private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ホテルマリアージュ 2)

2024-09-29 18:20:45 | 連続小説

「五千円。前金だ」。宿帳を確認したホギは、ワカスギにそう伝えた。
 ワカスギはとにかく一度座りたかった。立ったまま札の枚数を数えると目まいがしそうだった。
 件のタクシードライバーは、飛ばすけど良いかと訊いてきたので、ワカスギはホテルは近いのか遠いのか尋ねた。タクシードライバーはニヤリと笑ってすぐそこだと答えた。
 すぐ近くなのに急ぐ理由がわからなかった。それなのに、どうぞと言ってしまった。そう言わなければいけない気がしたのだった。ここはタクシードライバーの好きにさせれば良いと。どうせ乗りかかった船ならぬタクシーだ。
 そしてワカスギはすぐに後悔した。信号の度に加速、減速が繰り返され、直線で幾台ものクルマを抜き去った。角を曲がる動作も激しく、スピンターンでもするかのような切込みをしてタイヤが鳴った。
 角を曲がった立ち上がりでは、道幅一杯に膨らみつつ加速をするので、クルマが前を向いた時にはかなりのスピードがでており、他車がいればすぐさま抜き去っていった。
 初乗り区間なのでホンの5分ほどの乗車にも関わらず、これ程のダメージを受けていた。タクシーから降りて平衡感覚が狂っていた。それもすべて自身が望んだ結果だから仕方はない。
 ホテルの佇まいに感心して、気になるカップルを目にした。ある程度の情報の整理ができ、宿の目処が立ったところで気持ち悪さがぶり返してきた。
「スイマセン、ちょっと座らせて下さい」
 ホギにそう断ってワカスギは手近にあるテーブルから椅子を引いた。
「酔ったか?」。ホギはそう聞いた。
 その問いは酒に酔ったと訊いているようにみえなかった。多分に、あのタクシーに運ばれた客が一応に見せる姿なのだ。
 ワカスギはどちらともつかない曖昧な首肯を見せるのが精一杯だった。どう見られてもよかった。無理やり飲まされた酒でイヤな酔いかたをして、さらに運転の粗いタクシーに乗ったと、そんな言い訳など意味もなく、すでにこうなると決まっていたことだ。
「いつものことでしょ」ワインの女がそう言った。ワカスギにではなくホギに言ったようだ。
 ホギは反応しなかったが、相席の男がちょうどいいハナシのネタだとばかりに食いつく。会話が途切れてしばらく経っていた。
「なんだいマキちゃん、やけに詳しいねえ。もしかしてココは定宿かい?」
「つまんないこと、訊くんもんじゃないわ。タマオはに関係ないでしょ」
 言葉は厳しくても、微笑みながら静かな口調でそう言った。だが目は笑っていない。
「関係ないって、冷たいなあ。それにボクの名前はタマオじゃなくって、タマキだってさあ」
 顔はニヤけて、優しい口調でマキを正す。こちらも目が笑っていない。
 お互いに自分の価値は高め、相手を下げようとする魂胆だ。主導権を握るための駆け引きをしている。
「細かいこと、こだわらないの。あんたタマつい、、 」
 ワカスギには仲よさげに話しをしているように見えるふたりを横目にして、イスに腰掛け一息ついた。後のポケットからサイフを抜き出そうと、腰を浮かす動きも億劫なのか、力を入れないと動作が伝わっていかない。何とかポケットから抜き出し、長財布を開こうとする。
 この世は奇妙なことがしばしば起こる。自分の認識範囲内であれば、それば現実的な出来事で、そうでなければ奇妙な怪奇現象に振り分けられるだけのことだ。
 人が自覚できていることなど、さしてあるわけではなく、多くの怪奇現象を偶然の出来事とひとまとめにしてしまう。最初からそうなると決まっていたのに、そう考えなければ気持ちが収まらないからだ。
 ワカスギは取り出したサイフを開くのを止めてポケットに戻しクビを振った。尻の収まり具合が良くない。そう思えばタクシーの中でも違和感があった。もっとも走り出したらそれどころではなかったが。
 さて、どうしたものかと思案する。ホギはワカスギの様子を伺いつつ、どう出るのか次の行動を待っている。よくあることだとばかりに平静を保って楽しんでいた。
 ワカスギは、今度は前ポケットに手を突っ込み、タクシーや、コンビニでのお釣りだのを握り出してテーブルにひろげる。600円ぐらいはあるようだ。
「スイマセン。ボクにもビールをいただけますか?」。振り向いてホギにそう伝える。
 ホギは少しだけ口角をあげた。思ったほどボウヤではないことに感心しながらも、それは表情に出さないように努めている。
「300円だ。 、、前金でな」。ホギはそれだけ言うと、フリーザーから缶ビールを取り出してカウンターに置いた。
 良心的な値段で良かったと安堵しながらも、受け取りに行くのは難儀だった。仕方なく背もたれに手を掛けて大仰に立ち上がる。
「よかったらこっちに来て飲みなよ」。マキがそう声をかけた。
 そう言ってもらいたくてビールを頼んだ節もあるワカスギは、ただタマキには気を遣う素振りで目線を送ってみた。ホギは笑いを堪えきれずムフッと声をあげた。
 その様子を見て、すかさずマキがワインのアテにしていたアーモンドを投げつける。ホギには当たらず、カンカンと音を立てカウンターの奥に転がっていく。ホギは口に手を当てた。
「なんだい、天秤にでもかけられちゃうのかな。ボク?」
 ワカスギとしても諍いはゴメンだった。ビールの男には粘着性の気質が見て取れた。300円をカウンターに置いたワカスギは、元に居た椅子に座り直してプルトップを開けた。ひと口飲むと少しアタマが晴れた
「あら、フラれちゃったようだねえ。マキちゃん」。マキの株価が下落したとみて、今度はタマキが強気に出る。
 ホギはそれをみて奥の戸を開き中に入って行った。トイレにでも行ったのか。まだワカスギのホテル代は未納のままだ。
