そんな三人を挟み込むようにして、イヌに散歩させている人が前後からすれちがう。イヌは飼い主の気を引こうとしているのか、相手が気に入らないのか、お互いに吠え合って何らかの自己主張をしはじめる。
それを煩く顔に出したまま、キジタさんもイヌに負けずと主張しはじめる。
「わたしにも経験があるよ。どうしたって若いうちはラクをしたい。いや、若いに限らず誰だってそうだ。ただ若いうちはそうやってラクを覚えると、それは習慣になって、一生ついて回るんだ。過酷な状況を切り抜けるために思考をすれば、自ずと感性が研ぎ澄まされていく。そのなかでだけ、見えてくるモノがあり。それをつかむことで大きく成長できる。それをやり遂げられる人間と、そうでない人間には大きな差が生まれるのは致し方ない。自分に限界をつくってしまうし、まわりもそこまで人を追い込むことはしない。なにより、乗り越えなければただの無茶で、無理強いで終わってしまうんだけどね」
無茶で、無理強いで終わってしまう人がほとんどだ。そうでない極一部の人間に、多くのひとが従うことになる。学校を見ても、町内を見ても、それこそ自分の家だって、命令を下せるのは一握りであり、それは何処かでは一人だけになる。
多くのひとは面倒なことは誰かに任せてラクをしたいのだ。それが命運とあきらめているのか、そもそも自分は誰かに従うために生きていると割り切っているのか。声を挙げなければどんな信念があっても、大勢のなかのひとりにしか見えないため、そんな雰囲気が漠然とこの国を覆っているようにみえる。
何度か吠えた後に飼い主になだめられてイヌは大人しくなっていた。クゥーンと媚びるような声を出して尻尾を振っている。
「まあ、おりこうさんなワンちゃんね。よく言うことを聞いて」
「あら、あら、そちらこそ、留守番してるのをお見かけしますよ。よくしつけが行き届いてますね」
そんな声をかけあいながら、それぞれがまた進む方向へと歩いていった。あのイヌたちはおりこうなのか、しつけが行き届いているのか。いずれにせよ、そんなことは人間の目線で語られるだけで、イヌたちにとっての本心はうかがい知れない。
あえて言うなら、そうすれば飼い主から誉められる、食事をもらえる、生きるための糧を得られるからそうしているだけで、そう言った意味ではおりこうといえる。
そうして俯瞰から獲物を狙っていた猛禽類のようにカズさんは舞い降りて、すべてを絡め取っていく。
「みんな、誰かが何とかしてくれると勘違いしているのよ。なにひとつ自分事として捉えたがらない。何か起きれば誰かの所為にして、自分は被害者面してのうのうとしている。スミレも経験があるでしょう。学級委員とか、生徒会とか、あんなモノは好きなヤツにやらせておけという風潮。先生側に着いたその人たちを、あざけ笑い、イヌと陰口を叩き、馬鹿にして、反体制の立場のその他大勢でいる自分に陶酔している。そんな行動がいかに滑稽であるか、いかに無駄で無意味であるかわかっていない。自分たちが自由にふるまえると勘違いして、その実は、いつの間にか出来上がっていく支配構造に組み込まれて、狡猾な者たちの管理のなかで、多くの自由を搾取されていることに気づかない。他人事で距離を置くほど、知らないうちに多くを搾取されていくことに気づかない。あのイヌを見ればそれがよくわかるでしょ」
わからなかった。スミレは単純に飼い主の言うことを聞いていれば楽だとしか考えつかなかった。
学校では、委員になる人はだいたい決まっていた。あの人がなるだろうと、薄々みんなも感じており、事実そんな人たちが委員長や役員になり、学校を仕切っていった。
そうであれば先生ともツーカーになり、最終的には先生の傀儡政権となり、学校に都合のいいルールばかりが作られていく。どんどんと息苦しくなってもその時は、気づかずに最終的に校則にがんじがらめになってしまっている。
