アメリカ生活の想い出

1987年から5年間アメリカで過ごし全く英語が出来ないのに、地元のお年寄りと知り合い学び楽しく過ごした記録です。

住んでいたアパート(3)

2008-12-20 13:06:55 | Weblog
キッチンには窓がなくダイニングテーブルのほうからキッチンのにあるカウンターにあかりが入るだけでしたがそれほど広くなく使いやすくあまり動きまわらないでお料理を作ることが出来ました。

キッチンに入ると左手に大型冷蔵庫があり、その隣はマイクロウエーブ(microwave)が上下に2台 (これは部屋を借りる時には付いています)設置してありました。

奥には小さい流し台があり、背中にあかりを受けるので暗くいつも電気を点けていました。
流しには排水口ににゴミを入れるとガーベージ デスポーサー(garbage disposer)がきれいに粉砕して流してくれますが、は細かいゴミは入れましたが大きなゴミは捨てず、特に玉ねぎの皮は粉砕しににく入れませんでした。

流しの斜め左下に皿洗い機(dishwasher)があり、大きな汚れはサット洗い皿洗機に入れるのですが、日本のお茶碗や小鉢は等入れにくく結局は手で洗ってあまり使わないで済ませていました。でもお客が多いときは助かりました。

流しがある右手には料理を作る調理台が続き、冷蔵庫やマイクロウエーブがある反対側に奥行きのある大きな4口のレンジ(electric range)があって同時に料理を作るのに便利でした。扉つきの物入れが沢山あり全てしまい込めるので整理整頓することが出来たし、流しはには少し高めでしたがそれほど不便だとは思いませんでした。

住んでいたアパート(2)

2008-12-19 18:17:23 | Weblog
玄関から入ると左右に部屋がわかれ右側は海の見える明るい居間とリビングキッチンです。部屋には仕切りがなく広々としていました。

ベージュ色の絨毯が玄関の入り口から敷き詰めてあり壁は白、そのうえに居間には窓の方に向けて大きな鏡がはめ込まれて、その鏡に外の景色が映りより一層部屋を広く見せていました。
鏡の前には低い洒落たドレッサー(dresser)が置かれていて大きなスタンドランプがありました。

が2年間単身赴任で居たので家財道具はほとんど揃っていました。ドレッサーの前にはゆったりとした深いソファーとテーブルと小さいサイドテーブルがありもう一つの小さいソファーとL字型に並びその間にフロアスタンドランプがあってドレサーの上にあるスタンドランプと一緒に電気をつけて部屋を明るくしていました。

日本のように天井からの照明はなく、少し暗いですが落ち着いた雰囲気がありました。
海の見える窓際には大きな窓とベランダに出るガラス戸があり、窓の前には6人用の大きなダイニングテーブルとシンプルなシャンデリヤが吊り下げてありました。
そして窓と反対側にキッチンが続いていました。



住んでいたアパート

2008-12-17 20:18:44 | Weblog
ロスアンゼルス空港から50K南下したところにあるニューポートビーチに住んでいました。
日本でいえば、湘南の海岸地帯のところです。
住んでいたアパートは一風変わった建物で、5階建ての4階に住んでいたのですが、南からは階段を4階まで上がり玄関に着くのですが、北側には駐車場があり階段なしで玄関に着きます。
土地の傾斜をそのまんま利用して建てたアパートでした。アパートの敷地内には、低い位置にある道路と、高い位置にある道路がありました。

借りた部屋は2LDK,2ベットルームと居間、キッチンだけでそんなに広くありません。
少しゆとりのある独身者、リタイヤして広い家から移り景色の良い場所で余生を楽しみ暮らしている老夫婦、小さい子供のいる若い夫婦が住んで居ました。

玄関のドアの横に部屋の番号の表札があるのみで住んでいる人の名前は書かれていません。部屋の番号は600だいで4階に住んでいるのになぜなのかわかりませんでした。
このアパートは東西に長い敷地にあり自動車が出入りする中心の広場からWest,Eestに分かれていました。
そしてW,Eがつき番号が全く同じなのです。ある日、Eestの番号のお客が間違えて来て、W,Eがあることを初めて知りました。

ドアの前には靴拭きマットがあり靴の汚れをとり入ります。部屋の中に靴を脱がないで過ごす人がほとんどですが、私たちは靴を脱ぎスリッパに履き替えました。
ドアをあけ入ると左手に引き戸の物入れでゴルフ道具など置けるようになっていましたが、私は下駄箱用にも使っていました。


わくわく・どきどき・びくびく(3)

