現をしているが、多分相当に絡まれたのだろうと想像がつく。
同じように酒が入っているダイキに警戒をするのも仕方なく、さらに前例をあげて、同じようなことをして欲しくないと、予防線を張っているようにも見えた。
小柄な女性と自分のような男では、恐怖を感じてもしかたない。ダイキとしては、そんなヤツと同類にされるのも心外なので、なるべく冷静に、温和に話をする。
「あなたはここのモールの管理者の方ですか? 大変ですね、こんな遅くまで」
夜中に気づいたということは、店舗に住み込みで働いているか、管理会社で夜間管理を担っているかどちらかとの読みだ。店舗で住み込みしているならば、立ち入った話になるので管理会社を先にした。
ただ、彼女の容貌からは、夜勤の警備を仕事にしているようにはとても見えず、気を使って話すにしても無理があったかもしれない。
「いえ、あの、ココって、新しい感じのモールなんですけど、昔の商店街の名残が残ってて、月一回ぐらい各お店で夜当番があるんです。だからつい、、」
だからつい忘れがちなのだと言いたいのだろう。アキは下を向いて所在なさげになった。ふたりのあいだに言葉が途切れ、しばらく静寂が流れた。
その時、どこからかオトコの荒くれた声が聞こえた。アキの顔にサッと不安がよぎった。心臓がつかまれたように痛んだ。この良き日に悪いことは起きて欲しくない。
ダイキも耳をすませた。アキの顔から血の気が引くのが目に見えてわかった。何かあれば自分が手助けするつもりだった。
次にイヌが鳴くような声が2回、3回と聞こえ、そしてまたモールは静まりかえった。ダイキは大丈夫とばかりにアキに何度がうなずいて見せた。
今度は広場につながる通りに足音が聞こえてきた。そのリズムだと走っているようだ。ダイキは立ち上がりその方向を見た。女性らしきランナーが駆けていく。アタマから被ったフードの中から、こちらをチラッと見たようにみえた。
「あのひと、イヌに突っかかって吠えられてもしたんでしょ」
ダイキはそう言ってアキを安心させようとした。
「えっ、ああ、はい、そうみたいですね。よかった」ホッと、安堵するアキ。
これでは彼女に夜警など無謀すぎるとあらためてそう思った。ダイキもこのまま帰るには忍びなくなっていた。言葉をつながなくてはと、それにしても、、
そう言い出しながら、何を言うべきか考えている。アキは上目遣いに顔をあげる。
「、、大変ですね、、」
どうにか出てきた言葉がそれだった。最初にも大変だと言っており。大変なのを認めさせようと、必死になっていると思われるようで何とも気まずい。
「そうなんです、、」そうアキは合いの手を入れてきた。
ダイキの苦し紛れに、アキの不満がつながったようだ。さきほどの恐怖から解き放たれて、たまっていた言葉が排出された。
「いくら当番とはいえ、どの店にも同じように夜警をさせるのは無理があると思うんです、、」
確かにダイキも最初に気になった部分であった。酔っぱらいに絡まれてトラウマになってしまうメンタルで、それ以上の状況に対応できるとは思えなかった。
どんなお店に勤めているのか、線の細いこの容姿では、犯罪を未然に防ぐどころか、二次被害につながりそうで心配になる。今の状況を見ても明らかだ。
「 、、それにウチみたいな新規出店の新参者は、回数も多いんです」
愚痴られても何の解決案もなく困ってしまうダイキだが、今はアキの話を聞くことが大切だ。
そうだったんですねと労う。きっとモールの組合で、そういった力関係が働いているのだろう。
「さすがに危険だと感じたら警察を呼びますけど、だからと言って安易に通報もできないし。どこからって線引きが難しいんですよね」
その結果、酔っ払いにご指導ご鞭撻をいただいたのだ。
ぐるりと通りを見渡すダイキ。いくつもの店舗が死んだように並んでいるだけで、生活感は伝わってこない。昔の商店街なら通りに面する場所に店を構えていても、奥が住居になって人が住んでいたので治安も保たれていたのだろう。