世も同じなのだ。生活するためにはどうしたって権力者の言う通りにしなければならない。言うことを聞かない選択をすれば、徐々に排除されていく。誰もそこを切り崩そうとはしない。変わりに手を挙げる者は、市井を代弁すると言いながら、収まれば同じことを繰り返すだけでしかない。
権力者が重宝がる属性を持っていれば『おりこうさん』と誉められて、言うことを素直にきいていれば『しつけが行き届いている』と感心される。
「そこに甘んじるか、それを盾に取って自分に有利な状況を創り出せるかで、同じことをしていても全然違うけどね。誰もが一歩引いたところで生きていくことに満足している。それはそれで間違いではないけどね、それは同時に、自分のすべてを誰かに委託しているのと同じだね。あのイヌたちがオレ達人間より、生きることに関して数倍長けているとすれば、それが人間の最終系になるのかもな」
殺し屋のキジタさんの、そのキャラクターに似合わない言葉でまとめてしまった。人は見かけによらないし、行動と言動にも一貫性がないのが見て取れる。誰かを殺めるのも生きていくうえで必要だとでも言い出すのか。
「いや、殺し屋じゃないでしょ。人を殺したってのも比喩だっていったでしょ。まいったな」
「つまらないキャラづくりをしようとするからそうなるのよ。誰かの所為にして死んでいく時代もあれば、誰の所為にもできず死んでいく時代もある。それに誰かの死を自分の所為だと考えるところまで至るのもひとつの時代。その中でしか、わたしたちは生きていけない。時代が許さなければそういった感情も生まれない。声を挙げたくてもできない時代があったんだから」
カズさんはキジタさんを諫めながらも、物悲しく、枯れたような言葉で語った。スミレが聴いていてもなんだか切なくなる、物言えぬ時代を生きてきた経験が言わせた言葉に聞こえた。
何にしろカズさんは、自分がスミレの母親の部類に入るつもりはないらしい。カズさんがお嬢さんとなると、スミレが母親になってしまう。奥さんなんて呼ばれたら卒倒してしまいそうで、すかさず名を名乗るスミレ。
「あのぅ、わたしはスミレって言います。犬塚スミレです」
「ああ、カズさんとスミレちゃんだね。よろしく。では、さっそく行きましょう。お金の心配はいりませんよ。お礼なんで」
そうキジタさんは言った。なんとなく当て付けがましく、ポケットに手を突っ込んでそのまま歩き出すキジタさんに、スミレたちはついて行く。
カズさんはまた少し若返っていた。背筋もピンとして、背も伸びた。それこそおばちゃんと呼ぶには失礼なほどだ。知らない人から見れば30年連れ添った夫婦に見えるだろう。スミレはその娘と言ったところか。夫婦の会話をじゃましないように後をついていく娘を演じている。これでスミレの連れ合いがふたりになった。
どうして、この状況に存在しているのか。すべての事象には理由があるはずで、その解をなんとかして知りたい。それとも、すべての事象に理由を求める理由が必要なだけなのか。解のない疑問こそ人々が追い求めている業であり、必要がないのに重要であるように捉えて、自分の生存を確認しているとも言える。
「わたしは昨日、人をひとり殺してしまったんです」
キジタはそう物騒なはなしをしはじめた。スミレは何を言い出すのかわからず、聞こえないふりをしてカズさんの反応を見た。
「その呵責に耐え切れず、酒の力を借りました。それがこのザマです」
キジタはカズさんが若くなったことは気になっていないようだ。
「それで、気分は晴れたの? 自分がどうしてそうしたかの自己解決はできたの?」
そんな風に冷静に対応するカズさん。スミレはヤバい人と関わってしまったのではないかと鼓動が高まる。どんな理由があるとしても人を殺してはいけない。それを冷静に語り出す人間は自分たちの手に負えるわけがない。警察に連絡して逮捕してもらうことが先決ではないか。
スミレはスマホを持っていない、カズさんもだ。公衆電話も見当たらない。スミレの時代にはほとんど絶滅していたが、この時代にならあってもよさそうなのに。
「わかりません。ただ、昨日よりは気持ちは落ち着いて、しかたがなかったと割り切れている気がします。もちろん人を殺したと言うのは比喩であり、殺したも同然の行動をとったと言うのが正しいのですが」
