private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ボクシングジムで1)

2025-02-23 07:20:07 | 連続小説

 ボクシングジムがそこにあった。
 昔であれば汗くさい熱気のこもった薄暗い室内で、明日のチャンピオンを目指す若者達が、黙々とトレーニングを続けていた場所だった。
 今では明るい室内に、流行りのサウンドが大音量で流れるなかで、女性達がボクシングを原型としたエクササイズを笑顔で楽しんでいた。
 あの殺伐とした雰囲気を知るトウジロウは、隔世の風景が未だに馴染まない。事務室のドアを開けて現場の様子を見る度に、開けるべきドアを間違えたのではないかという、何度も訪れる既視感が未だに拭えない。
 彼女たちは、日ごろのうっ憤を晴らすかのように、奇声をあげながらサンドバッグにパンチを入れ、ダンスを織り交ぜたシャドウボクシングで、気持ち良い汗をかいて明日への活力にしているようだ。
 トウジロウがドアを閉めると直ぐに、すごい勢いでドアが開いた。下がり気味の眼鏡の上から裸眼で目をやる。
「すいません遅くなりました!」と息を切らして膝に手を付きアタマを下げているのは、トウジロウの一人娘のメグだった。
「遅かったな、メグ」トウジロウは席に戻り、少々嫌味を含めて言う。
 そして来週行われるイベントのチラシの刷り上がりを確認をする。確認と言っても何か気になることがあるわけでもなく、おざなりな作業だ。
 大学生のメグは学校が終わったあと、アルバイトとしてここで働いている。大学に行きたかったら自分の金で行け。金を稼ぐならここで働け。それがトウジロウの出した条件だった。
 さすがに以前のジムなら、働くのも二の足を踏んだろうメグも、きれいに改装され、流行りのスポーツジム然とする今ならば文句のつけようもなかった。
「ごめんなさい、どうしてもやらなきゃならない課題があって」と説明する。
「よかったな。ウチのバイトで、、 」トウジロウはそれ以上を訊くつもりもなく、訓戒を込めてそう言った。
 親ということで多少の遅刻は大目に見てもらえると、気持ちのゆるみがあり、ちょくちょく大学の行事を優先しているところもあった。それが行き過ぎてはどちらにも不都合になる。
 返す言葉がないメグは、早速仕事に取りかかる。トウジロウはパソコンなどの機器に疎いため、そういった作業全般をメグが担っており、実質的な運営をしている親会社からの連絡事項などを順序よく処理していく。
「お父さんもさあ、少しはパソコン覚えたほうがいいよ。急ぎの用件があったら困るでしょ?」
 キーを打ちながら遅刻を咎められたことにかけて、自分が居ないと困るだろうと示したい「これなんかさ、早く返事がほしいんじゃないの?」。
 メールのひとつを表示して、画面をトウジロウの方へ向けた。チラシから目を上げて、目を細めて画面を覗き込む。
「ああ、それならちょっと前に電話があった。それで進めてもらうように伝えてある。向こうも心得てるさ、必要なら電話してくる」
「ふーん、じゃあ、回答済で返信しとくね」メグは画面をもとに戻して、パチパチと手早くキーを打ちはじめる。
  トウジロウはメグに、それが終わったらお茶を淹れてくれと頼んだ。こんなことを頼めるのも身内だからで、その点は楽をさせてもらっている。フッと息をつく。
 昔ながらの商店街の一画に、異彩を放つように当時のボクシングジムは存在していた。
 当時は開け放たれた窓からは熱気がほとばしるなか、通行人や買い物客が物珍しさもあって、冷やかしやら、興味本位とかで、鈴なりの人だかりが絶えなかった。
 人目があれば活気づき、練習にも力が入る。練習生の応募もひっきりなしにあった。メグも子供のころ母親に連れられて何度か来たことがある。
 トウジロウはオンナ子どもの来る所じゃないと、ジムの中に招き入れることはなかった。扉先で要件や、頼んだものを受け取るだけだった。
 メグも鋭い眼光の男達が、黙々と鍛練している姿を見て、怖いと思ったことはあっても、楽しいと感じたことはなく、母親がお使いついでに声をかけても行きたがらなくなった。
 商店街が寂れてくると、ジムの練習生も減っていった。シャッター街になった頃には、開店休業状態になっていた。
 ジムを畳もうかと考えていた時に商店街に大手の資本が入り、商店街はショッピングモールに、ボクシングジムは美容と、健康に特化したエクササイズジムに変貌した。
 事前にマーケティング調査を徹底的に行い、女性専用にしたのが功を奏して人気を博しており、かつて女人禁制の場は、今では男性禁制と逆の立場になっていた。
 当時からは考えられないそんな場所にトウジロウがそのまま店長として残ったのは、トレーナーとしての肩書きを必要とされたからだ。
 この道20年の名トレイナーで、誰もが知るチャンピオンを発掘した人物だと、リニューアルされたこのジムのホームページにも掲載されていている。
 その選手が実際にチャンピオンになったのは、大手のジムに移ってからだ。筋を見込んで育て上げて、移籍を申し込まれるまで育てあげたのは間違いない。多分に本人の才能があったからというのは否めない。
 今は本社から練習内容についてアドバイスを求められると、それに回答するぐらいで、それ以外はチラシの確認や、店番兼雑用をしているだけだった。
 ジムにいても生徒に直接声をかけることもなく、本社から派遣されているインストラクターが一切の実務を行っている。入会してしまえば必要とされることはないようだ。
 トウジロウがざっと目を通しただけのトレーニングメニューに、チャンピオンを育てた名トレーナー監修と書かれていた。そういう肩書きだけが必要で、最初は上から、たまにジム内をうろつくだけでいいと言われていた。
 以前、気の強そうな女性に声をかけられて、本格的にやってみたいから、パーソナルトレーナーとして見て欲しいと言われたことがあった。
 何処かでトウジロウのことを耳にして入会してきたらしい。そう言われてから本人に気づかれないように、陰から少し動きを見てみたが、とてもモノになりそうにはなかった。
 格好ばかりでとても身が伴っていなかった。何より貪欲さが少しも見受けられなかった。

 そのことをインストラクターに相談したら、苦笑しながらコチラで対応しておきますと言わた。
 それ以来、あまりジムの中を歩き回らないようにと、本社からのお達しがあった。
 トウジロウにしても、相手を倒し、勝つためのボクシングしか教えてきたことがない。カラダを動かすことを目的とした女性にかける言葉は持ち合わせていなかった。余計な仕事が減って清々した。
「なんか気になるの?チラシ」トウジロウがチラシを見たまま、考え込んでいるようにも見えたメグが声をかけた。手元には淹れたての緑茶が置かれた。
 手刀を切って礼を言い緑茶を啜る。高級な茶葉だった。ジム内で使用する物品はすべて本社から支給されてくる。どれもいい品ばかりだ。
 週に一度、担当者がやってきて内部のチェックをおこない、備品の補充やら、機材のメンテナンスをしていく。清潔感を保っていなければ女性会員の満足度は維持できない。
 これまでのジムなら、ヤカンに入った出涸らしの番茶しか口にしたことがなく、備品はどれもかれもツギハギだらけだった。
 トウジロウにはすべてが贅沢すぎた。それはお茶や備品に限らず、すべての待遇がそうであり、ハングリーさとは無縁の環境が整っている。
 そんな中で、自分を見てくれと言われてもしっくりこない。この環境では真のボクサーなど生まれてこないというのは偏見なのかもしれないが、トウジロウにはどうしても受け入れることができなかった。
 手元のイベントチラシにも、自分の名前と写真がこれ見よがしに載っている。これが今の自分の価値なのだ。実態はなくとも虚空でカネが稼げてしまう。
 自分では思いもつかなかった評価基準を誰かが見い出して、それを商品として売られているのだ。自分のところに金が回ってこない理由がよくわかった。
 買収話しが持ち上がった当初は、トウジロウはジムはもゆ手放して、引退することを考えた。いつまでも過去にすがりついて仕事を続けることを良しとせず、踏ん切りをつけるつもりでいた。
 そんな折に、妻のアヤが事故で急死してしまった。あの時のトウジロウは、とても見ていられないほどに憔悴していた。これから苦労かけた分をつぐなっていくつもりだった。
 その機会をあたえられなかったことに必要以上に責任を背負っていた。家にいても魂の抜け殻のようで、それを心配したメグが会長のユキに相談していた。
 メグも突然母親を亡くしショックを受けていたのに、そんな父親の沈んだ姿を見て、自分が悲しんでいる状況でなくなってしまった。
 何か気を紛らしておかねばトウジロウも落ち着かなかった。ボクシングの他にこれといった特技が他にあるわけでなく、今さら他の仕事をいちから覚えるのも難しい。
 娘のメグと、会長のユキの助言もあり、少しでもボクシングに携わる仕事ととして、スポーツジムの雇われ店長としてこの場に留まることにした。
 メグもバイトをしながらトウジロウの様子伺いもでき、一石二鳥だった。トウジロウもそこは察しており、大学の勉強から、家事の面倒までみているメグに、ある程度の遅刻や早退は大目に見ているところもあった。
 妻の死を紛らわすために続けた仕事であっても、そんな緩やかな働き方をしていてはどうしても物足りなさを感じてしまう。
 少し前まで命を削るように、若者と対峙してきた感覚は直ぐには消えることはなく、生活のためとはいえ、今の働き方に満足できるトウジロウではなかった。
「それでね、、 」メグが学校の話題を色々と話していてもトウジロウには上の空だった「、、 新しい商品価値を提案するために、必修として学んでみたいの」。
 誰もが人を出し抜いてでも、楽な道を進もうとしている。挑戦の先に成長があるとしても、いつまでも気長にそれを待ってはくれない。人が思いつかないことを生み出して、はじめて人より抜きに出られる。
 それもまたトウジロウのこれまでにない価値観と、成功体験の事例だった。自分の思いもしないことが金になる。自分がこれまでにしてきたことは何だったのかと愕然としてしまう。
「ああ、いいんじゃないか、、」トウジロウはそんな言いかたしかできない。
 メグもまたそういった新しい種類の人間になっていくのだ。そういう時代をこれから生きていくためには必要なことなのだ。
 メグはトウジロウに何かを期待して伝えている訳ではない。大学の単位のなんたるかを知るはずもないのはわかっている。自分の将来について少しは気をかけて欲しかっただけだ。
 メグもまたこのジムの変貌に関わって、今後はこういったビジネスが求められていると肌で感じていた。父親には悪いと思いつつも、本社のやりかたなど実践として勉強させてもらえて好都合だった。
 チラシの確認が終わって、手持ち無沙汰になったトウジロウは、生徒の申込書がファイルしてあるバインダーを棚から取り出し、整理をしようとして昨日のことを思い出した。
 メグはメールのチェックを終えて、郵送物の仕分けをはじめているのを見て。トウジロウは一番下の引き出しに突っ込んだ、シワの寄った申込書を取り出した。
 エマとだけ氏名欄に書かれていた。名字なのか、名前なのか判断できない。最終学歴に中卒と殴り書きしてある。生年月日から年齢を計算すると16歳だとわかる。
 トウジロウはあたまを掻いた。――ガキじゃねえか。――


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(市街地からモールまで~事務所の中で5)