「手札も知らないのに、、 勝負はこれからなんじゃない」
 勝負とはマキがどちらを堕とすのかを指しているのだろう。意に反して戦いの場に上げられていることに、些かの不安と好奇心が同居していた。
 ビールを飲みきっていたタマキは首をすくめた。次の酒に代えたいところで、ホギにオーダーするタイミングを逸してしまった。
 マキも手持無沙汰にワイングラスの底を指先で押さえて、テーブルの上でクルクルと回していた。残りで持たせるか、空けて部屋に戻るか考えあぐねている。
 皿の上のナッツやら、チーズのアソートは、まだいくつか残っているので、できればもう一杯飲みたいところだった。
「飲み足りないんでしょ?」マキはそう言って席を立つ「ビールでいいよね? タマオ」
 他の酒にしたっかたはずのタマキは、ビールも、名前のことも否定せずに、トロンとした目でうなずきながら、マキの動きを目線で追っていた。
 黒いロングのタイトスカートが歩く度に脚にまとわりついて、深く切り込んだスリットから、その度に透明感のある肌が現れる。
 桃の底部のように膨らんだ臀部は歩く度に右へ左へ揺れ動いた。本人はそれを意識して行っているわけでなく至って自然体だった。それなのに男たちの創造量は勝手に盛りあがっていく。
 マキの肢体が醸し出す歪みと復元。単なる肉体の伸縮が神々しく目に映り、タマキは満足そうな表情を浮かべ、ワカスギも目が離せなくなっている。
 マキはホギが不在のまま、カウンターの中に勝手に入って行くとフリーザーを開け、缶ビールと赤ワインのボトルを取り出した。
「アナタももっと飲む?」。小首をかしげて問いかけるマキに、ワカスギは無言で首を横に振った。

「あら、お金なら心配いらないわよ」。と、当然のように言う。
 カウンターで頬杖を付き、前かがみの体勢でワカスギに選択を迫ってくる。大きく割れた胸元に極細のプラチナが光り、丸みを帯びた胸部に張りついていた。
 ワカスギは生唾を飲み込むのをガマンして、先程ホギが入った戸へ目をやった。
「大丈夫よ。もう戻って来ないから」。どうやらそこはトイレではなく自部屋だった。
「でも、ぼく宿代払ってませんよ。前金だって、、」
「だから大丈夫だって、、 」。マキはワカスギのテーブルまでくると、ワインボトルを支えに体重をあずけた。
 反動で胸が眼の前で揺れた。さっきから気になっていたが、やはりノーブラのようだ。
「 、、わたしもこのホテルの関係者だから」今度はタマキがブーッと息を吐いた。ビールが空で良かった。
「オイオイ、なんだよ、そういうことかい。とんだ食わせモンかな? さんざんメシとか奢らされて、ホテルに誘って、やけにショボいホテルだと思ったら。 、、そう言うことかい」
 タマキはこれまでと同じ調子で静かに文句を並べた。その言動から怒りの深度は見えてこない。それだけに不気味さがある。そしてロビーの雰囲気が悪化しているのは間違いない。
 ホギが事前に察知して身を隠したのはこのためで、マキが連れて来た客と揉めることも織り込み済みなのかもしれない。
 このようなことをハニートラップと言っていいのか。タクシーの運転手といい、こういった客引きをしてまで宿泊を埋めさせる理由があるのか。ワカスギはそちらに興味を惹かれていった。
「安く見ないでくれる? すぐにそういうコトと直結させるって、思考が偏ってるって自白してるようなものよ」
 そう言ってマキはビールをタマキに放り投げた。綺麗な放物線を描いて、それはタマキの手に落ちた。
 受け取ったタマキは憮然としてプルトップを開ける。プシュいう破裂音とともに泡が溢れてくる。それはそうだろう。ワカスギは予想通りの展開に呆れて目を瞬かせる。すかさず口をつけるが口に両端から多くの泡が滴っていく。
「ガマンできないからそうなるんでしょ。半分は出ちゃったんじゃない?」
 タマキは、しかめっ面で、手を振って泡を飛ばしている。
 マキは、ふたりのあいだのテーブルの椅子腰をおろし、タマキのいるテーブルから、グラスとアソートを引き寄せた。大きなグラスの底辺に少量のワインを注ぎ、指先で底を押さえてデキャンタする。
「キビシイねえ、最後の一線ありきで御婦人との時間を消費するか、その時々を有益なものとして過ごすかってことだよね。でもさあ、それがなくなったら人類は滅びるね」
 ワカスギは、それで決心がついた。自分が今日ここに来た理由がわかった。全部決まっていたことだと納得する。
「あの、ぼく思うんですけど、、 」。ワカスギがそう言いはじめた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ホテルマリアージュ 1)

2024-09-22 18:47:49 | 連続小説

 扉が床と擦れる音とともに開いた。
 勘に障るほどでもなく、とはいえ気づかないわけでもなく、適度な擦れ音が客の来店を知らせている。
 入っていいのか戸惑いながら、恐る恐る半身を入れた状態で、若い男がホテルの内部を伺っている。
 カウンターの前のアンティークチェアに深く座り、新聞を読んでいるのが店主のホギだ。新聞の端から中に入ってきた若者に視線を向ける。そしてまた新聞に目を落とす。かと言って文字を読んではいない。
 造形物のようにそうしているだけで「いらっしゃいませ」という常套句を口にしないのも、新しい客が入店をためらっている要因なのだろう。
 その客が前かがみになって、気分が悪そうに足もともおぼつかないでいるのは、単に酒に酔っているだけでもない。ホギはそんな客を何人も見てきており、取り立ててめずらしいくもない様子で察しをつける。
 入店した男、ワカスギはカウンターの奥に目をやる。ボードに掛けられた鍵がひとつしか残ってないのは、四室しかない部屋のひとつに空きがあることを意味している。
