敬愛する片山日出雄さんを処刑しなければならなかった元オーストラリア兵の告白③完
文章・画像は「百万人の福音 2006年8月号からの転記です。
消えない記憶
数日後、我々憲兵隊はラバウルでの任務を終え、本国の戻り除隊になりました。しかし自分の友、しかも彼のようにすばらしいクリスチャンを処刑してしまったという思いにずっと苦しみ続けました。彼は公平な裁判で有罪判決を受けたのだからと、その書類を見せられても、痛みは消えませんでした。
やがて、このことを過ぎ去った過去として忘れようとしました。もう過去を引きずるのはやめようと。地元の救急隊に就職が決まり、クリスチャンの利発な女性と結婚もし、息子も二人与えられました。ときどき恐ろしい夢を見て声をあげて夜中に目を覚ますことがあったり、大きな悲しみにのみこまれそうになる自分をひた隠しにして、だれにも話さないでいました。
「カタヤマ」との再会
40年ほどたったある日、新聞を読んでいたドンは一つの記事にハッとする。それは、彼の住む地域にある戦没者記念施設を、日本から来た戦争未亡人たちと訪問し、祈りをささげる旅をしているというオーストラリア人神父の話だった。突然、ドンの頭に「もしカタヤマの未亡人が生きているなら・・・・・・、何としてもおわびが言いたい」という思いがひらめいた。彼女もクリスチャンだったことはカタヤマの手紙で知っていたし、その名前もはっきり記憶していた。日本で宣教師として働いているその神父との文通が始まり、やがて神父は、すでに再婚していたカタヤマのかつての妻を探し出し、ドンのことばを伝えてくれた。
文通を通して神父との信頼関係が結ばれ、ドンは少しずつ自分の苦しみや過去の痛みについて話すようになった。
「過去に起こった苦しい出来事を、そこにも神がおられることを信じて、つらい思いをすべてすべて神に打ち明けるようにと、神父は勧めてくれました。そして、キリストは人類のすべての罪をその身に負って囚人となり、処刑されたお方であることを思い起こさせてくれました。私の過去のすべてを神の愛と光の中に置くことで、いやしと新しい神のわざが始まることを感じています。傷痕は今も残っていますが、私を痛めつけ苦しめ続けるものとしてではなく、キリストにあっていやされ赦された傷としてそこにあるのです。
カタヤマのかかわったとされる事件についても、まだすべてが解明されたわけではありませんが、確かに言えることは、彼が深く神に信頼し、全力で神と人に仕えた神の子どもであったということです」
ラバウルでの出会い以来、ずっとドンの友人だったヤング牧師が1997年この世を去った。一年近くたって、彼の妻からドンにあるファイルが渡された。自分が死んだらこれをドンにと、生前言い遺していたらしい。
中から、ラバウル収容所の教会に集まっていた人々の名簿と、洗礼者のリストが出てきた。彼は牧師として一人ひとりのために祈り続けていたに違いない。ローマ字で書かれた日本語賛美歌集もあった。そして、カタヤマからヤング牧師にあてた自筆の遺書が出てきた。ドンの眼は、懐かしいカタヤマの筆跡に釘付けになった。
「親愛なるヤング牧師へ、
今朝のこの地上を去るにあたり、私が生きていたあいだ貴君からいただいた親切に改めて深くお礼を申し上げます。オーストらアリア軍当局によって私の処刑が今日まで延期されたおかげで、収容所の仲間たちにさまざまな奉仕ができたことを感謝しています。貴君から贈られた信仰書は、お留守のあいだ日曜礼拝でフルに活用いたしました。私が去った後は、皆で力を合わせて教会を支えていくでしょうが、ぜひ貴君も私の兄弟たちを訪問し信仰を力づけてやってほしいのです。
私の葬儀を貴君にお願いできないのは残念ですが、佐藤兄弟に頼むことにしました。同じ教会の高橋豊治中尉と一緒に刑に臨みます。二人とも大変心穏やかで、もうすぐ我らの主と顔と顔とを合わせてお会いできるという望みに溢れています。私たちは『キリスト者』として死ねることをこの上ない幸福と感じています。主の御名によって、貴君の幸福とご活躍を祈ります。
1947年10月23日
パウロ・ヒデオ・カタヤマ」
ドンは今改めて、戦争を通して神が与えた大切な友情を思っている。