private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて4)

2025-01-12 20:16:31 | 連続小説

 ユキは商店街の時代から長年に渡って組合の会長を担っていた。日々すたれていく現状をどうにかせねばと、若い時にメディア関係の会社に勤めていた伝手で、昔馴染みが勤める広告代理店に相談案件として持ち込んで交渉の扉を開いた。
 丁度そのような物件を探していた大手の商社が興味を持って話しが進んで行き、ユキは海老で鯛が釣つれそうだと、予想以上の成果に小躍りしたまではよかった。
 その後の会合を重ねるにつれて、ユキはジリジリと追い込まれていった。コチラの要望を受け入れられ喜んでいると、その奥に様々なオプションが条件規定として盛り込まれていた。
 そして最後に、総合的に考慮すれば、商店街ごと身売りして、商社の傘下となり、モールとして再構築していくことが最良の選択となっていた。
 自分では有利に交渉を続けているつもりであっても、そのように仕向けれていたのかもしれない。そうして最終的には商社に買い上げられてしまったのは目論見外だった。
 相手側の交渉の術中にはまってしまった。それは会社としてチームで仕事をしてくる商社側において、ユキひとりで対応しなければならなかった商店街は余りにも非力だった。
 ユキが困っているときには誰も手助けせずに、商店街の身売りを知りユキを詰る者も少なくなかった。そんなときコウは、何もできずにいた自分を責めた。
 最終的には希望者にはそのまま残ってもらえるように便宜が図られ、高齢で後継ぎがなく潮時とした店は、それに応じた売却費を支払い、新しいテナントに差し替えられていった。
 これほどまで商店街側に寄り添った選択ができるように取り計ってもらえたのは、ひとえにユキの尽力のおかげだった。最後まで先方と粘り強く話し合いを進めた成果だ。
 商店街時代の経営者に顔が利くユリは、そのまま管理責任者として、新規出店者とのパイプ役としても重宝されていた。それもユキが好条件を引き出すために自分の身を削ったことのひとつだ。
 今は既存旧店舗と新規店舗の割合は半々といったところで、新旧混成のハイブリッドなモールは、真新しさと物珍しさもあり、滑り出しは上々となった。
 そんな中でもユキがいつも心に残ることは、本当にこれで良かったという結論が出せていないことだった。既存の店がひとつ畳まれるたびに心が押し潰されるようで、ユキはコウの店で自戒の時を過ごしていた。
 今日は新旧の店舗ををひとつにまとめようと企画した一斉清掃の参加者が、なかなか集まらないことにやきもきして、コウに話しを聞いてもらいたくて店を訪れた。
 コウに話していると新たなアイデアが浮かんだり、モチベーションが回復してくるとユキに言われたことがある。それをわかってコウもユキの話しを黙って聞いていた。
 ただいつもそうあるわけでもなく、そうでない日の方が多い。高い壁はいつだって目の前にそそり立ち、どうあがいても越えられる気がしない。ユキは事あるごとに確認しなければ崩れ落ちそうになる。
「コウちゃんは、コレで良かったって言ってくれるけど、本当に良かったのか、今でもわからなくてね。ミタムラさんだって、あんなジムじゃ本意じゃなかったから、こうしてまたプロボクサーを育てようとしているんでしょう、、」
 ミタムラの名を出したのはそういうことだったのかと、コウダは下衆な勘繰りとも言える様々な憶測を反省した。
「そんなことないですよ。みんなユキさんに感謝してますって。どうしたってあのままじゃ、廃れていく一方だったでしょう。少しでもいい条件で手放せる、最後のチャンスだったんですよ」
 サンドウィッチの皿が空になったところで、コウはストックボックスから殻付きの落花生を取り出し、テーブルに一握り置いた。新聞紙を折って作った殻入れを添える。
「昔は色んな業種の店舗が混ぜこぜになって、自然と商店街という形になってたよね。駅向こうになんか、ストリップ劇場もあったけど、ぜんぜん違和感ないし、自然と溶け込んでたもんね。コッチにはこんな場末のバーとか、妙なホテルもあるし、、 」
 両手で落花生の殻を砕き、手のひらにこぼれた実を指でつまんで口にするユキ。香ばしい匂いが鼻に抜ける。
「場末って、、 こんなとか、、 」コウは口元を下げて不満をしめしてみせる。
 どんなに自分がいいと思っていても、それが継続していくかは別問題だ。世界は多くのひとが望んだ風景に次々と塗り替えらえていってしまう。
「ゴメン、ゴメン。話の流れよ。それに、いい意味で言ってるのよ。アジがあるってことよ」
 フォローされるほどに、落ち込みそうな気分になっていく。
「それにあのホテルって、ありゃ洋風木銭宿でしょ、部屋だって4室だけだし。帰りっぱぐれたヤツが転がり込むようなとこでしょ」
 ホテルの店長とコウとは、昔なじみの腐れ縁のために言いたい放題だ。ユキはブラックのコーヒーを口に含む。落花生とコーヒーがお互いの旨味を引き立ててくれる。
「そんなこと言っちゃって、ホテルマリアージュって、ビルボードしてあるでしょ。それにモールにだってホテルで申請されてるんだから」と、どこ吹く風のユキだ。
 それならウチだってパブリックバーで申請してるし、屋号もパブ・ペニーレインだと文句を言いたいところだ。
 昔の風景がどんなに良かったとしても、風景が変われってしまえばそれがふつうだと馴染んでしまう。過去を思い起こすから郷愁などといって感傷的になり、それに価値があるように思えてくる。
 ホテルもここも、今のモールには異質な空間でしかない。近いうちに、なんだかんだと理由を付けられて、引き払いになる最右翼のはずだ。
 ここにこんな店があったと覚えていてもらえればいいほうで、更地になればほとんどのひとは、ここがなんだったかと思いだすのにひと苦労して、新しい建物が立てばキレイさっぱり忘れ去られるだけだ。
 最近では馴染みの客はめっきり減ってしまったし、今更新規の客を呼び込むような店でもない。コウは今の店の雰囲気を維持できなければ、続ける意味がないと口にした。
 そうでもないのよとユキが答えた。
「モールのオーナーが、ちょっと変わり者なのは知ってるでしょ。身売りした時、必ず残して欲しい店のリストがあってね。それで結構やりあっちゃって、向こうの条件にも譲歩したけど、コチラの意地も通させてもらったのよ。ああ、オーナーと直接じゃなくて、その使いの人とね」
 コウにもオーナーのことはいろいろと耳に入っている。先見の明があり、買収した企業は必ずV字回付させるなど必ず結果を残してきた人物だ。そんなメディアを賑わすようなカリスマ経営者の割には表に出ることは一切ない。
 それにしても残す店のリストのことは初耳だった。そこにどんな店が書かれているのか、どんな取引がなされたのか、コウも気になるところではある。
「もう、今だから言うけど。そこにね、この店も入ってたのよ。おどろきでしょ」
 驚いたのはコウのほうだった。てっきりユキが口利きしてくれて続けることができたものだと思っていた。それがオーナー側からの希望だったとは。意味がわからなかった。
「もちろん、わたしだって残すつもりでいたけど、向こうから言ってくるから、安売りしちゃいけないと思って、いろいろと条件付けさせてもらったわよ」
 確かに他の店舗でも好条件で継続しているところがある。ユキの出した条件をここまで聞いてくれたのは何故かと、いろいろと悪いウワサにもなっていた。
「夜食までいただいて、美味しかったわ。ありがとね。全部払うから。いくら?」
「いいんですよ。これは、オレもちょっと腹減ってたし」
 そして、コウは自分の店の他に、どの店が同じようにリストに載っていたのか気になった。たぶんそこにはあのボロホテルも含まれているのは察しがついた。
「いいから。ちゃんとレジ打って。消費税もね。もうドンブリはダメでしょ」
 それもコウの悩みどころだった。モールになってから、一日の売上がすべて本部に管理されている。イントラにつながったレジは支給されたので懐は傷まないが、これまでのようにツケだ、奢りだといった客とのやり取りができなくなった。
 モールになって合理的で効率的になり、人情味や家族的な側面は失われた。ユキとしても量の大小に関わらず、立場上タダ飯を食うわけにはいかない。
 コウにとっては昔ながらの付き合いのある人と、そういったやり取りができないのは苦痛な面もある。上から言われたことと割り切るしかない。
 そのような片苦しさが嫌で、モールになってから店をたたんでしまった所もいくつかあった。新しいオーナーのやり方についてこれなければ、早かれ遅かれ店をたたむことになる。
「ユキさん、まさか以前からの店子がいなくなるまで、面倒見るつもりですか?」
「そうね。そこまで会社が雇ってくれればの話だけど。わたしにも意地があるからね。残ってくれたお店には、ちゃんと幸せになれたか見ていてあげたいの」
「そんな、ユキさんが背負うことじゃないでしょ」
「そうなんだけどね。そこにどれぐらいの意味があるかわからないし、誰もそんなこと望んじゃいないだろうけど、なんかね、やりきらなくちゃいけないって思ってる」
 ユキが寂しげにグラスを傾けている姿を見ているのはコウも辛かった。コウが何を言おうと、ユキは最後までやり遂げるだろう。
 ユキにいつまで続けると訊かれて、曖昧にはぐらかすのも、なんとか自分が最後のひとりまで頑張って、ユキの苦労に報いたかった。
「どうして、リストにあったのか訊かないのね?」
 そのためにもユキに迷惑はかけられず、モールのルールは守って面倒を起こさないようにしなければならない。
「そうですね。知らないほうがいいこともあるし、たぶんこの世は、知らずにいたほうがいいことがほとんじゃないですかね」
「コウちゃんは、優しいね。そういうセリフはこんなオバちゃんじゃなく、もっと若いコにしてあげなさいよ。誰か気になるコでもいないの?」
「よしてくだい。自分はもうそういう年でもないし、ガラでもないんですから。それに、、」
 ユキに惚れているというわけではない。人としての恩義を感じているだけで、ユキがこれまでに自分にしてくれたこと、商店街にしてくれたことに感謝したいだけだった。
「、、それに?」
 それを恋愛感情と絡めることはない。男女というだけで上手くいかないこともある。
「若いコとは、こんな話しをしても通じないのはわかってますから」
 殴られた顔のアザは消えようども、心のアザは消えない。コウは殻入れに入った落花生の殻をダストボックスに捨てた。落花生はもうすっかりと食べられていた。
「ゴメンね余計なこと言っちゃって、だから年寄は、って言われちゃうのよね。こないだもコーヒー屋さんのオーナーに夜警の話したら、今どき? って顔さたのよね」
 そう言ってユキは冷めたコーヒーを飲み干す。財布からカードを取り出して、端末にかざす。支払いが終了するとレシートが出てくる。ユキはそれをカットして眺める。
「便利なものね、、」
 便利なことと引き換えに、多くの笑顔を失ってきた。そんな中でもまだ自分を押し通そうとする人たちがいる。進化するだけでは何か違っているようで、後退することで生きることの意味を見つけようとしている人たちがいる。
 モールの夜間照明は、その灯りが届く店と、届かない店を明確に分けていた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて3)