 空きがあり安堵しながらも、同時にここで満室だった場合どうするつもりだったのか。送迎してきたタクシーのドライバーの言葉を信用して、言われるがままついてきたまではよかったが、ひとりホテルに入ったとたんに心細くなっていた。
 ラジオか、有線から静かな音楽が流れていた。クラシックハリウッドの映画音楽に聴こえる。そこは現世離れしていた世界観があった。そしてそれはワカスギ好みにあっていた。
 その音楽はこの宿の雰囲気にマッチしており、薄っすらと靄に包まれたロビーも、西部開拓時代の安宿を映画のスクリーンから切り取った面持ちで、それが実際にそうなのか、自分の眼が霞んでいるのか定かではない。
 映画のロケ地に使われても、おかしくないほどの存在感と、重厚な雰囲気がそこにあった。自分が映像関係の仕事をしていたら必ずリストに上げるはずだ。
 人気映画のシーンで使われて人気のスポットにでもなれば、誰もが同じ体験を味わいたいと、あっというまに予約の取れないホテルになるだろう。
 だったらまず、あの会社のプロモーターに連絡して、ワカスギは仕事の取引先関係の伝手を追っていこうとしてイヤイヤと首を振る。そういうことは今夜の一夜を無事に乗り越えてから考えればいいことだ。
 ここに来た理由はただひとつ。終電に乗り遅れて、流しのタクシーに引っかかり、遠方の住家に帰るタクシー代より安く泊まれるからと紹介されたからだ。
 確かに家まで帰れば1万5千円は下らないだろう。それが初乗り料金と、ホテル代の5千円で済めば社会人2年目で薄給の身には随分と助かる。街のビジネスホテルより格安だ。
 素泊まりで食事は出なくても、朝食は出てからどこかで食べれば良いし、そのほうが時間を気にすることなく、好きなモノを食べれて好都合だ。
 今夜は楽しくもない接待に同行し、好きでもない料理を食べて、先方の都合でこんな時間まで飲み歩くことになり、上司にも放っぽりだされ、どうやって帰ろうか途方に暮れていたところだった。
 年代物の外国車がスーッと寄ってきて、何かと思えば5千円のホテルを紹介すると、控えめに下げたサイドウィンドウから声をかけられた。
 いかにもといった胡散臭さがあった。クルマを見ても正規のタクシーでないのは明らかだ。それなのに自動ドアでもない後部ドアを、自分で開いて乗り込んでいた。
 ドライバーが密かに漏らす笑みに吸い込まれていくように、、
 受付のカウンターと、待合室兼ロビーが手狭な空間に配置されている。ロビーにはカップルが一組いた。ふたりは小さなテーブル席に座り、黙して酒を飲んでいた。
 男はエールビールを、女はボトルの赤ワインを飲んでいる。自分でボトルを手にしグラスを満たす。男のわきには数本のカラになった空き缶がころがっていた。
 友好的な関係には見えない。なにかを探り合っている間柄なのか、それとも関係を清算する段階に来ているのか。
 彼らがどの部屋を埋めている客なのか、成り行き次第では1部屋に収まるかもしれないし、2部屋に分かれているのかもしれない。もしくは1部屋から2部屋の空きができことも考えられる。
 入店してきた客のワカスギは、仕事の癖もあり様々な邪推してしまう。ついついまわりの人間を観察し、推測の範囲を広げはじめてしまう。
 好ましいことでなく、自分でもイヤな性分だとわかっていても、ついつい思考が先立っていく。それが仕事に活かされるので身にはなっている。
 それになにか不思議なもので、今は気分が悪いにもかかわらず、なぜかいつもより感度が高く、膨大な情報量が流入してくる。だからタクシーにも乗ってしまった経緯もあった。
 そういったことは年に何度かあった。どういうタイミングでなるのか自分でもわかっていない。それがコントロールできればいいのにと何度も悔やんでいた。
 ワカスギは店の雰囲気に気圧されながらもおずおずと店内へ、そして店主の元へ進んで行き、カウンターに手を付いた。そうしないとカラダを起こしていられなかった。できれば腰を下ろしたかった。
 適当なスツールがあるはずもない。ホギは静かに顔を上げた。
 テーブルの女はチラリとそちらに目をやり、少し微笑んでワイングラスを口にした。濃い色の口紅が飲み口に付き、それを親指でスッと拭き取る。手慣れた動作だった。
 相席の男はそれを体の良いツマミとして、助平な顔で見てビールをひと飲みした。それでふたりの今の現状が見て取れた。そして画的にいいアングルだ。
 関心はあるもののふたりにばかり集中しているわけにはいかない。ワカスギは一向に接客しようとしないホギに向かって話しかける。
「あのー、タクシーの運転手に勧められて、、 アカダさんと言う、、 」
 言葉半ばでホギは立ち上がり、カウンターにまわりワカスギに対面する。
「コレを渡せって、、 」そう言ってワカスギは運転手から貰った名刺をホギに差し出した。
 これを出せばなにか割引が利くとか、サービスがあるとか、何かを期待していた。それであるのにホギは、それをひったくるように手にして、すぐに握りつぶして捨ててしまった。ワカスギはガッカリする表情を読み取られないように堪えた。
 ホギは何もなかったかのように宿泊帳を指先で押し出した。ワカスギはカウンターの上に荷物と外套を置き、従順に宿泊帳にペンを走らせはじめた。もうここに泊まるしかないのだ。
 最初に入った時の不安な気持ちは消えていた。ワカスギが書いているあいだにホギはカウンターから出て、裏扉を開き外に行ってしまった。ワカスギが入ってきた扉は裏口だった。
 ホテルの裏口はモールの通りと反対側にある。10時になればモールの通りは閉鎖されるので、それ以降の人の行き来はモールの外に面しているこの裏口からになる。そんな店があと数件はあった。 
 横付けしているタクシーのドアをノックする。サイドウィンドウが控えめに5センチほど下がり、手が伸びてきた。