今時なら、防犯カメラとか、警備会社に委託するのが無難なはずだ。
「確かにそうですよね。下手なこと言えば、その人みたいに逆ギレされるかもしれないし」
あくまでも自分はそちら側ではないとダイキは含みを込める。アキは目を閉じてうなずいた。自分の中にあったわだかまりがスッキリして開放的になっていた。
今日は思い切った行動がすべて良い方向に進んだ。そういう日は何をしても成功する。そんな一日になった。ならば最後にもう一つだけ願いをかなえたい。
一方のダイキはそうではない。今後の人生を左右する重大局面にいた。さしあたっては妻にどのように言い訳するかを考えねばならない。それなのに何か夏休みの宿題を後回しにするように、現実を遠ざけていた。
アキはピアノの椅子に腰かけてしまった。ダイキは本当は早くピアノから離れたかった。警備の話しをしたのもピアノの話題に振られたくはなかったからだ。
「素敵なメロディでしたね。何だか昔、聴いたような? 聴いたような、、」
アキがポツリと言った。
「、、、」
ダイキの目論見は残念ながら叶わなかった。ストレートにその部分を付いてこられ、ダイキはふたつの意味で苦笑いだ。
さすがにダイキも時間帯を考慮して、小さな音で弾いていた。思い出しながらであったし、スローテンポになったことも合い間って、余計にバラード調になってしまった。
本来のテンポではないからか、それともリズムが悪いからそう聴こえたのか、いずれにしてもオリジナルには程遠い曲調になってしまっていたので、それをどこかで聴いたと言われると恥ずかしいばかりだ。
せめて何と言う曲なのかは聞かないで欲しいダイキだ。
「何て言う曲なんですか?」
「、、、」
目を伏せて天を仰ぐダイキ。ことごとく向かいたくない方向へ進んで行く。やはり今日は厄日なのか。
「あっ、ごめんなさい、余計なこと聞いて。前のひと、デタラメに弾いてて、今日は音が聴こえてきた時、慌てたけど、聴いたことのあるメロディで、何だか少し安心したんです。きっと前みたいにはならないって」
またも予防線を張られた。前回の印象がそれほどキツく、よほど辛い体験だったのだと同情しながらも、その経験を活かして、新しい自分を模索している姿も見て取れた。
誰しも自分だけが弱い人間だと負い目を持っている。なにをしても運がないとか、自分の時に限ってそうなるだとか。そういう負の思いに囚われていては前に踏み出せない。まさに今のダイキだ。
そんな時は自分より不運なひとを見つけることで、自分はまだマシであると心のバランスを取ろうとする。そんな対比で自分を上げたところで、なんの意味もないとわかっているはずなのに。
落ち込んでも、またはい上がれる。人生はそんなものと、これまでの経験が示しているのに、今はどうしてもそう考えられない。
だがそれはふとしたきっかけで好転することもある。はい上がる時に前より強くなっていればそれでいいのだ。いまのアキのように。
それは自分が弾いた曲に込められたメッセージに近いのではないか。高校の時は意味もよく知らず、語感の耳障りだけでカッコよく感じられていた曲だった。
大人になってからその訳詞を知り、ストーリー性のある世界観と、勇気づけられる言葉に改めて魅せられたことがあった。
自分もいつまでも引きずっているわけにはいかない。ダイキはアキの姿をみて、また、こういう場に遭遇して、これは自分に与えられたチャンスなのかもしれないと思いはじめた。
「そうだったんですね。静かに弾いてよかった。でもホントはロックの曲で、もっとスピード感のある曲調なんだけど、高校の時以来で、思い出しながら弾いたから、こんな感じになってしまっただけで、、」
「あっ、やっぱり、そうですよね、、 アメリカンロックバンドのヒット曲ですよね。わたしも若い時によく聴きました。大好きな曲なんです。だから、そのバラードアレンジなのかなって思って、、」