2025-01-05 15:21:59 | 連続小説

 ショウの見送りを終えてコウが店内に戻って来ると、ユキが怪訝な表情をしていた「知り合いだったの?」。
 コウは首を振る「久しぶりにお見えになったんで、またご来店いただけるようにお声がけしたんです」。ユキの大声を詫びたことは言わない。
「なに敬語使ってるのよ」ユキにではない。
「でも、いい心掛けね。リピーターって言うんだっけ? そういうお客さまをひとりでも増やしていかないとね」と、満足気に言う。
 コウはその言葉には曖昧に肯くにとどめた。そんなことよりユキが持ち出した話しを続きがしたかった。
「ミタムラさんのこと、気になるんですか?」
 ミタムラが最近店に来なくなったのはそういう理由かと、ユキの話しを聞いてコウは納得した。ジムが刷新されて、ようやく妻のエイコを楽をさせられると言っていた矢先に彼女を亡くした。
 それからは、この店に入り浸るようになり、深酒を繰り返していた。ユキに随分と慰めてもらっており、コウも少し勘ぐってしまった。
 エイコにこれまでの苦労を労うつもりだったミタムラが、亡くなってすぐに親友だったユキとそのような関係になるはずもなく、やはりその悲しみを紛らわすにはボクサーを育てるしかなかったようだ。
 それにしても女性とはと、コウも耳を疑った。ショウが居たために、込み入ったことは訊けなかった。ユキの回答によっては、どのような会話に転ぶかわからない。
 気にかかっていたのはコウの方だった。だからこそユキの本音を聞いておきたかった。
 しばらく間が空いて、そして何を訊きたいのかを理解してユキが首を横に振る。コウの問いには女ボクサーと、ミタムラとが同時に含まれていた。
「わたしが?」ユキの回答はミタムラへのものだった。
 その否定のしかたに、コウは少なからずの羨ましさを覚えていた。ユキはそんなコウの想いを気にかけることなく、小皿に用意されたドライフルーツをかじり、頬杖をついてソッポを向いて言った。
「どうしたの? 興味ないかと思ったけど、、」
 ユキの目先には昔の映画のポスターが貼ってあり、主演の女優がグラスを手にしている。ユキは見るともなしにそれを眺め、ため息をつく。ため息の理由は幾つもある。
 コウはユキのコースターを新しく差し替え、その上にグラスを置き直した。何だかユキに余計な負担をかけさせてしまったようでコウは後ろめたくなった。そして言い訳してしまう。
「すいません。関心がなかったわけじゃないんですけど、自分の中で整理したり、、 それに、さっきは他のお客さんも居たんで、、」
 コウがそう言うと、ユキは目線を戻してきた。
「そうね、知らない人の前で、ひとのウワサ話しなんてするもんじゃないわね。ごめんなさい。でもねえ、ジムもあんなんになっちゃたし、なんで今更って思っただけよ」
 片付け物をする途中で、古傷が痛むように指をこすり合わせる仕草をするコウ。やはり人差し指に何か理由があるのかもしれない。
「いいんじゃないですか。ミタムラさんが育てるんだ。どんなボクサーになるのか楽しみじゃないですか?」
 ミタムラに女性のボクサーが育てられるか分からないのに、コウはそんな言葉を言ってしまう。
「そう?」ユキの返事は、素っ気のないものだった。
 ミタムラがどんなボクサーを育てるかなんてユキにも興味はない。それを知って、あえてコウはそちらの話しに持って行こうとしているだけだ。
「だってね、メグちゃんもいい迷惑でしょ? どこの誰かもわからないコの面倒みさせられて、結局メグちゃんに負担がかかるだけなんだから。エイコちゃんが大変だったこと未だにわかってないんじゃないの。だからカラダを壊したとは言わないけど、そういうとこ、オトコってニブイのよね」
 本心ではもっと文句を言いたかったはずだ。身に覚えのあるコウは苦笑いを浮かべるしかない。ミタムラの妻のエイコとユキは小学生からの付き合いで、そんなエイコを長い間にかけて何かと気にかけていた。
 ユキが気にかけているのはミタムラだけではなく、家族の全体のことも含んでいた。ただ、それもまだ全部ではなかった。
「目をかけたボクサーを家に連れ込んで、衣食住の面倒をみていたことですか?」
 それは、生活の負担を少しでも取り除いて、ボクシングに集中する環境を用意することと、常に自分の監視の中に置いておくことと、ふたつの理由があった。
 ボクサーは生活の負担が軽減されるとともに、知らぬ間にミタムラの監視下に置かれ、食事にしても、睡眠にしても、性欲にしてもコントロールされていた。
 そもそもミタムラに見出されたボクサーは、その生活のすべてをボクシングに注いでおり、試合のみに集中できるその環境は大歓迎だった。
 そうしてミタムラは、名もない若者をランカーまで伸し上げ結果を出していった。名が売れると彼らはメジャーなジムへ引き抜かれて行った。それなりの移籍金を置土産として。
「ミタムラさんが見ていたのは、ボクシングに関することだけでしょ、あとは食事の準備から、日常生活の全般はエイコちゃんがひとりで賄ってたんだから。その気苦労の大変さをわかりもしないで、、」
「、、そういうとこ、オトコってニブイのよね。と」ユキのセリフをコウが先に取り上げた。
「そう言うこと」ユキは両肩をすくめた。
 ミタムラは手にした移籍金はすべてジムや、次のボクサーへの投資に遣った。ボクサーを家に迎え入れても、その費用は給料内でやりくりさせた。生活は常にギリギリで、それもエイコの心労になっていった。
「それが今回は女のコでしょ。一体どうやって目を光らせるつもりなのか知らないけど。これじゃ、メグちゃんも大変よね」
 ミタムラは女性の生活に、どこまでストイックを強要するつもりなのか。メグが同い年ぐらいの同性に、どこまでのケアができるのか、ユキにはふたつの心配事があった。
「それにしても女ボクサーとは、ユキさん、気が気でないんじゃないですか」気が気でないのはコウの方だ。
「だからあ、そういゆんじゃないって」ユキは口を尖らせる。
 そういった意味合いではなかったが、コウは口が過ぎたとアタマを下げた。
 コウはフリーザーからツナ缶、ハム、マヨネーズに、トマト、レタスなどの野菜を取り出す。そしてストックボックスにある食パンを取り出し、サンドウィッチを作り出す。
 右手の人差し指は伸ばしたままに、包丁を入れてひとくち大に切り分けていく。
「あら悪いわね。これはコウちゃんのおごり? ちょうどお腹もすいてきたし、なんたって夕食抜きで一斉清掃の名簿集めてたからね」
 失言のお詫びのつもりかと、先回りして礼を言うユキは、早速ひとつまみする。
「コウちゃんはいつまで続ける気なの?」
 コウもひとつ口にする。自分が食べるにはマスタードをもう少し効かせたいところだが、ユキが苦手なのを知っている。
「そうですね。半ば道楽みたいなもんですから。出てけと言われるまでは続けようと思ってます」
 ユキは商店街の時代から店を構えているひとたちを何かと気にかけている。新く出店した店のオーナーと仲良くやって欲しいし、新しいモールにも馴染んでもらい、少しでも長く続けて欲しかった。
 そうでなければ自分がここまで頑張ってきたことが無駄になってしまうようで、多くの家庭の生活を変えてしまった是非を見極めたかった。
「道楽ってことないでしょ。これでゴハン食べてるんだし。えっナニ? 他に実入りのいい食扶持でもあるの? 私にも紹介してよ。ていうか日中何してるのよ?」
 誘導尋問にでも引っ掛けられた気分のコウは、ひきつった笑いをする。ユキもこうした明け透けな話しができる相手は、商店街からの付き合いのある人の中でも、そう多くあるわけではない。
「そんなのある訳ないでしょ。雨風しのげる家さえあれば、男がヤモメで暮らすぐらいは何とかなるってことですよ」
 実際その通りだった。無駄づかいすることなく、酒の仕入れ代を優先して、食べ物も贅沢せずに店の残りものなどですませて何とかカツカツだった。
「ふーん、どうだかね。教えてくれないんだ」
 同じ日々を過ごすことだけが自分に課せられた使命のように、コウは粛々とそれを続けている。それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか、わからないままに。
「聞いて面白いハナシなんかありませんよ。そうでなきゃいつまでも独り身でいませんから」
 この話題をおしまいにしようと、今度はインスタントのコーヒーを入れ出した。棚の奥からマグカップをふたつ取り出し、スプーンで適量をすくい出しポットのお湯を注ぐ。
 ユキはコウの触れてはいけない過去を耳にしたことがあり、ことの真意は定かでなくても、言葉は慎重に選ばなければならないと心得ている。
「そう、話せる時が来たら、いつでも耳を貸すからね」ユキもそこに、ふたつの意図を含ませてきた。
「 、、まさかね」やりかえされたカタチのコウは、薄く笑みを浮かべてみせる。
 ユキのグラスはすでに空になっており、そのまま下げてコーヒーをさし出す。ユキはお礼を言ってカップを手元に引き寄せた。ふたりともブラックが好みなので、今回は同じでも問題ない。
 人の心配している場合ではないはずなのに、ユキはこうした気遣いをわすれない。コウは押しつぶされそうだった。気遣わなければならないのは自分の方であるのに。
「ユキさん、あんまり無理しないでくださいよ。オレなんかが言うのもなんですけど、ユキさんは十分やってますから。だけど、それだけでは何ともならないことはあるんです。清掃の件だって、どれだけの人がユキさんの気持ちを汲んでいるか。でも、それも時代です。しかたがないことですよ」
 それは、多くのことを成し遂げたくてもできなかった、コウ自身の思いも含まれている。ひとを動かせるような人間はほんの一握りだ。
 ユキは自分に比べれば周りを巻き込んでいく力がある。ただ、ひとりだけではなんともできない領分まで何とかしようとしている。
 商店街を大きく様変わりさせてしまったと負い目を感じ、失地を回復しようとする行動であり、それが気負いとなり、空回りをしはじめているのが見ていて痛ましかった。
「そうねえ、困難ばかりだけど、それをやらないと、自分が生きている意味がないと思えるの。そうでないと電源を切られてしまうのよ。きっと」
 それにいったい何の意味があるのか、やり続けていったいどうなるのか。ユキもまた、自分にもわからないままに。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて2)

2024-12-29 17:07:19 | 連続小説

 ひと通り言いたいことを言って満足したようで、ユキはビールからカクテルに替えて、ゆっくりと飲みはじめていた。店内に静けさが戻った。
 コウがテーブルを拭く時のダスターが擦れる音や、グラスの水気を取る時のキュッキュという音だけが耳に届く。2杯めを飲みはじめたショウは、そんな清音の中で目頭を抑え、考えごとをしていた。
 日中の母親の動向が心配で、一度だけ行政に相談をしに行ったことがあった。担当の人は見るからに多忙そうで、自席と相談者のあいだで行ったり来たりを繰り返していた。
 ひとつの案件を処理するのに30分はかかっていた。これでは自分の番が来るまで有に2時間はかかるだろう。ショウはその日、会社は午前休を取っており、平日にしかできないことをまとめてこなそうと、色々と予定していた。
 2時間の待ち時間の合い間にそれらを片付けられれば効率がよいのに、予約券の発行があるわけでもなく、応対してもらうにはひたすら順番を待つしかなさそうだ。
 この時間を有効に使えればあれもできる、これもできると、そう思えば思うほど、余計にフラストレーションがたまってくる。
 こういった時間の浪費にしても、多くのひとたちの経済活動をどれだけ阻害しているか、誰か真剣に考えた事があるのだろうかと疑問でしかない。 
 それだけでなくショウは、会社で自分のしている業務と比べて、異世界にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えた。仕事でお客様の一分一秒を無駄にしていては、競合他社に寝返られてしまう。そして、他社よりスピーディーな対応をすることで、他から顧客を獲得することも出来る。
 それを思うとここは隔世の感がある。他に選択肢がない仕事では、他に頼るところもなく、そんな顧客が従順に従う姿に勘違いすれば、サービスの低下につながっていってもしかたない。
 ただショウの会社にしても、スピードでしか勝負できていないからそうなるわけで、他にオンリーワンの技術とか、他社との差別化出来る部分がなければ、脈々と続くスピード勝負にいつしか疲弊していくだけだ。
 時間に勝ることに執着して、仕事の本筋から外れており、その時さえよければの勝ち負けに一喜一憂していれば、将来への展望を考える余地もなくなる。あえてそうしていように。
 ショウも実際に、ここの仕事ぶりを見て、羨ましさも同時にあったのは否めない。結局待ち続けるしかなかったショウは、他の要件をひとつも片付けることもできずに、順番が回ってきたのは正午に近かった。
 ようやく面談した担当者に言われれたのは、近所の民生委員に相談してみたらの一言だった。そんな人が近所にいるのかわからないし、知っていれば最初からそちらを当たっている。
 もっと行政ならではの取り組みとか、対応場所などへの紹介が合ってもよさそうなものだと、そう食い下がるショウに、もう昼休みだから、続きが話したければ、1時になったらまた来ればと言われた。
 ショウは心の中で煮えたぎる怒りを飲み込んで、平静を装い礼を言って、急いでこの場を立ち去った。ここで行政への不満を述べても何も変わらない。この担当者にしても、こうしてこれまで仕事をしてきただけだ。未来を変えようとしているわけではない。
 グラスのフチを指でなぞりながら、コウの仕事ぶりを眺めていたユキが、不意に問いかけしてきた。
「知ってる? コウちゃん。ミタムラさん、またボクサー育てる気になったみたいよ」
 コウは磨ていたグラスを照明にかざし、透明度を確認してから食器棚に置いた。ユキの問には少し首を捻るにとどめた。
「それが今度は女のコだっていうから嗤っちゃうわよね。どこまで本気なんだか」
 そう言ってため息をつくユキは、頬杖を付いてコウの方を見上げる。コウはさあといった風情で両肩をあげる。興味がないのかとユキは、もうそれ以上を言及することはなかった。
 興味がないわけではない。いくつかの思いがあたまの中を巡って、ユキへの対応が疎かになっただけだ。
 あそこはもうボクシングジムというよりスポーツジムになっていた。それも女性客目当てにボクシングエクササイズを売りにしているだけで、もう本格的な設備は整っていないはずだ。
 ミタムラも経営者というより、生活のために管理人の仕事をしているだけだった。あの日以来、人が変わったようにやる気を失っていたミタムラが、再びやる気を取り戻したというならば、よほどの逸材に巡り合ったのか。
 しかしそれが女となると話しは別だ。あのミタムラが、女をリングに上げるなど想像がつかない。前世の遺物のような人間だ。
 女は男がいい仕事ができるように下支えに徹しろというタイプで、ただでさえ表に出ることを極端に嫌っている。それが女をリングに立たせようなど、コウからすれば天地がひっくり返るぐらいの出来事だ。
 棚からシングルモルトのウイスキーを取り出して、グラスに1センチほどそそぐ。ユキに付き合ってコウも少し飲むことにした。
 グラスをユキのカクテルグラスに軽く当て、乾杯をしてひとくちだけ含んだ。今日はもう客足は期待できそうにない。それに混乱したアタマを鎮めたかった。
「わたしにも、もう一杯ちょうだいよ」
 最後のひとくちを口に含み、グラスの底を指で挟んでコウに差し出す。コウも残りを一気に呷って、おかわりのドライマティーニを作り出す。
「時間外手当にしないでよ」酒を飲みはじめたコウに、ユキは憎まれ口を叩く。
「少々飲んだからって、不細工な仕事はしませんよ」
「ふーん、じゃあ美味しくなかったら、コウちゃんのおごりね」
 お互いにいつものやり取りで、漫才の掛け合いみたいなものだった。飲んでいようがいよまいが、コウの仕事が雑になることはないとユキが一番知っている。
「美味しかったらコウちゃんの分も払うから、わたしのにツケときなさいよ」
 それはユキ流の遠回しな言い方で、少しでも店の利益につながるようにコウを気遣っている。それがユキひとりでは、たかがしれているとしても。
 シェイカーにカクテルの素材を流れるように投入したあと、砕いた氷を少し追加してゆっくりとシェイクしはじめる。派手なパフォーマンスをすることなく、中身の状態を見通すようにシェイクしていく。
 ショウは見るでもなしに、横目でその動きを見ていた。動きや流れに一切の無駄がない美しい所作に見惚れてしまう。
 何故か右手の人差し指は、何をするにも伸ばしたままで、何か不具合があるのか、そうしておく理由があるのかショウにはわからない。
 ユキは知っているのかもしれず、今さらそれについて言及することもない。コウはそれで美味しいカクテルを作り出す。そこに何の理由があろうと知る必要はない。
 何度かこの店で飲んでいたショウも、これまで気にもとめなかったコウの仕事ぶりがやたら気になり、今では気づけば自然と目がそちらに向いていた。
 失礼ではあるがそんなに繁盛しているとも思えない。今日も身内らしき人と、たまたま来店した自分だけしかいない。それでもプロとして仕事に手を抜かない姿勢に感心してしまう。
 同じ仕事中でありながらも、やらされている仕事と、やりたい仕事との差がそこにあるのに、収益に差が出てしまうことに疑問でしかなかった。
 新しいカクテルグラスを取り出し、曇りがないのを入念に確かめると、丁寧にカクテルを注いでいく。ひとくち含んだユキから感嘆の声が漏れる。
「じゃあ、遠慮なくご馳走になります」ニヤリとしてコウはグラスにもう一杯注いだ。
「ちょっと、おごるからって何杯も飲まないでよ」
 ユキは目を細めて抵抗する。コウはそのツッコミには反応しなかった。そしてお互い小さく笑う。
 そんなふたりの親密なやりとりを見て、ショウは疎外感が少なからずあった。グラスは空になり、いい時間にもなっていた。店主に声をかけて精算をお願いした。帰り際にドアを開けて店主は見送りをしてくれた。