 ホギはポケットから取り出したクシャクシャになった千円札を2枚その手に渡す。
「5千円の客の2千円取られたら赤字だ」毎回同じセリフを言うホギに、アカダも同じ言葉を返す「ゼロより3千円のほうがいいだろ」そう言うとすぐに手を引っ込めウィンドウを上げる。
 インセンティブをいただけば長居は無用とばかりに、60年式のローバー製のタクシーは、子気味良いシフトチェンジを繰り返し、その場を後にした。
 静かになった通りで、ホギの耳にアメリカンロックを奏でるピアノの音が、かすかに遠く聴こえた。
 無事一泊すればタクシードライバーに謝礼が入ることになっている。この雰囲気に圧されて尻込みして帰ってしまう客も中にはいた。
 アカダに謝礼を払うのは気に入らなくとも、こうして定期的に客を運んでくれており、助かっているのも事実だった。
 今日はこれで満室となり、ホギひとりで経営している手前、深夜の対応はしないので営業終了になる。表玄関はすでにクローズの看板がかかっていた。
 ろくに掃除もしない部屋に素泊まりさせて3千円ならほぼ丸儲けだった。先ほどのテーブルの男女は別々の客で、ひと部屋づつの支払いだった。もっとも女の方はわけありで満額の支払いではない。
 ただ、これからの流れによっては、使う部屋はひとつになる可能性もある。そしてそれはこれまでの経験上、高い確率でそうなる。部屋のかたずけがひとつで済んで2部屋分の上がりが入いればホギも都合がいい。
 扉を閉じてカウンターの定位置に戻る。ワカスギは宿泊帳とホギを交互に見て落ち着かない様子がありありだ。初めて来た客は常にこんな感じだった。
 かといってそんな客がリピーターになるわけでなく、どこからか漂ってきた宿無しが一夜の泊り先を求めてやって来るぐらいだ。
 サービス精神もなく、儲けにも関心がないホギがこのホテルをいまも続ける理由は別にあった。開店当初のことをがアタマによぎる。
 それは懐かしさもあり、時の流れの儚さもあり、現状の虚しさも同時に去来して、鼻の奥にツンとした油の染み込んだ木の匂いが蘇り、何とも言えない気分になる。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(コンビニにて 3)

2024-09-15 20:18:34 | 連続小説

 会計を終えた老婆は、そちらに目を配ることもなく、ようやく精算できた荷物を持って出口に向かいだした。エコバック2袋分だ。店員はたどたどしいニホン語で「ありあとごらいまひたあ」と言って見送る。
 あれだけ迷惑をかけておいて、老婆は店員にも、フードの女性にも、お礼の言葉ひとつ述べず老婆は去っていった。それが当然のことだという認識なのか、別に迷惑をかけている認識がないのか。
 当のふたりも、そんなことは気にしていないようで、フードの女性と店員は顔見知りといった然で、何やら一言、二言会話をすると、店員は肩を上げて、おどけた風で困った顔をして見せた。
 彼女達の様子を見ていると、よくある日常のひとコマであるように見え、対照的にその後ろに座り込んでいる男は、レジ前のフロアで大きなカタマリと化している。茫然として目がうつろのままで違和感しかない。
 誰も座り込んでいる男には、声をかけようとしないし、かけられない。すると何人かが手にしていた端末で、その男を撮影しようとした。すかさず振り向いた女性は、フードの奥から冷徹な眼を光らせる。
 何かを言ったわけでもないのに、誰もがかざしていた端末を下ろして、その目を見ないようにした。彼女の先程の行動、物言わせぬ眼光に、誰もが圧倒されていた。
 会計を終えた彼女は膝を折って、へたり込んでいる男の耳元に口元を近づける。何か言葉をかけているのだろうがまわりには聞こえない。
 何事か言い終えた彼女は立ち上がって店から出ていった。ドアの開閉時に流れるメロディがこれほど不似合いに聴こえるのもめずらしい。そんな殺伐とした店内が残されていた。
 なんだか出来すぎた一幕であり、テレビカメラがどこからか出てきて、番組の企画であることをネタバラしするのではないかと言う声も聞こえた。そんな笑いでこの場を取り成しすことを望んでいるのだ。
 男はユラユラと、魂が抜けたようにユラユラと立ち上がり、何も買わずに店を出て行った。その手には何も持っておらず、レジ横商品か、タバコでも買うつもりだったのか。
 後ろ姿の男は、グレーのスウェットの股間にシミが見えた。それで座り込んでいた床に目を移すと、薄っすらと水が滲んでいた。それは水ではなく失禁の痕だった。
 彼女のシャドウで肝を冷やし、そんな事態になっていれば、恥ずかしくて反撃するどころか立ち上がりもできない。さっきの耳打ちはそれを言い含められたのだろう。これでは捨て台詞も吐けず、そそくさと退散するしかない。二度とこのコンビニでお目にかかることはないはずだ。
 レジの店員が商品を補充していた店員に共通言語で声をかけた。コミュニケーションが取れるなら、どうして混雑しているときに声をかけなかったのかと誰もが思ったはずだ。
 呼ばれた店員は、言葉ではなく、何故そうするのか理由がわからないらしく、何度も訊きなおしている。バーコードリーダーで商品をスキャンしながら、時折その店員の方に目をやって急がせているレジの店員の声が段々と荒っぽく、大きくなっていく。彼は彼女をなだめるような口ぶりで、指示にしたがう返事をしたようだ。
 一旦、バックヤードに入った店員はモップを手に戻ってきた。レジの店員は、腰に手を当てて、男の店員にひととおり言葉を浴びせたあと濡れた床を指さした。
 男の店員は大げさに両手をうえに上げ、なにやら言い返している。どうしてこんなところが突然濡れているのかを問いただしているのだ。自分がそうでも訊いただろう。ただその答えは聞かないほうがいいとユウヘイは気の毒がった。
