private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ホテルマリアージュ 3)

2024-10-14 18:40:04 | 連続小説

 ワカスギはそう切り出した。唐突なのは承知のうえだ。それでもなぜか、いま言うべきだと決め込んだ。
「ほとんどの事象は、すでに決まっているのに、人は何も知らぬままに明日に希望を持って生きています、、」
 身近な人には言いにくいことも、明日会うはずもない行きずりだから言えることがある。
「オイオイ、ニイちゃん。何をおっぱじめるつもりなんだい。ココは哲学を語るような場所じゃないでしょう」
 何を言い出しはじめたのかと、タマキが言葉を突っ込んでくる。その表情はマキに同意を得ようとしているのがアリアリだ。
「人生観は語ってもいいんじゃない。酔ったうえでグダグダ言うのと変わんないんだから」
 タマキの言葉にはつれないマキが、ワカスギに目配せして先を促した。この若者が絡んでくれば選択肢に広がりができる。それを考慮して誘い込んでいる。
「アナタ。タマキさん。アナタはもう明日の朝どうなっているのか決まっているのに、それがあたかも自分で選択したかのような錯覚を得ている。そしてそれが思い描いた結果でなければ、運のなさを悲観したり、自分以外のせいにして精算しようとする」
 タマキはマキを見た。マキは愉快気に笑みを漏らしている。もうマキの未来は、タマキの希望通りでないと示唆している顔に見えた。薄ら笑いを浮かべるタマキ。
「わかったよ。確かにね、ニイちゃんの言うことも一理あるねえ。だが一般論としてはどうだろかな。悲観的観測ばかりじゃく、予想以上の幸運が待ってることだってあるんじゃないかい?」
 もう一度、マキを見る。考えごとでもしている表情で、目線は壁面を見渡している。まだだ、ゼロではない。この若造を言い負かすことで事態に変化があるはずだ。そんな望みを捨てきれないタマキであった。
「ムリだと思っていたことが、奇跡的に成功したとか、ダメ元でやってみたら上手くいった、なんてこともあるでしょうに。だから人は明日への希望を持って生きていけるから。そうじゃないかい?」
 マキがニヤリと笑った。よし行けるとタマキは続けざまに滑らかに語りだす。
「だいたい人類の進歩なんてものは、偶然の積み重ねで成り立っているんだからさあ。思い通りに行かない事も、後から正解だったなんてこともあるよね。望まなかった前戯も、最後にはあってよかった思えることだってさあ」
 なんの例えだと、目線で天を仰ぐマキは、否定の意味でナイナイとクビを振る。そしてタマキはつられるようにクビを傾げる。例えばという意図を含んでワカスギは人差し指を天に差す。タマキはついその先を見てしまう。シミの付いた天井があるだけだ。
「ぼくが言っているのは、悲観とか楽観ではなく、ただ事象だけが面々と続く未来があるだけということです。アナタが言う偶然の積み重ねも、誰の視点からの偶然であるか。それを仕組んだ者にとっては必然でしかないのに。それと同じように、アナタにとって素晴らしく奇跡のような出来事も、誰かにとってはただの日常にしか過ぎず、場合によっては悲観すべき出来事かもしれません。すべては個々人に捉え方に依存するだけです」
 声を漏らしそうになったマキは、すんでのところでタマキの一言でとどまれた
「えっ、なんで?」
 喜ばしいことが悲しむべきことになる意味がわからない。喜びは万人共通のはずだ。ましてや自分の前戯を喜ばない女性がいると思えない。
「そういう男のひとりよがりが、生産性を阻害してると理解できてない時点でダメね」
 独り善がりとは自分だけが良い気持ちになっていることか。それが生産性が落ちる原因と言われた気がするタマキは心外である。若者どころか、これではマキにまでもやり込められてしまう。
 こうなればと最初にワカスギの行動を見たときに、気になっていたことをカマをかけて言うしかない。これがハズレればジ・エンドだ。
「だったらさあ、ニイちゃんの明日ももう決まってる訳だねえ。その財布の中身がそれを物語ってるでしょ」
 片目を細め、いかにも知っている風に指摘をした。これでワカスギがどう出るかタマキは待つ。マキも無関心であった視線をワカスギに向けた。
 ワカスギに動揺はなかった。むしろ遅い指摘と言えた。なぜあのとき店主のホギも言ってこなかったのか、それほどワカスギの行動は余りに不自然だった。
 そして思ったほどタマキはニブいわけではなく、このふたりも気づいていたのだ。サイフに金が入っていないのではないかと。ワカスギは後ポケットから財布を取り出してテーブルに置いた。
「このサイフはぼくの物でありません」
 眉間にシワが寄る。思惑との違いにタマキが確認をしようと手を伸ばそうとする。しかし、その前にマキが取り去った「じゃあ、誰のなの?」。
 首をふるワカスギ。それを見て、マキは勝手にサイフを広げた。数枚の札が入っているのを確認して怪訝な顔をする。横目で見たタマキがヒューと口を鳴らす。
「誰かの物と入れ違ったのでしょう。たとえば、一緒に飲んだ得意先の上役の人の物とか、、」
「直ぐにどうにかしないところをみるとワケ有りね。その財布はいいとして、アナタ。自分の財布が心配じゃないの?」
 ワカスギは首をすくめる「どうせ大して入ってませんから。タクシーはポケットにあった千円札で払いましたし、そのヒトの言う通り、実は家に帰るお金も、ココのホテル代もなかったんです。前金と言われ、とにかく時間を作ろうと、、」。
「朝方に逃げ出すつもりだったのかい? なんだいニイチャンの未来が一番悲観的じゃないの」
 ワカスギは薄っすらと笑みをこぼす「、、悲観するかどうかは、ぼくの判断次第ですよ」先程も言いましたけどとはあえて言わない。それがタマキには二重に堪え言葉を詰まらせる。
「何時の時点でサイフがすり替わってしまったのか。その時点でもうぼくの未来は決定づけられたんです」
「取り違えたのではなく、すり替えられたと考えるの?」
「ぼくは自分が間違いをしない人間とは思っていません。取り違えた可能性もあるでしょう。もしくは先方が間違えたかもしれません。それと同時に、第三者によって仕組まれたことも否定できません」
「誰かにとっての必然、、」マキの言葉にワカスギは知らぬ顔をして言葉をかぶせる。
「 、、なのかもしれませんね」
 ふーんといった表情でマキは面白がっている。ナッツもチーズも必要なく、ワインが進んでいる。これではまたワインが足りなくなりそうだ。
「諦めてるの? なんだかそれじゃあ流され過ぎじゃない?」。マキは方向性を変えてきた。
「そうだねえ。今からだって、どうにでもなるじゃない。どんなことだって取り返すことはできるでしょうに」
 ココぞとばかりにマキの否定的な意見に乗っかってくる。タマキはふたりの駆け引きを気づいていない。
 誰かにとっての誰かには、当然ワカスギも含んでいるはずだ。
まだそこに行くには早い。ワカスギは一度目を閉じてから意を決したように話し出す
「非難を承知で言いますが、ニュースで報道される痛ましい事件。どうしてその場所で起きたのか。何故その人が選ばれたのか。たまたま巻き込まれたというのでは、余りにも悲劇ではないでしょうか? 例えば、楽しみして出かけた家族旅行の先で、暴走したクルマに追突された。親戚一同で集まって楽しい夕べを過ごしていたら災害に巻き込まれた。もちろんその人達のせいではなく、そこで起きることが決まっていて、たまたまそこに居たに過ぎないとしたら。運が悪かったで片付けってしまうのは、ひとがそう思わなければやりきれない、心の自己防衛をするためにバイアスをかけているにすぎません」
 ワカスギの言葉に、納得がいかないタマキが尋ねた。
「じゃあ、ニイちゃんのサイフがすげ替えられたのも、その場にニイちゃんがいただけって理屈かい? そりゃ運が悪い以外のなんだってんだか」
「すげ替えられたかどうかはわかりません。ここに別の人のサイフがあり、ぼくのサイフが無くなっているという事実しか、ぼくにはわからないんですから」
 意外な顔をしてマキが問いかけた「アナタ、サイフの中、見てないの?」。
 一度首を縦に振り「開いてもいません」。とワカスギは言った。
「フーン、そういうこと、、じゃあカードが一枚も入っていないのも知らないんだ」
 そこにタマキが食いつく「そんだけ金持ってて、カードなしは解せないねえ。現金主義にも程があるんじゃないの」。
 そこでマキはワインを飲み干した。空になったグラスにタマキがワインを注ぐ。口のなかでワインをころがすマキは、何やら思案してから言葉を発した。
「現金には手を付けず、カードを頂いて最大限利用する。で、その財布は知らぬ誰かに押し付ける。そうね、できれば気の弱そうな、お金に不自由している人が好ましいわね」
「で、ニイチャンの出番ってわけかい」。タマキが追随する。
「自分の手持ちより多くリターンがあれば、損したとは思わないし、カードなんかより現金の方が遣いやすいから」
「ああ、その日のうちに遣っちゃうねえ」
「お金を遣ってアシがつけば、その人の犯行にミスリードさせることもできる」
「知能犯の思うツボだねえ」
 とたんにふたりの会話が活発化してきた。それはマキがリードを取っている。そういう言葉のやりとりを待っていたのか、ワインの進みもスピードが増し、タマキが健気に給仕する。
「アナタがその場所にいなければ、こんな厄介には巻き込まれなかった。それは同情するけど、それはわたしたちも同様よね?」
 自分達も被害者の仲間入りを宣言しても、マキは楽し気であった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ホテルマリアージュ 2)