2025-02-16 17:44:54 | 連続小説

「気ぃつかわせて、悪かった」マリイは、沈黙のことを、涙のことを詫びているのだろう。
「いや、オレに配慮がなかったから、、」その原因を作ったのは自分であるというのがエイキチなりの言い分だ。
 今度はチェアを倒さずに、エイキチの後頭部にハサミを入れはじめた。やはりカラダを休めるつもりはないようだ。エイキチは訊いてみた「いいのか?」。
「そういうのはキライだ」マリイはエイキチに、服を引っ張られたような錯覚を覚えた。
 エイキチは頷いた。シャキ、シャキと、ハサミの刃が重なる小気味いい連続音が鳴っていく。自分の仕事を続けろという意思表示に聞こえる。
 代理人の指示の意図は何なのか、傍受していたやり取りと、どうつながるのか、またはつながらないのか。
 まずはウラで動かしている、データ処理を画面に戻した。あれからも例の件についてのやりとりは続いており、その内容が画面に表示されていく。これまでになく混乱して慌てた様子が見て取れた。
 いったい何が正しいのか、エイキチはそれを知りたい欲望に駆られていた。飛び交う情報を目で追っていく。そこには多くの意味合いが含まれているようで、捉え方は様々にありそうだった。
「マリイ、いいんだ。オレには体裁を整える必要はない、、」エイキチはそう吐き出した。
 キーボードをたたく手が、いつしか止まっていた。いつもなら一心不乱に解析にのめり込んでいくはずだった。耳元で鳴り続ける断続的なハサミの音がそれを妨げている。
 誰とも会わずに、ここにひとりで生きていても、多くの情報が溢れて処理しきれないでいる。故意であるのか、偶発的なのか、わかるはずもなく、それが惑わすためなのか、正当性があるのかとまで疑ってしまう。
 いつの間にか思考はマリイのことに行き着いていく。結局自分もマリイと同じだった。ふたりで協働して、制約だらけの街なかを、1秒でも削って駆け巡っている時だけが生を感じることができた。
「何を賭けるつもりかしらないけど、言葉の意味はひとつじゃない。そしてどちらが嘘かなんてわからないんだから」マリイは言った。
 エイキチたちの残りの時間は、その走りをするための下準備でしかない。難攻不落のゲームをしているような感覚。必死にそれと向き合っている時は、何か充実しているような錯覚に陥っているだけで、終わってしまえば何も残らない。
 それなのに、そこにかけた時間を否定することが怖くて、次の獲物を探し、攻略を続けてしまう。いつしかやりたいことが、やらなければならないことに変わってしまっていた。
 だからなのか、難しいミッションをこなしたあとにくる、高揚感を上回る寂廖感が日々重たくなっていた。いつまでも同じことを繰り返してはいられない。
「そうだな、誰だって欲望を隠したがるものだから、、」エイキチが返した。
 物事には必ず終わりがあるのだ。成功の体験が大きいほど、そこから逃れられなくなっていく。引き際や潮時を見誤れば人生を間違えるだけだ。出来ることをやり尽くしたならば、卒業しなければならない。
 マリイとエイキチは囚人のジレンマに近い状況にあった。どちらかが下りれば、もう一方も巻き込まれる。それは、どうしたって言い出した方に過重がかかる。
 そして何より最大の問題は、今の関係が維持できなくなることだった。仕事は辞めたい、でもここで一緒に暮らしたいは通らない話しだ。
 今のような収入を得るのは、自分達の置かれた状況で、特にエイキチに取っては困難だ。その環境を準備してオーナーは彼らにこの仕事を担わせいる。
 絶対に代替の利かないのは、仕事もこの環境も一緒だった。オーナーはそれをわかったうえで、うまく自分達を利用しているようにもみえる。そして自分達もそこに依存している。それがこの世のすべての仕組みであるように。
 マリイの手がエイキチの耳を覆い、そこにハサミを入れていく。自らの悪しき考えから、耳を閉ざせと言う示唆であるかのように。
 悪く考えれば確かにそうなってしまう。そうでないことの方が多いのに。いまはネガティブな方が先に立ってしまう。偏った方向性に流されているのは危険な状態とわかっているのに。
 オーナーは自分のような人間の、得手の部分を活かしてくれている。マリイも街なかで、意味もなくスピードを追い求めているだけの暴走車だった。他のクルマや、ひとに迷惑をかけるだけの存在だ。
 それを必要をする人やモノを結びつけ、ビジネスにつなげたのもオーナーだった。マリイが苦手とする代理人も、耳に痛い言葉がなければ、取り返しのつかない大きな事故を起こしていたかもしれない。
 それが同時にマリイが束縛を感じている要因にもなっている。物事には必ず表と裏が一体化している。どちらに傾くかはその時の自分の状況に左右されてしまうものだ。
 前髪を摘ままれて、そこにハサミが入っていく。前髪を作られるのはエイキチは苦手だった。髪を結んでいたときは、オールバックにしていた。
 これまでもマリイは、流したり、真ん中で分けたり、細かく交差させたりと、色々なアレンジを試してきた。形が決まらないのは最終形を模索しているためか、どれも似合わなく迷走しているのか。
 エイキチは、どれもそこそこ様になっていると満足していた。それなのにその評価を下されないことに気をもんでいた。マリイはただ単に、楽しんでいるだけなのかもしれない。
 エイキチはマリイが楽しめないのならば、この仕事を続ける意味がないと考えていた。
 そして、やはりマリイも同じことを考えている「それが自分たちの、ある意味運命だってわかってるだろ。それでいいと思ってるんだ」。
 ここはどうしたって自分が負荷を抱えることになったとしても、マリイの気持ちを優先させたい。そうしなければ自分の存在価値がないだろう。そうやって自分のやるべきことを無理やり実行しようとしている。
 モニターに気になる言葉が並んだ。”ホントに、殺るのか?”。よくある誤変換だ。”陸ではオボ練だろ”話し言葉であれば、その傾向は一層強まることもある。
 マリイは再びチェアを倒した。エイキチは完全にモニターから隔離されてしまった。強制的にすべての情報からシャットダウンされた。マリイが意図してしたことではなく、それに意味があると思えた。
 もはやアタマの中で考えをまとめるしかない状態になり、それもまた硬直した思考には有効に働くこともある。
 電子レンジで温めたタオルをエイキチの口まわりにあてる。じんわりとした温かみが気持ちいい。スプレー缶のシェイビングクリームを手にとって、額や瞼のあたりに馴染ませる。
 剃刀を滑らせてクリームを削いでいく。眉の周辺はゾリッ、ゾリッと抵抗感のある音を立てる。自分の顔が無防備に侵略されていくのはいつだって不思議な感覚だ。
 無抵抗な状態が継続していくと、それが却ってなにか包容感に覆われていくようであった。本当はそうでなくとも、それが本当であると信じてしまう。
 知られたくない情報を隠すには、それより大きな嘘をつくしかない。代理人に言われたことを自然と思い起していた。
 外交と軍基地がどう結びつくのか、そこが鍵となるはずだ。必要以上のことを知らせない代理人は、そうやってエイキチがどこまで本質に近づけるか試してくる。
 まんまとその仕掛けに乗ってしまうのも癪だが、エイキチにも好奇心と少しの意地もある。あってはならないことが起こりそうな気配がある。逃げる先があればゴリ押しも可能だ。
 マリイも同様に代理人から色々な拘束を受けて、それを超える走りを生み出して来た。今日の走りなどその最たるものだった。
 それが達成感や高揚感につながるかは別だ。何か自分達の能力が上手い具合に使われているだけで、ともに成長しているような共有感はなかった。これからも同じことが続いて行くのであれば、そこに何の希望も見えてこない。
 データの検索に頼らずに、いくつかのキーワードを思い出して、過去に該当事例がないか思い起こす。嫌な予測しか出てこない。
 偏ったバイアスに傾いている。サンプルケースがあると、それが正解という前提で、その後の解析を進めて行きがちになってしまう。
 前例はあくまでも前例であって、判で捺したように継続していくわけではない。それこそ、以前にない方法、以前とは逆の方法を行使することで、過去にとらわれない新しい視点が目付けできる。
 エイキチはそんなあたりまえの教訓を、無理やり自分に啓蒙していた。該当事例から推察される進化系や、相反する案件を含めて集約していき、在りえもしない状況を無理やり創ろうとしていた。
 タオルを置いたところ以外の剃毛が済んだので、タオルを外し、柔らかくなったあごひげにクリームを塗っていく。物事には何にしろ準備が必要だ。そうすればすべてうまく行く。
 毎朝、電気カミソリで剃っているものの、やはり剃り残しや、髪の生えぎわは疎かで、ひとの手を使って行うとでは仕上がりが違ってくる。
 ひと通り終わると、クリームを剃りあとに塗布して、顔中をマッサージしながら伸ばしていく。そのあいだは顔が揉みくちゃにされて、なすがママになる分、そのあとの爽快さがいっそう際立ってくる。
 もはや何も考える必要はない。答えを出したところで何かできるわけでもない。何かができるのはいつだって選ばれた人間だけだ。自分達はその一部を動かすために働いているだけだ。
 チェアを起こすマリイの表情は満足げだった。鏡に写してエイキチに確認するでもなく、自分がこれで良いと思える形になればそれで良いようだ。
「オレは一緒に居たいんだ」ディスクまでチェアを寄せながらエイキチは言った。返事はなくとも顔を見ればわかっているのに聞いてしまう。
 エイキチの後ろに回ってシーツを外すマリイ。シーツをはたいて床の髪の毛を片付けだす。やはり何も言うつもりはないようだ。
 エイキチはキーボードをたたきだした。サンプルになるデータは膨大にあるので、その集計には時間がかかる。
 自分で組み上げたPCでは演算速度が追いつかない。カットのあいだに走らせていた処理がまだ続いていた。そのあいだに現地の経路の見直しをする。
 自分達がやることだけを考えればいい。それで何が起ころうと、単なるバタフライエフェクトでしかないのだから。
「ひとりで居たいんだ」そう言って道具を持って、マリイは自室に行ってしまった。
 その時間差にエイキチも吹き出してしまう。マリイらしいと言えばその通りだ。
 Pホテルと基地との最短ルート、迂回路、安全ルートなどをデータベース化していく。それが終わると過去5年間の交通状況を洗い出す。
 特にこの日に起きた、特記するような出来事がなかったか検出する。ひとつ気になることが目についた。今日は、通り道となる神社で奇祭が執り行われる日だった。
 神木が神社に奉納されるため、通行止めになる区間があり、その迂回のために近隣の道路も渋滞となるのは確かだ。
 21時に解除される予定だが、最悪を考えれば、最短ルートは使えない。ルートを2−3考えておいたほうがよさそうだ。ホテルは裏口からの搬入になる。物流の搬入口に横付けすることを想定したルートを考える。
 燃え上がるのはこれからだった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(市街地からモールまで4)