「すいません。騒がしちゃって」そう言ってコウはアタマを下げた。
 店主がそんなことを言ってくれるなど思いもしなかったショウは急いで首を振った。
「いいえ、そんなこと。お客さんひとりひとりを大切にしているんですね。すみません。端から見ていていろいろと勉強になることがありました」
「はは、その割には客が少ないし、もうそういう時代じゃないんでしょうね。これに懲りずにまた飲みに来てください」
 そう言ってコウは微笑んだ。ショウもアタマを下げて返答する。
「ええ、久しぶりだったけど、このお店、落ち着くんです。これからはもっと頻繁に寄らせてもらいます。だから、、、」
 だから、店をたたむことなく続けて欲しい。そうショウは言いたかった。これ以上は出てこなかった。いまだ感情を制御しつづけて、そして感情を制御できていない。それでもなにかが変わるような気配があった。
「なので、また来ます。ごちそうさまでした」
 だから、なので。つながらない言葉にキョトンとするコウ。ショウは笑顔だった。よくわからない状態でも、それでコウは満足だった。ショウの後ろ姿に深々とあたまを下げる。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(パブ・ペニーレインにて1)

2024-12-22 16:37:04 | 連続小説

 店のドアを開けると、暗い照明の中で棚に並べられた幾つものボトルが鈍く光っていた。黒光りしているカウンターには無数の傷が入っており、この店の歴史を物語っている。
 止まり木の足元には足を乗せるポールがあり、金色の塗装はくすんだ色に変色しており、ところどころが剥離して地金の銀色が露出している。
「いらっしゃいませ」店主のコウはそう言ってショウを迎え入れた。
 黒いピンストライプスーツのズボンを履いて、白いウイングカッターに棒タイを止めていた。上着は着用しておらず、ズボンと同柄の直着を羽織っている。
 この光景だけを切り取れば、禁酒法時代をイメージしたギャング映画のワンシーンを思い起こさせ、それがコウにはサマになっている。
 ショウは軽くアタマを下げて、なかほどのスツールに腰掛けた。痛めた足を庇いながら着座する。
「久しぶりですね。お客さん」コウにそう声をかけられ、はにかむショウ。
「ご無沙汰しちゃって、すみません」照れくさくそう言うショウ。コウはクビを振った。
「確かお勤め先は、ひとつ前の駅でしたよね? 以前より足が遠のいても仕方ありませんよ」
 ショウはええと微笑んでロックを注文した。さすが客商売をしているだけあり、1年ぶりぐらいの来店になるのに自分のことを細かく覚えている。
 就職前に店に来た時に、就職後は来づらくなるような話しをしたのだろう。それにしてもさすがの記憶力だ。そう思うと迂闊なことは話せなくなると自制が働く。
 おしぼりを渡され手を拭きながら、久しぶりに顔を出した経緯を簡単に話した。先のこともあり支障のない範囲に留めておく。
 朝の通勤の際に一駅乗り過ごしてしまい、ホームの渡り通路を通った時に、この商店街のアーケードが目に入って、久しぶりに寄ってみたくなったと告げた。大筋は間違っていないが、随分と端折った説明だった。
 コウは今はモールって呼ばれてますと、他人事のように言ってグラスを置いた。そう言われてもピンと来ないショウは、そうなんですかと曖昧な返事をする。
 結局、それについてコウが説明をすることもなく、ごゆっくりと言われたあとは話しかけられることもなく、コウも奥に引っ込んで行った。
 ショウにしてみても、店主と久しぶりの再会を楽しむために来店したわけではなかった。家に帰り母親と会うのを避けたかったのと、ひとりで考えごとがしたく、朝の件もありこの店を訪れた。
 店主はいつも来店時には、二〜三の言葉をかけてくれたあと、それ以降は追加をオーダーする以外は、放っておいてくれる。それは今日も変わることなく、グラスを置いてからはショウに絡むこともなく、自分の仕事に務めている。
 店内には優しい女性ヴォーカルの歌が流れている。ショウにとって知っているようで知らない曲であり、そんな環境が考えごとの邪魔にならない雰囲気を醸し出しており、ここに来て正解だったと自己肯定する。
 今日は仕事中に学生時代の友人から電話を受けた。近頃はご無沙汰にしているとはいえ、急用でもなければ仕事中に私用の電話をしてくるタイプではない。切り出しづらそうで、声も若干ではあるが涙声になっており、ただならぬ気配を感じた。
 ようやく口から出された言葉は、ふたりの共通の友人が亡くなったという要件だった。死因は聞かされていないらしく、とにかく突然の訃報にうろたえており、そこまで言うと涙声に変わってしまった。このままでは埒が明かないので一旦電話を切り、仕事が終わったらかけ直すことにした。
 そこで改めて聞いた話では、亡くなった友人の親御さんから、故人の遺物のかたづけをしていたら、友人の連絡先が書かれたメモ帳が見つかり、一番上に書かれていた自分に連絡してきたとのことだった。
 他に伝えたい友人がいれば、アナタからお願いしますと頼まれたので、最初に思い浮かんだのがショウで、それで掛けたのだと言った。
 ショウと亡くなった人は、学生の頃に同じサークルで一緒だったぐらいの仲だ。卒業してからは顔を合わすことはなくなっていた。彼が故人とどれほどの仲だったのも知れないが、号泣するぐらいだから、それなりの間柄だったのだろう。
 そういった温度差があったからなのか、ショウは電話先の友人のように感情が振り切れることはなかった。それともよくあるパターンで、友人に先を越されたために冷静でいられたのか。
 ひとり首を振るショウだった。そうではない。泣けない言い訳を探しているだけなのだ。
 もちろん同い年の知り合いが、若くして亡くなったことには衝撃があった。死因を知らないことを差し引いても悲しみの感情がわき上がってもよさそうなものだ。少なくとも学生時代に一時期を共にした仲だ。電話口の友人のように思いっきり泣いて、感情を共有しても良いはずだ。
 そうではなく、涙がこぼれることのない自分に愕然としていたのだ。ここ数年、母親との関係もあり、感情を極力表に出さないようにしていた。それが一因であると思いたかった。
 涙を流したのはいつが最後だったろう。数年前に、当時人気絶頂だったF1パイロットがレーシングアクシデントで突然死んでしまったとき、気がついたら涙がとめどなく出ていたことがあった。その数ヶ月前に叔父が死んだときは、一粒も出なかったのに。
 泣かそうという魂胆が見え見えの映画にも簡単にオチて、自分でも驚いたことがあった。以前なら作り物の話しに泣いている友人を小馬鹿にしたものだった。
 自分の感情を出さないようにしている反動で、バランスを取るように、カラダが自分の意志とは別のところで反応しているようだった。そうであれば自分は、そういった感情をコントロールできない人間になってしまったのだろうか。
 笑いたい時に笑う。怒りたい時に怒る。泣きたい時に泣く。そういった行為を遠ざけていたことで、いつしか能面のような表情に凝り固まっていった。
 今の自分の状態をすべて母親のせいにしようとしている。そんな自分が止めどもなく嫌だった。両手で顔をふさぐ。コウが奥からチラリと目を送ったがまだ動かなかった。
「あー疲れたあ!」ドアが開くと同時にそんな声が店内に通った。ピンクのスーツに身をつつんだ妙齢の女性が現れた。
「あらやだ、お客さん。ごめんなさい」ショウの存在に気づき、軽く会釈して口元を押さえる。
 ショウもつられるようにアタマを下げた。ユキは一番奥の席まで進み腰を落ち着ける。カウンターをはさんでショットグラスを念入りに磨いていたコウが振り返りオシボリを差し出す。
「どうしたんですユキさん?」
「どうもこうもないわよ。あっ、ビールちょうだい」おしぼりで手を拭きながらオーダーする。
 コウはフリーザーから中瓶と冷えたグラスを取り出し、栓を抜いてグラスに注ぐ。キレイな泡が2cmほど盛り上がった。プロの仕事だった。
 ユキはそれを手に取ると喉を鳴らして一気に飲み干した「あー、美味しい!」。
 空になったグラスをテーブルに置くと、再びビールを注いだ。今度は泡は持ち上げず、3cmの泡でビールをふさいだ。それがユキの好みだった。
「もう、聞いてよコウちゃん。近頃の若いコときたら、、」ユキはそんな話しをしはじめた。
 ユキの外見からして、自分も十分その若いコの範疇に入ると、ショウはどんな内容か興味を持った。良い話でないとわかっている。
「モールの一斉清掃があるんだけど、全然協力してくれなくてね。自分たちが働いてるところなんだから、自分たちでキレイにするのが当たり前でしょ」
 そう言ってユキはグラスのビールを半分ほど飲んだ。コウはそこへビールを注ぎ足す。きっちりと3cmの泡を作った。
「若いコって、皆んなバイトでしょ? 以前みたいに自営やってる人なら、若いヒトも家族と一緒になって協力したでしょうけど、バイトなら時間外に仕事しろって言ってもね」
 コウの言う通りだとショウは肯定した。ユキは納得しない。
「そりゃ、そうだけど、同じモールで働いている皆んなでやるっていうのが大切でしょ。そうやってお金だけじゃなくて、助け合ったり、仲間意識を持つことが、いざという時に自分のためにもなるのよ。掃除という手段を用意して、そういう連帯感を持つチャンスを提供してるんじゃない。だいたいね、、、」
 止めどなくユキは持論を語りだした。コウは微笑みながらその話を聞いている。それが自分の仕事だとわきまえている。
 ショウは不満が表に出ないように抑えつけていた。それがいけないことだとわかっていたも逃れられない。そして母親のことを思い出してしまう。自分の都合ばかりを押し付けて、コチラの言い分を聞こうとしないのだ。
 例え聞いたとしても自分の若い時はこうだった、ああだった、もっと大変だったと、比較できない対象を持ち出してくる。大変なのは人それぞれの基準であって、誰かと比べて競い合うモノではないはずだ。
「、、だいたいね、わたしたちの若い頃は、目上の人に言われれば二つ返事でしたがったものよ。ああだ、こうだ、口ごたえなんかしようもんなら一喝されて、あとからもまわりの人にヤイのヤイのとお小言をいただくことになって大変だったんだから」
「ユキさん、経験済みですか?」ユキはコウの問いかけに、ユキはピンと来ておらず少し間が空いた「イヤだ、違うわよ。知り合いのハナシよ」。問いを理解して直ぐに否定する。コウはただ肯くのみだ。
 あの人も若い頃は、最近の若い者はと言われたクチだ。ショウはそう嘯いた。比較対象ではなく、自分の基準から乖離があるかどうかで、結局は不条理に懐柔されるか、抗うかの差が出る。
 以前は言えない環境に身を置き、泣く泣く従ってきただけで、声を上げられる今では自己主張が認められているし、しなければ流されて都合のいいように使われる。戦う環境を自分で作ったわけではない。そんな思いがアタマを巡る。
 残り少なくなったグラスを手の中で転がす。お代わりをしようか考えあぐねている。今は目立った行動は取りたくなかった。
 あの人のように、ひとの弱みを立てに取ったようなボランティアを押しつけることで、この国がどれだけの経済的損失を被ってきただろうか。
 掃除をするなら清掃会社に依頼して行い、その費用をモール全体で負担すればいい。そうすれば掃除に駆り出される人達は、自分達の行うべき経済活動に従事できる。
 清掃会社は無償の代行者に仕事を奪われることもないし、お金が動くことで地域の経済が活性する。掃除に来た清掃員が食事などでモールにお金を落とすだろうし、今後のリピーターになったり、知り合いに紹介するかもしれない。
 そうすれば清掃会社を選択する基準も自ずと変わってくるだろう。単に価格だけで選ぶより、そこをキッカケにして今後の収益が見込めるかも判断材料に加えれば、多少高くても地元の業者を選ぶとか、最終的な利益を考慮すべきだ。
 そういった人の行き交いが循環がする仕掛けを考えたり、清掃自体をイベントとして組み込むことだって出来るはずだ。
 ユキの話しが途切れたところで、コウがさりげなくチェイサーを持って来てくれた。ショウは空のグラスを持ち上げ、コウの方に寄せて人差し指を立てた。おかわりの意だ。
 コウはうなずいてグラスをさげた。こういったあうんの呼吸で意志が伝わるとこがいい。なんのストレスも感じずに物事が思い通りに進んでいく。
 それが酒代の対価に含まれているのは当然だ。サービスではなく日常で自分で行えないことを代替えしてもらっているのだから、ビジネスにおいて正当な対価のやりとりとして成立し、お互いに報酬を得ている。
 その一方で無償で清掃をさせる行為がまかり通っている。それを人情や、人の弱みに付け込むような奉仕を強要し、不払い労働をボランティアなどと耳障りのいい言葉に挿げ替えるから、この国の経済力は下降するばかりなのだ。
 何のアイデアを捻り出さなくても、これまでそうしてきたからという大義を振りかざして搾取している。ショウにはあの人達の無思考や、労力をかけず仕事を消化しようとする行為が許せなかった。
 いつしかショウの不満の矛先は、母親から母親の相談をしている行政の硬直化した仕事振りに向いていった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ギター屋の店内3)