2024-09-29 18:20:45 | 連続小説

「五千円。前金だ」。宿帳を確認したホギは、ワカスギにそう伝えた。
 ワカスギはとにかく一度座りたかった。立ったまま札の枚数を数えると目まいがしそうだった。
 件のタクシードライバーは、飛ばすけど良いかと訊いてきたので、ワカスギはホテルは近いのか遠いのか尋ねた。タクシードライバーはニヤリと笑ってすぐそこだと答えた。
 すぐ近くなのに急ぐ理由がわからなかった。それなのに、どうぞと言ってしまった。そう言わなければいけない気がしたのだった。ここはタクシードライバーの好きにさせれば良いと。どうせ乗りかかった船ならぬタクシーだ。
 そしてワカスギはすぐに後悔した。信号の度に加速、減速が繰り返され、直線で幾台ものクルマを抜き去った。角を曲がる動作も激しく、スピンターンでもするかのような切込みをしてタイヤが鳴った。
 角を曲がった立ち上がりでは、道幅一杯に膨らみつつ加速をするので、クルマが前を向いた時にはかなりのスピードがでており、他車がいればすぐさま抜き去っていった。
 初乗り区間なのでホンの5分ほどの乗車にも関わらず、これ程のダメージを受けていた。タクシーから降りて平衡感覚が狂っていた。それもすべて自身が望んだ結果だから仕方はない。
 ホテルの佇まいに感心して、気になるカップルを目にした。ある程度の情報の整理ができ、宿の目処が立ったところで気持ち悪さがぶり返してきた。
「スイマセン、ちょっと座らせて下さい」
 ホギにそう断ってワカスギは手近にあるテーブルから椅子を引いた。
「酔ったか?」。ホギはそう聞いた。
 その問いは酒に酔ったと訊いているようにみえなかった。多分に、あのタクシーに運ばれた客が一応に見せる姿なのだ。
 ワカスギはどちらともつかない曖昧な首肯を見せるのが精一杯だった。どう見られてもよかった。無理やり飲まされた酒でイヤな酔いかたをして、さらに運転の粗いタクシーに乗ったと、そんな言い訳など意味もなく、すでにこうなると決まっていたことだ。
「いつものことでしょ」ワインの女がそう言った。ワカスギにではなくホギに言ったようだ。
 ホギは反応しなかったが、相席の男がちょうどいいハナシのネタだとばかりに食いつく。会話が途切れてしばらく経っていた。
「なんだいマキちゃん、やけに詳しいねえ。もしかしてココは定宿かい?」
「つまんないこと、訊くんもんじゃないわ。タマオはに関係ないでしょ」
 言葉は厳しくても、微笑みながら静かな口調でそう言った。だが目は笑っていない。
「関係ないって、冷たいなあ。それにボクの名前はタマオじゃなくって、タマキだってさあ」
 顔はニヤけて、優しい口調でマキを正す。こちらも目が笑っていない。
 お互いに自分の価値は高め、相手を下げようとする魂胆だ。主導権を握るための駆け引きをしている。
「細かいこと、こだわらないの。あんたタマつい、、 」
 ワカスギには仲よさげに話しをしているように見えるふたりを横目にして、イスに腰掛け一息ついた。後のポケットからサイフを抜き出そうと、腰を浮かす動きも億劫なのか、力を入れないと動作が伝わっていかない。何とかポケットから抜き出し、長財布を開こうとする。
 この世は奇妙なことがしばしば起こる。自分の認識範囲内であれば、それば現実的な出来事で、そうでなければ奇妙な怪奇現象に振り分けられるだけのことだ。
 人が自覚できていることなど、さしてあるわけではなく、多くの怪奇現象を偶然の出来事とひとまとめにしてしまう。最初からそうなると決まっていたのに、そう考えなければ気持ちが収まらないからだ。
 ワカスギは取り出したサイフを開くのを止めてポケットに戻しクビを振った。尻の収まり具合が良くない。そう思えばタクシーの中でも違和感があった。もっとも走り出したらそれどころではなかったが。
 さて、どうしたものかと思案する。ホギはワカスギの様子を伺いつつ、どう出るのか次の行動を待っている。よくあることだとばかりに平静を保って楽しんでいた。
 ワカスギは、今度は前ポケットに手を突っ込み、タクシーや、コンビニでのお釣りだのを握り出してテーブルにひろげる。600円ぐらいはあるようだ。
「スイマセン。ボクにもビールをいただけますか?」。振り向いてホギにそう伝える。
 ホギは少しだけ口角をあげた。思ったほどボウヤではないことに感心しながらも、それは表情に出さないように努めている。
「300円だ。 、、前金でな」。ホギはそれだけ言うと、フリーザーから缶ビールを取り出してカウンターに置いた。
 良心的な値段で良かったと安堵しながらも、受け取りに行くのは難儀だった。仕方なく背もたれに手を掛けて大仰に立ち上がる。
「よかったらこっちに来て飲みなよ」。マキがそう声をかけた。
 そう言ってもらいたくてビールを頼んだ節もあるワカスギは、ただタマキには気を遣う素振りで目線を送ってみた。ホギは笑いを堪えきれずムフッと声をあげた。
 その様子を見て、すかさずマキがワインのアテにしていたアーモンドを投げつける。ホギには当たらず、カンカンと音を立てカウンターの奥に転がっていく。ホギは口に手を当てた。
「なんだい、天秤にでもかけられちゃうのかな。ボク?」
 ワカスギとしても諍いはゴメンだった。ビールの男には粘着性の気質が見て取れた。300円をカウンターに置いたワカスギは、元に居た椅子に座り直してプルトップを開けた。ひと口飲むと少しアタマが晴れた
「あら、フラれちゃったようだねえ。マキちゃん」。マキの株価が下落したとみて、今度はタマキが強気に出る。
 ホギはそれをみて奥の戸を開き中に入って行った。トイレにでも行ったのか。まだワカスギのホテル代は未納のままだ。
「手札も知らないのに、、 勝負はこれからなんじゃない」
 勝負とはマキがどちらを堕とすのかを指しているのだろう。意に反して戦いの場に上げられていることに、些かの不安と好奇心が同居していた。
 ビールを飲みきっていたタマキは首をすくめた。次の酒に代えたいところで、ホギにオーダーするタイミングを逸してしまった。
 マキも手持無沙汰にワイングラスの底を指先で押さえて、テーブルの上でクルクルと回していた。残りで持たせるか、空けて部屋に戻るか考えあぐねている。
 皿の上のナッツやら、チーズのアソートは、まだいくつか残っているので、できればもう一杯飲みたいところだった。
「飲み足りないんでしょ?」マキはそう言って席を立つ「ビールでいいよね? タマオ」
 他の酒にしたっかたはずのタマキは、ビールも、名前のことも否定せずに、トロンとした目でうなずきながら、マキの動きを目線で追っていた。
 黒いロングのタイトスカートが歩く度に脚にまとわりついて、深く切り込んだスリットから、その度に透明感のある肌が現れる。
 桃の底部のように膨らんだ臀部は歩く度に右へ左へ揺れ動いた。本人はそれを意識して行っているわけでなく至って自然体だった。それなのに男たちの創造量は勝手に盛りあがっていく。
 マキの肢体が醸し出す歪みと復元。単なる肉体の伸縮が神々しく目に映り、タマキは満足そうな表情を浮かべ、ワカスギも目が離せなくなっている。
 マキはホギが不在のまま、カウンターの中に勝手に入って行くとフリーザーを開け、缶ビールと赤ワインのボトルを取り出した。
「アナタももっと飲む?」。小首をかしげて問いかけるマキに、ワカスギは無言で首を横に振った。

「あら、お金なら心配いらないわよ」。と、当然のように言う。
 カウンターで頬杖を付き、前かがみの体勢でワカスギに選択を迫ってくる。大きく割れた胸元に極細のプラチナが光り、丸みを帯びた胸部に張りついていた。
 ワカスギは生唾を飲み込むのをガマンして、先程ホギが入った戸へ目をやった。
「大丈夫よ。もう戻って来ないから」。どうやらそこはトイレではなく自部屋だった。
「でも、ぼく宿代払ってませんよ。前金だって、、」
「だから大丈夫だって、、 」。マキはワカスギのテーブルまでくると、ワインボトルを支えに体重をあずけた。
 反動で胸が眼の前で揺れた。さっきから気になっていたが、やはりノーブラのようだ。
「 、、わたしもこのホテルの関係者だから」今度はタマキがブーッと息を吐いた。ビールが空で良かった。
「オイオイ、なんだよ、そういうことかい。とんだ食わせモンかな? さんざんメシとか奢らされて、ホテルに誘って、やけにショボいホテルだと思ったら。 、、そう言うことかい」
 タマキはこれまでと同じ調子で静かに文句を並べた。その言動から怒りの深度は見えてこない。それだけに不気味さがある。そしてロビーの雰囲気が悪化しているのは間違いない。
 ホギが事前に察知して身を隠したのはこのためで、マキが連れて来た客と揉めることも織り込み済みなのかもしれない。
 このようなことをハニートラップと言っていいのか。タクシーの運転手といい、こういった客引きをしてまで宿泊を埋めさせる理由があるのか。ワカスギはそちらに興味を惹かれていった。
「安く見ないでくれる? すぐにそういうコトと直結させるって、思考が偏ってるって自白してるようなものよ」
 そう言ってマキはビールをタマキに放り投げた。綺麗な放物線を描いて、それはタマキの手に落ちた。
 受け取ったタマキは憮然としてプルトップを開ける。プシュいう破裂音とともに泡が溢れてくる。それはそうだろう。ワカスギは予想通りの展開に呆れて目を瞬かせる。すかさず口をつけるが口に両端から多くの泡が滴っていく。
「ガマンできないからそうなるんでしょ。半分は出ちゃったんじゃない?」
 タマキは、しかめっ面で、手を振って泡を飛ばしている。
 マキは、ふたりのあいだのテーブルの椅子腰をおろし、タマキのいるテーブルから、グラスとアソートを引き寄せた。大きなグラスの底辺に少量のワインを注ぎ、指先で底を押さえてデキャンタする。
「キビシイねえ、最後の一線ありきで御婦人との時間を消費するか、その時々を有益なものとして過ごすかってことだよね。でもさあ、それがなくなったら人類は滅びるね」
 ワカスギは、それで決心がついた。自分が今日ここに来た理由がわかった。全部決まっていたことだと納得する。
「あの、ぼく思うんですけど、、 」。ワカスギがそう言いはじめた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ホテルマリアージュ 1)

2024-09-22 18:47:49 | 連続小説

 扉が床と擦れる音とともに開いた。
 勘に障るほどでもなく、とはいえ気づかないわけでもなく、適度な擦れ音が客の来店を知らせている。
 入っていいのか戸惑いながら、恐る恐る半身を入れた状態で、若い男がホテルの内部を伺っている。
 カウンターの前のアンティークチェアに深く座り、新聞を読んでいるのが店主のホギだ。新聞の端から中に入ってきた若者に視線を向ける。そしてまた新聞に目を落とす。かと言って文字を読んではいない。
 造形物のようにそうしているだけで「いらっしゃいませ」という常套句を口にしないのも、新しい客が入店をためらっている要因なのだろう。
 その客が前かがみになって、気分が悪そうに足もともおぼつかないでいるのは、単に酒に酔っているだけでもない。ホギはそんな客を何人も見てきており、取り立ててめずらしいくもない様子で察しをつける。
 入店した男、ワカスギはカウンターの奥に目をやる。ボードに掛けられた鍵がひとつしか残ってないのは、四室しかない部屋のひとつに空きがあることを意味している。
 空きがあり安堵しながらも、同時にここで満室だった場合どうするつもりだったのか。送迎してきたタクシーのドライバーの言葉を信用して、言われるがままついてきたまではよかったが、ひとりホテルに入ったとたんに心細くなっていた。
 ラジオか、有線から静かな音楽が流れていた。クラシックハリウッドの映画音楽に聴こえる。そこは現世離れしていた世界観があった。そしてそれはワカスギ好みにあっていた。
 その音楽はこの宿の雰囲気にマッチしており、薄っすらと靄に包まれたロビーも、西部開拓時代の安宿を映画のスクリーンから切り取った面持ちで、それが実際にそうなのか、自分の眼が霞んでいるのか定かではない。
 映画のロケ地に使われても、おかしくないほどの存在感と、重厚な雰囲気がそこにあった。自分が映像関係の仕事をしていたら必ずリストに上げるはずだ。
 人気映画のシーンで使われて人気のスポットにでもなれば、誰もが同じ体験を味わいたいと、あっというまに予約の取れないホテルになるだろう。
 だったらまず、あの会社のプロモーターに連絡して、ワカスギは仕事の取引先関係の伝手を追っていこうとしてイヤイヤと首を振る。そういうことは今夜の一夜を無事に乗り越えてから考えればいいことだ。
 ここに来た理由はただひとつ。終電に乗り遅れて、流しのタクシーに引っかかり、遠方の住家に帰るタクシー代より安く泊まれるからと紹介されたからだ。
 確かに家まで帰れば1万5千円は下らないだろう。それが初乗り料金と、ホテル代の5千円で済めば社会人2年目で薄給の身には随分と助かる。街のビジネスホテルより格安だ。
 素泊まりで食事は出なくても、朝食は出てからどこかで食べれば良いし、そのほうが時間を気にすることなく、好きなモノを食べれて好都合だ。
 今夜は楽しくもない接待に同行し、好きでもない料理を食べて、先方の都合でこんな時間まで飲み歩くことになり、上司にも放っぽりだされ、どうやって帰ろうか途方に暮れていたところだった。
 年代物の外国車がスーッと寄ってきて、何かと思えば5千円のホテルを紹介すると、控えめに下げたサイドウィンドウから声をかけられた。
 いかにもといった胡散臭さがあった。クルマを見ても正規のタクシーでないのは明らかだ。それなのに自動ドアでもない後部ドアを、自分で開いて乗り込んでいた。
 ドライバーが密かに漏らす笑みに吸い込まれていくように、、
 受付のカウンターと、待合室兼ロビーが手狭な空間に配置されている。ロビーにはカップルが一組いた。ふたりは小さなテーブル席に座り、黙して酒を飲んでいた。
 男はエールビールを、女はボトルの赤ワインを飲んでいる。自分でボトルを手にしグラスを満たす。男のわきには数本のカラになった空き缶がころがっていた。
 友好的な関係には見えない。なにかを探り合っている間柄なのか、それとも関係を清算する段階に来ているのか。
 彼らがどの部屋を埋めている客なのか、成り行き次第では1部屋に収まるかもしれないし、2部屋に分かれているのかもしれない。もしくは1部屋から2部屋の空きができことも考えられる。
 入店してきた客のワカスギは、仕事の癖もあり様々な邪推してしまう。ついついまわりの人間を観察し、推測の範囲を広げはじめてしまう。
 好ましいことでなく、自分でもイヤな性分だとわかっていても、ついつい思考が先立っていく。それが仕事に活かされるので身にはなっている。
 それになにか不思議なもので、今は気分が悪いにもかかわらず、なぜかいつもより感度が高く、膨大な情報量が流入してくる。だからタクシーにも乗ってしまった経緯もあった。
 そういったことは年に何度かあった。どういうタイミングでなるのか自分でもわかっていない。それがコントロールできればいいのにと何度も悔やんでいた。
 ワカスギは店の雰囲気に気圧されながらもおずおずと店内へ、そして店主の元へ進んで行き、カウンターに手を付いた。そうしないとカラダを起こしていられなかった。できれば腰を下ろしたかった。
 適当なスツールがあるはずもない。ホギは静かに顔を上げた。
 テーブルの女はチラリとそちらに目をやり、少し微笑んでワイングラスを口にした。濃い色の口紅が飲み口に付き、それを親指でスッと拭き取る。手慣れた動作だった。
 相席の男はそれを体の良いツマミとして、助平な顔で見てビールをひと飲みした。それでふたりの今の現状が見て取れた。そして画的にいいアングルだ。
 関心はあるもののふたりにばかり集中しているわけにはいかない。ワカスギは一向に接客しようとしないホギに向かって話しかける。
「あのー、タクシーの運転手に勧められて、、 アカダさんと言う、、 」
 言葉半ばでホギは立ち上がり、カウンターにまわりワカスギに対面する。
「コレを渡せって、、 」そう言ってワカスギは運転手から貰った名刺をホギに差し出した。
 これを出せばなにか割引が利くとか、サービスがあるとか、何かを期待していた。それであるのにホギは、それをひったくるように手にして、すぐに握りつぶして捨ててしまった。ワカスギはガッカリする表情を読み取られないように堪えた。
 ホギは何もなかったかのように宿泊帳を指先で押し出した。ワカスギはカウンターの上に荷物と外套を置き、従順に宿泊帳にペンを走らせはじめた。もうここに泊まるしかないのだ。
 最初に入った時の不安な気持ちは消えていた。ワカスギが書いているあいだにホギはカウンターから出て、裏扉を開き外に行ってしまった。ワカスギが入ってきた扉は裏口だった。
 ホテルの裏口はモールの通りと反対側にある。10時になればモールの通りは閉鎖されるので、それ以降の人の行き来はモールの外に面しているこの裏口からになる。そんな店があと数件はあった。 
 横付けしているタクシーのドアをノックする。サイドウィンドウが控えめに5センチほど下がり、手が伸びてきた。
 ホギはポケットから取り出したクシャクシャになった千円札を2枚その手に渡す。
「5千円の客の2千円取られたら赤字だ」毎回同じセリフを言うホギに、アカダも同じ言葉を返す「ゼロより3千円のほうがいいだろ」そう言うとすぐに手を引っ込めウィンドウを上げる。
 インセンティブをいただけば長居は無用とばかりに、60年式のローバー製のタクシーは、子気味良いシフトチェンジを繰り返し、その場を後にした。
 静かになった通りで、ホギの耳にアメリカンロックを奏でるピアノの音が、かすかに遠く聴こえた。
 無事一泊すればタクシードライバーに謝礼が入ることになっている。この雰囲気に圧されて尻込みして帰ってしまう客も中にはいた。
 アカダに謝礼を払うのは気に入らなくとも、こうして定期的に客を運んでくれており、助かっているのも事実だった。
 今日はこれで満室となり、ホギひとりで経営している手前、深夜の対応はしないので営業終了になる。表玄関はすでにクローズの看板がかかっていた。
 ろくに掃除もしない部屋に素泊まりさせて3千円ならほぼ丸儲けだった。先ほどのテーブルの男女は別々の客で、ひと部屋づつの支払いだった。もっとも女の方はわけありで満額の支払いではない。
 ただ、これからの流れによっては、使う部屋はひとつになる可能性もある。そしてそれはこれまでの経験上、高い確率でそうなる。部屋のかたずけがひとつで済んで2部屋分の上がりが入いればホギも都合がいい。
 扉を閉じてカウンターの定位置に戻る。ワカスギは宿泊帳とホギを交互に見て落ち着かない様子がありありだ。初めて来た客は常にこんな感じだった。
 かといってそんな客がリピーターになるわけでなく、どこからか漂ってきた宿無しが一夜の泊り先を求めてやって来るぐらいだ。
 サービス精神もなく、儲けにも関心がないホギがこのホテルをいまも続ける理由は別にあった。開店当初のことをがアタマによぎる。
 それは懐かしさもあり、時の流れの儚さもあり、現状の虚しさも同時に去来して、鼻の奥にツンとした油の染み込んだ木の匂いが蘇り、何とも言えない気分になる。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(コンビニにて 3)