2025-02-09 17:41:47 | 連続小説

 事務所の裏口から中に入って行くマリイ。エイキチは医療用のチェアーに座って、インカムをつけた状態で幾つも並ぶモニターを目で追っていた。
 事務所の扉を開けて中に入ってきたマリイに、おつかれと声をかける。マリイは軽く手をあげるだけで、冷蔵庫を開けて飲み物を物色しはじめる。
「なんか飲む?」そうエイキチに問いかける。自分は炭酸水を取り出してコップに注いだ。
「いいや、間に合ってる」エイキチは、そう言って点滴のチューブを指でさした。
 フーンと、小さく何度かうなづき冷蔵庫を閉じる。次の仕事が入るまではここで待機となる。マリイはイスに座って炭酸水を含み渋い顔をする。
「金一封出たってのに、浮かねえツラだな。走りも良かった。もっと喜んでもよさそうなもんだ、、 」
 エイキチはヘッドフォン一体型のインカムを外した。マリイからの返答は期待していない。次の仕事に備えてモニターのチェックを怠たらず、キーボードを操作して詳細を表示してはデータをインプットしていく。
 モニターに集中していたので、いつの間にか背後にいたマリイに気づかなかった。髪を少し引っ張られて、目線が上を向く。天井のシミは前の持ち主からの残こし物だ。
 ケイサツの交信が、モニター上に文字起こしされており、気になる文面を目で追っていたところだった。ところどころで誤変換があるのは御愛嬌だが、そこから発想が転換されたときもあったのでバカにできない。
「カミ、切るよ」
 エイキチの髪は左右が非対称になっていた。昨日の空き時間にマリイがカットをはじめたところ、出動要請があり途中になったままだ。
 外出もしないし、ひとに会うこともないエイキチは、そんな状態で生活していても何ら支障はなかった。
 元々、髪型を気にするタチでもなく、わざわざ人の手を借りたり、自分自身も労力を掛けてまで髪の毛を切りに外出する選択肢はなかった。
 これまでは伸ばした髪を後ろで束ねておき、一定の長さになったら自分でカットしていた。
 マリイと仕事をする様になってから、ここで共同生活をはじめると、髪の毛のことをとやかく言われるようになった。
 だったら切ってやるよとマリイが言い出し、それからはマリイが気の向くままにカットすることになった。
「また、飛び込みが入るかもな。いつになったら完成するか、、」
 そんなエイキチのボヤキも聞かずに、マリイは道具を取りに行ってしまった。自由になったエイキチは、さっきの文章を探してカーソルを当てる。
 キーとなる文字をドラッグし、それに類似する項目の検索を進める。いくつかの関連項目が呼び出された。これは通常の検索エンジンではヒットしないケイサツや、諸官庁の内部情報のみが表示される。
 映し出された内容に、身を乗り出し文面を目で追う。何やら大きな政治的な動きがあるようだ。それが今日なのか、明日なのか、今週のいつかなのか。それによってマリイの動きも変わってくるはずだ。
 今いちばんの話題と言えば、Pホテルで先進国が為替について会談を行っていることで、一般国民にまで関心が及んでいる。いずれにせよどこかのタイミングで代理人からの連絡が入るはずだ。
 そんなことを考えていると、何か気になることでもあるのかと、戻ってきたマリイに声をかけられた。文面に気を取られて、再び背後を取られていた。
「いつもの内輪もめだろ、、」そう言ってモニターの画面を別の内容に切り替えた。
 マリイも訊いただけで、エイキチが調べていることに対して関心があるわけでもない。PCのバックグラウンドでは、引き続き関連事項の抽出が続けられている。
 持ってきたシートで上半身を覆い、タオルで首元を巻き、カットの準備をしはじめる。自分もエプロンを着け、霧吹きを使ってエイキチの髪を湿らせる。
 手のひらでカバーして、顔に水がかからないようにする仕草は、自分がされた時の経験からか、どこかで知り得て練習したのか、それっぽくだんだん板についてきている。
 チェアの傾斜を横になった状態まで倒して、マリイも椅子に腰掛ける。マリイの顔に見おろされる態勢になり、目の向けどころに困ったエイキチは目を閉じた。
 昨日と同じように、目線が合ったり、マリイの顔を至近距離で見ることができなかった。通信での会話では、言いたいことも言い合えているのに、面と向かった今の状態では言葉が滞ってしまう。
 何を意識することがあるのかと、この接近環境に慣れない自分を笑ってしまう。新しい環境は、いつでも自分の未知の領域を教えてくれる。
 マリイは粛々とカットをはじめる。自分の中にそのルーティンがあるかのように、順番になすべきことをおこなっていく。濡れた髪をクシで撫でつけ、指で挟んだ髪にハサミを入れる。
 やるならば徹底的にやる。それがマリイの流儀だった。誰にも見せることのないカットにも、ドライビングと同様に手を抜かない。自分が目にするからだ。やらないなら手をつけない。
 ザクッと小気味いい音がして、カットされた髪の毛が、シーツの上をシューッと滑り落ち、床に落下する。
 アルデンテになったパスタの芯のみを切り刻む感触が、エイキチはアタマ越しから伝り、マリイは手から感じられる。
 切り終えた時の快感にも似た痺れを、ふたりは時を同じくして、肌につたって行くのを感じていた。それがなぜか相手も同じように感じているとわかっていた。
 カラダの芯が熱くなっていく。自分では制御でいない潮流がうねり出す。
「オマエ、ホントはもう、やめたいんだろ?」何かを言わないとエイキチはおさまらなかった。
 マリイの方から何か切り出すとは思えない。マリイの手が止まった。事務所内の空気の振動が止まった。無機質な電子音がノイズのように耳に届くだけだ。
 再開する気配がなく、どうしたのかとエイキチは目を開いた。目の前にアタマ越しに座っている、逆さになったマリイの顔があった。
 その表情からは、何も読み取ることはできなかった。運搬中のマリイの心理状態や、行動パターンは推察することができているのに。そして、それはほぼ予想通りの結果を得られているのに。
 普段の言動や、行動は別物なのだ。何ひとつ見えてこない。ポツリと涙が落ちてきて、エイキチの唇を濡らした。感情のない顔がその涙の意味をより深くしていた。逆さだからそう見えるのかもしれなかった。
 マリイは指先で唇についた涙を拭った。自由のきかないエイキチはされるがままだ。もし、マリイがエイキチを殺そうと思えば、何の抵抗も受けずに実行できてしまうだろう。そしてその逆もまた可能だ。
 そんな不揃いなふたりだからこそ、わかりあえることもあり、相容れないこともある。負い目を感じたまま、ここまで生きてこざるを得なかったエイキチに、自分からそれを行使しようとする選択肢はなかった。
 そしてマリイから、なんらかの判断が下されようとも、それを受け入れる用意はできていた。
 ピッピッというアラートがなった。代理人からの呼び出しだ。エイキチは今のままでは自分でインカムを装着することはできない。立ち上がったマリイがディスクに駆け寄り、インカムをエイキチに渡す。
 エイキチに顔を見られないようにして目を擦っていた。自分の感情とは別のところで、涙がこぼれてきた。絶対にそんな姿を見せたくない相手であるのに、今日の様々な出来事が自分を狂わせていた。
 寝かせていたチェアをもとの状態に戻して、モニターの位置まで移動させる。それはエイキチでも出来ることでも素早く行うにはマリイの手が必要だ。軽く手をあげて礼を言う。
 エイキチの後頭部はまだ不揃いのままだ。
『どうした?』代理人が問うてきた。呼び出しに時間がかかったた理由を訊いている。
 ちょっと頭痛があったから、インカムを外していたと答えた。そんな理由など、どうだってよく、ようは仕事中はインカムを外すなと言う警告に過ぎない。
『どうやら政局が大きく動きそうでな。今夜がヤマになりそうだ、、』エイキチの回答について、なにも言わないことがそれを物語っている。
 やはりPホテルの件が関係していると、すぐに結びついた。代理人もエイキチが色々なニュースソースにアクセスして、多種多様な情報を得ていることは気がついている。
 ただそうして出回っている情報が、どれだけ精度が高いかは別物だ。代理人はいつもエイキチがどこまで知っているか、どの情報を正しいと判断して準備をしているのか、試すような言い方をしてくる。
 そして何が正解だったかはけして口にしない。
 マリイが箒で髪の毛を集める、さーっ、サッサという音が聞こえだした。マリイのインカムでも、この会話は聞くことができる。エイキチは早めに切り上げたい。
「そうですか。で、何処に、何時に張ります?」エイキチも自分の情報は漏らさない。代理人の言葉から何が正しいかを判断していく。
『20:00にヨコスカBだ。状況により市内に戻るケースもある』
「Bですか!?」エイキチが思わず反応してしまった。
 Bは基地のことだ。エイキチは会議が行われている市内のホテルだと思っていた。
『何か気になることでも?』代理人が試すように訊いてくる。
 マリイが箒を持ったまま、エイキチに寄り添う。「いえ、別に、、」エイキチに言えることはない。
『マリイ。聞いてるだろ? しばらく出突っ張りになるだろう。寝れる時に寝ておくんだ』
 代理人の警鐘はよく当たる。それがマリイを縛り付ける要因になっている。
「わかった」無言だと何度も繰り返えされるので、そう返事する。
『何か動きがあれば連絡する。エイキチも、それまではカラダを休めておくんだ』
 それは必要以上に、この件に対して詮索するなと言う警告だった。
「はい、そうします」そう言って通信が切れるのを待った。エイキチから先に通信を切ることはない。
 しばらくして通信は切れた。エイキチは再びインカムを外して髪の毛をかきむしる。毛に挟まっていた切髪が、パラパラとシーツに舞った。マリイがブラシで髪を漉く。絡んだ髪が梳き解れていく。
「すまない」そう言うエイキチに頷いて応えるマリイ。
「休んでろよ。それが今おまえがすべきことだろ」
 髪をひと通りはらったマリイは、それには答えずエイキチの背後に立ち肩に手を置いた。そうは言ってもエイキチも、はいそうですかと眠れるわけではない。マリイも同じであろう。
 マリイの涙の意味をどう取るべきか。エイキチには、それも重くのしかかっている。取り敢えず間を置くにはタイミングのいい連絡にはなった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(市街地からモールまで3)

2025-02-02 12:23:11 | 連続小説

『90で!」時速90kmをキープすれば間に合うと言ってきた。
 その言葉を聞きマリイは90kmに乗せる。急いでいれば、もっと踏み込んでもよさそうなところでも、必要以上にスピードを出さないのは、必要な距離で止めるためにハードなブレーキを強いる羽目になってしまうからだ。
 決めたクリッピングポイントを取るためにブレーキをドカンと踏み込んでしまえば、タイヤがロックして逆に制動距離も長くなる。タイヤも傷むし、ブレーキにも負荷がかかる。
 ブレーキパッドが過熱してしまえば、このあとでどうしても酷使しなければならない時に、思ったように止まれなくては意味がない。それがエイキチの考え方だ。
 このクルマで、最短の時間で目的地につく手段をトータルで考えて、クルマに極度の負担をかけ続けることは避けなければならない。
 これまで自分の思う通り、好きなように走ってきたマリイには、最初はそれがよくわからなかった。速く走り、短い距離で止まり、すかさず加速する。それ以外に何が必要なのかわかっていなかった。
 マリイの視界は前方を広角に捉えている。大通りのクルマの流れ、人の行き交い、バイクや自転車の有無をチェックする。エイキチからの情報と掛け合わせて、リスクを最小限に抑える走りができるよう準備は怠らない。
 いくら速く走れても事故を起こせば元も子もない。必ず止めれるタイミングをポケットに入れておく。そのためにも、クルマに負担をかけない走りが必要になる。それがエイキチの教えだった。
 確かにこれまでは最初のうちは速くても、後半にダレていくことが多かった。クルマが言うことを利かなくなっていくのがもどかしかった。それが自分の所為だとは知らなずにいた。
 歩行者信号の青色が点滅しはじめるのが目に入った。もうすぐ信号が黄色に変わる。左折するにはまだ余裕があった。
 そのときエイキチが叫んだ。
「マルイチだっ!」マリイは頰を引きつらせる。
 ひとりの歩行者が、左折先の横断歩道を渡ろうとしている。マリイの進入と重なる。このままだと歩道の前で一旦停止してやり過ごすことになり、ストップアンドゴーは時間の大幅なロスになる。
「マルイチも渡ろうと急いでいる。前に出るな。先に行かせるんだ」あえてエイキチは冷静に話しかける。
 了解のシグナルをピッと鳴らす。オウとか、わかったとか、それだけでも口にしたくない時は無線で音を送るようにしている。交差点まで100mしかない。
 エイキチの指示を踏まえて走りを変えていった。それで以前より早く現地につき、人を拾って送り届けることができるようになった。ひとりで走っていたら決して気付かなかったことだ。
 マリイの位置からも歩行者が見えた。歩行者信号の青が点滅しはじめて小走りになった。ジワリとブレーキをみ込む。コチラの存在を気づかせてはならない。
 クルマが左折してくると感づけば歩行者の足が止まる。そうなってはマリイも安全を期してクルマを止めなければならなくなる。アレをやるしかないと決断する。
 今が良ければ、その先がどうなるか出たとこ勝負だったのは、なにも走りだけではなかった。マリイは以前よりも上手に生きていけるようになった。それが自分にとって正しいかどうかは別問題だった。
 前輪に荷重が適度にかかったところでステアをあてて、リアを少しだけ横に滑らせる。横荷重を保ちながら、その動きを殺さぬようにカウンターを切る。派手なスキール音は立てない。
 すかさずクラッチを切ってスロットルを戻す。エンジン音が無となり、惰性で左折して行く。先程のコーナーリングとは違うアプローチだ。
 実際のスピードより、その残像はゆっくりに見える。だが速い。歩行者は信号の点滅に気がいっており歩みを早めた。その後ろをアルファは音もなく通り抜けて行く。
 それは清風が通り過ぎて行ったかのように、歩行者の背後をかすめて行った。トルクがかかっていないクルマを制御するために、超絶のステアリング捌きでアルファを進行方向に向ける。
 前を向いたところでスロットルを踏み込みながらシフトを2速に入れる。すぐさま回転数を合わせ、加速に必要なトルクを生み出すと、ケツを叩かれた跳ね馬のように、アルファは一気に前に押し出される。
 信号を渡り終えた歩行者は、突然耳に届くその音に何事かと振り向く。その時はすでにマリイのアルファは視界から遠のいていった。通行人をやり過ごすための神業的な走行をアドリブで行っていた。
 交通量の多い場所で目立つ走りは控えていた。それは代理人からの忠告があったからだ。完璧なミッションをやり遂げても、アタマにそんな呪縛が浮かんでいた。舌打ちをするマリイ。
 いくら自由に走っているつもりでも、飼い犬のように首輪をつけられて、その範囲でしか走り回れない自分が無性に腹立たしかった。アルファは再び加速して車列に合流していく。
「すげえな。いつそんな走りを身に着けたんだ?」エイキチが言う。マリイは何も返さない。
 どう対処するか、アタマの中で咄嗟に考えた。イメージだけが先行して、それを具現化するようにカラダが反応していった。誰にでも、直ぐにできるような簡単な走りではない。それなのに単純に喜べなかった。
 何かと比較するわけでもなく。今できるベストなパフォーマンスを成し遂げたとき、マリイは何にも代えがたい喜びを感じられていた。エイキチの言葉から、自分の走りが磨かれていくことが心地よかった。
 それなのに、やはり慣れていくのか、現状に満足できていないのか、飼い犬になりつつある自分が許せないのか、以前のように無のままに、自然と湧き上がる高揚感はなかった。
 速く走りつつも、抑制している。自分の欲望よりも体裁を先行している。エイキチと培ってきた能力を、上から咎められないために使っている。
 目的地には1分前に着くことができた。これ以降もエイキチの、ラリーでのコ・ドライバーがおこなうコーチングさながらの、適切な状況描写とマリイの鋭い状況判断でキレのある走りを繰り返し、通常では到達できない時間で約束の地に着いていた。
 公園の入り口で男性をピックアップし、駅までの道のりは、法定速度で間に合うほどの時間を作ってしまった。
 初老の男性は礼儀正しい人で、何度もマリイにお礼を言い、マリイもこれには閉口してしまう。相席になった女性にも、寄り道をさせてしまったことを丁寧にお詫びしていた。
 客が相席になること自体はじめての状況で、慣れないマリイもどう対処していいかわからず、紳士然とした男性の取り扱いに苦慮してしまう。
 金一封に気がいって、この状況まで想定できなかった。あまり早く着きすぎるのも良くないので、黙らせるためにスピードを出す訳にもいかない。
 こんな時のエイキチは、客の取り扱いまでは業務外とばかりに無言だ。男性はどちらに話しかけるでもなく自分のことを話した。
 どうしても乗らなければ間に合わない電車の時刻があると、その理由を切々と語っていた。返事をしなくても済むのは幸いだった。車内は三人のそれぞれの思惑の中で、混沌とした雰囲気となっていた。
 男性を駅に届ける時には、よりスローダウンして、警官の目につかないように配慮する。男性が希望する電車の発車時刻には、余裕で間に合う時間に横付けする。
 降りる間際に男性は、酷くスピードが出るから気をつけるよう言われたが、普段のタクシーより乗り心地が良かったと、笑顔で言った。
 男性は満足だったかもしれないが、マリイには誉め言葉ではなかった。唯一の報いは、これで金一封を手にすることができただけだった。
 なにか自分の気持ちを見透かされているようで、あとに残った女性客の存在がやけに疎ましかった。それはマリイが自分の本心を偽って、この仕事をし続けていることが紛れもない事実だからだろう。
 クルマはモールの裏手に着けられた。ここが女性を降ろす場所だった。行き先はモールの中にあっても、クルマは進入することができない。そのため自分たちのガレージの出入り口になっている裏側に着けられた。
 商店街からモールに仕様替えして、風景がどんどんと変わっていった。それはマリイが乗り付ける裏手側からも見て取れた。
 寂れて落ちぶれていただけの商店街は、複合ショッピングセンターのようなショップも増えてきている。それがなにかノスタルジックな中に、真新しい最新の店もありといった、複雑な景色を作り出している。
 近未来SFのロケーションだとか、異国の地にいるようだとかで好評らしい。変わりゆくモールがこの先どうなるか、変わった先が誰の望んだカタチになっているのか。表通りを歩かないマリイにはどうでもいいことであった。
 女性客は、どうもとだけ言ってクルマを降りた。男性客を迎えに行く途中の高速運転の中でも、声をあげることももなく、ましてや気絶することもなかった。
 それどころか、何か一部始終を監視されているように、マリイには感じられた。別れ際に何か言われるのではないかと、ここまでの道中は気になって仕方がなかった。
 いまクルマを降りても、平衡感覚を失うことなく平然と歩いていく姿を見て、マリイは感心する一方で、彼女がいったい、このモールのどこに向かっているのか気になり、その後ろ姿を追っていた。
 女性はそれに気づいたのかクルリと振り向き、マリイはバツが悪く視線を切る。
「ボクシングジムってどっち?」それを問うために振り返った様だ。
 歩きはじめて思い出したのか、やはりクルマにヤラれて意識が朦朧としているのか。その言葉で気づいたかの体で目を合わた。
 はじめてしっかりと見たその顔つきは、思ったより若かった。よく見れば高校生ぐらいにみえる。
 自分と同じぐらいと踏んでいたのに、これでは気に掛けていた自分が、常に圧倒されていたようで、何とも格好がつかなかった。
 マリイはすかさず西の方に親指を立て、正面から入って左に沿って歩けば見えてくると伝えた。女は軽く手を上げて再び歩き出していった。
「どうした?もう着いたんだろ」インカムからエイキチの声がした。
 マリイは、ああとだけこたえる。ボクシングジムと言っても、今じゃダンス教室みたいになってしまったと聞いていた。
 あの娘がそれを目的で行くとは考えにくかった。それもオーナーからの輸送依頼だ。しばらく彼女が歩く先を見ていた。本当にジムに向かうつもりなのか。そして途中で止めた。それを確認してどうなるわけでもない。
「気になるのか?」再びエイキチだ。
「別に、、」マリイはそそくさと事務所に向った。
もうこれ以上、自分の感情を推し量られるのは嫌だった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(市街地からモールまで2)

