
「そんな事、大したことじゃないから大丈夫、やってごらん!」
と、言われても、
子供が、「ぜったーーいに、無理!無理!超~コワイもん、いつか大人になったらやってみるからいいもんねっ!」
と、言うのとまるで同じだった『私』。
臆病な息子を見ていると、昔の自分を見ているようで、悲しみと怒りの二つの感情がわいてきて、またそれを息子にぶつけながら、自分を責めて、無性に嫌な気分になることがある。
私も、子供のころから『恐がり』だった。
それに気づいたのは、大学生になってから。
本格的に、自我が目覚め、一人で生きていかなければならない現実を知ったとき、なのかもしれない。ある意味、親といつまでも一緒に生きれるわけではないんだ、と。それほど、私は、親の庇護の元に何の心配もなく、明日も10年後も30年後も生きていかなければならないことに少しの懸念もなく、自分の内面と外見を磨くことと、娯楽とボーイフレンドだけに夢中だった少女。
しかし、その甘美な楽園から、少しでも外界を覗いてしまってからは、大変だった。突然、生きることが、苦痛、となったのだ。
生身の自分を社会に置いてみればみるほど、苦しくて恐い場所になってしまった。
けれども、好奇心だけはそれと反比例するように目覚めていったため、自分を恐がらせる場所へ自ら飛び込んで行った。
恐い、不安、でも、行って自分の目で確かめて見ないと、それをいつまでたっても克服できない。
そうしなければ、この先この世界では生きていけないかもしれないほどの弱い自分に、焦る日々。
ものすごく恐かった。
その上、行動してみた時点で、それがJudyをものすごくハッピーな気分にしてくれたことは、たぶん思い出す限りないので、決して楽しくも無い。
(ただ、ずいぶん時間が経過してから、それは満足感と自信を与えてくれた。)
それよりも、そのために使い果たした莫大なエネルギーの消費量のせいで、くたくたに疲れて、しかもひとりぼっちであれこれと悩みながら、なんともいえない寂莫感にさえ襲われていた。
『でも、やらないより、やったほうがよかったよ、この場所は、あなたには合わなかったけれど、これでひとつ恐いと思う気持ちが消えたもの。さあ、またあなたを怯えさせるものにチャレンジよっ!』
こんなことをして20代は過ぎていきました。
恐れと不安は、20代のJudyにとって《強敵》だったのだ。
そして、30代になり、開業し、子供も授かり、自分の家も建て、人生の三大イベントを一気にこなし、まるでこのために20代の激戦があったのかのように、「敵なしの勝負師」かのように変貌していたのです。
そして、すべてが安定してもうすぐ40才が近くなろうとしている頃、また気づいてしまった。
もっと完璧な強さが欲しい、と。
今までは、夫と二人三脚で作ってきた世界。
支え合ってきたから乗り越えることができた。
でも、一人で、自分の力だけで完成出来るものを見てみたい。
それから、ずいぶん考えて、自分のやりたい仕事のために、会社を作った。
そして、今がある。
これは、かなり楽しい反面、常に自分との戦いが生じるため、ストレスも高い。
しかも、どこがゴールなのか、実際わからない。
当初は、ここから地道に勉強しながら、いつか、こんなことやあんなことができたらいいな~と、漠然と思っていたことがあった。
それを去年、全部やってしまった。
ものすごい不安や恐怖の連続。
はじめの一歩を踏み出すのに、どんなに躊躇したか、、、
私、ひとりではこの1歩を踏み出せなかった。
これは、Judyの周りにいた素晴らしい人たちが、私の1歩を引っ張りだしてくれた。
ほんとうにありがたいと心から感謝しています。
この友人達は、生身のJudyが見つけてきた人達。親や夫が与えてくれた友人ではない。
Judyが見つけたJudyの友人。
こんなこと、当たり前だろ、と思う人々もたくさんいることでしょう。
でも、それほど自分の足で自立してこなかったのです。
1960年代生まれの女性は、多いのではないだろうか。
所謂、リカちゃん世代。リカちゃんハウスにいれば、安心だったのだから。
話は戻りますが、そうなのです。あの頃の夢がとりあえず、叶えられたのですが、
仕事なので、ハイ、これで終わり、というわけにも参りませんし、その夢を現実にしたおかげでその先の道も変化していく。
けれども、この先どっちの道を選ぶかも、私次第。
しかも、昔の夢にたどり着いたものの、それは今やもう夢では無くなっていて、桜の花のようにはかなく消えてしまった。
今残っているのは、一気に突っ走り、しかも大敵であった不安と恐怖との再会で、また戦うことになったためのストレスでの疲労感と達成感。
昔ワクワクと想像していたより、喜びが少ないことが不満。
なんでだろう?