2024-09-15 20:18:34 | 連続小説

 会計を終えた老婆は、そちらに目を配ることもなく、ようやく精算できた荷物を持って出口に向かいだした。エコバック2袋分だ。店員はたどたどしいニホン語で「ありあとごらいまひたあ」と言って見送る。
 あれだけ迷惑をかけておいて、老婆は店員にも、フードの女性にも、お礼の言葉ひとつ述べず老婆は去っていった。それが当然のことだという認識なのか、別に迷惑をかけている認識がないのか。
 当のふたりも、そんなことは気にしていないようで、フードの女性と店員は顔見知りといった然で、何やら一言、二言会話をすると、店員は肩を上げて、おどけた風で困った顔をして見せた。
 彼女達の様子を見ていると、よくある日常のひとコマであるように見え、対照的にその後ろに座り込んでいる男は、レジ前のフロアで大きなカタマリと化している。茫然として目がうつろのままで違和感しかない。
 誰も座り込んでいる男には、声をかけようとしないし、かけられない。すると何人かが手にしていた端末で、その男を撮影しようとした。すかさず振り向いた女性は、フードの奥から冷徹な眼を光らせる。
 何かを言ったわけでもないのに、誰もがかざしていた端末を下ろして、その目を見ないようにした。彼女の先程の行動、物言わせぬ眼光に、誰もが圧倒されていた。
 会計を終えた彼女は膝を折って、へたり込んでいる男の耳元に口元を近づける。何か言葉をかけているのだろうがまわりには聞こえない。
 何事か言い終えた彼女は立ち上がって店から出ていった。ドアの開閉時に流れるメロディがこれほど不似合いに聴こえるのもめずらしい。そんな殺伐とした店内が残されていた。
 なんだか出来すぎた一幕であり、テレビカメラがどこからか出てきて、番組の企画であることをネタバラしするのではないかと言う声も聞こえた。そんな笑いでこの場を取り成しすことを望んでいるのだ。
 男はユラユラと、魂が抜けたようにユラユラと立ち上がり、何も買わずに店を出て行った。その手には何も持っておらず、レジ横商品か、タバコでも買うつもりだったのか。
 後ろ姿の男は、グレーのスウェットの股間にシミが見えた。それで座り込んでいた床に目を移すと、薄っすらと水が滲んでいた。それは水ではなく失禁の痕だった。
 彼女のシャドウで肝を冷やし、そんな事態になっていれば、恥ずかしくて反撃するどころか立ち上がりもできない。さっきの耳打ちはそれを言い含められたのだろう。これでは捨て台詞も吐けず、そそくさと退散するしかない。二度とこのコンビニでお目にかかることはないはずだ。
 レジの店員が商品を補充していた店員に共通言語で声をかけた。コミュニケーションが取れるなら、どうして混雑しているときに声をかけなかったのかと誰もが思ったはずだ。
 呼ばれた店員は、言葉ではなく、何故そうするのか理由がわからないらしく、何度も訊きなおしている。バーコードリーダーで商品をスキャンしながら、時折その店員の方に目をやって急がせているレジの店員の声が段々と荒っぽく、大きくなっていく。彼は彼女をなだめるような口ぶりで、指示にしたがう返事をしたようだ。
 一旦、バックヤードに入った店員はモップを手に戻ってきた。レジの店員は、腰に手を当てて、男の店員にひととおり言葉を浴びせたあと濡れた床を指さした。
 男の店員は大げさに両手をうえに上げ、なにやら言い返している。どうしてこんなところが突然濡れているのかを問いただしているのだ。自分がそうでも訊いただろう。ただその答えは聞かないほうがいいとユウヘイは気の毒がった。
 男の店員は、今頃になって店内の異変を察したようで、レジの店員とやり取りをかわす。なんてことだとばかりに片手を上げるが顔は笑っていた。レジの店員もこの時ばかりは薄ら笑いをした。なにか気の利いたことでも言ったのだろう。
 彼らの共通言語が理解できず列に並ぶしかできない人々は、なにがおかしかったのか全くわからない。おかしなもので人数はコチラの方が多く、この国の原住人であるのに、なにか疎外感がありバカにされているような気持になる。
 言語が通じないのは、なにか暗号でやり取りしているのと同じで、解読できない文章は人々に不安をあたえるし、それが元で諍いが起きる。
 同じ言語でも意味が通じ合わなかったり、通じても対応しなければ同じことで、先ほどの老婆とのトラブルを見ていれば争いの火種はどこにでもある。
 レジの店員は再び無表情になり、レジ打ちを続けながらアゴ先で隣のレジを差す。カウンターを開いて男もレジ打ちに参加した。
 その後の店内は、先程の騒ぎなどなかったかのように、いつもの風景に戻っていった。列は順調に流れていく。先程の騒ぎを知らない新しい客も入ってきた。彼らには日常の光景でしかない。
 新鮮な空気が入って来なかったから、列が滞っていたのではないかとさえ思える。それほど先程までの店内は息が詰るほどの圧迫感の中にいた。彼女がそれらをすべて解き放っていった。流れが止まって血が濁っていた動脈が、再び滞りなく流れ出したのだ。
 それと同期するようにユウヘイは、じわりじわりと血が沸き立っているのを抑えられなかった。楽しみにしていたボクシング中継が、自分でも不思議なくらい、どうにでもよくなっていた。
 目の前でおこなわれたノーヒット・ノックアウト劇は、それほど印象的で圧巻だった。当たってもいないことがそれをさらに増幅させていた。では当たったらどうなるのか。その想像を掻き立てられた。そして、それ以上の興奮をテレビから得られるとは思えなかった。
 今にして思えば列に留まっていてよかったと、自分の判断を珍しく評価した。プロテインバーの男に見習って、離脱していれば、あの場に立ち会えなかったのだ。
 あのまま家に帰っていれば、ビールを飲めなかったことを悔やみながらも、テレビ中継で疑似体験から得られる脳内分泌物に興奮感情を操作されて、気分の高揚の中にあったはずだ。
 それとともに楽しみが終わってしまったことへの虚しさも同居する。それは過去の悦楽体験の追随であり、経験のうえで得た精神浄化を呼び覚ますための儀式でしかなかった。過去の事例の繰り返しの域を超えることはない。
 彼女が何者なのか知りたかった。店員とも顔見知りのようだった。この近くに住んでいる常連の客であるはずだ。ユウヘイも仕事帰りによくこのコンビニを利用していても、これまでは時間帯が合わなかったのだろう。
 どこかのボクシングジムに所属しているのか、それともボクサー崩れか、単なる喧嘩で鳴らしてきたツワモノか。
 ユウヘイは、自分の目利きを確かめたかった。女子のボクシングはこれまでは観たこともなく、所詮パワーもスピードも男は比較にならないと見ていた。
 それなのに、間近で見た名も知れぬ彼女の得も知れぬ能力はどうだ。こうして自分の心を鷲掴みにしている。男より強いとか、男に比べてどうだという比較論ではなく、ユウヘイの中では、彼女という存在自体が重要になっていた。
 ユウヘイもようやくビールを買うことができ、会計を済まし店を出た。店を出てみたら少し気持ちが落ち着いてきた。熱狂の渦の中で少し気持ちが昂ぶり過ぎていたようだ。
 冷静に考えればおかしな事ばかりだった。別世界にでも引き込まれていたような錯覚に陥りそうだ。
 最初は誰もがお年寄りに迷惑してれいた。レジ打ちにも、もうひとりの店員にも不満があった。店のオペレーションにも問題がある。
 どうしても嫌なら列に並ばず買わないという選択もできる。多くの損得勘定の中で、自分の選択肢を正当化するために、誰かの不備を詰ったり、とにかく人のせいにしていた。
 そこで人々の不満を代表するかのように立ち上がった者が、そのやり方のマズさもあり、周囲の同意を得られずにスケープゴートとされた。
 あのとき列の誰もが事態が収束するとは思うどころか、余計に拗れると悲観した。男が手を出したためにそれが決定的になるはずだった。
 それが一瞬にして事態は解決してしまった。やり方はどうであれ、彼女の一撃ですべては無しになっていた。それが皆が畏敬を持って彼女を見送った要因なのだ。
 決して正しい行いではなかったはずなのに。混迷化しようとしていた事態を収めただけで、その価値は高められ、暴力は無しになった。
 その激情に飲み込まれたのはユウヘイも同じだった。物事の真偽は正論ではかたれない。悪貨は良貨を駆逐することもあれば、異物が悪巣を浄化することもあるらしい。行いの良し悪しを超えた異景を目にしたとき、人はこうも従順になってしまうのか。
 何時だってそんな机上の理論をぶち壊して行くのは、凡人が妄想してひとり悦に浸ることを、実際にやってのける常人離れした行動だけなのだ。
 夜風にも当たり、さらに気持ちが整理されていくと、ひとつの疑念が深まっていく。当たってないとしても、あの状況は彼女に取って不利なのではないかという心配だ。
 画像の撮影は止めさせたが、削除したかはわからない。コンビニなので防犯カメラの画像もある。誰かが面白がって投稿し、拡散されて話題になったりすれば、防犯カメラを確認することに発展して、あの男の出方次第で過剰防衛として訴えられることも否めない。
 そこで彼女がプロのボクサーであれば深刻な状態になる。そうでなくても今の時代は、たったひとつの汚点で、それがいくら過去のことであっても、責任は、いま取らなければならず、それが元で表舞台から降ろされることもある。
 なぜかしら負のイメージが進んで行く。自分が見つけた原石が、こんなことで消し去られるのではないかという、期待値の損失を怖れている。まだ何者でもない彼女にここまで肩入れしてしまうことに苦笑いして肩の力を抜いた。
 専門性の高い人間が、自説を説いていくうちに、暴走してしまい着地点から離れてしまうこともある。彼女が巻き起こしていった劇場に飲み込まれているのだ。
 そうしてユウヘイは、ビールを家まで持ち帰ることはせず、プルトップを開け、ビールを煽るとブラリとモールの通りを進んで行った。
 一台の古い外国車がユウヘイの横を駆け抜けていった。普段なら舌打ちをするか、悪態をついていたところだ。ユウヘイは何か自分の存在意義を見つけた気になり、いつしか足取りも軽くなっていった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(コンビニにて 2)