2025-01-26 17:23:36 | 連続小説

 客をピックアップしたことをエイキチに伝えるために、サインとして取り決めしてある無線のコール音を一度だけ鳴らす。ピッという電子音がする。
 連絡を受けたエイキチは、目的地までの最新の交通情報を伝達しはじめる。エイキチのデスクまわりには、通行ルートの道路情報を知るために有効な様々な機器が備えつけられている。
 エイキチは必要とされる情報があれば、マリイに伝えるために積極的に話しかけてくる。一方のマリイは客がいる手前、口にしないほうがいいことが多いため、急を要しない限り、ああとか、ウンとか、最低限の言葉しか口にしない。
 もともと口数が多い方でもなく、話すことが苦手でもあり、客が話しかけてこないように、依頼を受けた際に、舌を噛む恐れがあるので余計な口をきいたり、おしゃべりはしないように同意を取ってある。
 走り出せばシートにしがみついたりして、恐怖心と戦うので精いっぱいになり、喋ろうなどという気はなくなるので、そんなことをする必要はなかった。
 それが今日に限って自分から話しかけてしまったのは失敗だった。急ぎの案件でないためスピードを出す必要もなく、普段にはない平穏な車内に沈黙が流れている。
 それが却ってマリイには気になって仕方ない。こんな時こそクルマをぶっ飛ばして、すべてを思考から取り除きたい。それができない。いまはできないのだ。
「駅前の通りにケーサツが出張ってるんだよね。駅前広場の催し物にクルマで出かけた客が、違法駐車してるらしいんだ。途中で行き先が被ってるから、ちょっと遠回りになるけど、西側の小道を抜けて戻って来ればいい。どうせ、、 」どうせ急ぎじゃないのはマリイもわかっている。
 エイキチには、警察がやり取りしている情報や、防犯カメラに介入し、その内容をモニターすることができる。走行する近郊界隈のあらゆる情報を、事前に手中に収めている。
 勿論違法であり、さすがにこの件に関しては国家権力でも黙認してもらえるとも思えず、秘密裏で行なわれている。技術の革新は裏側で最先端が先行することが多い。
 大通りをしばらく流れに沿って進み、言われた小道で左折する。マリイもよく利用しているので、大げさにいえば、目をつぶっても運転できる道だ。
 そしてエイキチの指示を聞きながら運転すれば、本当に目をつぶっていても運転できるほど、情報の正確さと、エイキチの判断能力に限っては絶大に信頼をしている。
 マリイが侵入した小道は、昔は用水路が流れていた場所で、そこを埋め立てて道路にしていた。家屋もそれに合わせて建てられているので、変に曲がりくねった道筋になっている。アルファはその道をスラロームするように軽快に走行していく。
 あれから後部座席の女は黙りこくったままで、乗車してからずっと窓の外をボンヤリ眺めている。最初にこちらから声をかけた手前もあり、気軽に話しかけられると厄介だと心配していた。
 この女性は、おしゃべり好きなタイプでもないらしく、変に話しかけられることもなく、相手をする必要もなさそうでマリイは安心した。
 ここからは緩やかな右曲がりが続き、舵角を固定したままアルファを走らせていた。そこにエイキチから不意にアラートが入った。ある予感がマリイに思い浮かぶ。
 エイキチからの指示が必要な運搬ではないために、オフにしていた無線を即座につないで「なに?」と、小声でぶっきらぼうに尋ねる。
「おう、用水通りの真ん中あたりだな。ごユルりとしているところ申し訳ないが、飛び込みが入ったから向ってくれ」
 マリイはバックミラーで女をチラリと見上げ、「いいのかよ?」と、エイキチに問う。
「その客は急ぎじゃねえ。終わってからでいい」わかっているくせにと、ハナにかけて言う。
「フーン、どこ行けばいいんだ?」あっさりとした言葉の下に、気持ちの昂ぶりを隠している。
「喜べ、『上客』だ。中央通りの先にある公園前にいる。黒いジャケットの初老の男だ。アシストする」
 最後に最大のご褒美を口にするエイキチに、先にそれを言えとばかりにマリイは舌打ちをする。それをモニターで聞き取り満足げにほくそ笑む。
 エイキチはカラダに不具合があり、ひとりで外出することができない。若者が日がな一日、部屋にこもりっぱなしで仕事をするなど辛いところだが、エイキチはその条件だから働ける。
 オーナーが、エイキチの才能を活かすために用意した仕事だった。エイキチもその恩に報いるために、オーナーから無茶なオーダーがあっても、ここぞとばかりにやりのけてみせた。
「30分後に駅に着きたい。さっきも言ったけど、駅はいま、違法駐車の取り締まり中だ。近づいたらスピードは出せない。その前までが勝負だ」
 元来、手先が器用で、先端技術に明るいエイキチは、情報収集する機器やシステムも自分で設計し、組み立てた。さらに日々、改良にも余念がない。
 パーツはマリイに頼んで出先で仕入れてきてもらっており、カメラへの仕掛けや、無線の設置は、帽子にカメラをつけて画像を飛ばし、エイキチの指示でマリイが取り付ける。その分担は運転と変わらない。
「わかってる。コッチも飛ばしたくってウズウズしてるんだ」
 『上客』とは時間通りに輸送が終われば、給与とは別に金一封が即金で払われる客だ。かったるい運転を続けていたマリイは、俄然やる気が湧いてくる。
 振り向いて女性と目が合うと、承諾したように肯く。それを見てマリイはすぐに前を向き直し言い放つ。
「寄り道するから飛ばすぞ。舌噛まないように口閉じて、シートベルトしてろ」
 そう告げる先から、アルファはグングンと加速していく。即座に女性は言われたとおりにシートベルトを装着しはじめる。
 後部座席であるのに腰に回すタイプではなく、肩からかけるベルトは、この年代のクルマでは標準装備ではない。この仕事用にエイキチが、やはり後付したものだった。
 女性は胸の前のベルトにしがみついて両脚を踏ん張った。一から十まで説明する必要がなく助かるマリイも、寄り道もすぐに快諾することも含め、少し出来過ぎであると違和感が残る。
 今はそんな仔細なことに構っている場合ではない。思考から排除してドライビングに専念するか、もしくは自然と思考から消え去っていく。その状態になれることがマリイに至極の悦びを与えてくれる。
 エンジン音がこれまでとは違った咆哮をあげる。オイルの焼ける匂いが室内にも漂ってくる。アルファの車体がビリビリと細かい振動を震わす。
 道路の少しのギャップも、タイヤからシートに伝わりカラダを弾く。それがマリイのエンジンの回転速度をあげる着火となる。
 アルファと一体になり、マリイの中にはこれまでとは明らかに違う生命が甦ってくる。鼓動を打つ心音はカムの動きと同期し、そこから送り出される血流は、オイルと共に車体の各部に行き渡る。
 ステアリングに添える指先の微妙な動きが、ラックアンドピニオンを通じてホイールを意のままにする。それは足先を波打つようにしたアクセルワークと相まって、車体を自由自在に制御していく。
 目に入る視覚情報と、エイキチからの無線を含む耳に届く聴覚情報。そしてカラダ全体から伝わってくる、すべての情報をマリイが集約し、的確なアウトプットをおこないクルマを操りはじめた。
 そこに他の何ものも介在することなく、クルマと共に、自分が最速で移動する歓びを満たしていくために。

 マリイは人馬一体ならぬ人車一体になっていく。この時を生きるために、他のすべては眠った時間であり、時の流れを放棄しているといっても過言ではなかった。
 この道の行き止まりとなるT字路が迫ってくる。前に1台クルマがいた。猛スピードで近づくアルファを認識したのか、T字路前の一旦停止もあり、道脇にクルマを寄せながら止まろうとしている。
 無線からのエイキチの指示が欲しいところで、絶妙なタイミングで連絡が入る。「ゼロだ!」その言葉を聞き、マリイは減速することなく、前車が開けた右側のスペースにアルファを滑り込ませる。
 キッカケとなるブレーキを踏んでリアをブレイクさせると、一時停止で止まる前のクルマの脇をすり抜け、カウンターを当てつつ、ほとんどスピードを殺さないままに左折をしていく。
 『ゼロ』はその先に、人もクルマもいないという符丁だ。エイキチが指示した通り、進入した道路はオールクリアだった。
 一旦停止していたクルマの運転手は、スタントまがいにクルマが横滑りしていくのを目にして固まっている。タクシー相手に何度も見せつけたテクニックであり、そんな表情をした運転手を何度も見てきた。
 アルファが進入したこの道は、その先にある信号が鬼門となる。大通りに面しているために信号が赤の時間が長い。
 信号に引っかかる前に左折して、大通りに合流しないと2分はロスしてしまう。前にクルマはおらず道はひらけたままだ。
 少しでもスピードを落とさずに進入すして、高いスピードを保ったまま立ち上がり信号までにできるだけマージンを作り出す必要がある。
 遠くに見える信号は、今は赤だ。それを見て、
立ち上がりのスピードを活かしながらさらに加速をしていく。
 マリイでも腰の辺りに浮遊感があるほどで、慣れていないはずの後部席の女も相当な恐怖心があるはずだ。そこに気を配っている余裕はない。
「エイキチッ!!」マリイは、指示を求めマイクにがなった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(市街地からモールまで1)