彼女はいつも、”あっ”と言う感嘆詞から話し出す。それが癖なのか、常に何かに驚き、それを緩和する目的で使っているのか。
「そんな、、 アレンジだなんておこがましい。そんなテクニックなんてないですよ」
アキがピアノから離れなかったのは、できればもう一度、ダイキにこの曲を弾いて欲しかったからだ。思い出の曲であり、あのタイミングで耳にした曲。今日という最良の日に花を添えるにふさわしい曲だ。
とは言え、あからさまにリクエストもできない。どうにかしてそういう方向に持って行きたく話を振っているのだが、なかなか思うようにはいかない。
ダイキも、もう一度この曲を弾いてみたかった。最初の演奏で大体の感触が戻っていた。次に弾けばもう少しマシな演奏ができそうだった。そして明日への希望が見えるような気がした。
しかし、止めに来た人にもう一回弾いていいいかとは訊けなかった。先ほどの警備の話しにかこつけて探りを入れることにした。
「見た感じこのモールは、店舗に人が住んでいるわけではなさそうですが?」
「えっ、ええ、そうです。どの店も皆さん出勤して来るんで。もちろんわたしもそうなんですけど、この日ばかりは仕方ないです」
ダイキがなにを気にしているのか、アキにはうすうす気づきはじめていた。
「じゃあ大丈夫だ」そう言うダイキの言葉に、アキは何が大丈夫なのか理解できた。
「大きな音を出さなきゃ、ピアノを弾いても」と続けられ、アキは期待を込めてうなずく。
遠回りはムダではなかった。ガツガツと結果だけを求めるよりも、関係のない会話から本意に導かれることもある。アキには今日の復習になったようだ。
ダイキはメロディラインを奏でた。これぐらいなら大丈夫かと目を送る。彼女もそれに応えてうなずいた。
高校時代に何度も繰り返し、練習して必死に覚えたことは、時が経っても薄れることはなかった。それがこんんなカタチで披露できることになるとは思いもしなかった。
軽やかなイントロからはじまる。誰もが一度は耳にした馴染のリフだ。彼女も首を振ってリズムを取る。
――独りぼっちの少女と、都会に憧れる少年が、住んでいる場所から旅立って行く、、
テンポのいいイントロを経て、ダイキが口ずさむと、彼女もそれに合わせて歌い出す。
サビに入るとダイキは少しだけ弾力を強くした。ただ、鍵盤を押し込むのではなく、直ぐに離して余韻を残さないようにリズムを取った。
アコースティックピアノのいいところでキーのタッチで好きな音量にできる。それにはじめて弾いて気付いたことが、意図せぬタッチが良い具合の音を出して表現が広がっていくこともあった。
――見知らぬ人が待っている通りに。闇間に希望を隠して暮らしている、、
ダイキと彼女は身体を大きく前後させてハモっていく。
――街明かりに照らされても、自分の感情を出せずにいる、、
その想いを吐き出すような間奏に入る。本来ここはギターのソロパートだが、ダイキもユニゾンで弾けるように練習していた。
ギターが自分のテクニックを見せつけるように、いつもアドリブで弾き出すので、原曲の章節を把握できるように、他のメンバーで決めたことだった。
彼女もそれに合わせてハミングをする。ダイキは笑みがこぼれた。そして間奏と同じメロディーラインである最後のパート。
――信じることをやめないで、、
ささやくようにして合唱した。顔を見合せたふたりは笑顔を見せあった。
エンディングはミュージックビデオでもお馴染みのポーズで決めた。両手を挙げて人差し指を立て天を指す。
そしてアキは小さく拍手をした。ダイキもそれにあわせた。なにも打ち合わせしなくても、ふたりがそれぞれ持っていた過去の記憶が、ここで折り重なって再現された。
「今度は、営業時間に思いっきり弾きに来てください」アキはそう言った。
ダイキは微笑んだままうなずいて見せた。しかしお互いに、その時間は訪れないであろうと知っていた。今はこの時間がつくりだしたキセキに感謝するだけでよかった。