ヒユ? モノの例えで言ったということだ。そうであればスミレは完全にキジタの思惑にハマってしまったようなもので、物騒な掴み言葉で心を鷲掴みにされて慌ててしまい、短絡的なリアクションを起こそうとしてもしかたない。
「どうせ、精神的に追い詰めてしまい、その人を死に追いやったとでも言いたいんでしょう。この頃の人間は自分史を語るのが好きで困るわねえ。わたしは、アナタたちが見てきたものの何倍の不幸と、多くの死を見てきた。それをいちいち気にしてたら、とても枕を高くして寝られないわね」
競い合うようにしてカズさんは言った。ただ負けず嫌いなのか、それを聞いてどうしてもだまっていられなかったのだろうか。
枕を高くしたらそれこそ寝ずらいはずだ。あえて寝られない状況をつくりたいのだろうかと、スミレは首をひねる。
そもそもひとりだろうが、多くだろうが人の死について張り合ってもしかたない。その当事者にとっては唯一の死だ。比べるモノではない。
それとも、どんなことであっても一度を体験すると、二度目以降は薄れてしまうと言うのか。人間の性と言うべきか、どれ程印象深い経験をしても初めてはなければその意味合いが減ってしまうことにスミレはガッカリしてしまう。
「そうなんですか?」キジタさんはその真意を聞くべく、カズさんに訊ねた。
カズさんは立ち止まり天を仰いだ。外見は若くなっても、行動はこれまでと変わらない。少し疲れたようだ。
「そうでもあり、そうでもないってところでしょうね。だいたい、すぐにこれはこうだって、ひとつの結論を欲しがるのも、人間の悪いクセでしょ。それはいつの時代だって変わらないようだけど、不安な気持ちのまま布団につけないのは誰だっていやなモノだからね」
カズさんはこうしてよく人間論を語る。カズさんの言ういつの時代の人間と言うのは、いったいいつの頃の人間と言う意味なのか。自分が以前よりも若くなっているから、近ごろの若い者はといいづらいからそうなるのか。
「すぐにそうやって、何か特定の型にはめたがるでしょ。自分が納得するような答えが欲しくて、そういう意見を探す。同じような意見には同じような人が集まり、自分が楽な状態になることだけを考えいる。そうでなければ息もできなくなってしまう、、 でしょ、スミレ?」
さっきのスミレの状況を見てそう言っているのだ。とかく自分の身に起きたことに、すべて理由をつけないと安心できないのはいなめない。そうでないと心が落ち着かないのは事実だった。だから結論を急ぐし、自分に有利になる情報が必要になる。それで何事もない自分だけの平和の世界を護ろうとした。
そこに長居するほどに、知力は衰え、思考は固定化され、想像は乏しく、構想は芽生えてこない。
「だから、突然の危険に対処できなくなる。予定されている事象については、事前に対策を考えておき対応できるし、少々の想定外があっても、何とか切り抜けられる。でも生きていればそんなことばかりでは収まらない。ありとあらゆる無理難題が降りかかり、早急に決断を迫られる。それに対処できるか、できずに埋没していくか、できている振りをしてなかったことにするか。スミレはこの状況を受けて、なんとか対応しながらもなるべく少しの負担で乗り越えようとしている。それは平時においての対処よりは、数段高い意識で行われいるんだけれどね」
若いころは大学の先生だったのか、カズさんはなんだか大学教授が講義をするような言いかたをした。わかったような、わからないようなことが多かったスミレだったはずなのに、言わんとする意味が飲み込めてきた。
これもひとつの平時ではない状況での火事場の馬鹿力がなせる業なのか、それとも状況に応じた一足飛びの成長がそもそもひとには備わっているのだろうか。
では、なぜ、スミレがこの状況下におかれなければならないのか。それが一番知りたいことであるのに、その答えには行き届かないし、カズさんも、キジタさんもそこには至らない。