2025-01-19 18:07:27 | 連続小説

 クルマを走らせて行くと、そこに若い女性がいた。目印と言われた赤いデイバッグを抱きかかえるように持っている。
 女性がコチラに目をやるのが見えた。スポーツジャージを着た、どこにでもいるような風采をしている。その割には妙な存在感と威圧感があった。
 流しで客は取っていない。迎車専門だ。そもそもこのクルマを見て、タクシーだと判断できるような車種ではなかった。
 稀にコチラが止まるタイミングで手を挙げる通行人がいると、後ろにたまたまタクシーがいたというオチだった。
 もしかしてと念のためにバックミラーと、サイドミラーをチェックする。それらしきクルマは見当たらなかった。
 マリイは指示された場所であると確認して、ウインカーを出しクルマを止めた。カサカサと枯れ葉がタイヤに絡んでくる。
 60年式のアルファはタクシー仕様にはなっていないので、自動ドアは装備されていない。マリイは手を伸ばして左後部座席のレバーを引き、少しドアを開いてやる。
 するとそこに指をかけてドアを大きく開口して、先の女性が乗り込んで来た。見かけより太くガッチリとした指をしている。
 マリイの視線を感じたのか、乗り込むとすぐにジャージのポケットに手を突っ込み窓の外に目をやった。
「よくこのクルマだってわかったね」つい、マリイはそう声をかけてしまった。
 普段なら、客に話しかけることもなく、乗せたら最後、最速で目的地に運ぶだけで、それ以外のサービスはしていない。
 それなのに気になって声をかけてしまったのは、この女性が持つ独特の雰囲気に惹かれたからなのか。マリイはつい触れてしまいたくなった。
「青いヘンテコなクルマって聞いてたから、、」女性は面倒くさそうにそう言った。目線は外を向いたままだ。
 青はいいがヘンテコは余分だ。どうせエイキチがそう説明したのだろう。余計なことを訊いてしまった自分の落ち度と合わせて、マリイは腹立たしくなった。
 エイキチは事務所で配車の指示を受け、無線でマリイに連絡をするオペレーター的な仕事をしている。
 ふたりは違法で配送営業をしており、ウリは約束の時間に客を運び届けることだった。エイキチはその手助けをすべく、あらゆる情報にアクセスしてマリイの輸送をアシストしている。
 違法な白タクまがいの営業も、時間に間に合えばカネは度返しという、切羽詰まった客は少なくない数でいるものだ。
 ただ、誰でもというわけにはいかない。何処かのおエライさんだったり、そのような人たちに関わる人たちが主な顧客となる。時にはその人たちに代わり封筒ひとつを運ぶ時もあった。
 これだけ通信技術が発達しても、人やモノがそこに無いと、どうにもはじまらない事案はなくならないらしく、効率化などの仔細な努力を帳消しにしてしまう費用が発生しようとも最優先される。
 エイキチに言わせれば、自分ならな現地にいなくても会議などができるようなシステムを作れるのに、それをしてしまうと自分の楽しみや、マリイの仕事を奪ってしまうからと豪語する。
 時間をカネで買うこととなっても、それでこの国はまわっていて、これからもこの国をまわしてく。そこにどのような理由があるにしろ、マリイは指示を受けて、時間どうりに輸送するだけだ。
 それ以外のことはオーナーやエイキチの仕事で、マリイが気にすることではない。ひとつの仕事を成功させれば、それに見合ったおカネを手にするだけだ。
 世の中に需要があれば供給がある。需要が満たされるのは、それなりの力を持った者たちだけだ。マリイはこの仕事をしてそう悟り、力を持った者たちからカネを得ることに、何の罪の意識を持つことはなかった。
 通常なら間に合わない状況を間に合わせることで得られる報酬だ。いったい誰がその恩恵を受けているのか知るよしもなく、少なくとも、搾取され側の人達でないのは確かだ。
 時間通りに進行したことで得られた恩恵も、得られなかった不具合も、マリイには今のところ何の関わりもない。
 後からそのために何らかの影響を受けることがあっても、それは自分だけではどうにもならない範疇と割り切っている。
 誰もが誰かの利益の代わりに対価を得ている。その循環が変わらないのであれば、せいぜい自分の好きなことを仕事としてカネを得ればいい。 
 今回の客は時間指定のある急ぎの客ではなかった。そんな案件は年に1~2回ぐらいのもので、だいたいがオーナーの個人的な案件である。
 この一種独特の雰囲気を持つ女と、オーナーがどのような関係なのか、マリイも気にかかるところだ。
 この違法でありながら必要悪の範疇とされる運び屋を動かしているのは、エイキチが事務所として使っている建屋があるモールのオーナーだった。
 事務所は、元は自動車の修理場だったところを、持ち主が隠居したため会社が買い上げた物だ。修理場はクルマのメンテナンスや、改造をするためにそのままにして、事務所をエイキチ専用のオペレータールームにした。
 このオーナーは、モールの親会社の会長という立場にある。表向きには代表社長が経営を取り仕切っている形にはなっているが、すべての判断を下しているのはオーナーであることを、関わっている者は皆気づいている。
 それなのにモールの関係者には一切その姿を見せないし、何でもかんでも代理人を通して連絡を取ってくる。ミステリアスな存在を誇示したいのか、オモテに出れない理由があるのか。
 本当はその存在自体が架空のもので、何時もエイキチたちに連絡をしてくる代理人と呼ばれる者が、なりすましているのではないかと、ふたりは冗談として言っている。
 代表が影武者では会社として成り立たないので、それは行き過ぎた話しであるとわかった上で、この代理人がまた切れ者であり、あながち冗談とも言えない話だった。
 運搬業に問題がおきた時も、迅速に解決してくれて、厄介な相手が出てきてもウラをかいて手玉に取る。いつもマリイたちを手助けしてくれている。そして最後に辛辣なひとことを教訓と称してあびせられる。
 その代理人に、オーナーは大物政治家ともつながっていて、いざという時に重用されており、その分警察からの目こぼしも受けていると言われていた。目立つクルマであるのに捜査に及ばないのはそのためらしい。
 代理人からは、そういった仕事をこなす者がいなければ、世の中は回っていかない、それでマリイたちの稀な才能を世の中のために遣え、ビジネスとして関係が成り立っていると持ち上げた。
 エイキチは自分の才能を評価されていることに感銘を受け、代理人を大いにリスペクトしている。自分の好きな無線傍受や、盗聴、カメラのハッキングなどをして、おカネが貰えているので、それに満足しているだけだ。
 いずれにしても何か事が起きても、真っ先に泥を被るのは自分たちになるわけで、いいように使われているとも言え、本音が見えこない代理人のことを、口先だけだとマリイはあまり信用していない。
 マリイのクルマは警察は目溢ししてくれても、正規のタクシードライバーからは疎まれていた。嫌がらせのようなことは何度も経験していた。
 エイキチがなるべく裏ルートを探ってくれようとも、まったく遭遇しないわけではない。相手が客を乗せていなければ、幅寄せされたり、急な割り込みや、前に入られるとストップ&ゴーのブレーキテストを執拗に繰り返されたりもする。
 はじめの頃は、かわすのに手を焼いたマリイも、何度か交えるうちに相手をするのが楽しくなってきていた。マリイも乗せているおエライサンには悪いと思いつつ、元より時間厳守のための荒い運転は了承済みだ。
 後ろや横を見ながらの運転より、前の動きを視認しながらの方が断然有利だ。コチラに寄ってくるタイミングで、少しでも左右に隙間があれば、一気に加速して突いていく戦術を磨いていった。
 そこに相手との駆け引きとまでは言わなくとも、動きを見極め、どちら側から攻めるかを瞬時に判断し、相手を手玉に取った時は、心に燃え滾る熱量が充満するほどの達成感があった。
 クルマが横並びになれば、相手も本気でぶつけるつもりはないので慌てて避けてくる。マリイはタクシードライバーが見せる様々な表情を横目に、してやったりの顔を伏せてパスして行った。
 今では国家権力からタクシー会社に圧力があったのか、マリイのクルマを見かけても、近づくどころか避けて通るようになってきた。
 エイキチは、オーナーがおエライさんに口利きしたんだろうと嘯く。それはそうだろ、ジャマされて迷惑するのはおエライさんで、マリイは楽しんでいるだけだ。
 最近は刺激が足りなくて、必要以上に速度を上げてしまい、約束時間に余裕で間に合うので、敢えて時間調節する羽目になる。
 エイキチ曰く、この仕事は絶妙な塩加減が肝で、時間に遅れるのは論外でも、早く着きすぎては価値が薄れると宣う。
 顧客に間に合うかどうかとハラハラさせたところで、ギリギリで間に合わせることで、ありがたがれてお手当も弾むわけだ。
 なので時間配分を考えて、到着したら顧客が飛び出して行けば間に合うぐらいに着けるのがベストだと、偉ぶって言ってくる。
 それは代理人からの受け売りであると、マリイは確信している。ギリギリを狙いすぎて遅れたり、他車の妨害が無くなったと油断して、足元を掬われないようにと口うるさく言われる。
 いつも的確な指摘や、先読みするような注意喚起をしてくるので、こういう一言をおろそかにできない。ドライビングの最中にふと、アタマに引っかかってきて自制すると、それでことなきを得たこともあった。
 マリイは自由に好きなことをやらせてもらえているようで、実はその裏で細かくコントロールされている感覚が面白くなかった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて4)