2024-09-08 18:05:17 | 連続小説

 3番目に並んでいた男が遂にこらえきれず声を荒らげた。蓄積された時間が長いだけに、その爆発力も比例している。それはユウヘイが言いたかったことを代弁していた。と同時に口に出さなくて良かったと安堵した。もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない。
 これはどう見ても悪目立ちしただけだ。あーあ、やっちゃたよと言うような、周りも賛同の声を上げるわけでなく、むしろ冷ややかな目で見ている。男は短絡的行動をとる、不寛容な人間に振り分けられた。
 ひとつ前のフードの女性がピクリと肩を動かし、男の声に慄き不安を感じたようで、読んでいた本を閉じ手に持ち替えて、何が起きたらすかさずその場を離れるつもりなのだとユウヘイは推察した。
 これまでヒソヒソと異口同音を唱えていた者たちもピタリと口を閉ざした。あれだけ好戦的な口を叩いていた後ろの高校生達も、あいつ最低だなと、自分達が口にしていたことを棚に上げて手のひら返しだ。
 周りの雰囲気に勝ち馬を得たと、行動に出た途端にハシゴを降ろされる。ユウヘイも、そんな時勢の波に乗りそこねる英雄気取りをこれまでも何度も目にしていた。
 列に沈黙が流れる。別の意味で並んでいるのが辛くなっていた。聞こえないふりや、気づかない振りにも限度がある。男がまわりに目をやり、賛同はないのかと強要してくる。
 そんな状況あってもお年寄りと店員の態度は変わらず、お金を数え続けている。店員と普通に会話しているので、耳が遠いというわけではないだろう。自分のことだと思っていないのか、だとすれば認知機能の劣化を疑がいたくなる。
 これで収まらないのは声をあげた男だ。誰にも同調してもらえず、お年寄りやレジに無視されて面白いワケがない「何だ、オマエら。そう思わねえのかよ」さらに憤る。
 他の人たちは見てはいけないものを避けるように、目を反らしたり、下を向いたりする。同じ不満を持った者たちの代表者として声を上げたはずなのに、これでは唯一無援の反乱者になってしまっている。
 ユウヘイは嫌な予感しかしなかった。やり場がなくなった怒りの矛先がどこに向けられるのか。どうしたってあの老人に危害がおよぶだろう。
 イメージしてみた。自分が列を離れて、あのオトコの元に歩み寄り、”よせよ、もうすぐ終わりそうじゃあないか、そんな言い方したら、焦って余計に時間がかかるだけだ”とたしなめる。
 男は怒りに任せてユウヘイを突き飛ばそうとする。ユウヘイは、伸びた手を払いのけると、左足を軸にして鋭い右フックをアゴ先に。ただしヒットする紙一重のところで寸止する。自分のお気に入りのボクサーの得意技だ。そうして男はその衝撃だけでヘナヘナと崩れ落ちてく。
 首を振って苦笑いする。できるわけがない。単なる格闘技好きが観ているだけで自分でもできるような錯覚を覚えてしまうのはありがちだ。小さなころからケンカひとつしたこともないユウヘイが、そんな行動に出ればいろんな意味で大怪我をするだけだ。
 お年寄りは財布の隅にある小銭が取り出せないようで、震える指先でほじくり出そうと必死で周りに気が行っていないのか、それともそもそも気にしていないのか。後者であれば相当な胆力だ。
 レジの店員にしても同様で、なににしろ男の怒号で竦み上がっている様子はない。その時点でユウヘイの妄想は的はずれだ。
 これはある意味最強のふたりだ。そう思うと、一体誰のせいで自分たちがこんな目に合っているのかと、迷惑を被り続けているこちらの身にもなって欲しい。
 男はついに行動に出た。高い身長を利用して、前に並ぶ女性の肩越しから手を延ばす。老婆を無理やりにでもこちらを向かせようした。
 ユウヘイはどうなってしまうのかと息を呑んだ。行列に巻き込まれて観たかった番組を見逃したぐらいなら、ありきたりのエピソードだ。それが傷害事件になれば穏やかではない。
 警察沙汰になり事情聴取に協力することになれば、8時のテレビに間に合わないどころではない。
 しかし、その男の右手は老婆には届かなかった。
 ひとつ前にいたフードの女性は、肩越しから伸びる男の腕を本を持った手で払いのけると同時に、右脚を軸に左回転する勢いのままに、男のアゴに左の拳が伸びた。
 稲妻のような一撃。ユウヘイは目を見張った。自分がこんなふうにできたらと思い描いた夢のような打撃を、彼女は現実にやってのけた。
 それでとどまらなかった。彼女のカミソリのように鋭く、切れ味抜群のフックは、男のアゴに当たったか、当たらなかったかぐらいのところで寸止めされていた。強い打撃はなかった。せいぜい触れたと言ったところか。
 男が反撃を想定していなかったことを差し引いても、見事なスッテプと切込みからの攻撃と言って良かった。ここはコンビニの店内で防犯カメラもあるだろう。だからこそ彼女もヒットさせなかったはずだ。ユウヘイがそうイメージしたのもそのためだった。その点が一致したことで何か満足感がある。
 背丈の差がありフック気味のパンチは、アッパーになっていたのかもしれない。それもカウンター気味に入っていたので、試合だったらKO間違いなしの決定的な一発だ。ユウヘイが観てきたこれまでの経験がそう言わせた。
 そしてその男は、その大きな体躯を折り曲げて、ヘナヘナと崩れ落ちていく。一体何が起きたのか。ユウヘイもそうだが、列に並んでいた客も呆気にとられる。実は当たっていたのかという疑念さえ起こる。
 何の音もしなかったことが、その疑念を否定していた。あれだけの大男が崩れ倒れたパンチが、無音のはずである理由がない。それが唯一当たっていないと断言できる理由だった。
 そこまで完璧に再現されればユウヘイは薄気味悪ささえ感じる。自分の脳内が誰かに読み取られているのか。スキャンされて電子的に映像化でもされているのかと、あわててアタマを抱えるようにして隠した。
 あの素早い動きと、ヒットさせなくとも男を腰砕けにさせた、死を想起させるほどの内なるパワー。ボクシング中継を楽しみにしての帰宅途中に、思わぬ足止めを強いられた中で、ユウヘイはとんでもないものを目撃してしまったと、イメージとの偶然も含めて興奮状態になっていた。
 自分ができもしないことと妄想した、最高のシチュエーションを現実のものとしてやってのけた。まさにマンガやアニメが実写になり、そこになんの演出も加わらない、大男の撃沈を生で目の当たりにした。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(コンビニにて 1)