そして、これが決して今の私の夢でもないし、ゴールでもない。
ただし、Judyにとって、一番嬉しいことは、以前に比べて、ずっとずっと強く美しい羽を手に入れたことだ。
だから、まだ飛び続けたい、飛び続けなければ、と果てしない空に向かって、今、立ち止まっているところだ。
空へ向かうよりも、しばらく地平線のほうの横の軸へと旅してもいいかな、なんて思いながら。
カモメのように、思うままに自由に羽を広げて飛んでいたら、ふとこんなことを思いました。かもめのジョナサン、ではなく、かもめのジュディサンのお話でした。
と、言われても、
子供が、「ぜったーーいに、無理!無理!超~コワイもん、いつか大人になったらやってみるからいいもんねっ!」
と、言うのとまるで同じだった『私』。
臆病な息子を見ていると、昔の自分を見ているようで、悲しみと怒りの二つの感情がわいてきて、またそれを息子にぶつけながら、自分を責めて、無性に嫌な気分になることがある。
私も、子供のころから『恐がり』だった。
それに気づいたのは、大学生になってから。
本格的に、自我が目覚め、一人で生きていかなければならない現実を知ったとき、なのかもしれない。ある意味、親といつまでも一緒に生きれるわけではないんだ、と。それほど、私は、親の庇護の元に何の心配もなく、明日も10年後も30年後も生きていかなければならないことに少しの懸念もなく、自分の内面と外見を磨くことと、娯楽とボーイフレンドだけに夢中だった少女。
しかし、その甘美な楽園から、少しでも外界を覗いてしまってからは、大変だった。突然、生きることが、苦痛、となったのだ。
生身の自分を社会に置いてみればみるほど、苦しくて恐い場所になってしまった。
けれども、好奇心だけはそれと反比例するように目覚めていったため、自分を恐がらせる場所へ自ら飛び込んで行った。
恐い、不安、でも、行って自分の目で確かめて見ないと、それをいつまでたっても克服できない。
そうしなければ、この先この世界では生きていけないかもしれないほどの弱い自分に、焦る日々。
ものすごく恐かった。
その上、行動してみた時点で、それがJudyをものすごくハッピーな気分にしてくれたことは、たぶん思い出す限りないので、決して楽しくも無い。
(ただ、ずいぶん時間が経過してから、それは満足感と自信を与えてくれた。)
それよりも、そのために使い果たした莫大なエネルギーの消費量のせいで、くたくたに疲れて、しかもひとりぼっちであれこれと悩みながら、なんともいえない寂莫感にさえ襲われていた。
『でも、やらないより、やったほうがよかったよ、この場所は、あなたには合わなかったけれど、これでひとつ恐いと思う気持ちが消えたもの。さあ、またあなたを怯えさせるものにチャレンジよっ!』
こんなことをして20代は過ぎていきました。
恐れと不安は、20代のJudyにとって《強敵》だったのだ。
そして、30代になり、開業し、子供も授かり、自分の家も建て、人生の三大イベントを一気にこなし、まるでこのために20代の激戦があったのかのように、「敵なしの勝負師」かのように変貌していたのです。
そして、すべてが安定してもうすぐ40才が近くなろうとしている頃、また気づいてしまった。
もっと完璧な強さが欲しい、と。
今までは、夫と二人三脚で作ってきた世界。
支え合ってきたから乗り越えることができた。
でも、一人で、自分の力だけで完成出来るものを見てみたい。
それから、ずいぶん考えて、自分のやりたい仕事のために、会社を作った。
そして、今がある。
これは、かなり楽しい反面、常に自分との戦いが生じるため、ストレスも高い。
しかも、どこがゴールなのか、実際わからない。
当初は、ここから地道に勉強しながら、いつか、こんなことやあんなことができたらいいな~と、漠然と思っていたことがあった。
それを去年、全部やってしまった。
ものすごい不安や恐怖の連続。
はじめの一歩を踏み出すのに、どんなに躊躇したか、、、
私、ひとりではこの1歩を踏み出せなかった。
これは、Judyの周りにいた素晴らしい人たちが、私の1歩を引っ張りだしてくれた。
ほんとうにありがたいと心から感謝しています。
この友人達は、生身のJudyが見つけてきた人達。親や夫が与えてくれた友人ではない。
Judyが見つけたJudyの友人。
こんなこと、当たり前だろ、と思う人々もたくさんいることでしょう。
でも、それほど自分の足で自立してこなかったのです。
1960年代生まれの女性は、多いのではないだろうか。
所謂、リカちゃん世代。リカちゃんハウスにいれば、安心だったのだから。
話は戻りますが、そうなのです。あの頃の夢がとりあえず、叶えられたのですが、
仕事なので、ハイ、これで終わり、というわけにも参りませんし、その夢を現実にしたおかげでその先の道も変化していく。
けれども、この先どっちの道を選ぶかも、私次第。
しかも、昔の夢にたどり着いたものの、それは今やもう夢では無くなっていて、桜の花のようにはかなく消えてしまった。
今残っているのは、一気に突っ走り、しかも大敵であった不安と恐怖との再会で、また戦うことになったためのストレスでの疲労感と達成感。
昔ワクワクと想像していたより、喜びが少ないことが不満。
なんでだろう?
そして、これが決して今の私の夢でもないし、ゴールでもない。
ただし、Judyにとって、一番嬉しいことは、以前に比べて、ずっとずっと強く美しい羽を手に入れたことだ。
だから、まだ飛び続けたい、飛び続けなければ、と果てしない空に向かって、今、立ち止まっているところだ。
空へ向かうよりも、しばらく地平線のほうの横の軸へと旅してもいいかな、なんて思いながら。
カモメのように、思うままに自由に羽を広げて飛んでいたら、ふとこんなことを思いました。かもめのジョナサン、ではなく、かもめのジュディサンのお話でした。
今にもまた飛び立ちそうなかもめのジュディサン
ゴールインはつまらない。
ゴールしたと思った瞬間に空虚になる。
人生は小さなゴールが連続するもの。
一時羽を休め、また次のゴールを目指し飛び立つ。
死ぬ時たどり着いた所が己のゴール。
すべてのゴールを達成できるマスターキーのある人生なんてつまらない。
それが真のハッピーで美しい人生