2025-01-12 20:16:31 | 連続小説

 ユキは商店街の時代から長年に渡って組合の会長を担っていた。日々すたれていく現状をどうにかせねばと、若い時にメディア関係の会社に勤めていた伝手で、昔馴染みが勤める広告代理店に相談案件として持ち込んで交渉の扉を開いた。
 丁度そのような物件を探していた大手の商社が興味を持って話しが進んで行き、ユキは海老で鯛が釣つれそうだと、予想以上の成果に小躍りしたまではよかった。
 その後の会合を重ねるにつれて、ユキはジリジリと追い込まれていった。コチラの要望を受け入れられ喜んでいると、その奥に様々なオプションが条件規定として盛り込まれていた。
 そして最後に、総合的に考慮すれば、商店街ごと身売りして、商社の傘下となり、モールとして再構築していくことが最良の選択となっていた。
 自分では有利に交渉を続けているつもりであっても、そのように仕向けれていたのかもしれない。そうして最終的には商社に買い上げられてしまったのは目論見外だった。
 相手側の交渉の術中にはまってしまった。それは会社としてチームで仕事をしてくる商社側において、ユキひとりで対応しなければならなかった商店街は余りにも非力だった。
 ユキが困っているときには誰も手助けせずに、商店街の身売りを知りユキを詰る者も少なくなかった。そんなときコウは、何もできずにいた自分を責めた。
 最終的には希望者にはそのまま残ってもらえるように便宜が図られ、高齢で後継ぎがなく潮時とした店は、それに応じた売却費を支払い、新しいテナントに差し替えられていった。
 これほどまで商店街側に寄り添った選択ができるように取り計ってもらえたのは、ひとえにユキの尽力のおかげだった。最後まで先方と粘り強く話し合いを進めた成果だ。
 商店街時代の経営者に顔が利くユリは、そのまま管理責任者として、新規出店者とのパイプ役としても重宝されていた。それもユキが好条件を引き出すために自分の身を削ったことのひとつだ。
 今は既存旧店舗と新規店舗の割合は半々といったところで、新旧混成のハイブリッドなモールは、真新しさと物珍しさもあり、滑り出しは上々となった。
 そんな中でもユキがいつも心に残ることは、本当にこれで良かったという結論が出せていないことだった。既存の店がひとつ畳まれるたびに心が押し潰されるようで、ユキはコウの店で自戒の時を過ごしていた。
 今日は新旧の店舗ををひとつにまとめようと企画した一斉清掃の参加者が、なかなか集まらないことにやきもきして、コウに話しを聞いてもらいたくて店を訪れた。
 コウに話していると新たなアイデアが浮かんだり、モチベーションが回復してくるとユキに言われたことがある。それをわかってコウもユキの話しを黙って聞いていた。
 ただいつもそうあるわけでもなく、そうでない日の方が多い。高い壁はいつだって目の前にそそり立ち、どうあがいても越えられる気がしない。ユキは事あるごとに確認しなければ崩れ落ちそうになる。
「コウちゃんは、コレで良かったって言ってくれるけど、本当に良かったのか、今でもわからなくてね。ミタムラさんだって、あんなジムじゃ本意じゃなかったから、こうしてまたプロボクサーを育てようとしているんでしょう、、」
 ミタムラの名を出したのはそういうことだったのかと、コウダは下衆な勘繰りとも言える様々な憶測を反省した。
「そんなことないですよ。みんなユキさんに感謝してますって。どうしたってあのままじゃ、廃れていく一方だったでしょう。少しでもいい条件で手放せる、最後のチャンスだったんですよ」
 サンドウィッチの皿が空になったところで、コウはストックボックスから殻付きの落花生を取り出し、テーブルに一握り置いた。新聞紙を折って作った殻入れを添える。
「昔は色んな業種の店舗が混ぜこぜになって、自然と商店街という形になってたよね。駅向こうになんか、ストリップ劇場もあったけど、ぜんぜん違和感ないし、自然と溶け込んでたもんね。コッチにはこんな場末のバーとか、妙なホテルもあるし、、 」
 両手で落花生の殻を砕き、手のひらにこぼれた実を指でつまんで口にするユキ。香ばしい匂いが鼻に抜ける。
「場末って、、 こんなとか、、 」コウは口元を下げて不満をしめしてみせる。
 どんなに自分がいいと思っていても、それが継続していくかは別問題だ。世界は多くのひとが望んだ風景に次々と塗り替えらえていってしまう。
「ゴメン、ゴメン。話の流れよ。それに、いい意味で言ってるのよ。アジがあるってことよ」
 フォローされるほどに、落ち込みそうな気分になっていく。
「それにあのホテルって、ありゃ洋風木銭宿でしょ、部屋だって4室だけだし。帰りっぱぐれたヤツが転がり込むようなとこでしょ」
 ホテルの店長とコウとは、昔なじみの腐れ縁のために言いたい放題だ。ユキはブラックのコーヒーを口に含む。落花生とコーヒーがお互いの旨味を引き立ててくれる。
「そんなこと言っちゃって、ホテルマリアージュって、ビルボードしてあるでしょ。それにモールにだってホテルで申請されてるんだから」と、どこ吹く風のユキだ。
 それならウチだってパブリックバーで申請してるし、屋号もパブ・ペニーレインだと文句を言いたいところだ。
 昔の風景がどんなに良かったとしても、風景が変われってしまえばそれがふつうだと馴染んでしまう。過去を思い起こすから郷愁などといって感傷的になり、それに価値があるように思えてくる。
 ホテルもここも、今のモールには異質な空間でしかない。近いうちに、なんだかんだと理由を付けられて、引き払いになる最右翼のはずだ。
 ここにこんな店があったと覚えていてもらえればいいほうで、更地になればほとんどのひとは、ここがなんだったかと思いだすのにひと苦労して、新しい建物が立てばキレイさっぱり忘れ去られるだけだ。
 最近では馴染みの客はめっきり減ってしまったし、今更新規の客を呼び込むような店でもない。コウは今の店の雰囲気を維持できなければ、続ける意味がないと口にした。
 そうでもないのよとユキが答えた。
「モールのオーナーが、ちょっと変わり者なのは知ってるでしょ。身売りした時、必ず残して欲しい店のリストがあってね。それで結構やりあっちゃって、向こうの条件にも譲歩したけど、コチラの意地も通させてもらったのよ。ああ、オーナーと直接じゃなくて、その使いの人とね」
 コウにもオーナーのことはいろいろと耳に入っている。先見の明があり、買収した企業は必ずV字回付させるなど必ず結果を残してきた人物だ。そんなメディアを賑わすようなカリスマ経営者の割には表に出ることは一切ない。
 それにしても残す店のリストのことは初耳だった。そこにどんな店が書かれているのか、どんな取引がなされたのか、コウも気になるところではある。
「もう、今だから言うけど。そこにね、この店も入ってたのよ。おどろきでしょ」
 驚いたのはコウのほうだった。てっきりユキが口利きしてくれて続けることができたものだと思っていた。それがオーナー側からの希望だったとは。意味がわからなかった。
「もちろん、わたしだって残すつもりでいたけど、向こうから言ってくるから、安売りしちゃいけないと思って、いろいろと条件付けさせてもらったわよ」
 確かに他の店舗でも好条件で継続しているところがある。ユキの出した条件をここまで聞いてくれたのは何故かと、いろいろと悪いウワサにもなっていた。
「夜食までいただいて、美味しかったわ。ありがとね。全部払うから。いくら?」
「いいんですよ。これは、オレもちょっと腹減ってたし」
 そして、コウは自分の店の他に、どの店が同じようにリストに載っていたのか気になった。たぶんそこにはあのボロホテルも含まれているのは察しがついた。
「いいから。ちゃんとレジ打って。消費税もね。もうドンブリはダメでしょ」
 それもコウの悩みどころだった。モールになってから、一日の売上がすべて本部に管理されている。イントラにつながったレジは支給されたので懐は傷まないが、これまでのようにツケだ、奢りだといった客とのやり取りができなくなった。
 モールになって合理的で効率的になり、人情味や家族的な側面は失われた。ユキとしても量の大小に関わらず、立場上タダ飯を食うわけにはいかない。
 コウにとっては昔ながらの付き合いのある人と、そういったやり取りができないのは苦痛な面もある。上から言われたことと割り切るしかない。
 そのような片苦しさが嫌で、モールになってから店をたたんでしまった所もいくつかあった。新しいオーナーのやり方についてこれなければ、早かれ遅かれ店をたたむことになる。
「ユキさん、まさか以前からの店子がいなくなるまで、面倒見るつもりですか?」
「そうね。そこまで会社が雇ってくれればの話だけど。わたしにも意地があるからね。残ってくれたお店には、ちゃんと幸せになれたか見ていてあげたいの」
「そんな、ユキさんが背負うことじゃないでしょ」
「そうなんだけどね。そこにどれぐらいの意味があるかわからないし、誰もそんなこと望んじゃいないだろうけど、なんかね、やりきらなくちゃいけないって思ってる」
 ユキが寂しげにグラスを傾けている姿を見ているのはコウも辛かった。コウが何を言おうと、ユキは最後までやり遂げるだろう。
 ユキにいつまで続けると訊かれて、曖昧にはぐらかすのも、なんとか自分が最後のひとりまで頑張って、ユキの苦労に報いたかった。
「どうして、リストにあったのか訊かないのね?」
 そのためにもユキに迷惑はかけられず、モールのルールは守って面倒を起こさないようにしなければならない。
「そうですね。知らないほうがいいこともあるし、たぶんこの世は、知らずにいたほうがいいことがほとんじゃないですかね」
「コウちゃんは、優しいね。そういうセリフはこんなオバちゃんじゃなく、もっと若いコにしてあげなさいよ。誰か気になるコでもいないの?」
「よしてくだい。自分はもうそういう年でもないし、ガラでもないんですから。それに、、」
 ユキに惚れているというわけではない。人としての恩義を感じているだけで、ユキがこれまでに自分にしてくれたこと、商店街にしてくれたことに感謝したいだけだった。
「、、それに?」
 それを恋愛感情と絡めることはない。男女というだけで上手くいかないこともある。
「若いコとは、こんな話しをしても通じないのはわかってますから」
 殴られた顔のアザは消えようども、心のアザは消えない。コウは殻入れに入った落花生の殻をダストボックスに捨てた。落花生はもうすっかりと食べられていた。
「ゴメンね余計なこと言っちゃって、だから年寄は、って言われちゃうのよね。こないだもコーヒー屋さんのオーナーに夜警の話したら、今どき? って顔さたのよね」
 そう言ってユキは冷めたコーヒーを飲み干す。財布からカードを取り出して、端末にかざす。支払いが終了するとレシートが出てくる。ユキはそれをカットして眺める。
「便利なものね、、」
 便利なことと引き換えに、多くの笑顔を失ってきた。そんな中でもまだ自分を押し通そうとする人たちがいる。進化するだけでは何か違っているようで、後退することで生きることの意味を見つけようとしている人たちがいる。
 モールの夜間照明は、その灯りが届く店と、届かない店を明確に分けていた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて3)

2025-01-05 15:21:59 | 連続小説

 ショウの見送りを終えてコウが店内に戻って来ると、ユキが怪訝な表情をしていた「知り合いだったの?」。
 コウは首を振る「久しぶりにお見えになったんで、またご来店いただけるようにお声がけしたんです」。ユキの大声を詫びたことは言わない。
「なに敬語使ってるのよ」ユキにではない。
「でも、いい心掛けね。リピーターって言うんだっけ? そういうお客さまをひとりでも増やしていかないとね」と、満足気に言う。
 コウはその言葉には曖昧に肯くにとどめた。そんなことよりユキが持ち出した話しを続きがしたかった。
「ミタムラさんのこと、気になるんですか?」
 ミタムラが最近店に来なくなったのはそういう理由かと、ユキの話しを聞いてコウは納得した。ジムが刷新されて、ようやく妻のエイコを楽をさせられると言っていた矢先に彼女を亡くした。
 それからは、この店に入り浸るようになり、深酒を繰り返していた。ユキに随分と慰めてもらっており、コウも少し勘ぐってしまった。
 エイコにこれまでの苦労を労うつもりだったミタムラが、亡くなってすぐに親友だったユキとそのような関係になるはずもなく、やはりその悲しみを紛らわすにはボクサーを育てるしかなかったようだ。
 それにしても女性とはと、コウも耳を疑った。ショウが居たために、込み入ったことは訊けなかった。ユキの回答によっては、どのような会話に転ぶかわからない。
 気にかかっていたのはコウの方だった。だからこそユキの本音を聞いておきたかった。
 しばらく間が空いて、そして何を訊きたいのかを理解してユキが首を横に振る。コウの問いには女ボクサーと、ミタムラとが同時に含まれていた。
「わたしが?」ユキの回答はミタムラへのものだった。
 その否定のしかたに、コウは少なからずの羨ましさを覚えていた。ユキはそんなコウの想いを気にかけることなく、小皿に用意されたドライフルーツをかじり、頬杖をついてソッポを向いて言った。
「どうしたの? 興味ないかと思ったけど、、」
 ユキの目先には昔の映画のポスターが貼ってあり、主演の女優がグラスを手にしている。ユキは見るともなしにそれを眺め、ため息をつく。ため息の理由は幾つもある。
 コウはユキのコースターを新しく差し替え、その上にグラスを置き直した。何だかユキに余計な負担をかけさせてしまったようでコウは後ろめたくなった。そして言い訳してしまう。
「すいません。関心がなかったわけじゃないんですけど、自分の中で整理したり、、 それに、さっきは他のお客さんも居たんで、、」
 コウがそう言うと、ユキは目線を戻してきた。
「そうね、知らない人の前で、ひとのウワサ話しなんてするもんじゃないわね。ごめんなさい。でもねえ、ジムもあんなんになっちゃたし、なんで今更って思っただけよ」
 片付け物をする途中で、古傷が痛むように指をこすり合わせる仕草をするコウ。やはり人差し指に何か理由があるのかもしれない。
「いいんじゃないですか。ミタムラさんが育てるんだ。どんなボクサーになるのか楽しみじゃないですか?」
 ミタムラに女性のボクサーが育てられるか分からないのに、コウはそんな言葉を言ってしまう。
「そう?」ユキの返事は、素っ気のないものだった。
 ミタムラがどんなボクサーを育てるかなんてユキにも興味はない。それを知って、あえてコウはそちらの話しに持って行こうとしているだけだ。
「だってね、メグちゃんもいい迷惑でしょ? どこの誰かもわからないコの面倒みさせられて、結局メグちゃんに負担がかかるだけなんだから。エイコちゃんが大変だったこと未だにわかってないんじゃないの。だからカラダを壊したとは言わないけど、そういうとこ、オトコってニブイのよね」
 本心ではもっと文句を言いたかったはずだ。身に覚えのあるコウは苦笑いを浮かべるしかない。ミタムラの妻のエイコとユキは小学生からの付き合いで、そんなエイコを長い間にかけて何かと気にかけていた。
 ユキが気にかけているのはミタムラだけではなく、家族の全体のことも含んでいた。ただ、それもまだ全部ではなかった。
「目をかけたボクサーを家に連れ込んで、衣食住の面倒をみていたことですか?」
 それは、生活の負担を少しでも取り除いて、ボクシングに集中する環境を用意することと、常に自分の監視の中に置いておくことと、ふたつの理由があった。
 ボクサーは生活の負担が軽減されるとともに、知らぬ間にミタムラの監視下に置かれ、食事にしても、睡眠にしても、性欲にしてもコントロールされていた。
 そもそもミタムラに見出されたボクサーは、その生活のすべてをボクシングに注いでおり、試合のみに集中できるその環境は大歓迎だった。
 そうしてミタムラは、名もない若者をランカーまで伸し上げ結果を出していった。名が売れると彼らはメジャーなジムへ引き抜かれて行った。それなりの移籍金を置土産として。
「ミタムラさんが見ていたのは、ボクシングに関することだけでしょ、あとは食事の準備から、日常生活の全般はエイコちゃんがひとりで賄ってたんだから。その気苦労の大変さをわかりもしないで、、」
「、、そういうとこ、オトコってニブイのよね。と」ユキのセリフをコウが先に取り上げた。
「そう言うこと」ユキは両肩をすくめた。
 ミタムラは手にした移籍金はすべてジムや、次のボクサーへの投資に遣った。ボクサーを家に迎え入れても、その費用は給料内でやりくりさせた。生活は常にギリギリで、それもエイコの心労になっていった。
「それが今回は女のコでしょ。一体どうやって目を光らせるつもりなのか知らないけど。これじゃ、メグちゃんも大変よね」
 ミタムラは女性の生活に、どこまでストイックを強要するつもりなのか。メグが同い年ぐらいの同性に、どこまでのケアができるのか、ユキにはふたつの心配事があった。
「それにしても女ボクサーとは、ユキさん、気が気でないんじゃないですか」気が気でないのはコウの方だ。
「だからあ、そういゆんじゃないって」ユキは口を尖らせる。
 そういった意味合いではなかったが、コウは口が過ぎたとアタマを下げた。
 コウはフリーザーからツナ缶、ハム、マヨネーズに、トマト、レタスなどの野菜を取り出す。そしてストックボックスにある食パンを取り出し、サンドウィッチを作り出す。
 右手の人差し指は伸ばしたままに、包丁を入れてひとくち大に切り分けていく。
「あら悪いわね。これはコウちゃんのおごり? ちょうどお腹もすいてきたし、なんたって夕食抜きで一斉清掃の名簿集めてたからね」
 失言のお詫びのつもりかと、先回りして礼を言うユキは、早速ひとつまみする。
「コウちゃんはいつまで続ける気なの?」
 コウもひとつ口にする。自分が食べるにはマスタードをもう少し効かせたいところだが、ユキが苦手なのを知っている。
「そうですね。半ば道楽みたいなもんですから。出てけと言われるまでは続けようと思ってます」
 ユキは商店街の時代から店を構えているひとたちを何かと気にかけている。新く出店した店のオーナーと仲良くやって欲しいし、新しいモールにも馴染んでもらい、少しでも長く続けて欲しかった。
 そうでなければ自分がここまで頑張ってきたことが無駄になってしまうようで、多くの家庭の生活を変えてしまった是非を見極めたかった。
「道楽ってことないでしょ。これでゴハン食べてるんだし。えっナニ? 他に実入りのいい食扶持でもあるの? 私にも紹介してよ。ていうか日中何してるのよ?」
 誘導尋問にでも引っ掛けられた気分のコウは、ひきつった笑いをする。ユキもこうした明け透けな話しができる相手は、商店街からの付き合いのある人の中でも、そう多くあるわけではない。
「そんなのある訳ないでしょ。雨風しのげる家さえあれば、男がヤモメで暮らすぐらいは何とかなるってことですよ」
 実際その通りだった。無駄づかいすることなく、酒の仕入れ代を優先して、食べ物も贅沢せずに店の残りものなどですませて何とかカツカツだった。
「ふーん、どうだかね。教えてくれないんだ」
 同じ日々を過ごすことだけが自分に課せられた使命のように、コウは粛々とそれを続けている。それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか、わからないままに。
「聞いて面白いハナシなんかありませんよ。そうでなきゃいつまでも独り身でいませんから」
 この話題をおしまいにしようと、今度はインスタントのコーヒーを入れ出した。棚の奥からマグカップをふたつ取り出し、スプーンで適量をすくい出しポットのお湯を注ぐ。
 ユキはコウの触れてはいけない過去を耳にしたことがあり、ことの真意は定かでなくても、言葉は慎重に選ばなければならないと心得ている。
「そう、話せる時が来たら、いつでも耳を貸すからね」ユキもそこに、ふたつの意図を含ませてきた。
「 、、まさかね」やりかえされたカタチのコウは、薄く笑みを浮かべてみせる。
 ユキのグラスはすでに空になっており、そのまま下げてコーヒーをさし出す。ユキはお礼を言ってカップを手元に引き寄せた。ふたりともブラックが好みなので、今回は同じでも問題ない。
 人の心配している場合ではないはずなのに、ユキはこうした気遣いをわすれない。コウは押しつぶされそうだった。気遣わなければならないのは自分の方であるのに。
「ユキさん、あんまり無理しないでくださいよ。オレなんかが言うのもなんですけど、ユキさんは十分やってますから。だけど、それだけでは何ともならないことはあるんです。清掃の件だって、どれだけの人がユキさんの気持ちを汲んでいるか。でも、それも時代です。しかたがないことですよ」
 それは、多くのことを成し遂げたくてもできなかった、コウ自身の思いも含まれている。ひとを動かせるような人間はほんの一握りだ。
 ユキは自分に比べれば周りを巻き込んでいく力がある。ただ、ひとりだけではなんともできない領分まで何とかしようとしている。
 商店街を大きく様変わりさせてしまったと負い目を感じ、失地を回復しようとする行動であり、それが気負いとなり、空回りをしはじめているのが見ていて痛ましかった。
「そうねえ、困難ばかりだけど、それをやらないと、自分が生きている意味がないと思えるの。そうでないと電源を切られてしまうのよ。きっと」
 それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか。ユキもまた、自分にもわからないままに。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて2)