 男の店員は、今頃になって店内の異変を察したようで、レジの店員とやり取りをかわす。なんてことだとばかりに片手を上げるが顔は笑っていた。レジの店員もこの時ばかりは薄ら笑いをした。なにか気の利いたことでも言ったのだろう。
 彼らの共通言語が理解できず列に並ぶしかできない人々は、なにがおかしかったのか全くわからない。おかしなもので人数はコチラの方が多く、この国の原住人であるのに、なにか疎外感がありバカにされているような気持になる。
 言語が通じないのは、なにか暗号でやり取りしているのと同じで、解読できない文章は人々に不安をあたえるし、それが元で諍いが起きる。
 同じ言語でも意味が通じ合わなかったり、通じても対応しなければ同じことで、先ほどの老婆とのトラブルを見ていれば争いの火種はどこにでもある。
 レジの店員は再び無表情になり、レジ打ちを続けながらアゴ先で隣のレジを差す。カウンターを開いて男もレジ打ちに参加した。
 その後の店内は、先程の騒ぎなどなかったかのように、いつもの風景に戻っていった。列は順調に流れていく。先程の騒ぎを知らない新しい客も入ってきた。彼らには日常の光景でしかない。
 新鮮な空気が入って来なかったから、列が滞っていたのではないかとさえ思える。それほど先程までの店内は息が詰るほどの圧迫感の中にいた。彼女がそれらをすべて解き放っていった。流れが止まって血が濁っていた動脈が、再び滞りなく流れ出したのだ。
 それと同期するようにユウヘイは、じわりじわりと血が沸き立っているのを抑えられなかった。楽しみにしていたボクシング中継が、自分でも不思議なくらい、どうにでもよくなっていた。
 目の前でおこなわれたノーヒット・ノックアウト劇は、それほど印象的で圧巻だった。当たってもいないことがそれをさらに増幅させていた。では当たったらどうなるのか。その想像を掻き立てられた。そして、それ以上の興奮をテレビから得られるとは思えなかった。
 今にして思えば列に留まっていてよかったと、自分の判断を珍しく評価した。プロテインバーの男に見習って、離脱していれば、あの場に立ち会えなかったのだ。
 あのまま家に帰っていれば、ビールを飲めなかったことを悔やみながらも、テレビ中継で疑似体験から得られる脳内分泌物に興奮感情を操作されて、気分の高揚の中にあったはずだ。
 それとともに楽しみが終わってしまったことへの虚しさも同居する。それは過去の悦楽体験の追随であり、経験のうえで得た精神浄化を呼び覚ますための儀式でしかなかった。過去の事例の繰り返しの域を超えることはない。
 彼女が何者なのか知りたかった。店員とも顔見知りのようだった。この近くに住んでいる常連の客であるはずだ。ユウヘイも仕事帰りによくこのコンビニを利用していても、これまでは時間帯が合わなかったのだろう。
 どこかのボクシングジムに所属しているのか、それともボクサー崩れか、単なる喧嘩で鳴らしてきたツワモノか。
 ユウヘイは、自分の目利きを確かめたかった。女子のボクシングはこれまでは観たこともなく、所詮パワーもスピードも男は比較にならないと見ていた。
 それなのに、間近で見た名も知れぬ彼女の得も知れぬ能力はどうだ。こうして自分の心を鷲掴みにしている。男より強いとか、男に比べてどうだという比較論ではなく、ユウヘイの中では、彼女という存在自体が重要になっていた。
 ユウヘイもようやくビールを買うことができ、会計を済まし店を出た。店を出てみたら少し気持ちが落ち着いてきた。熱狂の渦の中で少し気持ちが昂ぶり過ぎていたようだ。
 冷静に考えればおかしな事ばかりだった。別世界にでも引き込まれていたような錯覚に陥りそうだ。
 最初は誰もがお年寄りに迷惑してれいた。レジ打ちにも、もうひとりの店員にも不満があった。店のオペレーションにも問題がある。
 どうしても嫌なら列に並ばず買わないという選択もできる。多くの損得勘定の中で、自分の選択肢を正当化するために、誰かの不備を詰ったり、とにかく人のせいにしていた。
 そこで人々の不満を代表するかのように立ち上がった者が、そのやり方のマズさもあり、周囲の同意を得られずにスケープゴートとされた。
 あのとき列の誰もが事態が収束するとは思うどころか、余計に拗れると悲観した。男が手を出したためにそれが決定的になるはずだった。
 それが一瞬にして事態は解決してしまった。やり方はどうであれ、彼女の一撃ですべては無しになっていた。それが皆が畏敬を持って彼女を見送った要因なのだ。
 決して正しい行いではなかったはずなのに。混迷化しようとしていた事態を収めただけで、その価値は高められ、暴力は無しになった。
 その激情に飲み込まれたのはユウヘイも同じだった。物事の真偽は正論ではかたれない。悪貨は良貨を駆逐することもあれば、異物が悪巣を浄化することもあるらしい。行いの良し悪しを超えた異景を目にしたとき、人はこうも従順になってしまうのか。
 何時だってそんな机上の理論をぶち壊して行くのは、凡人が妄想してひとり悦に浸ることを、実際にやってのける常人離れした行動だけなのだ。
 夜風にも当たり、さらに気持ちが整理されていくと、ひとつの疑念が深まっていく。当たってないとしても、あの状況は彼女に取って不利なのではないかという心配だ。
 画像の撮影は止めさせたが、削除したかはわからない。コンビニなので防犯カメラの画像もある。誰かが面白がって投稿し、拡散されて話題になったりすれば、防犯カメラを確認することに発展して、あの男の出方次第で過剰防衛として訴えられることも否めない。
 そこで彼女がプロのボクサーであれば深刻な状態になる。そうでなくても今の時代は、たったひとつの汚点で、それがいくら過去のことであっても、責任は、いま取らなければならず、それが元で表舞台から降ろされることもある。