2024-12-15 16:05:31 | 連続小説

 アキは差し出されたギターを見て右往左往してしまい目が泳ぐ。オサムは意味深か気にうなずいている。グイグイとユウリに押し付けられて、アキは仕方なく手に取るしかなかった。どうやら捕食されたようだ。
「せっかくだからさ、これでさオサムにギター教えてもらいなよ。中古品だから安心して弾けるでしょ。もし気に入ったら買い取って貰ってもいいし。その時の値段は要相談で」
 屈託のない笑顔でそう言われてしまった。アキはこういうオシに滅法弱い。ここまでされてしまえば、気に入ろうが入ろまいが買ってしまいそうだ。
「あっ、いいねえ。これも巡り合わせかもよ。簡単な曲でも弾けるようになれば、家でも練習できるしよ。オレは全然かまわないよ」
 すでに買う流れになっている。オサムは講師を行うことも意を介していない。そして一度手にすると、脳内で所有願望が高まってくるようで、古びたギターもこうしてみると、自分を待っていたかのような錯覚になり愛着も湧いてくる。
「チューニングできる?」ペグを指さしてオサムが訊いてきた。
 直ぐにクビを振るアキ。そう思えば高校の時に弾いたギターはチューニングなどしなかった。音程があっているつもりで弾いていた。
 もしかして、それが原因でうまく弾けなかったのではないかと疑念がアタマに浮かんでくる。たしかに譜面通りに弾いても弦が変わると、なんだかしっくりこなかった。
 そうであっても自分がヘタだからだと、音程の合わないまま何度も練習を繰り返していた。誰の手ほどきも受けず、チューニングの概念がなかった若い頃の自分が恨めしい。
「そう、じゃあ開放弦で上から1弦づつ鳴らしてみて、、」
 これはもう個人レッスンのはじまりだ。自分基準ではあるが、これほどのギタリストにマンツーマンで手ほどきを受ければ、普通ならいいお値段になるだろう。
 ここまでしてもらって、じゃあ失礼しますでは済まなさそうで、ますます外堀を埋められつつあるアキだ。これまで何かをはじめようとしたとき、誰かに教えを請うことはなく、どちらかと言えばそういう機会を避け続けていた。
 自分のペースで行わないと極度に緊張してしまい、一歩も進めないと知っている。だからあえてその場に身を置こうとは思わない。
 このような流れでなければ、ギターレッスンを受けることなどアキの人生ではなかったはずだ。今は丁寧に教えてくれるオサムを無下にすることもできず、素直に手ほどきを受けられる。
 そうではあっても心臓が高鳴っていく中で一弦目の音を鳴らす。オサムに言われるがまま、ペグを一度緩めてからゆっくりと締めていく。そしてストップと言われたところで止める。手が震えてうまくペグを扱えない。
 もう一度、弦を弾く。よければ次の弦に行くし、もう少し微調整が必要なら繰り返す。それを一番下の弦まで行っていった。オサムは根気よくつき合ってくれた。
 ギターのチューニングが進むにつれ、アキはこれまでにない境地に誘なわれいく。音を鳴らし、息を止めて弦を張っていく。それと同調するように緩んだ心が少しづつ張りつめて、いい緊張感が生まれてくる。
 自分がうまく制御できなく気持ちと身体がバラバラになってしまうことがあると、アキはそれを元に戻す方法がわからなかった。環境と内面と身体が一致して、自然と平静を取り戻せるようになるのを待つしかなかった。
 うまく言語化ができないアキだったが、ギターのチューニングしていくと、なんだか自分の心うちまでも、調和と均衡がはかれるように調節されていった。
「ホントなら、ハーモニクスしたり、音叉使ってやるんだけどな。初心者ならこれぐらいで十分だよ。どうしてもちゃんとしたチューニングしたかったら、チェッカー売ってるから、それ使えば素人でもできるよ」
 自分は撒き餌だと言いながら、しっかりと捕食者にもなっている。この調子でギターは安くとも色々な備品を勧められ、最終的にはソコソコの金額になっていく作戦なのではないか。そもそもこの中古のギターがいくらなのかもわからない。
 これまでのアキであれば、この状態にパニックになっていただろう。次から次へと噴出する不安事項があっても、今のアキは受け止められていた。
 オサムの丁寧で優しい手ほどきや、もしかしてギターが弾けるようになるのではないかといった期待も後押しして、抗うことができないほど追従している。
「じゃあ次はコードね。おさえかた知ってる?」
 そう訊かれてアキは自信なさげにこたえた「主要コードと、マイナーと、セブンスぐらいは何とかですけど、、」。
 思い出しながら押さえられるぐらいで、スムーズに移り変えられる自信はない。
「上等、上等。そんだけ押さえられれば十分だ。今から教えるのは、オレが知る中では世界で一番簡単なコード進行で、世界で一番叙情的な曲だ。いい? ゆっくりでいいから、オレの言う通りコード押さえってって。まずはC」
 オサムはCコードを抑えて、右手で弦を撫でるように鳴らす。キレイなハーモニーが奏でられる。
 アキもオサムの指を見てから、Cのコードを思い出しながら指をおさえる。指先で弦を鳴らしても、オサムのような張りのある音は出ない。途切れ途切れでこもった音がするだけだ。
「オーケー、次はG」
 一番下の細い弦をオサムは小指で押さえたが、アキには小指の握力に自信がないので薬指でおさえる。そうすると、その指を目一杯に畳まなければならず手を攣りそうになる。それでは弦が浮いてしまい、Cよりさらに音がこもった。
「いいよ。次はAm」
 Amは比較的楽だ。ネックを親指と人差指で固定でき、残りの指も無理なく弦を押さえられる。はじめていい音色が出た。それでもオサムの音はもっと深みと重みがある。それがギターの価格の差であり、腕の差なのだ。
 これだけ明確にわかれば仕方がないところで、うまくなればなるほど、その差は微小になっていくのだろう。それを聴き分けられることが、果たして幸せなのかは微妙なところだ。
 どんなプレイヤーの音でも、それが素敵に聴こえれば良いはずで、だったらアキにはそれを聴き分けられる能力は要らなかった。眉間にシワを寄せながら、この音はちょっと違うねなどと、御託を並べても誰も幸せにならない。
「はい、それで、直ぐにF」アキはこれまでにない声を発してしまう「エフ、エッ、エフー」。オサムはそのリアクションを想定していたらしく気にも留めない。
 Amからの流れで親指で1弦目、人差し指で6弦目を押さえるか、音が明確に出やすい人差し指で1フレットをすべて押さえる方法にするか。瞬時に悩んだ挙句に前者を選び、ミュートかというぐらいの酷い音を鳴らしてしまった。
「も一度C」オサムは気にせず先を進める。
 Cに戻ってアキはホッとする。最初よりいい音が出た。ここまで弾いて気付いたのは、この曲は世界で一番有名な4人組のあの名曲だった。
「誰もが思いつきそうな、簡単なコード進行だけど、誰も思いつかず。それを繰り返しているだけなんだけど、飽きることなく聴きたくなる。そしてなによりあのヴォーカルを引き立てる旋律なんだよなあ」
 そうオサムは絶賛した。アキにはそれほど思い入れはなくても、この曲をマスターできれば何度も弾いてみたくなる気がする。
 復習するようにもう一度繰り返してみる。BメロではラクなAmは抜きでFだけになる。それでもサビの部分を口ずさむとそれっぽく聴こえて、もう一度チャレンジしたくなってしまう。
「うん、うん 、いいよ、一回目より断然いい」
 オサムの言葉はリップサービスだとしても嬉しくなってくる。
「スゴイじゃん。もうそんなに弾けるようになったの?」
 またうまいタイミングでユウリが合いの手を入れてくる。背中がこそばゆくなってしまう。
「買っちゃいなよ。そのギター。千円でいいよ」そこでユウリがすかさず金額提示をしてきた。
「千円!」思わず訊き返してしまった。「高かった?」アキは無言でクビを振った。安すぎる。
「ホカしちまう予定だったヤツだけどなあ。かと言ってタダてえのはよくないからね。妥当なとこだね」
 オサムがそう言うと、アキは何度もうなずいた。レッスンまでしてもらって、タダでギターをいただくわけにはいかない。千円が妥当となるかどうかは、これからの自分の行動次第になる。
「値段なんてもんはさ、あくまでも指標でしかないにしてもさ、いくらかでも金は払った方がいいんだよ。自己投資への判断基準となるし、そうでないと自分の意識がないがしろになっちまうからね。満足する演奏ができるようになって、このギターの価値より自分の腕が良くなれば、次はそれに見合ったギターを買えばいいよ。言わばこのギターも撒き餌だね」
 確かに物に金額という価値が付くだけで、その金額に見合った行動を取るようになるものだ。いつしか高額のギターを手に入れられる自分でありたい。それがギターでなくてもいいかもしれない。
「あのう、、」アキはオサムが言っていたチューニングチェッカーなるものがいくらするのか尋ねた。3千500円で、あとギターを持ち運ぶためのソフトケースも、ユウリが再びバックヤードから探してきてくれた。全部で締めて5千円となった。
「チューニングやってから演奏した方がイイよ。絶対に。手の動きと音が一致しないと、どうしても気持ち悪さが出るから、弾いてても楽しくないし、長続きしないんだよねえ」
 オサムがそう教えてくれた。高校時代の嫌なイメージを払拭するためにも必要なアイテムだ。
「なんだかスイマセン。いろいろとしていただいて」
「いいのよ。こうして、ひとりでも楽器に興味持ってくれるひとが増えれば嬉しいし、これがきっかけで、あなたの人生に彩りを添えられるとイイわね。あとは次に高いギター買ってくれれば最高だわ」
 そう言ってユウリは笑った。オサムもそれがホンネだろっと言って笑った。アキはその言葉で逆に安心できた。変に善意だけに凝り固まっていなくて、商売っ気がイヤらしわけでもなく、そう言ってもらった方が信頼感が高まる。
 オサムが次の曲を引き出した。60年代頃から流行った男性デュオが創った、エンディングでライラライのハーモニーが印象的なあの曲だった。チャンピオンだったか、ボクサーだったか。そんな曲名とは余り一致しない、透明感のあるメロディだ。
 タイミングよく店先をシャドウボクシングしながらランニングしていく人影があった。小柄で中学生ぐらいに見えた。もしかしたら女性かもしれない。
 オサムと顔を見合わせて笑った。きっと同じことを考えていたはずだ。お約束で最後のパートはオサムと一緒に合唱した。ライラライ、ライラライラ、ライラライ、、 
 誰もがチャンピオンにはなれない。だが対戦相手がいて初めてチャンピオンが成り立つ。その他大勢もきっと大切な役割なのだ。それがオサムの回答なのだ。アキはそう理解した。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ギター屋の店内2)