2024-12-29 17:07:19 | 連続小説

 ひと通り言いたいことを言って満足したようで、ユキはビールからカクテルに替えて、ゆっくりと飲みはじめていた。店内に静けさが戻った。
 コウがテーブルを拭く時のダスターが擦れる音や、グラスの水気を取る時のキュッキュという音だけが耳に届く。2杯めを飲みはじめたショウは、そんな清音の中で目頭を抑え、考えごとをしていた。
 日中の母親の動向が心配で、一度だけ行政に相談をしに行ったことがあった。担当の人は見るからに多忙そうで、自席と相談者のあいだで行ったり来たりを繰り返していた。
 ひとつの案件を処理するのに30分はかかっていた。これでは自分の番が来るまで有に2時間はかかるだろう。ショウはその日、会社は午前休を取っており、平日にしかできないことをまとめてこなそうと、色々と予定していた。
 2時間の待ち時間の合い間にそれらを片付けられれば効率がよいのに、予約券の発行があるわけでもなく、応対してもらうにはひたすら順番を待つしかなさそうだ。
 この時間を有効に使えればあれもできる、これもできると、そう思えば思うほど、余計にフラストレーションがたまってくる。
 こういった時間の浪費にしても、多くのひとたちの経済活動をどれだけ阻害しているか、誰か真剣に考えた事があるのだろうかと疑問でしかない。 
 それだけでなくショウは、会社で自分のしている業務と比べて、異世界にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えた。仕事でお客様の一分一秒を無駄にしていては、競合他社に寝返られてしまう。そして、他社よりスピーディーな対応をすることで、他から顧客を獲得することも出来る。
 それを思うとここは隔世の感がある。他に選択肢がない仕事では、他に頼るところもなく、そんな顧客が従順に従う姿に勘違いすれば、サービスの低下につながっていってもしかたない。
 ただショウの会社にしても、スピードでしか勝負できていないからそうなるわけで、他にオンリーワンの技術とか、他社との差別化出来る部分がなければ、脈々と続くスピード勝負にいつしか疲弊していくだけだ。
 時間に勝ることに執着して、仕事の本筋から外れており、その時さえよければの勝ち負けに一喜一憂していれば、将来への展望を考える余地もなくなる。あえてそうしていように。
 ショウも実際に、ここの仕事ぶりを見て、羨ましさも同時にあったのは否めない。結局待ち続けるしかなかったショウは、他の要件をひとつも片付けることもできずに、順番が回ってきたのは正午に近かった。
 ようやく面談した担当者に言われれたのは、近所の民生委員に相談してみたらの一言だった。そんな人が近所にいるのかわからないし、知っていれば最初からそちらを当たっている。
 もっと行政ならではの取り組みとか、対応場所などへの紹介が合ってもよさそうなものだと、そう食い下がるショウに、もう昼休みだから、続きが話したければ、1時になったらまた来ればと言われた。
 ショウは心の中で煮えたぎる怒りを飲み込んで、平静を装い礼を言って、急いでこの場を立ち去った。ここで行政への不満を述べても何も変わらない。この担当者にしても、こうしてこれまで仕事をしてきただけだ。未来を変えようとしているわけではない。
 グラスのフチを指でなぞりながら、コウの仕事ぶりを眺めていたユキが、不意に問いかけしてきた。
「知ってる? コウちゃん。ミタムラさん、またボクサー育てる気になったみたいよ」
 コウは磨ていたグラスを照明にかざし、透明度を確認してから食器棚に置いた。ユキの問には少し首を捻るにとどめた。
「それが今度は女のコだっていうから嗤っちゃうわよね。どこまで本気なんだか」
 そう言ってため息をつくユキは、頬杖を付いてコウの方を見上げる。コウはさあといった風情で両肩をあげる。興味がないのかとユキは、もうそれ以上を言及することはなかった。
 興味がないわけではない。いくつかの思いがあたまの中を巡って、ユキへの対応が疎かになっただけだ。
 あそこはもうボクシングジムというよりスポーツジムになっていた。それも女性客目当てにボクシングエクササイズを売りにしているだけで、もう本格的な設備は整っていないはずだ。
 ミタムラも経営者というより、生活のために管理人の仕事をしているだけだった。あの日以来、人が変わったようにやる気を失っていたミタムラが、再びやる気を取り戻したというならば、よほどの逸材に巡り合ったのか。
 しかしそれが女となると話しは別だ。あのミタムラが、女をリングに上げるなど想像がつかない。前世の遺物のような人間だ。
 女は男がいい仕事ができるように下支えに徹しろというタイプで、ただでさえ表に出ることを極端に嫌っている。それが女をリングに立たせようなど、コウからすれば天地がひっくり返るぐらいの出来事だ。
 棚からシングルモルトのウイスキーを取り出して、グラスに1センチほどそそぐ。ユキに付き合ってコウも少し飲むことにした。
 グラスをユキのカクテルグラスに軽く当て、乾杯をしてひとくちだけ含んだ。今日はもう客足は期待できそうにない。それに混乱したアタマを鎮めたかった。
「わたしにも、もう一杯ちょうだいよ」
 最後のひとくちを口に含み、グラスの底を指で挟んでコウに差し出す。コウも残りを一気に呷って、おかわりのドライマティーニを作り出す。
「時間外手当にしないでよ」酒を飲みはじめたコウに、ユキは憎まれ口を叩く。
「少々飲んだからって、不細工な仕事はしませんよ」
「ふーん、じゃあ美味しくなかったら、コウちゃんのおごりね」
 お互いにいつものやり取りで、漫才の掛け合いみたいなものだった。飲んでいようがいよまいが、コウの仕事が雑になることはないとユキが一番知っている。
「美味しかったらコウちゃんの分も払うから、わたしのにツケときなさいよ」
 それはユキ流の遠回しな言い方で、少しでも店の利益につながるようにコウを気遣っている。それがユキひとりでは、たかがしれているとしても。
 シェイカーにカクテルの素材を流れるように投入したあと、砕いた氷を少し追加してゆっくりとシェイクしはじめる。派手なパフォーマンスをすることなく、中身の状態を見通すようにシェイクしていく。
 ショウは見るでもなしに、横目でその動きを見ていた。動きや流れに一切の無駄がない美しい所作に見惚れてしまう。
 何故か右手の人差し指は、何をするにも伸ばしたままで、何か不具合があるのか、そうしておく理由があるのかショウにはわからない。
 ユキは知っているのかもしれず、今さらそれについて言及することもない。コウはそれで美味しいカクテルを作り出す。そこに何の理由があろうと知る必要はない。
 何度かこの店で飲んでいたショウも、これまで気にもとめなかったコウの仕事ぶりがやたら気になり、今では気づけば自然と目がそちらに向いていた。
 失礼ではあるがそんなに繁盛しているとも思えない。今日も身内らしき人と、たまたま来店した自分だけしかいない。それでもプロとして仕事に手を抜かない姿勢に感心してしまう。
 同じ仕事中でありながらも、やらされている仕事と、やりたい仕事との差がそこにあるのに、収益に差が出てしまうことに疑問でしかなかった。
 新しいカクテルグラスを取り出し、曇りがないのを入念に確かめると、丁寧にカクテルを注いでいく。ひとくち含んだユキから感嘆の声が漏れる。
「じゃあ、遠慮なくご馳走になります」ニヤリとしてコウはグラスにもう一杯注いだ。
「ちょっと、おごるからって何杯も飲まないでよ」
 ユキは目を細めて抵抗する。コウはそのツッコミには反応しなかった。そしてお互い小さく笑う。
 そんなふたりの親密なやりとりを見て、ショウは疎外感が少なからずあった。グラスは空になり、いい時間にもなっていた。店主に声をかけて精算をお願いした。帰り際にドアを開けて店主は見送りをしてくれた。