 なぜかしら負のイメージが進んで行く。自分が見つけた原石が、こんなことで消し去られるのではないかという、期待値の損失を怖れている。まだ何者でもない彼女にここまで肩入れしてしまうことに苦笑いして肩の力を抜いた。
 専門性の高い人間が、自説を説いていくうちに、暴走してしまい着地点から離れてしまうこともある。彼女が巻き起こしていった劇場に飲み込まれているのだ。
 そうしてユウヘイは、ビールを家まで持ち帰ることはせず、プルトップを開け、ビールを煽るとブラリとモールの通りを進んで行った。
 一台の古い外国車がユウヘイの横を駆け抜けていった。普段なら舌打ちをするか、悪態をついていたところだ。ユウヘイは何か自分の存在意義を見つけた気になり、いつしか足取りも軽くなっていった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(コンビニにて 2)

2024-09-08 18:05:17 | 連続小説

 3番目に並んでいた男が遂にこらえきれず声を荒らげた。蓄積された時間が長いだけに、その爆発力も比例している。それはユウヘイが言いたかったことを代弁していた。と同時に口に出さなくて良かったと安堵した。もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない。
 これはどう見ても悪目立ちしただけだ。あーあ、やっちゃたよと言うような、周りも賛同の声を上げるわけでなく、むしろ冷ややかな目で見ている。男は短絡的行動をとる、不寛容な人間に振り分けられた。
 ひとつ前のフードの女性がピクリと肩を動かし、男の声に慄き不安を感じたようで、読んでいた本を閉じ手に持ち替えて、何が起きたらすかさずその場を離れるつもりなのだとユウヘイは推察した。
 これまでヒソヒソと異口同音を唱えていた者たちもピタリと口を閉ざした。あれだけ好戦的な口を叩いていた後ろの高校生達も、あいつ最低だなと、自分達が口にしていたことを棚に上げて手のひら返しだ。
 周りの雰囲気に勝ち馬を得たと、行動に出た途端にハシゴを降ろされる。ユウヘイも、そんな時勢の波に乗りそこねる英雄気取りをこれまでも何度も目にしていた。
 列に沈黙が流れる。別の意味で並んでいるのが辛くなっていた。聞こえないふりや、気づかない振りにも限度がある。男がまわりに目をやり、賛同はないのかと強要してくる。
 そんな状況あってもお年寄りと店員の態度は変わらず、お金を数え続けている。店員と普通に会話しているので、耳が遠いというわけではないだろう。自分のことだと思っていないのか、だとすれば認知機能の劣化を疑がいたくなる。
 これで収まらないのは声をあげた男だ。誰にも同調してもらえず、お年寄りやレジに無視されて面白いワケがない「何だ、オマエら。そう思わねえのかよ」さらに憤る。
 他の人たちは見てはいけないものを避けるように、目を反らしたり、下を向いたりする。同じ不満を持った者たちの代表者として声を上げたはずなのに、これでは唯一無援の反乱者になってしまっている。
 ユウヘイは嫌な予感しかしなかった。やり場がなくなった怒りの矛先がどこに向けられるのか。どうしたってあの老人に危害がおよぶだろう。
 イメージしてみた。自分が列を離れて、あのオトコの元に歩み寄り、”よせよ、もうすぐ終わりそうじゃあないか、そんな言い方したら、焦って余計に時間がかかるだけだ”とたしなめる。
 男は怒りに任せてユウヘイを突き飛ばそうとする。ユウヘイは、伸びた手を払いのけると、左足を軸にして鋭い右フックをアゴ先に。ただしヒットする紙一重のところで寸止する。自分のお気に入りのボクサーの得意技だ。そうして男はその衝撃だけでヘナヘナと崩れ落ちてく。
 首を振って苦笑いする。できるわけがない。単なる格闘技好きが観ているだけで自分でもできるような錯覚を覚えてしまうのはありがちだ。小さなころからケンカひとつしたこともないユウヘイが、そんな行動に出ればいろんな意味で大怪我をするだけだ。
 お年寄りは財布の隅にある小銭が取り出せないようで、震える指先でほじくり出そうと必死で周りに気が行っていないのか、それともそもそも気にしていないのか。後者であれば相当な胆力だ。
 レジの店員にしても同様で、なににしろ男の怒号で竦み上がっている様子はない。その時点でユウヘイの妄想は的はずれだ。
 これはある意味最強のふたりだ。そう思うと、一体誰のせいで自分たちがこんな目に合っているのかと、迷惑を被り続けているこちらの身にもなって欲しい。
 男はついに行動に出た。高い身長を利用して、前に並ぶ女性の肩越しから手を延ばす。老婆を無理やりにでもこちらを向かせようした。
 ユウヘイはどうなってしまうのかと息を呑んだ。行列に巻き込まれて観たかった番組を見逃したぐらいなら、ありきたりのエピソードだ。それが傷害事件になれば穏やかではない。
 警察沙汰になり事情聴取に協力することになれば、8時のテレビに間に合わないどころではない。
 しかし、その男の右手は老婆には届かなかった。
 ひとつ前にいたフードの女性は、肩越しから伸びる男の腕を本を持った手で払いのけると同時に、右脚を軸に左回転する勢いのままに、男のアゴに左の拳が伸びた。
 稲妻のような一撃。ユウヘイは目を見張った。自分がこんなふうにできたらと思い描いた夢のような打撃を、彼女は現実にやってのけた。
 それでとどまらなかった。彼女のカミソリのように鋭く、切れ味抜群のフックは、男のアゴに当たったか、当たらなかったかぐらいのところで寸止めされていた。強い打撃はなかった。せいぜい触れたと言ったところか。
 男が反撃を想定していなかったことを差し引いても、見事なスッテプと切込みからの攻撃と言って良かった。ここはコンビニの店内で防犯カメラもあるだろう。だからこそ彼女もヒットさせなかったはずだ。ユウヘイがそうイメージしたのもそのためだった。その点が一致したことで何か満足感がある。