2024-09-01 18:07:46 | 連続小説

――あの店員、遅いよな、、
――もっとパッパっとできんのか、、
――あのバアさん買いすぎだって、、
――こんなに並んじゃって、マジ腹立つ、、
 そんな怒りの声が、列のあちらこちらから聞こえてるくる。列の中程に並ぶユウヘイも、気が長い質ではない。そんな声がなければ、自分も憤っていただろう。外野の声がかろうじてユウヘイの冷静さを保たせていた。
 缶ビールをひとつ買いたかっただけだ。ものの数秒で支払いを終えて、家に帰るつもりだった。
 8時から観たいボクシング中継があり、普段通りに帰れば間に合う時間だった。コンビニでビールを買う時間を含んでも余裕はあった。そうであるのに、こんな足止めをくらうとは思ってもみなかった。
 ユウヘイがボクシングに興味を持ったのは、子どものときに見たいくつかの格闘アニメの影響だった。自分もあんなふうになりたかった。でもなれなかった。自分は観る側の人間であると知った。
 次第に生身の闘いを観るようになり、テレビで放送されるようなビッグマッチは必ず観たし、気になる試合でチケットが取れれば生で試合を観に行くこともあった。
 周りにはそんな共通の価値観を持つものはおらず、メディアを賑わすほどのビッグマッチでなければ、誰かとそれについて話しをすることはなかった。今日はそのビッグマッチと言っていい試合だった。それであるのに、、
 年配の女性は食料品を大量に買い込んでおり、さらに外国人のレジに何やら質問をしている。どうやらレジ横のコロッケが欲しいようだが上手く伝わっていない。
 レジの女性は嫌な顔ひとつせず、あたかもそれが当然のこととして、唐揚げか、春巻きか、順番に確認してお年寄りに寄り添っている。そしてこの列をなす状態であっても、動じることなく落ち着いた対応を続けている。
 余程の強靭なメンタルの持ち主か、状況を把握できないほどアタマが回らないのか、どちらにせよユウヘイにとって好ましくはない。
 当の本人の後ろに並ぶフードを被った女性は、買う予定らしき冊子を開いて集中している。買うつもりでも買う前の本を読むのは、立ち読みになるのだろうかと、余計な心配をしている場合でなく、助け舟を出す様子もない姿に腹立たしさを覚えてしまう。
 端で見ていれば子どもでもわかるようなジェスチャーで、やり取りを繰り返しているのに、一向に埒があかない。ユウヘイがレジまで行って教えてやりたいぐらいだが、列を外れて行くのには勇気がいる。
 戻ってきて同じ場所に戻れる保証もない。いやそんなことより周り目がある中で、うまく事態を収める自信が全くない。こういう時にしゃしゃり出て、これまでうまくできたためしがない。それがユウヘイを萎縮させていき、ストレスを増大していく。
 誰もが誰かが何かを言い出すのを期待して、匿名で悪舌をつくことはできても自分からは行動するつもりはなく、見て見ぬふりをしているようで、自分もそのひとりであることに落ち着いている。
 もうひとりの店員も外国人で、奥で商品の補充をしている。この状況をわかって補充を続けているのか、気付かないフリをしているのか、それとも補充をすることが最優先事項なのか。黙々と続けている。
 それを見てユウヘイは、彼にとってレジが滞って客が並ぼうが、それによって店の評判が悪くなろうが、それで客数が減ろうがどうでもいいようにみえた。彼が真面目に働く姿も歪んで見えるほどユウヘイは苛立たしさが募っていた。
 このコンビニはモールへ続く通りの角地にあり、モールの東側の玄関のような存在だ。10時には通りへの進入路が閉鎖されてしまう。建物自体はモールの中にあるが出入り口は、外の大通りに面しているので営業には支障はない。
 モールの組合には入っていても、さすがに10時に閉店ではコンビニとしてやっていけない。そんな例外は他にも何軒かある。いずれも立地条件がうまい具合にかなっている場所だった。そうでない店は受け入れるか、店仕舞いするしかなかった。
 一つ前の会社帰り風の女性が、聞えよがしに言った「あの人、レジやればいいのに、、 」。
 聞こえても彼らには通じないと、わかったうえで言っているようだった。いわば確信犯で、自分は意見を言えるという周りへのアピールをしている。
 街のコンビニで高いサービスを求めることがそもそも間違いで、この程度で甘んじる代わりに、価格が抑えられていたり、人手が確保されることを望んだ結果だ。あえて言葉が通じにくいか、通じないと思わせる異国人を雇うメリットはそこにあるのかもしれない。
 どうやら賛同する者の声が同調を呼ぶことを期待している節もある。何にしろ自分からは動くつもりがない。誰も自分が当事者にはなりたくない。正論を主張することも、匿名の範囲で留めて置きたい。矢面に立って責任は取りたくない。いわゆる選挙の時に誰がなっても一緒だからと、選挙に行かない理由を声高々に言う人たちと同類だ。
 さらにユウヘイの後ろに並ぶ高校生らしき二人連れの会話が耳障りでしかない。
「オレ、ちょっと、文句言ってこようか?」。そうするともう一方は「ガイジン働からかねえな」と、ななめに返答する。
 普段から、そんなお互いの役割が決まっているようで、一方はやりもしないことを口に出して虚勢を張り、一方はその言葉を直接的にではなく肯定する。それがエンドレスに続いていく。
「なあ、おれ言ったろか?」「うん、アイツ、なんでレジしないか、ワケわからん」「あのバアさん蹴ったろか」「ボケ老人、多いよな」そんな、聞いていて噛み合わない、彼らには噛み合った会話が続いている。
 ユウヘイは自分の心がささくれ立っているのがわかる。すべての状況に対して否定的な感情しかわかない。違う状況で聞けば、すべてたわいもない会話なはずだ。
 後ろの若者達の会話に嫌気がさしつつも、ユウヘイも次第に焦ってきた。理解していても落ち着かない。それが自分の弱さであり、そうして自分の性格が一層イヤになっていく。
 ライブ放映されるのボクシング中継は8時からのスタートだ。この日のために有料のコンテンツに入会して、満を持して臨んでいた。選手入場やらなんだかで、15分は余裕を見ても残された時間は多くない。
 試合前の両者の状態や駆け引きも重要な観戦ポイントだ。そこから得られる情報も多く、ビール片手に気持ちを昂ぶらせていく予定だった。
 老婆がようやく買い物を終えたと思ったら、財布の中からクーポン券をいくつか取り出して使えるモノがあるか訊きはじめた。店員も良くわかないようで、一枚一枚手にとっては確認している。まだ時間がかかることが確定した。
 ビールの冷たさが指先からジンジンと伝わってくる。手で握っているとカラダが冷え込んで、それに伴ってビールの冷たさが緩んでいくのでこうして持っていた。
 こんなことなら昨日のうちに買っておけばよかったっと悔やまれる。そうであればこんなところでムダに時間を浪費せず、行列にイライラすることもなかった。
 失敗したときに限って過去の同じような体験を思い出す。運が良かった時もあったのに、自分は判断力の乏しい駄目な人間だと、そんな後悔したことばかりがアタマに浮かんでいく。
 そのあいだにも店のトビラが空いて新しいお客も来るが、この列を見て引き返していく。余程の急用がなければここで買わなければならない理由はない。自分が入ってきた時にこの状態であれば入らなかった。その時に戻りたい。
 自分はココに並んで時間を使ってしまった為に、その損失を取り返さねばならないし、その時間が有益なものであったと認知できる理由が必要だ。今この列を離れれば、その時間が不易だったと認めることになる。
 トータルで考えればそうしたほうが正しいかもしれないのに、自分が離れてからスムーズに列が動きはじめたらと考えると決断できなかった。もうすぐ事態が改善されると信じている。まんまと負のループに取り込まれてしまっている。
 ふたつ前に並んでいた男がしびれを切らしたようにチッと舌打ちをして、手に持っていた2本のプロテインバーを近くの棚に突っ込んで離脱していった。
 スイーツが並べられた商品棚に置かれたそれは、場違いであり握られた跡が残っている。あれではもう売り物にならずに廃棄処分されるだろう。監視カメラに映っていたら、賠償請求されるのだろうかと、ユウヘイは缶ビールを左手に持ち代える。
 あのプロテインバーと違って、散々手にしたこの缶ビールをもとに戻しても、次に買う人が気づくことはないだろう。それは同様に自分が手にしている缶ビールの履歴も不明といえる。すべては性善説のうえでなりたっている。なにも不具合が起きなければそれで世の中は回っていくだけだ。
 もしかしたら生活に困っている住まいを持たないような人が手にしたものの、お金が足りなくて仕方なく買うのを諦めたかもしれない。トイレで用を足したあと手も洗わないような人が、どのビールがいいか何本か手にとって見比べて、落選したモノかもしれない。
 もっと言えば、、 とあり得ない想像に走り出し、顔を歪ませるユウヘイはもう一度指先でつかむようにして、接触面を最小にしていた。こんなことをして何の意味があるのかと自分を笑う。
 握り潰されて廃棄処分されれば次の人に渡ることはなく、そう思えばプロテインバーの男は正解なのかと変な納得の仕方をしてしまう。
 ユウヘイはビールをそこらにおいて離脱した自分をイメージした。ここまでで並んでいた時間を無駄にしたくない思いと、この先無駄に消費される時間が天秤にかけられる。プラス、ビールで一杯やりながらボクシングを観る楽しみも捨てられない。同じことを繰り返している。
 クーポン券やらポイントカードの件が一段落したと思えば、次は支払いで新たな問題が起きたようだ。膨れ上がった財布から、小銭をバラバラと出して数えはじめた。
 また時間がかかることが決定した。ユウヘイの意識が自分の制御から外れた。 
「おい、バアさんいい加減にしろよ。こんなに並んでんのがわかんねえのか!」


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(花屋の前から欄干にて 3)

2024-08-25 17:31:07 | 連続小説

「アヤさあ、ホントにオンナなの?」ショウタの顔に悔しさが滲んでいる。
「なんでヨ?」
 アヤは橋の欄干に腕をのせて川の流れを漠然と眺めていた。ショウタは欄干を背に、ボールを体に挟んだ状態で座り込んでいる。モールの通りから離れた場所にふたりはいた。
 ショウタが騒ぎを起こしてモールに迷惑をかけてれば、その尻ぬぐいはマサヨのところにやって来る。忙しいさなかにそんな面倒が増えれば仕事が遅れてしまうと動揺していた。
 ただでさえ、モールで子どもを遊ばせないでと会長からは口うるさく言われており、マサヨのような子持ちでは、かと言って家に閉じ込めておくわけにもいかず、言うことを素直に聞く年頃でもなく思い通りにならない。
 ショウタはただ、アヤにサッカーを教えてもらおうとボールを奪おうとしているだけで、通行人が勝手に集まって盛り上がっていることを自分の所為にされては、たまったものではない。「そんな、、 」
「ゴメンなさいっ!」ショウタが言い訳をしようとするとアヤがそれを遮った。