「すいません。騒がしちゃって」そう言ってコウはアタマを下げた。
 店主がそんなことを言ってくれるなど思いもしなかったショウは急いで首を振った。
「いいえ、そんなこと。お客さんひとりひとりを大切にしているんですね。すみません。端から見ていていろいろと勉強になることがありました」
「はは、その割には客が少ないし、もうそういう時代じゃないんでしょうね。これに懲りずにまた飲みに来てください」
 そう言ってコウは微笑んだ。ショウもアタマを下げて返答する。
「ええ、久しぶりだったけど、このお店、落ち着くんです。これからはもっと頻繁に寄らせてもらいます。だから、、、」
 だから、店をたたむことなく続けて欲しい。そうショウは言いたかった。これ以上は出てこなかった。いまだ感情を制御しつづけて、そして感情を制御できていない。それでもなにかが変わるような気配があった。
「なので、また来ます。ごちそうさまでした」
 だから、なので。つながらない言葉にキョトンとするコウ。ショウは笑顔だった。よくわからない状態でも、それでコウは満足だった。ショウの後ろ姿に深々とあたまを下げる。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて1)

2024-12-22 16:37:04 | 連続小説

 店のドアを開けると、暗い照明の中で棚に並べられた幾つものボトルが鈍く光っていた。黒光りしているカウンターには無数の傷が入っており、この店の歴史を物語っている。
 止まり木の足元には足を乗せるポールがあり、金色の塗装はくすんだ色に変色しており、ところどころが剥離して地金の銀色が露出している。
「いらっしゃいませ」店主のコウはそう言ってショウを迎え入れた。
 黒いピンストライプスーツのズボンを履いて、白いウイングカッターに棒タイを止めていた。上着は着用しておらず、ズボンと同柄の直着を羽織っている。
 この光景だけを切り取れば、禁酒法時代をイメージしたギャング映画のワンシーンを思い起こさせ、それがコウにはサマになっている。
 ショウは軽くアタマを下げて、なかほどのスツールに腰掛けた。痛めた足を庇いながら着座する。
「久しぶりですね。お客さん」コウにそう声をかけられ、はにかむショウ。
「ご無沙汰しちゃって、すみません」照れくさくそう言うショウ。コウはクビを振った。
「確かお勤め先は、ひとつ前の駅でしたよね? 以前より足が遠のいても仕方ありませんよ」
 ショウはええと微笑んでロックを注文した。さすが客商売をしているだけあり、1年ぶりぐらいの来店になるのに自分のことを細かく覚えている。
 就職前に店に来た時に、就職後は来づらくなるような話しをしたのだろう。それにしてもさすがの記憶力だ。そう思うと迂闊なことは話せなくなると自制が働く。
 おしぼりを渡され手を拭きながら、久しぶりに顔を出した経緯を簡単に話した。先のこともあり支障のない範囲に留めておく。
 朝の通勤の際に一駅乗り過ごしてしまい、ホームの渡り通路を通った時に、この商店街のアーケードが目に入って、久しぶりに寄ってみたくなったと告げた。大筋は間違っていないが、随分と端折った説明だった。
 コウは今はモールって呼ばれてますと、他人事のように言ってグラスを置いた。そう言われてもピンと来ないショウは、そうなんですかと曖昧な返事をする。
 結局、それについてコウが説明をすることもなく、ごゆっくりと言われたあとは話しかけられることもなく、コウも奥に引っ込んで行った。
 ショウにしてみても、店主と久しぶりの再会を楽しむために来店したわけではなかった。家に帰り母親と会うのを避けたかったのと、ひとりで考えごとがしたく、朝の件もありこの店を訪れた。
 店主はいつも来店時には、二〜三の言葉をかけてくれたあと、それ以降は追加をオーダーする以外は、放っておいてくれる。それは今日も変わることなく、グラスを置いてからはショウに絡むこともなく、自分の仕事に務めている。
 店内には優しい女性ヴォーカルの歌が流れている。ショウにとって知っているようで知らない曲であり、そんな環境が考えごとの邪魔にならない雰囲気を醸し出しており、ここに来て正解だったと自己肯定する。
 今日は仕事中に学生時代の友人から電話を受けた。近頃はご無沙汰にしているとはいえ、急用でもなければ仕事中に私用の電話をしてくるタイプではない。切り出しづらそうで、声も若干ではあるが涙声になっており、ただならぬ気配を感じた。
 ようやく口から出された言葉は、ふたりの共通の友人が亡くなったという要件だった。死因は聞かされていないらしく、とにかく突然の訃報にうろたえており、そこまで言うと涙声に変わってしまった。このままでは埒が明かないので一旦電話を切り、仕事が終わったらかけ直すことにした。
 そこで改めて聞いた話では、亡くなった友人の親御さんから、故人の遺物のかたづけをしていたら、友人の連絡先が書かれたメモ帳が見つかり、一番上に書かれていた自分に連絡してきたとのことだった。
 他に伝えたい友人がいれば、アナタからお願いしますと頼まれたので、最初に思い浮かんだのがショウで、それで掛けたのだと言った。
 ショウと亡くなった人は、学生の頃に同じサークルで一緒だったぐらいの仲だ。卒業してからは顔を合わすことはなくなっていた。彼が故人とどれほどの仲だったのも知れないが、号泣するぐらいだから、それなりの間柄だったのだろう。
 そういった温度差があったからなのか、ショウは電話先の友人のように感情が振り切れることはなかった。それともよくあるパターンで、友人に先を越されたために冷静でいられたのか。
 ひとり首を振るショウだった。そうではない。泣けない言い訳を探しているだけなのだ。
 もちろん同い年の知り合いが、若くして亡くなったことには衝撃があった。死因を知らないことを差し引いても悲しみの感情がわき上がってもよさそうなものだ。少なくとも学生時代に一時期を共にした仲だ。電話口の友人のように思いっきり泣いて、感情を共有しても良いはずだ。
 そうではなく、涙がこぼれることのない自分に愕然としていたのだ。ここ数年、母親との関係もあり、感情を極力表に出さないようにしていた。それが一因であると思いたかった。
 涙を流したのはいつが最後だったろう。数年前に、当時人気絶頂だったF1パイロットがレーシングアクシデントで突然死んでしまったとき、気がついたら涙がとめどなく出ていたことがあった。その数ヶ月前に叔父が死んだときは、一粒も出なかったのに。
 泣かそうという魂胆が見え見えの映画にも簡単にオチて、自分でも驚いたことがあった。以前なら作り物の話しに泣いている友人を小馬鹿にしたものだった。
 自分の感情を出さないようにしている反動で、バランスを取るように、カラダが自分の意志とは別のところで反応しているようだった。そうであれば自分は、そういった感情をコントロールできない人間になってしまったのだろうか。
 笑いたい時に笑う。怒りたい時に怒る。泣きたい時に泣く。そういった行為を遠ざけていたことで、いつしか能面のような表情に凝り固まっていった。
 今の自分の状態をすべて母親のせいにしようとしている。そんな自分が止めどもなく嫌だった。両手で顔をふさぐ。コウが奥からチラリと目を送ったがまだ動かなかった。
「あー疲れたあ!」ドアが開くと同時にそんな声が店内に通った。ピンクのスーツに身をつつんだ妙齢の女性が現れた。
「あらやだ、お客さん。ごめんなさい」ショウの存在に気づき、軽く会釈して口元を押さえる。
 ショウもつられるようにアタマを下げた。ユキは一番奥の席まで進み腰を落ち着ける。カウンターをはさんでショットグラスを念入りに磨いていたコウが振り返りオシボリを差し出す。
「どうしたんですユキさん?」
「どうもこうもないわよ。あっ、ビールちょうだい」おしぼりで手を拭きながらオーダーする。
 コウはフリーザーから中瓶と冷えたグラスを取り出し、栓を抜いてグラスに注ぐ。キレイな泡が2cmほど盛り上がった。プロの仕事だった。
 ユキはそれを手に取ると喉を鳴らして一気に飲み干した「あー、美味しい!」。
 空になったグラスをテーブルに置くと、再びビールを注いだ。今度は泡は持ち上げず、3cmの泡でビールをふさいだ。それがユキの好みだった。
「もう、聞いてよコウちゃん。近頃の若いコときたら、、」ユキはそんな話しをしはじめた。
 ユキの外見からして、自分も十分その若いコの範疇に入ると、ショウはどんな内容か興味を持った。良い話でないとわかっている。
「モールの一斉清掃があるんだけど、全然協力してくれなくてね。自分たちが働いてるところなんだから、自分たちでキレイにするのが当たり前でしょ」
 そう言ってユキはグラスのビールを半分ほど飲んだ。コウはそこへビールを注ぎ足す。きっちりと3cmの泡を作った。
「若いコって、皆んなバイトでしょ? 以前みたいに自営やってる人なら、若いヒトも家族と一緒になって協力したでしょうけど、バイトなら時間外に仕事しろって言ってもね」
 コウの言う通りだとショウは肯定した。ユキは納得しない。
「そりゃ、そうだけど、同じモールで働いている皆んなでやるっていうのが大切でしょ。そうやってお金だけじゃなくて、助け合ったり、仲間意識を持つことが、いざという時に自分のためにもなるのよ。掃除という手段を用意して、そういう連帯感を持つチャンスを提供してるんじゃない。だいたいね、、、」
 止めどなくユキは持論を語りだした。コウは微笑みながらその話を聞いている。それが自分の仕事だとわきまえている。
 ショウは不満が表に出ないように抑えつけていた。それがいけないことだとわかっていたも逃れられない。そして母親のことを思い出してしまう。自分の都合ばかりを押し付けて、コチラの言い分を聞こうとしないのだ。
 例え聞いたとしても自分の若い時はこうだった、ああだった、もっと大変だったと、比較できない対象を持ち出してくる。大変なのは人それぞれの基準であって、誰かと比べて競い合うモノではないはずだ。
「、、だいたいね、わたしたちの若い頃は、目上の人に言われれば二つ返事でしたがったものよ。ああだ、こうだ、口ごたえなんかしようもんなら一喝されて、あとからもまわりの人にヤイのヤイのとお小言をいただくことになって大変だったんだから」
「ユキさん、経験済みですか?」ユキはコウの問いかけに、ユキはピンと来ておらず少し間が空いた「イヤだ、違うわよ。知り合いのハナシよ」。問いを理解して直ぐに否定する。コウはただ肯くのみだ。
 あの人も若い頃は、最近の若い者はと言われたクチだ。ショウはそう嘯いた。比較対象ではなく、自分の基準から乖離があるかどうかで、結局は不条理に懐柔されるか、抗うかの差が出る。
 以前は言えない環境に身を置き、泣く泣く従ってきただけで、声を上げられる今では自己主張が認められているし、しなければ流されて都合のいいように使われる。戦う環境を自分で作ったわけではない。そんな思いがアタマを巡る。
 残り少なくなったグラスを手の中で転がす。お代わりをしようか考えあぐねている。今は目立った行動は取りたくなかった。
 あの人のように、ひとの弱みを立てに取ったようなボランティアを押しつけることで、この国がどれだけの経済的損失を被ってきただろうか。
 掃除をするなら清掃会社に依頼して行い、その費用をモール全体で負担すればいい。そうすれば掃除に駆り出される人達は、自分達の行うべき経済活動に従事できる。
 清掃会社は無償の代行者に仕事を奪われることもないし、お金が動くことで地域の経済が活性する。掃除に来た清掃員が食事などでモールにお金を落とすだろうし、今後のリピーターになったり、知り合いに紹介するかもしれない。
 そうすれば清掃会社を選択する基準も自ずと変わってくるだろう。単に価格だけで選ぶより、そこをキッカケにして今後の収益が見込めるかも判断材料に加えれば、多少高くても地元の業者を選ぶとか、最終的な利益を考慮すべきだ。
 そういった人の行き交いが循環がする仕掛けを考えたり、清掃自体をイベントとして組み込むことだって出来るはずだ。
 ユキの話しが途切れたところで、コウがさりげなくチェイサーを持って来てくれた。ショウは空のグラスを持ち上げ、コウの方に寄せて人差し指を立てた。おかわりの意だ。
 コウはうなずいてグラスをさげた。こういったあうんの呼吸で意志が伝わるとこがいい。なんのストレスも感じずに物事が思い通りに進んでいく。
 それが酒代の対価に含まれているのは当然だ。サービスではなく日常で自分で行えないことを代替えしてもらっているのだから、ビジネスにおいて正当な対価のやりとりとして成立し、お互いに報酬を得ている。
 その一方で無償で清掃をさせる行為がまかり通っている。それを人情や、人の弱みに付け込むような奉仕を強要し、不払い労働をボランティアなどと耳障りのいい言葉に挿げ替えるから、この国の経済力は下降するばかりなのだ。
 何のアイデアを捻り出さなくても、これまでそうしてきたからという大義を振りかざして搾取している。ショウにはあの人達の無思考や、労力をかけず仕事を消化しようとする行為が許せなかった。
 いつしかショウの不満の矛先は、母親から母親の相談をしている行政の硬直化した仕事振りに向いていった。