 背丈の差がありフック気味のパンチは、アッパーになっていたのかもしれない。それもカウンター気味に入っていたので、試合だったらKO間違いなしの決定的な一発だ。ユウヘイが観てきたこれまでの経験がそう言わせた。
 そしてその男は、その大きな体躯を折り曲げて、ヘナヘナと崩れ落ちていく。一体何が起きたのか。ユウヘイもそうだが、列に並んでいた客も呆気にとられる。実は当たっていたのかという疑念さえ起こる。
 何の音もしなかったことが、その疑念を否定していた。あれだけの大男が崩れ倒れたパンチが、無音のはずである理由がない。それが唯一当たっていないと断言できる理由だった。
 そこまで完璧に再現されればユウヘイは薄気味悪ささえ感じる。自分の脳内が誰かに読み取られているのか。スキャンされて電子的に映像化でもされているのかと、あわててアタマを抱えるようにして隠した。
 あの素早い動きと、ヒットさせなくとも男を腰砕けにさせた、死を想起させるほどの内なるパワー。ボクシング中継を楽しみにしての帰宅途中に、思わぬ足止めを強いられた中で、ユウヘイはとんでもないものを目撃してしまったと、イメージとの偶然も含めて興奮状態になっていた。
 自分ができもしないことと妄想した、最高のシチュエーションを現実のものとしてやってのけた。まさにマンガやアニメが実写になり、そこになんの演出も加わらない、大男の撃沈を生で目の当たりにした。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(コンビニにて 1)

2024-09-01 18:07:46 | 連続小説

――あの店員、遅いよな、、
――もっとパッパっとできんのか、、
――あのバアさん買いすぎだって、、
――こんなに並んじゃって、マジ腹立つ、、
 そんな怒りの声が、列のあちらこちらから聞こえてるくる。列の中程に並ぶユウヘイも、気が長い質ではない。そんな声がなければ、自分も憤っていただろう。外野の声がかろうじてユウヘイの冷静さを保たせていた。
 缶ビールをひとつ買いたかっただけだ。ものの数秒で支払いを終えて、家に帰るつもりだった。
 8時から観たいボクシング中継があり、普段通りに帰れば間に合う時間だった。コンビニでビールを買う時間を含んでも余裕はあった。そうであるのに、こんな足止めをくらうとは思ってもみなかった。
 ユウヘイがボクシングに興味を持ったのは、子どものときに見たいくつかの格闘アニメの影響だった。自分もあんなふうになりたかった。でもなれなかった。自分は観る側の人間であると知った。
 次第に生身の闘いを観るようになり、テレビで放送されるようなビッグマッチは必ず観たし、気になる試合でチケットが取れれば生で試合を観に行くこともあった。
 周りにはそんな共通の価値観を持つものはおらず、メディアを賑わすほどのビッグマッチでなければ、誰かとそれについて話しをすることはなかった。今日はそのビッグマッチと言っていい試合だった。それであるのに、、
 年配の女性は食料品を大量に買い込んでおり、さらに外国人のレジに何やら質問をしている。どうやらレジ横のコロッケが欲しいようだが上手く伝わっていない。
 レジの女性は嫌な顔ひとつせず、あたかもそれが当然のこととして、唐揚げか、春巻きか、順番に確認してお年寄りに寄り添っている。そしてこの列をなす状態であっても、動じることなく落ち着いた対応を続けている。
 余程の強靭なメンタルの持ち主か、状況を把握できないほどアタマが回らないのか、どちらにせよユウヘイにとって好ましくはない。
 当の本人の後ろに並ぶフードを被った女性は、買う予定らしき冊子を開いて集中している。買うつもりでも買う前の本を読むのは、立ち読みになるのだろうかと、余計な心配をしている場合でなく、助け舟を出す様子もない姿に腹立たしさを覚えてしまう。
 端で見ていれば子どもでもわかるようなジェスチャーで、やり取りを繰り返しているのに、一向に埒があかない。ユウヘイがレジまで行って教えてやりたいぐらいだが、列を外れて行くのには勇気がいる。
 戻ってきて同じ場所に戻れる保証もない。いやそんなことより周り目がある中で、うまく事態を収める自信が全くない。こういう時にしゃしゃり出て、これまでうまくできたためしがない。それがユウヘイを萎縮させていき、ストレスを増大していく。
 誰もが誰かが何かを言い出すのを期待して、匿名で悪舌をつくことはできても自分からは行動するつもりはなく、見て見ぬふりをしているようで、自分もそのひとりであることに落ち着いている。
 もうひとりの店員も外国人で、奥で商品の補充をしている。この状況をわかって補充を続けているのか、気付かないフリをしているのか、それとも補充をすることが最優先事項なのか。黙々と続けている。
 それを見てユウヘイは、彼にとってレジが滞って客が並ぼうが、それによって店の評判が悪くなろうが、それで客数が減ろうがどうでもいいようにみえた。彼が真面目に働く姿も歪んで見えるほどユウヘイは苛立たしさが募っていた。
 このコンビニはモールへ続く通りの角地にあり、モールの東側の玄関のような存在だ。10時には通りへの進入路が閉鎖されてしまう。建物自体はモールの中にあるが出入り口は、外の大通りに面しているので営業には支障はない。
 モールの組合には入っていても、さすがに10時に閉店ではコンビニとしてやっていけない。そんな例外は他にも何軒かある。いずれも立地条件がうまい具合にかなっている場所だった。そうでない店は受け入れるか、店仕舞いするしかなかった。
 一つ前の会社帰り風の女性が、聞えよがしに言った「あの人、レジやればいいのに、、 」。