「アタシがいけないんです。ショウタを巻き込んでしまって、ゴメンなさい、、」ボールを両足に挟んだ状態で、手を後ろに組みアヤはあたまを下げた。
 取り巻きにしていた人垣は、なんだか居心地が悪くなり、まわりの様子を伺いながらその場を離れて行った。いつまでもアタマを下げているアヤに、マサヨもどうしてかいいかわからず、店先でいつまでもそんなことをさせておくわけにもいかず取り成した。
「わかったから、アタマをあげてちょうだい」
「ショウタは何も悪くないです。どうか決めつけて怒らないでやってください」
「アナタ、どなたなの?」見知らぬ女性が低姿勢でショウタをかばっている。マサヨは振り上げたコブシの落としどころを失い、怒りも失せていく。
「サッカークラブの関係者で、ショウタに今日のおさらいを指導してたら、熱がこもってしまい。やりすぎました。別で続きをやりたいので、ショウタをもう少しお借りしていいですか?」
 そういうことならと、マサヨはココではやらなきゃかまわないと釘を刺して、ショウタを預けることを承諾した。その時間で仕事をかたづけようと、いそいそとまた店内に戻ってく。
 そんなやりとりのあとふたりはふらりとモールを歩き、ここに行きついた。なんとなく会話も途切れたところショウタの悔しさがぶり返してきた。
「だってさ、サッカーうまいし。オッパイ、ペッチャンこだし、、」
 すかさずアヤの右足がショウタの足下をつつく。
「あのさあ、ショウタ、、 もう少し言いようがあるでしょ。ピンチを救ったんだし、それ二重の意味で失礼よネ」
「だってさああ、、」そう言いながらも二重の意味がわかっていない。
「アタシがオトコだったら負けた言い訳が立つって思ってるんでしょ。じゃあさあ、そうやってみんなに言ってまわったら? 実はオトコだったから、負けたってしかたないってさ」
 蝶々がヒラヒラとショウタの鼻先を嘲るように飛び回ると、欄干の上にとまり羽根を閉じた。
「ごめんなさい、、」ショウタはぐうの音も出ず首をもたげる。
「ショウタ、サッカーうまくなりたい? それとも誰かのマネをしたいだけなの?」
 とまっていた蝶々がまたヒラヒラと舞いはじめた。澄んだ川には小魚が2~3匹で、流れに逆らって尾びれを振っている。
 何も言ってこないショウタをみて、アヤが続ける。
「アタシはショウタがうらやましい。戦ってくれる相手がいるからね。倒すべき相手もいる。なんだってできる。負けたってやり返せる次がある」
「 、、アヤはいなかったの?」
 ハナシの流れからそうなのかと訊いてみた。アヤは少し間をおいた。訊いてはいけなかったのかもしれない。進むことのなかった小魚は身をひるがえし川岸に進み、流れが弱まったところで回遊しはじめた。
「どうだろ? いたのかもしれないし、見つけられなかったのかもしれない」
 高校生になってからは部活に入らずに、ひとりで練習を続けていた。何かと戦うことにもう疲れていた。自分の技を高めることだけに集中していた。
 比べる対象は何もなく、うまくなったのかどうかもわからない。こなせる技は増えていった。それが何の役に立つのか、どの場面で使えるのか、何もわからない。
 ただ誰とも争わない状況に気持ちが楽になると同時に、もう一度誰かと戦ってみたいという気持ちを、いろんな理由をつけて押し殺していた。
 それが今日、ショウタと戦うことで、ひとつひとつ検証出来ていった。真剣に戦うことに理由はいらなかった。あの日の自分と相対させながら、なによりも本気になっていく自分を止められなかった。
 それと同時にわかったことは、どれだけ練習を重ねてきても、小学校4年の自分を越えられていないことだった。もちろん技術はあの時とは雲泥の差ではあった。
 あの時のカラダの動きは脊髄反射で反応していた。誰よりもうまくなりたいと渇望した。誰にも負けたくないと貪欲だった。いまの自分は技術はあってもその根本的な部分が劣化していたことに気づいた。
 時は戻ってこない。どんなに望んでも。もう一度はないのだ。その時にやるべきこと、やりたいことをしておかなければ後悔だけが後に残る。
「あのさショウタは、アタシと勝負してて、悔しいばっかりだった? 悔しくて何とかしたくって、やり返したくて、、」
 ショウタはジロりと上目遣いになった。悔しかったに決まっている。
「 、、悔しい気持ちがあるうちはいいよ。まだショウタは戦える。でもね悔しがってやるより、楽しんでやったほうがいいんじゃない」
 ショウタはアヤの言う事をポカンと聞いていた。悔しさをバネに強くなるのがマンガや、アニメで見たヒーローだ。楽しんで戦ったらヒーローではない。
 アヤは今はそうでもしかたないとショウタの顔を優しく見た。自分もわかっていなかった。サッカーをすることで敵を作り、敵に打ち勝って認めさせることが目的になっていた。
「自分よりうまい相手がいたらワクワクしない? どうやって倒してやろうかって楽しくてしかたないけどな」
 アヤはショウタと戦ってるとき、いつも笑ってた。それは楽しんでいるというより、バカにされているとしか思えなかった。
「ボクだって、うまくなりたいんだけど、、」
 ショウタはアヤに何を言われても、どうすればいいか判断がつかないままだ。それがわかっていれば、これまでもやっていたし、このままではわからずに日々を過ごしてしまうのも目に見えている。
 自分は本当に上達できるのか、母親に苦労をかけてまでやるほどの価値があるのか、そうまでしてやった結果が報われるのか。
 時折りこんな刺激を受けて少しはモチベーションが上がったりするが、それを継続させるまでの熱量にはならない。そうであったことを後悔するのは、やはりアヤぐらいの年齢になってからなのか。
 あって当たり前の環境を用意されている者は、そのありがたみを知ることはなく、手に入れられない環境にある者は、なにをどうあがいてもその恩恵を受けることはない。
 その分あがくことへの熱量が高まり、自分の力量以上を発揮できることもある。自分をここまで高めることはできたのは逆説的に言えば、目の前にある障害のおかげだったとアヤは感じていた。
「あのね、ショウタ。なんでもできるコがウマくなれるわけじゃないヨ。できることが少なくて、たくさん詰め込めなけりゃ、できたことだけを磨いて自分の武器にすればいい。そうすればその武器は誰にも負けない力を持ち、ショウタが戦うための強い味方になるんだから」
 なんだかゲームの攻略でも指導されているようだった。ショウタは自分ができることが少ないから、仕方がないと言われている気になっていた。サワムラやアヤのようなテクニックをマネするなどおこがましいと。
 すぐそこにある成果は、捕まえられないからこそ捕まえようとして、捕まえるために自分を高め、それでも届かないことで継続し続けることができる。
 手の届く場所に最初からあり、いつでも自分のモノにできるならば、誰が努力を惜しんでそれを手に入れようとするだろうか。
「誰かのせいでこうなったとは思わないように、自分で決めなよ。ショウタは自分で決められるポジションがあるんだからさ」
 ショウタは小さく肯いた。肯いてみたものの本当はアヤの言葉が正解なのかわからなかった。アヤがそう言ったからそうなんだと肯定した。
 ポジションはフォワードがやりたかった。コーチにはフォワードは希望者が多いから、別のポジションも考えておけと言われた。余り見込みがないのだろう。何れにせよアヤの言っている意味とは違う。
 まわりには自分よりうまいコがいっぱいいた。ショウタもそうなりたいのになれない。練習だってしてるのにうまくなる感じがしない。コーチもいろいろ教えてくれるけど、やってみせると少しこまったカオをして、何回もくり返せと言うだけだった。
 アヤは足下にあった小石を蹴って川に落下させた。水面にしぶきと波紋が拡がり、ある場所まで来ると流れに取り込まれて消えてしまう。川は何もなかったように、すぐにいつもの表情へ戻っていった。
 アヤの目にも当然ショウタの不味いところは見えていた。自分ならこうするのにとか、こうすればいいのにとか幾つも注意点が浮かんだ。
 自分はそれを大人から指摘されるのがイヤだった。反発して余計にやらないこともあった。かつて自分に線引きをした大人に嫌悪感を抱いていたはずなのに、自分がその立場になれば同じであることに心が痛んだ。悲しくて涙が出る。
「どうしたの、アヤ? 泣いてるの?」
「ボクさあ、ガンバるからさあ、泣かないでよ。うまくなるように努力するからさあ」
 なんとかしてアヤを励まそうと、ショウタはそんな見当違いのことを言い出した。アヤは洟を啜って涙をこらえた。
「そういうことはお母さんにいいなよ。そんなことよりさあ、ショウタ。どうするの?」
「なにが?」ショウタはおとなの女性の涙を見てドキドキしていた。
「サッカー教えてってハナシ」あきれてアヤがそう言った。
「でも、ボク、ボール取れなかったよ」
「アタシは、イイよ、、 ショウタが望むんなら」
「ホント!? 、、でもボク、アヤにお金払えないよ」
「なにショウタ。アンタ、お金払ってナニ教えてもらうつもりなの?」
 アヤのこれまでおかれた環境と、持ちえる能力を何のために使えるかを考えたとき。それがもしショウタの役に立つならそれでいい。ショウタが持ち得た力が、それを持たない人の支えになるなら、同じようにしてくれればいい。それが自分への対価になるはずだとアヤは思った。
「そういうことは、アタシからボール取れるようになってから言いなヨ」
 ショウタの腹に収まっていたボールをアヤは足先で掻き出す。コロコロと橋の向こう側へボールは転がっていく。
「あっ、ズルいぞ」これはズルいといえた。ショウタは立ち上がってボールを奪いに行く。
 アヤも続いた「アタシね見た目より大きいんだヨ」。変なところで意地を張るアヤだった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(花屋の前から欄干にて 2)

2024-08-18 12:08:15 | 連続小説

 ショウタはボールを自分のモノにしたと確信した。アヤのスキを出し抜いて、あっという間にボールを奪取できたと脳内興奮が全開になった。
 それなのにショウタの足先がボールに触れようとしたその時、ボールは消えて無くなっていた。まぼろしを見ているのかと目をパチクリとさせる。
 ショウタの足先より、一瞬早くアヤの足がボールに触れていた。
 ショウタの目線では見えない部分を足先で引っ掛けるとボールはアヤの元へ転がり、トゥで持ち上げられショウタの背丈の分だけループして背後にポトリと落ちていた。
 勢いがついているショウタは前のめりになり、無様に地面に這いつくばってしまう。その上を飛び越えたアヤはボールを足下に保持し、腰に手を当てて振り返る。
「ズルいぞ!」ズルくはないが、大人げはなかった。ショウタが転ぶように仕向けたプレーだ。
「ほら、どうした? そんなんじゃ、いつまでたっても補欠だゾ」アヤがそう言って煽ってくる。
 ショウタは言われたくないことを面前で公にされて、アタマに血が昇ってしまう。そんな調子では普段できていることさえできやしない。いいようにアヤのトラップに引っかかり続ける。
 アヤは決して手を抜かなかった。子どもだろうが、能力の有る無しに関わらず、勝負事には常に真剣に向き合うつもりだ。
 ショウタにサッカーを教えたくないわけではない。相手に勝ちを譲って手にしたモノに何の価値はないと、自分のこれまでの経験がそうさせていた。
 やれ年下だから、女のコだからと勝負の土俵にもあげてもらえず、お手盛りの勝ちを与えられてきた。そんなものは屈辱でしかなかった。
 アヤもまた小さい頃からクラブチームに入り、おとこの子と一緒にボールを蹴っていた。誰よりも練習してクラブの中では上位のテクニックを持つまでになっていった。
 男女の力量に差が出る年齢になり、他の女の子が辞めていったり、他の女子スポーツに移って行っても、アヤは男子と一緒にプレーした。
 同年代の男子では相手にならず、年上とマッチアップするようになっても、アヤは相手を出し抜いて競り勝つことができた。それなのにアヤが上手くなればなるほど、自分の居所はなくなっていった。
「ほら、行けっ! もう少しだ」
 何を争っているのか知らない人だかりも、子どもがからかわれているようで、判官びいきもありショウタにヤンヤと声援を送りはじめた。
 そうなると恥ずかしさもあって気持ちが空回りしてしまう。慌てて立ち上がりアヤに向かうが足がもつれてもう一度転ぶ。脛が擦傷し血が滲む。
 そんなショウタをさらに小バカにするように、アヤはボクシングで言う所のスウェーで身を引きながらボールを保持する。
 ショウタは追いかけても、追いかけても、すんでのところでボールが逃げていく。アヤがそのタイミングを見計らって、取れそうなところでボールを引いていた。
 あと少しで取れないことが続き、それがショウタのやる気を継続させている。同時にムダな動きが多くなり直ぐに息が上がってくる。
 誰もがアヤと対峙するのを嫌がっていた。そして誰もが真剣にアヤと戦うのを止めてしまった。
 戦いの最中でそうされる分には、まだ仕方ないと割り切ることができた。誰の目にもそれが明らかであり、コーチからも叱責が飛んだ。
 そうすると今度は勝負が終わってから、コーチやアヤがいないところで手を抜いてやったとか、勝たしてやったとか言われることになった。
 全力で戦って手にしたはずの成果は、その言葉で何の価値もなくなって行った。コーチが注意していないのだから本気でないはずもなく、アヤにも自分の能力が優った手応えがあった。それなのに、それは多分にオンナに負けた恥ずかしさをごまかすために言っていることだった。
 オトコ仲間はみんな、そもそもオンナ相手に真剣になるなんてありえないなどと言い捨てていた。アヤには真剣勝負を証明する手立てなどなく、実力で優った手応えがあっても、誰もそれを信じることはなかった。
 孤立していくアヤの居場所は心理的にも、物理的にもなくなっていき、アヤは誰とも戦うことができなくなっていた。
 まわりの大人たちはみんなアヤを慰めた。オンナの子なのによく頑張った。それが枕詞についた。そしてそのあとには、もう十分やったじゃないかと、終わりを示唆する言葉が続けられた。
 どのみち小学校を卒業すれば、女子はクラブに残ることはできない。報われない戦いを続けるだけの動機が溶解されていった。
「ガンバレ、ボウズ!」「それ、そこだ!」など、思い思いの声援が飛ぶ。
 人だかりからのそんな声援に、何かのイベントかと足を止めて、通りがかりの人々がさらに増え、身を乗り出して様子をうかがう。
 今のショウタは、昔のアヤだ。人々は小さなショウタを無責任に応援する。そうあることで自分の寛容性であったり、公平性を再確認している。自分は弱い者の側であることに安心感を持つことができる。ショウタにもいつかそれが逆転する日がやってくる。
 アヤは背後に人だかりを感知したところでスウェーすると見せかけ、右側3メートルほど先に立っていた男性の足下を抜くようにアウトサイドからパスを出し、自分も人だかりから外に出た。
 股抜きをされた男性は驚いて後ろを振り返る。ボールの位置はショウタとアヤとの丁度真ん中で止まった。ショウタは小さいカラダを利用して、自らその男性の股をショートカットして潜り抜ける。
 男性はショウタのジャマをしないよう、地団駄を踏むように足をバタつかせると、ドッと笑いがあふれた。
 ショウタが抜け出した先には、アヤがすでに待ち構えている。悔しがるショウタを嘲笑うかのようにボールをけり上げると、重力を感じさせないようなふわりとした軌道を描き、対向する側の人だかりの前にポトリと落下しようとする。
 そのまま弾んで外に出ると読んだショウタは、人垣の周りを走って反対側に向かう。人々はそんなショウタを目で追いかけ「いそげ」「まにあうぞ」と声をかける。
 みんながショウタに声をかける。そうするとなんだか自分が有名選手にでもなった気分になってきた。全力で動き回ってキツイはずなのに、練習なら足を止めてしまうはずなのに、カラダは軽くボールへの執着心は消えることはない。
 ボールの軌道を考慮すれば、ワンバウンドして人垣を越え、ショウタが先回りしたその場所に来ると想定された。誰もがショウタの読みを肯定して、これで勝負ありだと確信する。
 かくしてボールはバウンドすると人垣の外ではなく、方向とは逆に中心に向かって弾んだ。強烈な逆回転がかかけられており、反対側へ弾むように仕向けられていた。そしてその先にはアヤが悠々と待ち構えていた。
「そんなんで、アタシに教えてもらおうなんて、甘いねエ」
「オーッ」という歓声とともに、拍手がわき起こった。想定外の出来事に、アヤのテクニックに誰もが感心していた。
 時間にして3分も経っていないのに、ムダな動きばかりしているショウタは、さすがに子どもと言えど肩で息をして、次の一歩が出なくなっている。
 アヤはボールとショウタを走らせているだけなので、汗もかいていない。足でボールを押さえつけているアヤに、ショウタは動きを止めてボールを睨めつける。
 動きがなくなり群衆から野次が飛ぶ「どうした、もう降参か?」。そんな声を耳にしてショウタは焦るばっかりで、何の手だても思い浮かばない。
 これだけ良いようにかわされては、やみくもにボールを追っかけてもムダだとは、こども心にもわかっている。勢いで戦える時間も終った。相手を疲れさせるどころか、自分だけが疲労困憊だ。
 自分を応援してくれていた人たちも、ショウタの不甲斐なさや、ボールを取れそうもない手詰まりに、今やアンチに変わってきている。アヤの次の技に期待しはじめている。そうすると増々力が削がれていくようだ。
 一体自分は何と戦っているのか。それはアヤも同じであった。戦う自信があるのに戦わせてもらえない。対等で有りたいのに拒否され続けた。オンナだからという理由で。弾き出されれば弾き出されるほどに、意地になっていった。戦うべき相手はソレではないはずなのに。
 当時は女子がサッカーを行う環境はまだ整のっておらず、あったとしても主要都市の一部に限られていた。それも誰もが進めるような開かれた場所ではなく、登竜門を駆け登ってきた一部のエリートしか門戸を叩けない。
 さらに言えば、入ったからといってサッカーに専念して生活ができるわけでなく、食い扶持は自分でなんとかしなければならない過酷な現実が待っている。
 こんなところで燻ぶっていては埋もれてしまうと、クラブのコーチや関係者アヤのことを思って、遠方の県にある女子クラブのある小学校への転入を勧めてくれた。
 それしかサッカーを続ける選択肢はなく、仕方がないこと誰もがしたり顔でそう言った。そんな慰め言葉を聞く度に何か敗北を受け入れるようで相容れなかった。それが体のいい厄介払いだともわかっていた。
 アヤの実力を知り、いくつかのクラブが勧誘に来ていた。家から離れた場所に頼る先もなく、そのために引っ越しが出来るような家庭環境ではないため、アヤの耳に入る前に両親から断りを入れていた。ハナからサッカーでメシを食べて行くコに育てるつもりはなかった。
 もとよりアヤもそんなことを望んでいなかった。自分はオトコより上手いこと証明したいわけでも、他の女子と違うところを見せたいわけでもない。ましてや女子フットボーラーの立場を改善するためのアイコンになりたいわけでもない。
 ただ最高の舞台があるならば、そこで戦いたいだけだった。
 クラブチームへはいかず中学校の時は男子のサッカー部に入った。練習はできても、試合に出れないことは承知のうえだった。
 練習をしていて自分でも十分対等にできると確信できただけで、それで十分だった。アヤは小学校の時のように自我を出すことなく、自分のほうができるとアピールすることもなく、男子をプレーでやり込めることもしなかった。
 練習が終われば、マネージャーの仕事もした。道具の片付けから汚れ落とし、部室の掃除にグラウンドのトンボかけ。練習スケジュールの作成から、対外試合の予定組など、キャプテンや顧問の先生と一緒になって準備した。
 そんなアヤの姿を見て、男子は安心したような雰囲気になり、アヤがそのままでいてくれることを望んでいたように、言葉も態度も柔らかくなっていった。
 遠くから自分の個性が塗り固められていくようだった。高校に進んだアヤは、もうサッカーを止めてしまった。
「ショウタ! アンタなにやってんの!」マサヨがこの騒ぎに気付き店先で叫んだ。
 母親に知られることなど考えもせず、戦いに集中していたショウタはビックっと身体を硬直させた。
  