2008-12-16 11:19:05 | Weblog
アパートの敷地内にある道路を歩いて行くと途中は何台かすれ違うけれども人影がありません。
アパートの管理事務所の広場には小さい噴水があり、その周りにはおおきな鉢植えにきれいな花が植えられていました。
広場の位置から一段と下がったところにある4面あるテニスコートではアパートの人達がテニスを楽しんでいました。

少し買い物をしようとスーパーマーケットに入りました。品物を選び一番はじのレジ台に行くと「・・・・?] 聞かれて、さっぱりわからない。
ドキドキしていると今度は数字を言っているらしい。レジのところの数字を見てお金を払うと「・・・・?」 聞かれてもさっぱりわからない。
紙袋に品物を入れて渡されると「・・・!」 何一つ聞き取れず、ドキドキしながら一言も声が出ずアパートに帰りました。

英語の出来ない惨めさと怖さを感じました。

家の出入りには誰もいないことを確かめました。家の中にいても玄関の戸がトントンと叩かれるとビックとしました。覗き窓は高い位置にあるので踏み台を持っていき外を覗きました。何の連絡もなく訪問されたら直ぐに開けてはいけないと言われていました。覗きながらジーとしていると立ち去って行きホットしました。

がなると飛び上がるほどビックリ暫くのあいだビクビクして過ごしていました

わくわく・どきどき・びくび(2)

2008-12-15 09:23:42 | Weblog
日本では、山の見えるところに住んでいたので、冬山の美しさ、新緑時、紅葉時、それぞれうつくしく、そして空気の良いところでした。
けれどもお天気の悪い時はまったく山は見えません。

こちらのアパートは、海の見える場所だったので、海の色の変化、朝日が昇り始めると海面はキラキラひかり、夕日には茜色に染まり、お天気の悪い時は暗いどんよりした色になりました。
変化のある海を毎日眺めるのも私の楽しみの一つになりました。

買い物は一週間まとめてするのでまだ一人で出かけたことはありません。
部屋の中では掃除をしたりテレビを見たりして過ごしていました。

ある日、ベランダのガラス戸を開けっ放しにしてソファーに座っていると隣の猫が遊びに来ました。
入り口での顔を見てニャーン と挨拶、
もおもわずニャーン・・
動くと逃げていくと思いジットしていると部屋の中をアチコチ歩きまわり、時々私の顔をみながら帰って行きました
。昼間声を出すのがニャーン・・だけとは情けない、翌日買い物をしようと思い切って外に出てみました。

アパート敷地の一角に、銀行やスーパーマーケット、美容院、クリーニング店、パン屋等あり広い駐車場のあるモール(商店街)がありました。 

第二章わくわく・どきどき・びくびく

2008-12-14 08:46:06 | Weblog
1987年3月18日、と二人でロスアンジェルス空港に降りたちました。
最初は英語が出来ない不安より外国に行ける喜びの方が強く、わくわくした気持ちで一杯でした。
空港内で先ず驚いたことは、人種の豊富なこと、肌の色、髪の色、目の色の違い、見上げるような大きな人が多く、人々を眺めているだけで面白いと思ったものです。

その日お天気はでした。サングラスをかけたいと思うほどまぶしい蒼い空でした。
フリーウエイーにのって、住んでいるアパートに向かうと車線の多い事、片側車線は6~8本ありました。
の数や種類の多い事、高級車から、色がはげて汚い古い自動車、軽自動車が走っているとおもうと、近づいてくると普通の大きさの車で、道路幅が広いために小さくみえるのでした。

の住んでいるアパートは、オレンジ色の屋根の洒落た建物で5階建ての4階に住んでいました。
部屋に入ると大きな窓から海が見え、ベランダもありました。これからの生活が楽しみになりました。

それから直ぐに、娘をオレゴン州にある大学の女子学生寮に送り届け、いよいよ昼間は私一人だけの生活になりました。続く


アメリカ合衆国カルフォルニア州について

2008-12-10 09:31:04 | Weblog
の下調べしたこと
カリフォルニアの面積 411,1042 km2 (日本の面積 377,765 km2)
州都         サクラメント
州名         カラファイア(スペイン語)と言う女王のなにちなむ。最初はスペイン領だった。
1822年       メキシコ領になり~アメリカ・メキシコ戦争でアメリカ領
1848年       合衆国へ割譲された。
1849年       憲法が制定
1850年       合衆国31番目の州になる。

北はオレゴン州、東はネバダ・アリゾナ両州、南はメキシコと境にした西は太平洋に面している。
東側にはシェラネバダ山脈が走り、その東面積にはデスバレー(死の谷)がある。
アラスカを除く合衆国の最高峰ホイットニー山(4,418m)と最低点(海面下85m)が隣合わせて州内に存在する。