2024-12-08 15:43:36 | 連続小説

「不思議ですよね、、 」
 アキが言いたかったのはこういうことだ。プロの演奏だって聴くのは自分のような素人であり、その人たちが良いと思って聴いているプロの演奏と、同じように良いと思っているのに、プロにはなれなかったひとの演奏と、どこにどれをだけの差があるのか。
 自分だけがオサムのギターを上手いとは思っていないはずだ。メディアで名が売れているアコギ一本で歌う女性ミュージシャンがいるが、同じようにギター1本で演奏している、とある名もなき女性ミュージシャンは、地元のイベントでタダで観れたりする。
 自分には、どちらも同じよう上手に聴こえるし、魅力的にみえる。テレビでしか観れないミュージシャンより、間近で聴く名もなきミュージシャン達の方が、強い熱量や、客に訴えかける力量が強く感じられるぐらいだ。
 テレビに出るようなミュージシャンを、間近で観たことがないからと言われればそれまでではある。
 大勢の観客が集まるようなコンサートの熱狂を観ていると、自分はそれだけで興ざめしてしまうところもある。なにかに囚われるように熱狂する人たちは、ミュージシャンに対してというより、その行為に意味付けをする必要性に追い立てられているようにもみえた。
 それは勝手な自分の憶測で、実際がどうなのかはわかるはずもなく、自分がそういった大勢の仲間内に含まれるのが嫌なだけで、多分に斜めから物事をみているからだろう。
「 、、いったい何が違うんでしょうかね?」
 オサムは次の曲を弾きながら、そんなアキの問いかけを聞き、しばらく考えていた。
「なんだろうね。その差って。オレにもわからねえな。想像だけど、きっと、誰もが誰かに支配されたいんじゃないの? じゃあ誰についていくか。だったら、なるべく大勢が注目しているヤツがいい。だからオレはここにいるんだろうな」
 オサムがそう言った。そう言われて、自分の浅はかな問いかけが恥ずかしくなった。その理屈で行けばアキもまた、大した人物になれない。
 もっともアキの場合は、はじめから自分の器を認識している。誰かから注目されたいどころか、誰からも触れられずに生きていこうとしていた。うまくならなかったのは何もギターだけではなかった。
「あの、最初にこのお店に入って来たときに思ったんですけど、置いてあるギターって、色んな値段が付けられてますよね。でもわたしにはその価値が伝わってこない。50万のギターと、100万のギター。見てもその差が分からないです。だからなんでしょうか? それも同じことなのかと、、」
 こんなことを訊いていいのかと、気に止みながらもギターに絡ませながら、もう少し踏込んでみたかった。オサムはそれを理解してかどうなのか、スッと言葉を吐き出した。
「モノの見方は人それぞれでしょ。キミが今、その売れてないコに、売れっ子と同じような価値を見出すのも、10万のギターに100万の価値を見出すのも、誰かと一緒でなきゃいけないことなんか、何一つないんだから。オレはいいと思うよ。みんながみんな同じ人に価値を見出すより、自分がこれと思ったひとを好きになったら。オレがそのひとりだとすれば、それはそれで嬉しいし」
 オサムの言葉が嬉しかった。それと同時に自分がそれほど深く考えて、誰かを好きになっているわけでないことに申し訳なくなる。
 自分はまわりが価値がないと言っているモノに、価値を見出すことで、自分の存在価値を見出そうとしているだけなのかもしれない。
「オレはね。バイトっていうか、この店の呼び込みみたいなもんなんだよ」
「呼び込み、、ですか?」
「そう、サンドイッチマン。いや、音出してるからちんどん屋さんかな?」
 それなら店内ではなくて、外で行なうのではと、アキはオサムの意図してるところを読み取っていない。
「こうやってギター弾いてると、キミのような子がフラフラ~とやってくる。そうすると、さっきのユウリちゃんが、捕まったエサを食べにやって来る。といった具合だな。こりゃ呼び込みというより生け捕りに近いか。ハッハッハ」
 オサムはそう言って一人でウケていた。生け捕られた立場のアキには、余り嬉しい例えではない。アキは自分が捕食される側になったようで不安が先立つ。
 確かに先ほどのユウリの言動をみていれば、自分など一口で飲み込まれるだろうと容易に想像がつく。こんなに素敵な音色に誘われてやって来たのだ。できればもう少し別な例えが良かった。
「誰が、エサ食べてるってー?」ユウリが店先から声をあげる。
 どこまで地獄耳なのか。アキが慄いていると、オサムはニカっと笑ってどこ吹く風と気にしていない。きっといい関係性なのだろう。
「手ぇ見てみ」そう言ってオサムは、手のひらを差し出した。
 指先が硬そうなのがわかる。ギターの弦と相まみ合ってきた軌跡だ。
「毎日弾いてたら、こんなんになっちまった。別にそれが嫌なわけじゃないよ。ただ、どんなに努力したって報われないことはあるんだよ。オレだってよく思ったさ。どうしてこんなヤツが売れて、オレはダメなんだってね。キミが疑問に思っているのとなんら変わらない、、 」
 オサムはアキに話しかけながらも、アルペジオで美しいメロディを奏でている。聴いたことのない曲だった。オリジナルの楽曲かもしれない。少し哀愁を感じさせる曲調で、心が絞られる。
「 、、売れたヤツに訊いてみたことがある。そいつも言っていた。どうして売れたのかわからないってね。全員がそうじゃないかもしれないけどよ。もちろん誰だって、大勢に聴いてもらいたくって演奏してるわけだ。だけどそうなるかどうかは、誰にもわかんねえのかな」
 アキは物悲しくなってきて瞳が潤んできた。オサムの心境に同調したのかもしれないし、ギターのメロディにやられたのかもしれない。もしくは自分に引っかかっていたトゲが抜けたからなのかもしれない。
 自分でもわからないのだから、誰にもわからないのだろう。
 思い起こせば今朝の出来事もそうだ。良かれと思ってしたことが迷惑にもなれば、しなかったことで後悔することもある。何もしなくても巻き込まれることもあり、ともすれば主導したことで矢面に立たされることもある。
 どれも自分の意思とは別のところで物事は進んでいき。誰か彼かの意図する状況のために、この身を削られていくこともある。
「ごめんなさい、、」アキは指先で潤んだ目先をおさえた。
「オレの演奏で涙してくれるなんてうれしいねえ」
 オサムは気を遣っているのか、そんなふうにはぐらかしてくれた。アキも何か気の利いた言葉でも言えれば良かったのだけれども、あいにくそういった語彙を持ち合わせてはいない。
「もちろん、演奏も素晴らしいです。色んなことが自分の思い通りにならないのはわかってるんですが、だからって誰かの思惑のままにされるのでは、やりきれなくてやるせない気持ちになってしまって」
 アキには自分の真っ直ぐな感情しか口に出てこない。
 オサムはゆっくりと、1弦づつ指先で弾いて曲を締めた。硬質化した指先が、この柔らかなメロディを生み出しているならば、この世は多くのことで、実態とその根源には、相反する事象が多いのではないだろうか。
「コラー! オサムー! なにお客さん泣かせてるのよーっ」
 ユウリだった。確かに立場的にはオサムに分が悪い。
「いえ、違うんです。わたしが、その、オサムさんのギターとか、曲に感動して、その、つい、ホロリと」
 珍しく気の利いたセリフが出た。オサムは肯定しづらいのかクビをヒネったり、うなずいたりと挙動が定まらない。ユウリは半信半疑といったところか。
 そんな疑われるような前歴があるのかと、さっきまで関係性を肯定していたのに、人と人との間柄は目に見えることだけでは収まらないこともある。
「あっ、ごめんなさい。いつまでも長居して。そろそろ失礼します」
 そう言って、アキは席を立ちアタマを下げた。今がそのタイミングだと考えた。ユウリはその肩を抑えて、アキを再びイスに座らせる。座面のビニールカバーに穴が空いているのか、クッションの空気が抜ける音がした。
「いいのよ、気にしなくも。アナタさえよければいつまでいても良いから。どうせオサムは1日中こんなんだし。あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
 そう言ってユリエはバックヤードに入って行った。オサムは笑顔でうなずいてアキを見ている。
 今日の目的は達成されてしまった。あとは特に何か用事があるわけでもない。好きなだけ居て良いと言われるのは嬉しいが、ただこのまま対面していても、間が持ちそうにない。そこへユウリが戻ってきた。
「あった、あった。これこれ」そう言って差し出されたのは一本のギターだった。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(ギター屋の店内1)

2024-12-01 17:22:17 | 連続小説

 多くのギターがその店内に展示されていた。金額は10万から50万までの品揃えが幅広く、高いものだと100万を超えるものまであり、アキは度肝を抜かれてしまう。
 何がその金額の差になっているのか、見ているだけでは判断基準に見当がつかない。店の奥でギターの弦をチューニングしながらメロディを奏でている人がいる。
 一度、喉を鳴らしてからその人に近づいていく。この人が自分のお目当てのヒトか。そうだとすれば自分の存在を気づかせてはならない。
 今日は会社が休みの日で、通勤途中にあるモールに近い駅で降りた。朝早くから開いているような店ではないと知ってはいても、気持ちを抑えきれずにいつもの通勤時間に合わせて家を出ていた。
 電車を降りる時にちょとした出来事があった。最初は自分の勘違いで、相手に迷惑をかけてしまったのかと肝を冷やした。
 最後は丸く収まって安堵したが、やはりこんな日ぐらいゆっくり家を出ればよかったと、またしても自分の判断が面倒に巻き込まれる要因になっており、せっかくの日なのにと気持ちが落ち込んだ。
 気を取り直して午前はブラブラとモールを見てまわり、お目当てのこの店の開店時間も確認した。そのあとはコーヒーショップに入り時間までゆっくりしていた。
 ドリッパーのヒトが入れてくれたコーヒーは、普段飲むモノより酸味が弱く、優しい舌ざわりだった。気持ちを落ち着かせたいアキにはピッタリで、飲み干すころには心身ともにスッキリとしていた。
 また寄ろうと帰り際にレジに置いてあったカードを手にしていた。ひとりで店をキリモミしているその人は、嬉しそうに微笑んでいた。
 気持ちも入れ直したところで、満を持して店に向かっていく。店に近づいたところであの音色が聴こえてきた時は、良い意味で総毛が立った。
 店内に入って行くにつれ、音響設備が整っているかと思うほど、音が奥深くなっていく。その人は作業に集中していて、幸いにもアキが近づいているのに気づいていないようだ。
 接客の観点からすれば誉められた状況ではないにしても、アキにすればこのまま気づかないでいてほしかった。
 空気を伝わってアキに届くその音は、カラダに当たり、耳から侵入してくるとアタマの中で残音となる。アキが全然知らない曲でも、聴き心地が良く、次に弾かれる音に常に期待していた。
「何か気になるギターあったら、弾いてみていいよ」
 ななめ後方から、気づかれないようにその姿を見ていたのに、その人はアキに声がけしてきた。アキの心臓が跳ね返った。このままギターの音色を聴いていたかったのに、これでおしまいかと観念した。
 それなのに、その人はそれだけを言って、引き続きギターの音合わせを続けた。
 もしかして自分に話しかけたわけではないのかとまわりを見た。ここにはアキ以外には誰もおらず、やはりこの状況ではアキに言っているとみるのが正しいだろう。
 そう言われても何て答えればいいのか、すぐに反応できない。それに気になると言われても、なにが自分の気に入るギターかわかるはずもない。
 そもそもが、アキはその目的で店内に入ったわけではない。おいそれと数十万するギターを手にするなど恐れ多すぎる。万が一にキズでも付けて、買い上げることになったら、今の手持ちでは間に合うはずもなく、少ない貯金を切り崩さなければならないだろう。
 言うだけ言って、躊躇しているアキを気にかけるわけでもなく、その人は美しいメロディを奏でていく。
 チューニングが終わったようで、これまでは途切れ途切れだったメロディは、曲のアタマから通しで演奏されていった。

 それは何処かで聴いたことのある、懐かしいメロディだった。思わず口ずさみたくなりそうでも歌詞が出てこない。歌えたとしてもギターの音色のジャマになるだけなのでその気はない。
 サウンドはさらに厚みを増していき、左右の五本の指が休むことなくうごめき、アキが知っているメロディの合間を縫って副音も複雑に絡んでおり、ボーカルのメロディに対して、音を深めるサブメロディ重ね合わせていき、ベース音が織り交ざっていた。
 高校の時にうまい奴が演っていた奏法で、自分もやってみようと何度も練習したものの、どうしてもできなかった演奏だった。それを見ている分にはいとも簡単に、それも高校の時に見た以上の正確さ、音のハリ、流れるメロディを奏でていく。
 この人はアキに自分の腕前を披露しているわけでもなく、弾いている内に熱中しだして、自然とそうなっているようだった。
 アキは前に回り、食い入る様に指の動きを凝視した。もしかして名のある演奏者なのだろうかと、そんな期待もしたくなるほどのテクニックだ。
 以前モールをブラついていた時に耳に届いたギターの音色。音源から流れてきたものではなく、生の音のダイナミックさと、ヒリヒリとする危うさに耳を奪われた。
 どこから流れているのかと、あたりを見渡す。楽器屋の看板が目に入った。ギターのイラストの下に、カタカナでカノウと書かれているだけのシンプルなモノだ。
 およそモールにある他の店とはかけ離れた、前世の遺物といった佇まいだった。アキにはそれが却って好印象となった。
 その日は約束の時間があり、店の前を素通りするしかなった。店の前に立った時には、すでに音は止んでおり、店内も薄暗く中の様子は伺いしれない。
 本当にここでいいのか確信が持てないまま、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れた経緯があった。

