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七夕はとっくにすぎましたが、松本地方は月遅れの8月7日に行なわれます。
とはいっても、庭や玄関先に家族で作った七夕飾りを観ることは稀になってしまいました。
只今の若い方の七夕様の記憶は、幼稚園でのこととなっているようです。
私の思いでは、たんざくに書く墨の水は「サトイモか蓮」の水滴を使うことです。
今思うに、ころころと揺れ、輝く水滴を集めるのには早起きをしなくてはいけなかった。
神聖な水 ということで、その水で墨をすり願いを短冊に書く ということです。
今のように決して派手な短冊ではなかったのですが、兄弟で作った七夕飾りに満足をしました。
特別なお供え物は思い出せませんが、何かお菓子をいただいたと思います。
さて、松本の七夕飾りは全国でも珍しいものです。
今でも写真のように街中で飾られ、観光客が素朴な人形にカメラをかざしています。 先日撮影
自著 絵本・松本歴史絵巻より抜粋いたします。
私が幼少の頃、8月7日の七夕には、里芋の葉にたまった朝露を集めるように母にいわれた。
その水で墨をするのである。「いったいなんで?」と思いつつも、調べることもなく今日に至ったが、
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の執筆のなかに、そのいわれが書かれていた。
以下、「天の川縁起」から抜粋しよう。
古い日本で行なわれてきた楽しいお祭も数々あるが、中でも一番ロマンチックなのは
七夕さまつまり[天の川の織姫]のまつりであった。・・・・・・
と始まり、中国伝来の七夕物語や日本化した物語をいくつか紹介している。
そして、「どうやら日本における七夕祭りは、最初今から1150年前に、シナの先例に従って、
もっぱら宮廷の祭事として確立されたようにおもわれる。
その後日本全国の貴族および武士階級が宮中の行事にならって、一般にいわゆる星祭を祝う習わしが徐々に下に及び、
しまいに7月7日が、[七夕]の言葉の通りに、国民の祭日になったのである。」
さらに、七夕祭が本当に国民の祭事となったのは、徳川時代からだとし、その理由として紙が安くなったことを上げて
いる。さらに、7月7日には未だ暗いうちに起きて、芋の葉から露「天の川のしずく」をあつめる。その水で墨をすり、
七夕に飾る短冊に書く。友達の間で新しい硯をプレゼントしあう。
小泉八雲は、七夕伝説は中国から入ってきたものには違いないが、万葉集の歌の数々から、純粋に日本古代の生活と思想を感じると絶賛している。
記述なかで松本の七夕祭りと似た事が書かれ、注意を引いた。
出雲の習わしに、男竹と女竹を一間ほどはなして立て、はり渡した縄に、切り紙で着物をかたどったものを飾ったとある。
紀行作家として有名な菅江真澄の『くめじの橋』に、山辺湯の原の七夕祭りをイラスト入りで紹介し、上記と類似していて面白い。
松本の七夕人形
子供の祭り関係で松本の独特なものに、板や紙に顔を描き、着物を着せた七夕人形がある。
江戸時代の中頃にはこの習俗があったようで、水野家の家臣の回想記に、
『七夕には赤・青・黄色等の紙にて、羽織形を裁ち、木にて七夕となずけ拵え、右羽織を着せ、
6日より細引きに通し、あいだあいだへおんな七夕を紙に裁ち、懸けおく也。』
江戸時代、松本から越後の一部にかけて七夕に人形を飾る習わしは、当時も中央の文人墨客に注目されていた。
松本押し絵雛と同じく、顔を描いた板は士族の内職だった。
とはいっても、庭や玄関先に家族で作った七夕飾りを観ることは稀になってしまいました。
只今の若い方の七夕様の記憶は、幼稚園でのこととなっているようです。
私の思いでは、たんざくに書く墨の水は「サトイモか蓮」の水滴を使うことです。
今思うに、ころころと揺れ、輝く水滴を集めるのには早起きをしなくてはいけなかった。
神聖な水 ということで、その水で墨をすり願いを短冊に書く ということです。
今のように決して派手な短冊ではなかったのですが、兄弟で作った七夕飾りに満足をしました。
特別なお供え物は思い出せませんが、何かお菓子をいただいたと思います。
さて、松本の七夕飾りは全国でも珍しいものです。
今でも写真のように街中で飾られ、観光客が素朴な人形にカメラをかざしています。 先日撮影
自著 絵本・松本歴史絵巻より抜粋いたします。
私が幼少の頃、8月7日の七夕には、里芋の葉にたまった朝露を集めるように母にいわれた。
その水で墨をするのである。「いったいなんで?」と思いつつも、調べることもなく今日に至ったが、
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の執筆のなかに、そのいわれが書かれていた。
以下、「天の川縁起」から抜粋しよう。
古い日本で行なわれてきた楽しいお祭も数々あるが、中でも一番ロマンチックなのは
七夕さまつまり[天の川の織姫]のまつりであった。・・・・・・
と始まり、中国伝来の七夕物語や日本化した物語をいくつか紹介している。
そして、「どうやら日本における七夕祭りは、最初今から1150年前に、シナの先例に従って、
もっぱら宮廷の祭事として確立されたようにおもわれる。
その後日本全国の貴族および武士階級が宮中の行事にならって、一般にいわゆる星祭を祝う習わしが徐々に下に及び、
しまいに7月7日が、[七夕]の言葉の通りに、国民の祭日になったのである。」
さらに、七夕祭が本当に国民の祭事となったのは、徳川時代からだとし、その理由として紙が安くなったことを上げて
いる。さらに、7月7日には未だ暗いうちに起きて、芋の葉から露「天の川のしずく」をあつめる。その水で墨をすり、
七夕に飾る短冊に書く。友達の間で新しい硯をプレゼントしあう。
小泉八雲は、七夕伝説は中国から入ってきたものには違いないが、万葉集の歌の数々から、純粋に日本古代の生活と思想を感じると絶賛している。
記述なかで松本の七夕祭りと似た事が書かれ、注意を引いた。
出雲の習わしに、男竹と女竹を一間ほどはなして立て、はり渡した縄に、切り紙で着物をかたどったものを飾ったとある。
紀行作家として有名な菅江真澄の『くめじの橋』に、山辺湯の原の七夕祭りをイラスト入りで紹介し、上記と類似していて面白い。
松本の七夕人形
子供の祭り関係で松本の独特なものに、板や紙に顔を描き、着物を着せた七夕人形がある。
江戸時代の中頃にはこの習俗があったようで、水野家の家臣の回想記に、
『七夕には赤・青・黄色等の紙にて、羽織形を裁ち、木にて七夕となずけ拵え、右羽織を着せ、
6日より細引きに通し、あいだあいだへおんな七夕を紙に裁ち、懸けおく也。』
江戸時代、松本から越後の一部にかけて七夕に人形を飾る習わしは、当時も中央の文人墨客に注目されていた。
松本押し絵雛と同じく、顔を描いた板は士族の内職だった。
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