カルフォルニア州は4気候区に大別される。
中部より南部の海岸によりみられる地中海式気候で、夏は野山の草木が枯れ、冬は逆に葉が繁る。
北部はおおむねにして西岸海洋気候で森林が多い。
南部の内陸部は砂漠気候でモバール砂漠・デスバレーなどの乾燥地域が広がりサボテンが多い。

太平洋岸の沖合いをカルフォルニア寒流が流れるため、海岸部は年間をとおして、快適な気候に恵まれている。内陸部の低地は一般に暑い。
カルフォルニア寒流は北米からカルフォルニア沖を南に流れる幅の広いゆるやかな海流で黒潮のようなはっきりした流れの境はない。

一般的には岸からおよそ1000キロの沖合までカルフォルニア海流域としている。
速度0,5ノット程度、低音低塩分の海流の性格をもつが南下するにしたがって高温高塩分になる。
この海域は4月から8月にかけ岸にそって下層水の顕著な湧昇が起こることで有名でこの湧昇流によってこの海域は好漁場となっている。(大日本百科事典)

単身赴任の留守家族

2008-12-08 11:21:02 | Weblog
私たちにはの娘がいます。
当時長女は大学3年生で大学の近くに下宿していました。下の娘は地元の高校2年生でした。
は高校をキチンと卒業してから渡米すること、長女には大学卒業後日本で就職して欲しいことを明言していました。

そして1985年6月10日にアメリカへ出発しました。
それからの2年間はにすべてをまかされたわけですが、ほとんどのことは問題なく出来ましたが夜は下の娘と2人だけでは心細く思いました。
昼間はで買い物に行く時は駐車場が空いている時間帯を選び事故にならないようにいつも気をつけていました。

アメリカからはよくがかかってきました。
また日本で大きなニュースがあると急いでで知らせました。
がアメリカにいってからしばらくして1985年8月12日には日航機の123便の墜落事故がありました。

家を貸すために家財道具の整理し一部屋にまとめました。
社宅として会社に管理してもらえるので安心でした。常時いろいろなことがあるものです。2年間は直ぐに過ぎました。
次女の高校の卒業式に出席してから、翌日と一緒にアメリカへ出発しました。

特訓 自動車運転練習

2008-12-06 08:43:07 | Weblog
私は44歳の時に自動車の免許を取得しました。免許を取った後は怖くて自動車を運転することが出来ませんでした。
47歳の時2年間ほどが単身赴任するためにが運転できるように特訓が始まりました。
3年間、自動車に全く乗っていなかったので怖くてしょうがありません。

は助手席に座り特訓が始まりました。
空いている道路を走っても練習にならないと、雨の日、狭いわき道、混んでいる時間帯そして夕暮れ時を選び特訓が始まり毎日必死に練習しました怖くても続けなくてはなりません。

も助手席に座っていて怖かったに違いないと思います。
知人が「さんの運転は如何ですか」
と聞くとヘルメットかぶっていたいよー」と言っていたそうです。
が免許を取るのに猛烈に反対した人が必死に教えたのでした。

第一章 アメリカへの転勤辞令

2008-12-05 15:56:33 | Weblog
1985年2月にアメリカ・カリフォルニア州ロスアンゼルスへ転勤の辞令がありました。
転勤前に病院で健康診断を受けると腎臓に小さい石が出来ていることがわかり、大きくなったらいつかは手術する必要ありとの医者の話、
自覚症状がなかったがアメリカで手術するより日本でしたほうがよいと急遽病院に入院することになりました。

医者はが手術のあと数ヶ月後アメリカへ発つことを知っていたのでそれなりの手術をしました。
手術後はあまりにも元気なので周りの人はびっくりしていました。の気持ちはもうアメリカのことで一杯でした。

手術のあと早めに歩行訓練をはじめたので回復が早く、病院でジットしていられなくて家が近かったためこっそりと朝早く歩いて家へ帰ってきて自家用車で病院に戻りました。
それから自動車で行ったり来たりが続きました。

義兄や義姉妹が遠くからお見舞いに来て、駅前でタクシーを待っていると、
「びっくりしたなー駅を出ると、目の前に止まっていた白い自動車の運転席にいる人がニコニコしているのでよくみたら、が迎えに来ていたよー」
義理の兄は、自動車に乗り患者がお見舞い客を迎えに来るとは前代未聞だと言って驚いていました。
でもそれだけ元気であることがわかり安心したといって我が家で休息してから自動車で駅まで送ってもらい帰って行きました。

それからは無事に退院してアメリカへ行く支度にとりかかり始めました。