 次に弾き出した曲は、アキにとって苦い思い出の曲だった。仲間内のひとりの彼女が良い曲だと勧めてくれた輸入盤で、今では世代を超えて大ヒットした曲だ。
 アキも直ぐにレコードを買って何度も聴いた。そして友だちに無理を言ってギターを借りて、前奏だけでも弾けるようにと、指先がボロボロになるまで練習した。
 それでも演奏するというより、何とか音が出るというレベルから抜け出せず、彼女と友だち以上になることを諦めると同時に止めてしまった。そしてギターに触ったのはその時だけだ。
 そんなこともありしばらく避けていた曲だった。もはやラジオでも滅多に聴かなくなった今、このタイミングで耳にするとは何の偶然か。
 間近で聴くと、さらに空気の振動がビンビンと肌に響いて、心の奥まで振動してくる。アキがこんなふうに弾けたらいいなと望んでいた弾き方をしている。
 最後のAメロが終わり、前奏と共に世界で一番有名と言っても過言でない、ギターソロに入ろうとした。アキはそのリフを想像するだけで肌が粟立った。
「オサムーっ!」元気のいい声が店内と、アキと彼に響き渡り、ふたりは同時にビクリと背筋を正した。
 黒のTシャツに、緩めのデニムパンツ。紺地のエプロンをした店員が胸を張った。Tシャツの背中とエプロンの腹の部分に、店の名前がプリントされている。
 倉庫から弦や、ストラップなどの在庫を取り出してきたあとで、手に幾つもの商品を抱えていた。商品の隙間から胸のネームプレートが見え、そこにはユウリと書かれていた。
 ダメでしょう。お客サン来てるのに。ギター弾くのに集中してちゃと、オサムをたしなめ、アキに振り向き、ゴメンナサイ、いつもこんな調子でと、アタマを下げた。
 店の客と言われ恐縮してしまう。オサムのギターが聴きたかっただけで、ギターが欲しい訳ではないアキは返答に困り、ただアタマを下げるしかない。
 買う予定で来ていないので、資金も持ち合わせていない。押しに弱いアキなので、こういったタイプの店員にグイグイと言い寄られると、ローンとかカード払いでとか勧められて買ってしまいそうだ。
 何か言ってこの場を取り繕わねばと焦っていると、余計に言葉が出なくなる。素直にギターの音色に釣られて入店しただけで、買う予定はないんですと伝えたかった。
「なんだよ~、ちゃんと接客したぜ。気になるギターがあったら手にとって弾いてみてって。なあ?」
 そう、オサムに同意を求められ、首をコクコクと振るアキ。
「そう言うのは接客って言わないの。手に取ってって言われても困るよねえ?」
 今度はアキは、引きつった笑顔で応える。肯定も否定もできない。それにしても一応客であるアキに、何故かふたりは一切の敬語はなく、以前からの友達のように話しかけてくる。
 それが別に馴れ馴れしいという感じではなく、初めての店なのにアキを優しく懐柔していく。それで随分と気持ち楽になって言い訳の言葉も出てきた。
「あの、店長さんのギターがすごく上手で、聴き惚れてしまったというか、、」
 店のふたりは、アキの言葉が終わらないうちに、声をあげて笑いはじめた。何がおかしいのか戸惑うアキ。ユウリに笑われるのはまだしも、上手だと誉めたはずのオサムにまで笑われてしまい、自分ごときが上手などと言うのも憚れるのかと焦ってしまった。
「ゴメン、ゴメン。オサムのこと店長だって言うから。そんな勘違いしたのアナタがはじめてよ。このヒトたんなるバイトよ」
「バイト?」オサムはウンウンとタテに二度クビを振って肯定した。
「そう、バイト。なんだったらわたしは店員だから、格付けとしてはオサムより上だし」
 ユウリは満面の笑みでそう言った。オサムは若い子に呼び捨てされて、そんなことを言われているのに一緒になって笑っているだけだった。
 アキは焦って、ユウリにアタマを下げた。それは気づかず、失礼しましたと平謝りする。店員だからといえ、そこまで卑屈になることもない。案の定、また大声で笑われることになる。
「やっだ、何それ。アナタ面白いわねえ」
 全く言われる通りで、自分でも迷走しているのがわかる。ただ、そういった流れを作り出したのはユウリであって、どちらかと言えば、乗せられただけだと言いたいところだ。
 とは言え反論できるはずもないアキは、引きつった笑顔をするだけだ。オサムはひと通り笑ったあとで、アキに近くのイスに座るように勧めてくれた。
 ユウリは、アブラばっかり売ってないでちゃんと商売してね、と言って商品の陳列をはじめた。オサムはクビをすくめて聞き流す。
「キミは、この曲好きなの?」
 アキにそう聞きながら、先ほどの曲のイントロを弾き出す。五本の指から弾き出されるメロディは、やはり複雑に絡み合って奥深いサウンドを創り出していた。
「どうしてわかるんですか?」アキは素直に疑問を問う。
 オサムはニヤリとするだけで、理由は言わず演奏を続ける。とても一本のギターから紡ぎ出される音源とは思えない。自分が弾いていたメロディとは全く別物だった。
「凄いテクニックですね。もしかしてプロの方ですか?」おだてるつもりもなく、そんな聞き方をしていた。
 オサムは目を見開く。これはまた笑われる流れだ。そう心配するアキをよそに、オサムは表情を緩めるに留めていた。アキの天然っぽい言動を可笑しがるよりも、自分の過去を思い起こす思考が勝った。
「プロになろうとしてた。でもよ、オレぐらいの腕のヤツはいくらでもいるんだよ」
 この人のウデを持ってしてもそうなのかとアキは愕然とする。そういう話はいろんなところで耳にしていた。そしてその言葉を聞くたびに、彼らをほめたたえている自分の存在がより小さくなっていく。
 これほどの演奏ができても、かの世界では平凡であり、下界に降りてきてはじめて、自分のような耳の肥えていない者から、唯一崇められるに留まっている。
 それが現実であるとわかっていても、すぐには受け入れがたいアキは、以前より引っかかっていた疑問を、勢いでオサムにぶつけてしまう


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(駅までの経路4)

2024-11-24 17:07:17 | 連続小説

 アオイはショウとは目を合わさないままに、小さな消えゆるような声でそう言った。走行音や、社内アナウンスの中で何とか聞き取れるほどの声だ。アオイの耳元に口先を近付けて、これまた小声で返答をする。
「いえ、せっかく譲って下さったのに、こんなことになってしまい、こちらこそ申し訳ないです」
 見知らぬ人とこんな会話をすることになるとは思いもしてなかった。特異な状況下で何か言わなければと口を突いた言葉だ。ショウは周りには会話を聞かれたくはなかった。
 電車の中で会話をしている人をたまに見かけ、内輪話しで盛り上がったり、どうでもいい話しが耳に届くと辟易する。聞かなければいいのだが、一度気にしてしまうとそこから離れなれなくなってしまう。
 たまに込み入った話しをする人もいて、知らない人が聞いているかもしれないのに、そんな話しがよくできるものだと感心してしまう。
 まだ合って間もないと思われる人達の、ぎこちのない会話を聞くのは、その中でも苦になった。様々な理由の中で、行動を共にすることになった人たちの、お互いに気を使ったやり取りがもどかしい。
 どんなことに興味があるのか、ないのか。何が好きで、何が嫌いなのか。当たり障りない質問を繰り返しては共通点を探し当てようとする。
 どちらかが話しはじめると、無難な相づちを打ったり、必要以上に共感することもあり、一瞬盛り上がったりもする。それなのに胸の内では次に何を話そうか、多分そのことばかりを気にしているような、会話自体には何の中身もないやりとりが続いて行く。
 とにかく一緒にいるあいだに、妙な間ができないようにするためだけの会話だ。奇跡的に共通の趣味や、関心事があれば幸運だ。一気に楽しいひとときに変わり、降りる駅があっという間に来たりする。聞いてる方もそんな人達からの呪縛から解き放たれる。
 シュウがそういった気持ちでその人達をみているのは、自分も同じ状況に陥るからであり、そのような状況にならないようになるべく配慮してきた。突然降りかかった久しぶりの状況に気持ちが焦っていた。
 実は出かけに躓いて、足を怪我してしまいましてね。と言おうかとして思い留まった。距離を詰めるために自分の失敗談を話すのは常套手段ではあっても、そこまでする必要はないし、なにより何の関係もないまわりの人たちに聞かれてしまう。
 そういったことを考慮せずに口が軽くなってしまうのは、まさに不穏な関係性に耐えきれず、自己開示をしてしまう失敗例となる。自分の弱みをさらけ出し、チキンレースに負けてしまった結果だ。
「わたしは、どうも間が悪いというか、思い込みが激しいらしくて、、」そうアオイが口にする。
 自分のことなのに他人事のように言う。確固たる自分形成がなされていない人が口にする言葉だ。これで主導権を握れたショウは気が楽になった。自分から話す必要がなくなり、相手に話させればいいだけだ。
「よくあるんですか?」と、肘を突く。肯くアオイは、それにつられてスルスルと話しはじめる。
 道を聞かれた時に、勘違いしてしまい、一本違う道を教えてしまったこと。落とし物を拾って必死に追いかけたら、その人の物ではなかったこと。そんなエピソードをいくつか話した。
「いつも、あとから間違いに気づくんです」
 見事なまでの失敗談だった。まわりにいる人も耳に入っているだろう。その中の何人かは自分にも経験があると同感し、何人かがトロいヤツだと静かに嘲笑しているはずだ。
 満員の車内はカラダをまわりに預けられ、想像した以上に楽だった。この人には申し訳ないが座らなくてよかったと、あらためて自分の判断に確証を持つ。あと二駅ぐらい何とかもちそうだ。
 
シュウは不憫そうな顔を作ってアオイに相づちを打つ。こちらもこれでもちそうだ。
「一番最悪だったのは、、」もちろんアオイはシュウだけに話しているつもりだ。
 話すことで贖罪した気にでもなるのか、まわりにも聞かれている感覚はなく、自分の失敗談を懺悔でもしているように話している。シュウは神の代理人でもないし、聞いているのは慈悲深い使徒達でもない。
「、、痴漢をしたひとを間違えてしまったんです」
 シュウは目をつむった。まさかの内容だった。確かにそれは、ついうっかりでは済まされない思い込みで、ひとつ間違えば犯罪になってしまう。
 どう反応していいかわからず、その人の横顔を見るともなしに覗きこむ。平穏な顔をして、車窓から見える風景を眺めていた。
 平穏になれないのはショウの方だった。このタイミングでの突然の巻き込まれ事故だ。
 まわりからは自分は知り合いと認識されているはずで、ショウはいたたまれなくなってくる。心なしか冷たい視線がこちらに向けられいる気がする。
 せめてもの救いは、痴漢で捕まった側でないことか。そうであれば、すぐさまこの場を離れるたい心境になるだろう。満員の中で、脚を痛めている身でそがれできるのか、はなはだ疑問でしかない。
 ここまで話しをして、今さら他人のフリもできず、とは言えこの場から立ち去ることもできず、願わくばこれ以上話しが膨らまないか、別の話題にすり替えたい。
 ショウは先手を打つべく、当たり障りのない合いの手を入れる。
「そんなことがあったんですね。まあ、その話は、、」
「学生が困った顔をして、わたしに視線を投げかけてきたんです」
 ショウが話しの途中でも、アオイは自分のペースで話し続ける。ショウは万事休すと目を伏せた。
「最初は何か分かりませんでしたが、直ぐに痴漢の被害を訴えているのだと感ずきました。でもどうしていいかわからないんです。学生は今度は視線を後方に向けて、目配せをはじめました。そこには背の高い人が後ろ向きに立っていました。その人に何かされていると、伝えようとしているのだと理解しました」
 アオイはここまでハッキリとした口調で明確に話した。これまでの自信なさげな口ぶりではない。誰かに訴えかけるようにも聞こえる。
 ショウは少し安堵した。この話の流れからすると、間違ったのはこの人ではなく、その学生ということになる。
 緊張感があった周囲の人たちも、心なしかホッと落ち着いた雰囲気となる。何にしろ早く話しを切り上げたいショウは言葉を押し込んでいく。
「成る程、その学生が勘違いしたのですね。仕方ありませんよ、パニック状態だったでしょうし、後ろ向きなら正確にはわからないでしょうからね。最も間違えられた人にとっては、人権問題になるでしょうが、、」
 これで幕引きとするつもりだった。これ以上の深掘りは不要だと、そんなシュウの思いが込められている。
 それに今度はアオイはシュウの言葉に被せこなかった。それでシュウも締めてよいと、先ほどの言葉で結ぼうとした。アオイはシュウに話す機会を与えたというよりも、何かを待っているようだった。
「間違っていればですけどね、、」
 その言葉は、誰かに突きつけるような言い方だった。自分から間違えたと言っておいて、そんな言い草はないとシュウは呆れてしまう。
 もうすぐ駅だ。人が降りたら挨拶して間を取ればいい。いまさら言い合っても仕方がない。聞こえないふりをして時を稼ごうと両腕でつり革に捕まり、視線をアオイから切った。
「、、でも、間違いじゃなければどうなりますか?」
 それでもアオイはまだ話し続ける。シュウもいい加減うんざりしてきた。もういいじゃないですかと、言おうとしたとき、シュウの後ろの方で人が動いた。
 身動きが取れないほどの車内で、もう次の駅で降りる準備だろうか。次は大勢が降りる駅なので、それほど焦る必要はない。
 電車に乗り慣れていない人が、やりがちな行動だと、シュウはその人が近づくと、少し通り道を作ってあげる。
 その人はチャンスとばかりに、大柄なカラダをグイグイとねじ込んでくる。ヤレヤレといった面持ちで、シュウはやり過ごそうとする。アオイはまた車窓を眺めている。