 聞こえても彼らには通じないと、わかったうえで言っているようだった。いわば確信犯で、自分は意見を言えるという周りへのアピールをしている。
 街のコンビニで高いサービスを求めることがそもそも間違いで、この程度で甘んじる代わりに、価格が抑えられていたり、人手が確保されることを望んだ結果だ。あえて言葉が通じにくいか、通じないと思わせる異国人を雇うメリットはそこにあるのかもしれない。
 どうやら賛同する者の声が同調を呼ぶことを期待している節もある。何にしろ自分からは動くつもりがない。誰も自分が当事者にはなりたくない。正論を主張することも、匿名の範囲で留めて置きたい。矢面に立って責任は取りたくない。いわゆる選挙の時に誰がなっても一緒だからと、選挙に行かない理由を声高々に言う人たちと同類だ。
 さらにユウヘイの後ろに並ぶ高校生らしき二人連れの会話が耳障りでしかない。
「オレ、ちょっと、文句言ってこようか?」。そうするともう一方は「ガイジン働からかねえな」と、ななめに返答する。
 普段から、そんなお互いの役割が決まっているようで、一方はやりもしないことを口に出して虚勢を張り、一方はその言葉を直接的にではなく肯定する。それがエンドレスに続いていく。
「なあ、おれ言ったろか?」「うん、アイツ、なんでレジしないか、ワケわからん」「あのバアさん蹴ったろか」「ボケ老人、多いよな」そんな、聞いていて噛み合わない、彼らには噛み合った会話が続いている。
 ユウヘイは自分の心がささくれ立っているのがわかる。すべての状況に対して否定的な感情しかわかない。違う状況で聞けば、すべてたわいもない会話なはずだ。
 後ろの若者達の会話に嫌気がさしつつも、ユウヘイも次第に焦ってきた。理解していても落ち着かない。それが自分の弱さであり、そうして自分の性格が一層イヤになっていく。
 ライブ放映されるのボクシング中継は8時からのスタートだ。この日のために有料のコンテンツに入会して、満を持して臨んでいた。選手入場やらなんだかで、15分は余裕を見ても残された時間は多くない。
 試合前の両者の状態や駆け引きも重要な観戦ポイントだ。そこから得られる情報も多く、ビール片手に気持ちを昂ぶらせていく予定だった。
 老婆がようやく買い物を終えたと思ったら、財布の中からクーポン券をいくつか取り出して使えるモノがあるか訊きはじめた。店員も良くわかないようで、一枚一枚手にとっては確認している。まだ時間がかかることが確定した。
 ビールの冷たさが指先からジンジンと伝わってくる。手で握っているとカラダが冷え込んで、それに伴ってビールの冷たさが緩んでいくのでこうして持っていた。
 こんなことなら昨日のうちに買っておけばよかったっと悔やまれる。そうであればこんなところでムダに時間を浪費せず、行列にイライラすることもなかった。
 失敗したときに限って過去の同じような体験を思い出す。運が良かった時もあったのに、自分は判断力の乏しい駄目な人間だと、そんな後悔したことばかりがアタマに浮かんでいく。
 そのあいだにも店のトビラが空いて新しいお客も来るが、この列を見て引き返していく。余程の急用がなければここで買わなければならない理由はない。自分が入ってきた時にこの状態であれば入らなかった。その時に戻りたい。
 自分はココに並んで時間を使ってしまった為に、その損失を取り返さねばならないし、その時間が有益なものであったと認知できる理由が必要だ。今この列を離れれば、その時間が不易だったと認めることになる。
 トータルで考えればそうしたほうが正しいかもしれないのに、自分が離れてからスムーズに列が動きはじめたらと考えると決断できなかった。もうすぐ事態が改善されると信じている。まんまと負のループに取り込まれてしまっている。
 ふたつ前に並んでいた男がしびれを切らしたようにチッと舌打ちをして、手に持っていた2本のプロテインバーを近くの棚に突っ込んで離脱していった。
 スイーツが並べられた商品棚に置かれたそれは、場違いであり握られた跡が残っている。あれではもう売り物にならずに廃棄処分されるだろう。監視カメラに映っていたら、賠償請求されるのだろうかと、ユウヘイは缶ビールを左手に持ち代える。
 あのプロテインバーと違って、散々手にしたこの缶ビールをもとに戻しても、次に買う人が気づくことはないだろう。それは同様に自分が手にしている缶ビールの履歴も不明といえる。すべては性善説のうえでなりたっている。なにも不具合が起きなければそれで世の中は回っていくだけだ。
 もしかしたら生活に困っている住まいを持たないような人が手にしたものの、お金が足りなくて仕方なく買うのを諦めたかもしれない。トイレで用を足したあと手も洗わないような人が、どのビールがいいか何本か手にとって見比べて、落選したモノかもしれない。
 もっと言えば、、 とあり得ない想像に走り出し、顔を歪ませるユウヘイはもう一度指先でつかむようにして、接触面を最小にしていた。こんなことをして何の意味があるのかと自分を笑う。
 握り潰されて廃棄処分されれば次の人に渡ることはなく、そう思えばプロテインバーの男は正解なのかと変な納得の仕方をしてしまう。
 ユウヘイはビールをそこらにおいて離脱した自分をイメージした。ここまでで並んでいた時間を無駄にしたくない思いと、この先無駄に消費される時間が天秤にかけられる。プラス、ビールで一杯やりながらボクシングを観る楽しみも捨てられない。同じことを繰り返している。
 クーポン券やらポイントカードの件が一段落したと思えば、次は支払いで新たな問題が起きたようだ。膨れ上がった財布から、小銭をバラバラと出して数えはじめた。
 また時間がかかることが決定した。ユウヘイの意識が自分の制御から外れた。 
「おい、バアさんいい加減にしろよ。こんなに並んでんのがわかんねえのか!」