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(花屋の前から欄干にて 1)

2024-08-11 16:55:47 | 連続小説

「スッげーんだ、サワムラ選手。こうして、こうして」
 ショウタは、店先でサッカーボールを足でコントロールする。足先とスネでボールをはさんでから、ボールを中心に足先を一回転させて、もう一度ボールをはさんで止めるトラップを見せようとする。
 小さい足でボールをはさむのにはまだ無理があり、サワムラのやったようにはうまくいかず、すぐにボールはこぼれ落ちて転々と店先に転がっていく。
「ちょっと、店先でボール蹴っちゃダメだって、いつも言ってるでしょ」
 売り物の花に当たったら大変と、話をそこそこに聞いていた母親のマサヨは、ボールが転がってくるのを見ると驚いてすぐに制止する。
「けってないだろ」ショウタは口先をとがらせて反発する。
 今日の出来事を母親に聞いて欲しく、あえて店先でやっているのに、そんな言われ方をされて悔しい思いもあり、そんな屁理屈を言ってしまう。
「口ごたえしないの!」不毛なやりとりにマサヨもイラついてしまい、つい言葉がキツくなる。
 今日はショウタが通っているサッカークラブで交流会があり、トップチームの選手がショウタの練習場にやって来た。
 ショウタがあこがれているサワムラが、パフォーマンスでリフティングから相手を出し抜くようなトラッププレーを見せて喝采を浴びていた。
 ショウタも目を輝かせて、サワムラの動きをひとつも見逃さないとばかりに、最前列で食い入るように見ていた。
 帰りのミーティングでコーチに、あれはプロのプレーだからオマエたちにはまだ早く、マネせずに基本のプレーを忠実に練習するようと釘をさされても、ショウタはサワムラのプレーを自分もできるようになりたくて、家に帰ってから練習しようと決めていた。
 交流会には誰もが両親揃って見学に来ており、今日ばかりは母親や父親と一緒に帰っていく。そんなチームメイトの姿を見ながら、ショウタはひとりで家路を急いだ。
 仕事の都合で交流会に顔を出せない母親に、今日の出来事を聞いて欲しいし、この練習を見てもらいたくて店の前でやっているのに、母親のマサヨはかまってられる状況ではない。
 今日はお得意さんからの注文が入っており、明日の納品の準備をしながら、来店客の対応にも追われていた。
 店をひとりでキリモミしているマサヨは、クラブの集いがあるからといってその度に休むわけにもいかず、これまではすべて欠席していた。ショウタに寂しい思いをさせているのはわかっている。
 それも高い月謝を払うために少しでも売り上げを伸ばさなければならないからと、入会するときに約束していたことであり、人手が足りなくてもバイトを雇う費用も抑えるために、ひとりで頑張っていることもショウタに理解して欲しい。
 ショウタもそれはわかっていても、まだ小さい子どもだ。かまって欲しい日もある。特に今日のような特別な日であれば興奮も抑えられないだろう。
 マサヨにしてもそれは重々承知していた。それなのにキツく当たってしまう自分にもストレスを感じてしまう。マサヨは肩をすくめて店の中に戻っていく。
 頬を膨らませて、腹いせもあってボールをモールの通路に向かって蹴飛ばすショウタ。力なく転がっていくボールは通行している女性の足に当たって止まった。
 ショウタがゴメンなさいと言おうとすると、その女性は足の甲ですくうようにボールを持ち上げ、つま先をクイッと上げてボールを宙に浮かせ、膝でワンクッション経由して額の上でピタリと止めた。フードがあたまからずり落ちて、ショートのブラウンヘアーが少し揺れる。
 一連の流れるような動きにショウタの目は奪われた。女性はアゴをあげたまま額の上でボールをキープしているので、ショウタの方を見下ろす。
「キミのボール?」ショウタは声がでない。コクりと首をタテに振る。
 女性は首を横にして落下させたボールを肩で弾ませてから、左足でボールをコントロールしてショウタの前で弾ませた。ワンバウンドして胸の前に来たボールをショウタはキャッチした。
「コラー、手ェ使っちゃダメだろ」膝丈のチェックスカートの腰元に両手を添えて、ショウタにクレームをつける。
「おねえちゃん。じょうずだね。プロの選手?」
 女性はその問いには答えず、ゆったりとしたTシャツのハーフ袖から、細身の腕を伸ばして指先でボールを寄こせと合図した。ショウタは手にしたボールを下に落として、彼女にヒールパスを出した。
「わたしは、アヤ。まだプロじゃないけどね、、 」
 コロコロとアヤの足下に転がるボールは、スッと前後に入れ替えた右足底で止めてから、素早く足裏で滑らせた。紺色のスニーカーが踊るようにステップを踏む。ボールは逆回転がかかって跳ね上がり、踵で蹴り上げられる。
「キミは?」ボールはアタマを越して、シルバーのネックレスが揺れるアヤの胸元を通り、Ⅴ字にした足首にスッポリと収まった。今日サワムラが見せた止め技と同じだった。
 名前を聞かれたと判断したショウタは、名前と小学校4年であることを伝える。「フーン」とアヤは言い、振り上げた右足からボールを放ち、前かがみになって両腕をいからせた肩甲骨のあいだでボールを止めた。
 顔の位置がさがってショウタの目線の位置まで降りて来た。
「おねえちゃん、スゴイね。どうしたらそんなにうまくできるの?」
「ショウタもサッカーやってんでしょ? だったらさ、ボールといっつも一緒にいなきゃ」
 そう言ってアヤは背を正す。背中のボールがスルスルと、アヤのお尻から太もも、ふくらはぎを通って再び踵で蹴り上げられる。今度は持ち上げた膝の上に吸い付く。
「おねえちゃんも、そうしてうまくなったの?」
 膝の上にあるボールを凝視しながら言うと、その目線が下にさがっていく。アヤが折り曲げていた足を延ばしてボールを足先まで滑らせていく。
 ボールが脛をつたって足先に来ると、ボールを回転させながら右足と、左足で交互にリフティングを繰り返しはじめた。それが答えなのか。
「ねえ、アヤ、ボクにサッカー教えてよ」
 ラフな格好の女性が、ショッピングモールの真ん中でリフティングを繰り返していればどうしても目立ってしまい、少しづつ人の輪ができはじめていた。
「さんづけしなよ。まあアヤでいいか、、」
 ショウタもアヤもそんなことはお構いなしに話しを続ける。
「クラブに入ってんだろ?」
 アヤはショウタの着ているクラブチームのユニフォームを見て、自分の胸を差してそう言う。クラブのネームが印刷されていることを伝えている。
 トップチームのジュニアに所属していると知れてしまい、ショウタはいまさらながらにユニフォームのチーム名を手で隠す。
 小学校4年生で試合にも出してもらえない。練習と言えば基本の反復ばかりだ。それが重要なことだとはわかっていても、一生懸命やる動機にはどうしてもつながらなかった。
 子ども心にも会費の支払いで母親に迷惑をかけていることも気になっていた。こんな調子で続けていてもうまくなれる気がしなかった。
「なあ、いいだろ? おしえてよ」
 リフティングを続けるアヤに脈があると、ショウタはたたみかけてくる。
 ボールを中心に足先をクルリと回し、また足先でつつく。そんな小技をからめると、まわりの人垣から歓声があがる。ショウタは自分の手柄のようにまわりを自慢げに見回す。
「わたしから、ボールを奪うことができたら教えてあげてもいいかな、、 」
 そう言うとアヤは宙を舞っていたボールを地面に転がし前方1mの場所にセットした。
「えっ、ホント?」言うが早いかショウタは、すかさずそのボールに喰いつこうとする。
 瞬時のことでアヤも気を抜いていたのかもしれない。あっというまにショウタの足先がボールに届く。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(出会いの広場で 3)