 電車は駅に止まり大勢の人が降りていった。先ほどのフライング気味の人も、無事降りられたようだ。
 ふと見ると、アオイのとなりに学生服の子が立っていた。アオイに何か用でもあるのか、モジモジと何か言いたげに見える。まもなくドアが締まりますとアナウンスがされた時、その子はアオイにアタマを下げて急いで電車を降りていった。その姿を目で追うシュウ。
「知り合いですか?」
 何か訳ありなのだろうか。聞いておいて、変にクビを突っ込んだことに後悔した。車内の人は減りはじめたとはいえ、これでまた変なエピソードでも話しはじめられたら目も当てられない。
 アオイはクビを振った。なにか緊張感から解き放たれたように、フーッと息をついた。
「間違いでなくて良かった」そうボソリとつぶやいた。
「エッ!?」シュウのアタマの中で何かがつながっていった。
「もしかしてあのコ、痴漢に遭っていたんですか?」アオイは否定も肯定もしなかった。
「窓にあのコの表情が映ってました。なにか辛そうな表情でした」
 それで痴漢の話しを切り出したのかと、シュウは悟った。あの時から、この人は自分の失敗談ではなく、その話題をすることでまわりに聞き耳を立たせ、痴漢に対して抑止力を働かせたのだ。
「何の確証もなく、誰かを咎めるほどの度胸はありません。かと言ってあのコを放って置くわけにもいかず、咄嗟に口に出ました。いつもは、それで失敗するんですが、、」
 そう言って沈んだ表情でシュウの足を見た。
「いえいえ、これは、わたしの都合で、あなたの所為じゃありませんよ」
 なんとも立場がなかった。もし自分があの人の立場だったら、そんな立ち回りができただろうか。できているイメージがわかないし、できるはずがない。
 この人は何度も失敗しても、自分が目にしたことに対して正義を貫こうとしている。それがすべていい結果にならなくとも。いやエピソードを聞く限り明らかに失敗が多いのかもしれない。それでも弱気にはならなかった。
 誰もが自分さえよければいいといった風潮がはびこる中で、誰かを助けたいという気概を常に持ち続けている優しさがあった。
 散々この人のことを小バカにして、空気を読まない言動を迷惑がり、そもそも行為を無にしたからこんなことになっている。自分の小ささだけが浮き彫りになっている。
 アオイは何度も首を振り、そして最後にアタマを下げてその場を去っていた。残されたのはシュウの方だった。電車が揺れてアオイは少しよろけていた。シュウはその姿にアタマを下げた。


 継続中、もしくは終わりのない繰り返し(駅までの経路3)

2024-11-17 18:24:06 | 連続小説

 アキは自分が何をしているのか、よくわからなくなっていた。その人と対面したとたん、言葉が出なくなってしまった。
 この人は反対側のドアまで押されて、カサを取れずに次の駅で仕方なく降りてしまったのだと思い、アキも降りる駅ではなかったのに、席を立ちカサを取って後を追いかけてきた。
 突発的にそうしなければならないと身体が動いた。カサを取り出すのは大変だった。すいませんと連呼して人をかき分けカサを掴み取り、再び反対側のドアまで進む。
 ちょっとっ!と迷惑そうに口に出す人。口に出さなくても険しい顔をする人。そんな人たちに降りますと、アタマを下げてかき分けていく。最後は吐き出されるようにしてホームに降り立った。
 電車を降りることが、こんなに大変なのかと身を持って知った。中には不憫そうな顔をして、道を譲ってくれた人もいた。どちらにせよ自分は異端であり、迷惑な存在であるのは間違いない。
 多勢に無勢で、常に多数派が正である空間がそこに創られていた。留まる人側が多ければ、降りる方が反抗分子であり、降りる側が多ければ留まっていては悪になる。
 大勢の側に付くことで権力を持ったような意識に支配され、弱者を下位に扱う。誰もがそんな認識を持たないままに、多数派に対して群集心理に飲み込まれていく。狭い車両の中で、そんな強権を発動している人達を見て、アキはどちらにも着きたくないと思うばかりだ。
「あのう、カサを取れずに、降りる羽目になったのかと、、 」
 ようやくアキは、恐る恐ではあるがそう口にできた。シンはそれまでの間、ずっとあっけにとられていた。
「あなた、あのカサを取って、わざわざ電車から降りて追いかけてきたのですか?」
 それ以外の選択肢はないはずなのに、シンは当たり前のことと思いながらも訊いてしまった。それは確認するというより、この人に自分のしたことを振り返って貰おうとするための言葉だった。
 忘れ物をわざわざ持ってきたといった尊大な態度でもなく、困っているひとを助けてあげようといった慈悲の態度でもなく、どちらかと言えば、何かの使命感に突き動かされているようにみえるのもしっくりこない。
 それだけシンにとっては考えられない行動であり、何か他の意図があるのではないかとの穿った勘ぐりも混じっていく。
「ええと、わたしが声かけたから、前の駅で降りられず、次の駅でカサも取れずに、仕方なく降りることになったと思い、それで、、」
 シンは目を閉じて首を振った。本心でここまでやれば称賛に値する。自分の所為にするにも程があり、これでは相手によっては逆手に取られかねない。
「あのう、ここまでしていただいて大変恐縮なんですが、コレはわたしのカサじゃないんです。最初に声を掛けられた時に、そのように伝えたつもりですが、分かりづらかったら申しわけありません」
 シンは苛立ってしまいそうな気持を抑えながら極力丁寧にそう言った。もしかしたら判断能力が低いとか、対話を潤滑にこなせない人なのかもしれない。
 この人の言葉を聞いて、またやってしまったとアキは肩をおとした。何時も良かれと思ってしたことが裏目に出てしまう。すぐに思い出されるのが、見知らぬ人を介抱しようとした時だ。
 通りを歩いていたら気分を悪そうにしている人が、ビルの壁に寄りかかっていた。まわりには人がおらず自分が何とかしないとと、思い切って声をかけた。
 その人はアキを見もせずに、ただ口元を抑えて、今にも崩れ落ちそうだった。近くで見ればやはり顔色も悪く、それなのにアキが声がけしても、その人は何の反応もしてくれず無言であった。
 言葉も発せず、反応もできないほど気分が悪いのか、ひとに自分の弱っている所を説明したくなく強がっているのか、アキの存在を消しているように見える。
 アキからしてみれば、自分が空気にでもなったような気になった。もしかしたら自分はまわりから見えておらず、この声は相手に届いていないのかもしれない。それならそのほうがアキにとっては気が楽だった。
 そう感じることはこれまでも何度もあった。そのくせ厄介事にはよく巻き込まれる。何か都合のいい時だけ、自分は他人に認識されるのだろうかとさえ思えてくる。
 だからといって、このまま置き去りにするわけにもいかない。自分から声をかけた手前では、人の道に反する。懲りずに何度も声をかけ続けても、相変わらず無視を決め込んだかのように、何の反応もなかった。
 その時、このビルの警備員と見られる人が寄ってきてくれた。ビルの中から自分たちの動向を目にして気になったのだろう。
 アキはこれまでの状況を説明した。警備員は何度かうなずいて、ビルの中に医務室が在るから、こちらへどうぞと、その人の肩に手をやった。その人は自ら歩き出し、警備員が寄り添って進んで行った。
 残されたアキは安心したとともに、釈然としない思いが残った。確かに自分は大丈夫かと訊くだけで、具体的な対応策を提示できなかった。しかし状況を言ってもらえれば、それに対処する手段を提案できたはずだ。
 まったく何も言ってもらえなければ、どうすることもできない。そう憤りながらも、果たしてそんな上手くこなせただろうかと懐疑的になる。
 結果だけみれば、自分など相手にせずに、このビルの警備員の助けを待ったことにより、間違いなくスムーズに事が運んだはずだ。
 自分ができたことなど、せいぜい救急車か、タクシーを呼ぶぐらいだ。あのひとはそういった大事になるのが嫌だったのかもしれない。
 自分なんかが首を突っ込んだところで、事態は何も好転しない。そんなことを見透かされているようだった。相手のためと思ってしていることも、実際には人を助けられない自分が嫌でしているだけなのかもしれない。
 折り返しの電車が到着するアナウンスが流れた。シンは良いタイミングと、では、失礼しますと話しを終わらせようとした。
 今回は会話になっただけマシだった。アキはそう思うことにして、念のために最後に確認を取ることにした。カサを少し上にして、露先の先端を包むプラスチックに引っ掛かったUSBメモリーを、シンの目の高さに運んだ。
「てっきり、コレはアナタが引っ掛けておいたと思ったものですから、、 」
 アキはカサを持ったまま、自分の想い違いを反省している。
 青ざめるのは今度はシンの番だった。見覚えのあるUSBが目の前にぶら下がっている。ポケットに手を突っ込むと、ハンカチしか入っておらず、今朝出かけに慌ててポケットに入れたはずのUSBがない。
 電車に乗った時には、すでにUSBの存在は忘れており、何度かハンカチを取り出した時に、一緒に引っかかって、外に出てしまったのだろう。
 これまでもそんな失敗は何度かしていた。無造作に後のポケットに入れた一万円札を、知らずに落としたときは、何度も通り道を往復して探したが見つからなかった。 
 今回はたまたまカサの露先に、USBのリングがうまいこと引っかかってくれたようだ。もしこのUSBを紛失していたら、半年間の実習の成果が水の泡となるところだった。
 大学と自宅のPCに、バックアップは取ってあるものの、最終データになっているか自信がない。それをイチから確認すれば相当な時間を要するだろう。
 大学と自宅でデータを行き来させているので、どちらが最新か分からなくなっている。どちらも一部が最新で、両方をつなぎ合わせて補修をしなければならない最悪の可能性もあった。
 いずれにせよ、このUSBだけが最新のデータで、それ以外はそうである担保は取れていない。資料と付け合わせて確認して、データを再構築していくには相当な時間と手間がかかり、想像するだけで背中に冷たい汗が流れる。
 先程まで邪険にしていたこの人が、救いの神にまで見えてくる。シンはカサの露先からUSBのみを取り去ろうとする。手が震えて一度ではうまくいかなかった。
「このカサはボクのではありませんが、このUSBはボクの物です。持ってきていいただき、ありがとうございました」
 そう言うのが精一杯だった。自分の自尊心を保つための、ギリギリの言いかただった。もっとオーバーに喜んでもいいい場面だったのに、相手の表情と経緯を考えると、とてもそんな気分にはなれなかった。
「ああ、そうなんですね。どうしましょう。コレ」
 シンにとってのUSBの価値を幾ばくかも感じられないアキにしてみれば、ポケットに収まってしまうUSBより、手持ち無沙汰になるカサの処遇のほうが心配だった。
 電車がホームに入ってくるのが見えた。シンはさすがに、このままこの人を放置して乗り込めなかった。カサを自分のではないと否定してことで、電車を降りられなかったのは自分のせいだ。
 さらに次の駅で引き返そうと降りた自分を追いかけて、あの状況でカサを、それもUSBを落とさずに持ってきてくれたことに、それなにり誠意を示したい。
 この人は、シンの冷ややかな対応に憮然とすることもなく、かといって恩着せがましくもなく、それどころか何か自信なさげにしている。
 それがここまでシンの対応を鈍らせていたのも事実で、もっと積極的に、明確に指摘してくれればこちらも適切な対応ができたのにと思うところはある。
 電車は乗降客の動きが途絶えドアを閉じた。シンはホームに立ったままだ。アキがぼんやりと首をかしげる。乗らなくて良いのかとばかりに。
 強気に出た時に失敗するパターンに陥ったシンは、謝罪の糸口が掴めない。せっかく大切な物を持ってきたのに、その態度はなんだと窘められたほうがまだ良かった。本心から謝罪して平謝りをすればスッキリするだろう。
 それなのに相変わらず、自分が悪いのではないかぐらいの態度を保ち続けられ、どうにもやりにくい。シンはカサを受け取った。
「このUSB、本当に大切な物だったんです。無くしたら取り返しがつかなくなるぐらいに」
 そこまで相手に付け込まれるような、自分の弱みを伝えて良かったのか、迷うところではあった。それなのに自分の今の立場を考えると、どうしてもへりくだってしまう。
 そして相手の表情を見ると、だからといって何かを要求してくるタイプには見えなかった。どちらかと言えば親身になって話しを聞いていてくれている。シンは自分の目利きに自信はないくせに、今回は変に確信をしている。
「このカサは、ボクがこれから忘れ物として、駅室に届けてきます。どうぞご心配なく」
 アキは申し訳ない思いでいっぱいだった。自分の伝え方が悪かったために、電車から降りられず、こうして忘れ物を渡すにも、段取り良くできていれば、折り返しの電車にも間に合っただろう。
 それなのに言葉はもどかしく、要領を得ないためにこの人を引き止めてしまった。あまつさえ、この忘れ物のカサの処遇までも任せよとしている。
「あっ、いえ、これはわたしが、、」
 後先を考えずに、つい口に出してしまった。これ以上この人の時間を奪ってはいけない思いが前面に出ていた。ムリなことではない。カサを届けるぐらいなら多分できるはずだ。
 ふたりでカサを握り、食事のあとの支払いを主張し合う人たちのようになっていた。そしてふたりは譲りあうようにして同時にカサを手放した。カサはふたりのあいだに落ちて慌てて拾おうと手を伸ばす。
 同調した動きを続けたふたりは、なんだか照れくさくなってしまい。無言でアタマを下げ合った。そのあとはシンの動きの方が機敏で、カサを持ってそれではと、スタスタと行ってしまった。アキがその後ろ姿を見送っていた。


継続中、もしくは終わりのない繰り返し(駅までの経路2)

2024-11-10 17:13:52 | 連続小説

 何となく嫌な予感はしていた。
 その人は足を痛めているように見えた。つり革を持つ手に必要以上の力が入っているのが目に見てわかる。電車が左右に揺れるたびに、カーブの前でスピードを落とすとき、そして曲がり終えてスピードが上がるときも、カラダに自重以外の負荷がかかると、バランスを崩さないように腕に力がこもっていた。
 本当ならつり革ではなく、手すりに寄りかかった方がカラダを支えやすいはずだ。あいにく別の人がその場を占拠し、反対側の奥のドアの手摺には傘がかかっていた。隣に立っている人の持ち物だろう。
 朝の車内は見かけた顔が多い。そこここに座っている人も日々同じ顔ぶれで、それぞれが自分の指定席を持っている。
 電車に乗り、自分達がいつも座る席に見かけぬ人が座っていると、玉突きのように座る場所が変わっていく。整然とした車内の秩序は乱れ風景は一変する。
 アオイは自分がそうなった場合は、まずはプランBとして座る場所を変える。座るところがなければプランCとして、立つ場所をドア横の手摺りにするか、連結の入り口にある手摺にするかを選択するといった具合だ。
 今日は秩序ではなく、アオイの心が乱れた。アオイは今日も同じ席を確保していた。いつもと違っていたのは目の前に、足を痛めてそうな人が立ったことだ。
 アオイが座っているのは横に長い10人掛けの一番端、ドア横の手摺りの隣りだ。降りる側のドアに近いので、そこをメインポジションにしている。足を痛めている人も多分同じ理由なのだろう。
 見かけない顔なので常客ではない。何らかの理由でこの電車に乗り合わせた初見さんだ。もしくは今後は同じ時間と空間を共有し、秩序を守る同志となるかもしれない。
 アオイの心が乱れているのは、席を譲るべきか、そうしないでおくか決めかねているからだ。この人が前に立った時からそれははじまっていた。
 それは結局のところ、自分がどうしたいかだけなのに、決断に至る理由が見つからず、自分の中で堂々巡りをし続けて、脳の動きが衰えていく。
 この人は席を譲って欲しいのか、そこから考えはじめてしまうアオイであった。もしそうでない場合、譲った立場がなくなり、再び座り直す訳にもいかず、その場で立ちすくんでしまうだろう。その後の展開がイメージできない。
 快く座ってもらえた場合、近くで立っていても、話が弾むわけでもなく、何か見返りを求めているようで居づらくなるだろう。そんな状況になれば自分の居場所がなくなってしまう。
 そうなってしまった時の収まりどころのない自分をまわりに晒したくない。小さな自分を守るのに必死になっている。自分がそうしないことの理由を探して、同時にこの状況下で何もできない自分を赦したかった。
 まわりは皆な、多分寝た振りをして目を閉じている。普段なら新聞を広げている人も、新聞をヒザに置き目を閉じていた。アオイも普段なら降りる駅までは、目を閉じているので気づかなかったはずだ。
 見えていない世界で何が起きても自分には何の影響も与えない。目にしたとたんにそれについて何かを考えなければならなくなってしまう。
 アオイは見るでもなしに前に立った人の足元に目をやったところ、右足を少し宙に浮かせ、左足だけで支えているように見え、その人の顔を見たときに目が合ってしまった。
 次は複数の路線が集合しているターミナル駅で、大勢の乗降客がある。せっかくの席を譲れば、しばらく満員の中で立ち続けることになる。
 それはこの人にとっても同じで、アオイが席を譲らなければ立ち続けることになるだろう。席を譲るなら今しかない。駅が近づいて来るにしたがって、気持ちばかりが追い立てられていった。
 考え出したら動けなる。瞬発的に動かなければ何もできない。脊髄反射だった。咄嗟に立ち上がって声をかけてしまった。声は裏返っていた。
 その人は困った顔をして首を振った。続いてつり革を持つ反対の手で制止してきた。その瞬間で顔がカーッと赤くなった。恥ずかしかった。まわりの人が全員が、自分を見ているようだった。そして想像通り、断られたとはいえ、また座り直すわけにもいかず、その人の横に棒立ちしている自分がいた。
 善意であれば、相手は必ず喜んで受け入れるわけではない。この人にも事情があり、100人が求めたものを、この人が求めているとは限らない。
 そして最大の問題点は、アオイが自分の本心ではなく、善行をすることを自分に強要したことであり、そうすることで身を軽くしようとして、中途半端なまま自我を貫き遂行してしまったことだ。
 それが一転、困ったように拒まれて、善行は悪行までは行かなくても、十分にはた迷惑になってしまった。アオイはその急激な落差についていけず、体内でも一気に体温が上昇し、そして見る見ると急降下していった。
 駅に着いて大勢の人がなだれ込んで来た。席が空いているのを目ざとく見つけた人が、ふたりを押しのけて座席を確保した。その人は顔を上げようともせずにすぐに寝たフリをした。
 すぐにふたりのまわりは人で固められ身動きがとれなくなる。さっきまで赤の他人で、近くにいても何の気遣いをする必要のなかったふたりは、今では気まずい雰囲気の中で、お互いを意識しなければならない存在になっていった。
 何となく嫌な予感はしていた。
 いつもより家を出るのが遅れたショウは焦っていた。出掛けハナに母親に用事を言いつけられた。預けてある保険の証書を準備しておいて欲しいと言われた。
 急がなくてもいいと言われたが、それをどこにしまっておいたか、すぐに思い出せない。そういう頼み事は休みの日にとお願いしていても、気づいた時に言わないと忘れちゃうからとか、今日じゃなくて休みの日でいいからと、だいたい朝の出かける間際に言ってくる。
 せめて前日に言って欲しいと伝えるも、そもそも帰りの遅いショウとは時間が合わない。メモに書いて置いておけばと提案しても、それぐらいのことも面倒なのか、どうしても口頭で伝えてくる。
 それはふたりのあいだにコミュニケーションが減ったことへの、本能的な行動なのかもしれない。どのみち仕事から疲れて帰ってきて、テーブルにそんなメモが置いてあったら、それはそれでげんなりするだろう。そんな夜の遅くに探し物をしはじめる気にもならないはずだ。
 どちらにせよ在処がわかっていれば、それほど時間もかからないことも、仕舞ってから数ヶ月後ぐらいに、ポツンと思い出したように言って来られると、どこに仕舞っておいたのか、思い出せないことはよくある。
 金融関係なので今回は目星はついている。ところが以前にそう思って探した時に、どうしても見つからず、他の案件の場所もひっくり返して、見直ししても無かったことがある。念のため母親の片付け場所を探してみたら、そこにちゃんと仕舞ってあった。
 その時の損失時間やら、徒労感は思いだしただけでも腹立たしい。母親はあっけらかんと、ああここに仕舞っておいたのね。と笑った。そんな経緯もあり、なるべく早く解決したかった。このまま仕事に行っても、気になってしまい集中力が削がれそうだ。
 思い当たるファイルブックを取り出し、ペラペラとめくっていく。なんの書類か分からないものが、幾つもファイリングされていた。
 開ける度に整理しなければと、その時は思っても事が片付けば、またいつか時間を作ってからとファイルを戻して、そのまま放置されたままだ。
 今日もそうであり、そういった日々の積み重ねが、最終的には急いでるところで大切な時間を奪っていく。ようやくお目当ての証書が見つかりホッとする。
 時計を見るといつも家を出る時間より2分過ぎていた。慌ててクリアファイルに入れてテーブルに置いたあと、イヤイヤと首を振る。
 母親に声をかけずに置いておけば、見ていないなどと言われて紛失の元だ。部屋まで行って声をかければ、ますます家を出るのが遅れてしまう。取り出したファイルブックにクリアファイルごと戻して、元ある場所に戻し急いで家を出た。
 遅れを取り戻すべく、少し早歩きで駅に進む。駅までの所要時間は歩いて8分なので、少し急げば間に合うはずだ。ショウは駆け足をはじめる。
 普段なら走って駅に向かう人を見ると、時間管理がなっていないズボラな人に見えるため、自分が急いでいる姿を人目に晒したくはなかったが、今日はそんなことを言ってられない。
 急いで家を出ると、そのあとで色々な心配事がアタマをよぎる。冷蔵庫の扉を締め忘れていないか、水を出しっぱなしにしていないか、灯りは全部消したか、コンロの火を消してガスの元栓を閉じたか。
 こういう時に限って何ひとつ記憶に残っておらず、思い出すことができない。心配は募っても早まる足は止まらない。きっと大丈夫と、なんの確証もない安心感を植え付けようとする。
 家には母親がいる。何か忘れていても対処してくれるはずだ、、 火の消し忘れ以外はと、新たな心配事を作ってしまう。
 時計を見る。なんとか電車に間に合いそうだ。それでも歩みは緩めない。少し汗ばむ。朝から下着を汗でぬらしたくはないと少しスピードを落とした。そして目の前が真っ暗になった。
 ショウは、あっと声をあげて地面に伏せていた。右ヒザに激痛がはしった。すぐにまわりを見る。幸い誰もいない。側溝のミゾのわずかな段差で躓いていた。
 早く立ち上がらなければと急いだ。こんな醜態は急いで駅まで走る以上に、絶対に人に見られたくはない。ましてや誰かに手助けされるなど絶対に嫌だった。
 右足では踏ん張れなかった。左足を曲げて両手をヒザにつき何とか立ち上がる。スラックスは破れてはいなかったが血が薄っすら滲んでいた。
 恐る恐る右脚を前に出す。やはり力が入らない。仕方なく左足を軸に、右脚を引きずるように前に出す。自分では目立たぬようにしていても、周りから見ればぎこちなく歩いているのが一目瞭然だろう。
 あのとき間に合うとスピードを緩めたばかりにと、後悔しても時は戻って来ない。せっかく挽回した時間も吐き出してしまった。もう間に合わない。駅に着いて、いつもは使うことのないエレベーターを待った。
 自分のような若者がエレベーターなど使えば、周りに楽をしていると見られるだけで、使うことはこれまではなかった。幸いショウ以外に待っている人はいなかった。
 エレベーターに乗り込みホームへのボタンを押した。いつも乗る電車は行ってしまった時間だ。歩くスピードも考慮して、会社に着く時間が10分から15分は遅くなってしまう。会社に着いてからの、しなければならない優先順位を変えなければとアタマを動かす。
 ホームに着くと、すぐに次の電車が進入してくるところだった。ツイている。これなら5分ぐらいで何とかなりそうだった。まだ天に見放されたわけではないようだとショウは電車に乗り込む。
 座席は全て埋まっていた。いつも乗る電車ならば、座ることができたのに、一本違えば顔ぶれも変わり、座席はすべて埋まっていた。
 座りたい気持ちもあるが、ヒザの曲げ伸ばしで痛みが出る。座ったり立ったりに時間がかかりるし、座ってもヒザを曲げられそうになく、足を投げ出していては、満員になったときにまわりの客に迷惑だ。
 そう思うと席に座るより、このまま立っていたほうが負担がない。立っていても右脚に力を入れなければ痛みも少ないので支障はなかった。
 方向性が決まり、気持ちも落ち着いたところで、視線を感じ思わず目をやってしまった。目の前に座っている人と目が合ってしまった。
 すぐに目を切ったが、その人は何か収まりが悪いように見え、ショウはすぐに悟った。席を譲ろうかとしているのだ。声をかけられるのは避けたいが、場所を移動するわけにもいかない。もうすぐ電車は駅へ着こうとしている。
 突然その人は立ち上がった。どうぞ。アシ、イタイんですよね? 上ずる声でそう言った。
 足を痛めている人に、席を譲らなければならないという道義心だけが、この人を突き動かしているようだった。そのために想像力とか、思考は停止し、このまま受け入れられること以外が発生した時に、対応できなくなっていた。
 ショウは空いている右手で目を覆った。そのまま首を振った。言葉で拒否することができなかった。拒否のゼスチャーだと理解されないといけないので、席に戻ることを促すために手を振った。
 その人は完全に浮足立っていた。顔が赤らみ、この先の身の振りどころを見失っている。それはショウも同じだった。何も起きて欲しくなく、そっとしておいて欲しい時に限って、思わぬところから横槍が入る。
 それが善意から来ていれば、文句は言えない。それを呼び込む弱い自分を晒した代償だ。ふたりは次の駅まで身動きが取れないまま、やり過ごさなければならなくなった。
「スイマセンこんなことになっちゃって」なにか話さなければならないと、ついそんな言葉が出てしまった。
 車窓からは線路と垂直に伸びた商店街が見えた。それもいつもなら目にすることのない風景だった。秩序が乱れていた。