2024-08-04 21:58:15 | 連続小説

 あのーと、突然呼びかけられて、ダイキは驚いてそちらに目をやる。
 大人しそうな女性が申し訳なさそうに立っていた。
「スイマセン、ここのピアノの演奏は8時までなんです」
 さらに申し訳なさそうに、消え入るような声で何かを指差してそう言った。ダイキがその指の先を見ると、木枠に立てられたボードに、ピアノの演奏に関する但し書きが貼られていた。
 ”演奏は午後8時まで”確かにそう書かれている。酔いざましに飲み屋から歩いているので、かれこれ10時は過ぎているだろう。
 ボードがある反対側から椅子に腰かけたので、ダイキは気づいていなかった。謝罪の意味でアタマを下げ、長居は無用と腰をあげようとすると、アキがあわてて言った。
「いえ、悪いのはわたしなんです、、」
 ダイキは意味がわからない。少し首をひねる。
「 、、わたしが忘れてたんです。本当は8時になったらピアノのカバーを下ろして、カギをかけてシートをしなくちゃいけないのに。それを忘れてて、、」
 通りがかりのダイキに、それを釈明しても仕方ないはずだ。ダイキは咎めるつもりもない。
 近頃ではそういったミスをなじったり、逆ギレすることもあるので下手に出ているのか。それに酒が入っているとわかるダイキを警戒するのも仕方がないところか。
「いえ、悪いのはこちらです。注意書き見落として。それに、それを見なくたって、こんな時間に非常識ですよね」
 なるべく丁寧に、相手に対して敬意を込めてこたえた。
「あっ、いえ、ピアノの音が聴こえてきて、思い出せてよかったです。以前も忘れてた事があって、それも夜中に音が流れてきて、慌てて止めに行ったら、酔っぱらいサンで、、 出してあるから弾いてもいいと思うだろって、怒鳴られて、それで随分と長い間、お叱りをうけて、、 」
 アキはそう言って下を向いた。やはりダイキが想像した通り、そんな過去の苦い記憶が彼女にはあったのだ。お叱りなどと柔らかい表現をしているが、多分相当に絡まれたのだろうと想像がつく。
 同じように酒が入っているダイキに警戒をするのも仕方なく、さらに前例をあげて、同じようなことをして欲しくないと、予防線を張っているようにも見えた。
 小柄な女性と自分のような男では、恐怖を感じてもしかたない。ダイキとしては、そんなヤツと同類にされるのも心外なので、なるべく冷静に、温和に話をする。
「あなたはここのモールの管理者の方ですか? 大変ですね、こんな遅くまで」
 夜中に気づいたということは、店舗に住み込みで働いているか、管理会社で夜間管理を担っているかどちらかとの読みだ。店舗で住み込みしているならば、立ち入った話になるので管理会社を先にした。
 ただ、彼女の容貌からは、夜勤の警備を仕事にしているようにはとても見えず、気を使って話すにしても無理があったかもしれない。
「いえ、あの、ココって、新しい感じのモールなんですけど、昔の商店街の名残が残ってて、月一回ぐらい各お店で夜当番があるんです。だからつい、、」
 だからつい忘れがちなのだと言いたいのだろう。アキは下を向いて所在なさげになった。ふたりのあいだに言葉が途切れ、しばらく静寂が流れた。
 その時、どこからかオトコの荒くれた声が聞こえた。アキの顔にサッと不安がよぎった。心臓がつかまれたように痛んだ。この良き日に悪いことは起きて欲しくない。
 ダイキも耳をすませた。アキの顔から血の気が引くのが目に見えてわかった。何かあれば自分が手助けするつもりだった。
 次にイヌが鳴くような声が2回、3回と聞こえ、そしてまたモールは静まりかえった。ダイキは大丈夫とばかりにアキに何度がうなずいて見せた。
 今度は広場につながる通りに足音が聞こえてきた。そのリズムだと走っているようだ。ダイキは立ち上がりその方向を見た。女性らしきランナーが駆けていく。アタマから被ったフードの中から、こちらをチラッと見たようにみえた。
「あのひと、イヌに突っかかって吠えられてもしたんでしょ」
 ダイキはそう言ってアキを安心させようとした。
「えっ、ああ、はい、そうみたいですね。よかった」ホッと、安堵するアキ。
 これでは彼女に夜警など無謀すぎるとあらためてそう思った。ダイキもこのまま帰るには忍びなくなっていた。言葉をつながなくてはと、それにしても、、
 そう言い出しながら、何を言うべきか考えている。アキは上目遣いに顔をあげる。
「、、大変ですね、、」
 どうにか出てきた言葉がそれだった。最初にも大変だと言っており。大変なのを認めさせようと、必死になっていると思われるようで何とも気まずい。
「そうなんです、、」そうアキは合いの手を入れてきた。
 ダイキの苦し紛れに、アキの不満がつながったようだ。さきほどの恐怖から解き放たれて、たまっていた言葉が排出された。
「いくら当番とはいえ、どの店にも同じように夜警をさせるのは無理があると思うんです、、」
 確かにダイキも最初に気になった部分であった。酔っぱらいに絡まれてトラウマになってしまうメンタルで、それ以上の状況に対応できるとは思えなかった。
 どんなお店に勤めているのか、線の細いこの容姿では、犯罪を未然に防ぐどころか、二次被害につながりそうで心配になる。今の状況を見ても明らかだ。
「 、、それにウチみたいな新規出店の新参者は、回数も多いんです」
 愚痴られても何の解決案もなく困ってしまうダイキだが、今はアキの話を聞くことが大切だ。
そうだったんですねと労う。きっとモールの組合で、そういった力関係が働いているのだろう。
「さすがに危険だと感じたら警察を呼びますけど、だからと言って安易に通報もできないし。どこからって線引きが難しいんですよね」
 その結果、酔っ払いにご指導ご鞭撻をいただいたのだ。
 ぐるりと通りを見渡すダイキ。いくつもの店舗が死んだように並んでいるだけで、生活感は伝わってこない。昔の商店街なら通りに面する場所に店を構えていても、奥が住居になって人が住んでいたので治安も保たれていたのだろう。
 今時なら、防犯カメラとか、警備会社に委託するのが無難なはずだ。
「確かにそうですよね。下手なこと言えば、その人みたいに逆ギレされるかもしれないし」
 あくまでも自分はそちら側ではないとダイキは含みを込める。アキは目を閉じてうなずいた。自分の中にあったわだかまりがスッキリして開放的になっていた。
 今日は思い切った行動がすべて良い方向に進んだ。そういう日は何をしても成功する。そんな一日になった。ならば最後にもう一つだけ願いをかなえたい。
 一方のダイキはそうではない。今後の人生を左右する重大局面にいた。さしあたっては妻にどのように言い訳するかを考えねばならない。それなのに何か夏休みの宿題を後回しにするように、現実を遠ざけていた。
 アキはピアノの椅子に腰かけてしまった。ダイキは本当は早くピアノから離れたかった。警備の話しをしたのもピアノの話題に振られたくはなかったからだ。
「素敵なメロディでしたね。何だか昔、聴いたような? 聴いたような、、」
 アキがポツリと言った。
「、、、」
 ダイキの目論見は残念ながら叶わなかった。ストレートにその部分を付いてこられ、ダイキはふたつの意味で苦笑いだ。
 さすがにダイキも時間帯を考慮して、小さな音で弾いていた。思い出しながらであったし、スローテンポになったことも合い間って、余計にバラード調になってしまった。
 本来のテンポではないからか、それともリズムが悪いからそう聴こえたのか、いずれにしてもオリジナルには程遠い曲調になってしまっていたので、それをどこかで聴いたと言われると恥ずかしいばかりだ。
 せめて何と言う曲なのかは聞かないで欲しいダイキだ。
「何て言う曲なんですか?」
「、、、」
 目を伏せて天を仰ぐダイキ。ことごとく向かいたくない方向へ進んで行く。やはり今日は厄日なのか。
「あっ、ごめんなさい、余計なこと聞いて。前のひと、デタラメに弾いてて、今日は音が聴こえてきた時、慌てたけど、聴いたことのあるメロディで、何だか少し安心したんです。きっと前みたいにはならないって」
 またも予防線を張られた。前回の印象がそれほどキツく、よほど辛い体験だったのだと同情しながらも、その経験を活かして、新しい自分を模索している姿も見て取れた。
 誰しも自分だけが弱い人間だと負い目を持っている。なにをしても運がないとか、自分の時に限ってそうなるだとか。そういう負の思いに囚われていては前に踏み出せない。まさに今のダイキだ。
 そんな時は自分より不運なひとを見つけることで、自分はまだマシであると心のバランスを取ろうとする。そんな対比で自分を上げたところで、なんの意味もないとわかっているはずなのに。
 落ち込んでも、またはい上がれる。人生はそんなものと、これまでの経験が示しているのに、今はどうしてもそう考えられない。
 だがそれはふとしたきっかけで好転することもある。はい上がる時に前より強くなっていればそれでいいのだ。いまのアキのように。
 それは自分が弾いた曲に込められたメッセージに近いのではないか。高校の時は意味もよく知らず、語感の耳障りだけでカッコよく感じられていた曲だった。
 大人になってからその訳詞を知り、ストーリー性のある世界観と、勇気づけられる言葉に改めて魅せられたことがあった。

 自分もいつまでも引きずっているわけにはいかない。ダイキはアキの姿をみて、また、こういう場に遭遇して、これは自分に与えられたチャンスなのかもしれないと思いはじめた。
「そうだったんですね。静かに弾いてよかった。でもホントはロックの曲で、もっとスピード感のある曲調なんだけど、高校の時以来で、思い出しながら弾いたから、こんな感じになってしまっただけで、、」
「あっ、やっぱり、そうですよね、、 アメリカンロックバンドのヒット曲ですよね。わたしも若い時によく聴きました。大好きな曲なんです。だから、そのバラードアレンジなのかなって思って、、」
 彼女はいつも、”あっ”と言う感嘆詞から話し出す。それが癖なのか、常に何かに驚き、それを緩和する目的で使っているのか。
「そんな、、 アレンジだなんておこがましい。そんなテクニックなんてないですよ」
 アキがピアノから離れなかったのは、できればもう一度、ダイキにこの曲を弾いて欲しかったからだ。思い出の曲であり、あのタイミングで耳にした曲。今日という最良の日に花を添えるにふさわしい曲だ。
 とは言え、あからさまにリクエストもできない。どうにかしてそういう方向に持って行きたく話を振っているのだが、なかなか思うようにはいかない。
 ダイキも、もう一度この曲を弾いてみたかった。最初の演奏で大体の感触が戻っていた。次に弾けばもう少しマシな演奏ができそうだった。そして明日への希望が見えるような気がした。
 しかし、止めに来た人にもう一回弾いていいいかとは訊けなかった。先ほどの警備の話しにかこつけて探りを入れることにした。
「見た感じこのモールは、店舗に人が住んでいるわけではなさそうですが?」
「えっ、ええ、そうです。どの店も皆さん出勤して来るんで。もちろんわたしもそうなんですけど、この日ばかりは仕方ないです」
 ダイキがなにを気にしているのか、アキにはうすうす気づきはじめていた。
「じゃあ大丈夫だ」そう言うダイキの言葉に、アキは何が大丈夫なのか理解できた。
「大きな音を出さなきゃ、ピアノを弾いても」と続けられ、アキは期待を込めてうなずく。
 遠回りはムダではなかった。ガツガツと結果だけを求めるよりも、関係のない会話から本意に導かれることもある。アキには今日の復習になったようだ。
 ダイキはメロディラインを奏でた。これぐらいなら大丈夫かと目を送る。彼女もそれに応えてうなずいた。
 高校時代に何度も繰り返し、練習して必死に覚えたことは、時が経っても薄れることはなかった。それがこんんなカタチで披露できることになるとは思いもしなかった。
 軽やかなイントロからはじまる。誰もが一度は耳にした馴染のリフだ。彼女も首を振ってリズムを取る。
――独りぼっちの少女と、都会に憧れる少年が、住んでいる場所から旅立って行く、、
 テンポのいいイントロを経て、ダイキが口ずさむと、彼女もそれに合わせて歌い出す。
 サビに入るとダイキは少しだけ弾力を強くした。ただ、鍵盤を押し込むのではなく、直ぐに離して余韻を残さないようにリズムを取った。
 アコースティックピアノのいいところでキーのタッチで好きな音量にできる。それにはじめて弾いて気付いたことが、意図せぬタッチが良い具合の音を出して表現が広がっていくこともあった。
――見知らぬ人が待っている通りに。闇間に希望を隠して暮らしている、、
 ダイキと彼女は身体を大きく前後させてハモっていく。
――街明かりに照らされても、自分の感情を出せずにいる、、
 その想いを吐き出すような間奏に入る。本来ここはギターのソロパートだが、ダイキもユニゾンで弾けるように練習していた。
 ギターが自分のテクニックを見せつけるように、いつもアドリブで弾き出すので、原曲の章節を把握できるように、他のメンバーで決めたことだった。
 彼女もそれに合わせてハミングをする。ダイキは笑みがこぼれた。そして間奏と同じメロディーラインである最後のパート。
――信じることをやめないで、、
 ささやくようにして合唱した。顔を見合せたふたりは笑顔を見せあった。
 エンディングはミュージックビデオでもお馴染みのポーズで決めた。両手を挙げて人差し指を立て天を指す。
 そしてアキは小さく拍手をした。ダイキもそれにあわせた。なにも打ち合わせしなくても、ふたりがそれぞれ持っていた過去の記憶が、ここで折り重なって再現された。
「今度は、営業時間に思いっきり弾きに来てください」アキはそう言った。
 ダイキは微笑んだままうなずいて見せた。しかしお互いに、その時間は訪れないであろうと知っていた。今はこの時間がつくりだしたキセキに感謝するだけでよかった。