(地球上で二番目に変な麺屋)
(その隣に一番目があった!海やオール380円)
新米の季節
おいしい米の炊き方を料理人が喋っていた
米洗ったらザルにあげ
一時間おいて
鍋にいれて米と同量の水を入れる
二時間おき、強火にかけ
ふいたら一度かきまぜて
あとは12分中火で炊き
蒸らさず、まぜず、食べる
完璧なつぶつぶご飯に炊き上がる
らしい
まだ試していないが
だが
蒸らさず、まぜず、は
ちょっと新鮮
大抵蒸らしてまぜてしまう
一人釜飯の要領かな?
ああ栗釜めしが食べたくなったよ
先週
栗を買ってむいて~むいて炊いたのよ
栗ご飯をね
年に1回は炊かないとね
ほんまに栗の皮むきは面倒だぜと
かわいい栗たちに
こんちくしょうむけろ~
と
下品な罵声を浴びせながら皮をむく
硬い皮の下の渋皮をさらにむく
なんだってこんなに厚着なの?
栗って寒がり?
秋だからまだ秋だからね
そんなに着込まないでよ
と、まあこの冬には
もうあたしの身になっているわけだけどさ
でおいしく炊きあがったその時
まさにその炊き上がりと同時に
自転車君の母様からなんと栗赤飯をいただいた
でその日は 嬉しはずかし 栗尽くし
栗ご飯のおかずに 栗赤飯さ
うふふん
美味かった
こんなに栗を食べたらもういいでしょ
って 思うけど
またも
数日前に栗を買ってしまい
蒸してスプーンで食べたわ
熊本産の栗はすんごく甘かった
この前は大分産で蒸し方が足りず
ちょっと堅かった
でもまだ食い足りないの
なんでこんな栗女になっちまっただか?
そりゃあ
栗握り飯持って散歩しなけりゃ
秋が来ないからだ
まあそんなとこ
(今日も怪鳥は快調に飛んでいるな)
栗赤飯のお礼に
残っていた無農薬かぼちゃ半分で
オーガニックケーキを焼いた
そろそろ飲める
自家製さくらんぼ酒と一緒に
自転車君に自転車で届けてもらった
(正直言うとクッキーにするつもりが分量間違えてなぜか・・・。)
ってことで
にごったお茶をすする
なんか料理をするとホントその辺散らかるよね
料理人・板前・食堂のおばさんは偉いよね
段取りよく片付けながらてきぱき作る
ホント尊敬しちゃう
散らかったキッチンを眺めつつ
考えなくてもいいことを
考える
かたずけんのかい!
ちらかす・・・ちらかす
はげちらかす
とは?何のことだろう
お笑いの人が禿げた相方の事を
禿げちらかしやがって!
などと言っておった
話。飛びすぎでしょ
うん
ハゲがちらかる
とは
矛盾している
禿げていると散らかりようがない!
しかし残り少ない髪が
暴れ放だいに
あちらこちらの方向を向いている状態
を指すんだろうか?
これはまだ完全無欠の禿げには
遠い感じを想像させる
例えば
ジム・ジャームッシュ監督作
『COFFEE&CIGARETTES』
のワンフレーム目に登場する二人の男の事だ
ロベルト・ベニーニとスティーブン・ライト
あれはまさしく
禿げがちらかった二人と言うべきだ。
しかもなかなかの散らかり具合で好ましい
・・・。
そんな戯言は
まあおいといて次に進もう
DVDで映画を観ると
ディティールに気をとられて
全体にストーリーが意味をなさなくなる
何故かな?
わたしだけ?
うん多分そうね。
この前レンタルで借りて見た
『ぼくの大事なコレクション』
という映画も
ストーリーが脳に入らず
イライジャ・ウッドの色白の顔に
黒ぶち眼鏡の顔ばかりが印象に残った
あとは犬だ
あの犬はたまらなく演技派だった
(それほどでも)
(壁一面のコレクションはいったい・・・。)
演技と言えば
最近見た
内野聖陽のテレビドラマでの演技は
出っ張った感じが
割といい
舞台で培った発声とオーバーアクションを
テレビ用にややトーンダウン
しかし
他の俳優たちよりは
かなり出っ張っていて
それが割と好きだ
「シリウスの道」と『ごんぞう』は面白かった!
だいぶ前のドラマだが
『不機嫌なジーン』の教授役の
出っ張り具合も悪くなかったけど
内野といえば最初の出会いは
NHKの『ふたりっこ』の将棋差し
あとは
エースを狙えの宗方仁コーチ
あれははまってたよ
その後
舞台と映画をいくつかテレビで見たが
やはり舞台や映画よりテレビドラマの
出っ張り方がええ♪
ちょっとだけやりすぎ
って感覚がいい
ほんのちょっとよ
あんまりやりすぎはあかん
ひかえめの張り切り感が
澱んだ空気に清涼感をもたらす
と
勝手に思う照る照るぼうずです
役者は舞台に映画にドラマにCMにと
演技もそれぞれにフレームを
見極めてやらねばならない
上手い役者はそのフレームに
すっぽりと収まる
それはでも
なんか退屈だって気がする
まあそんなとこ
つまりどういうこと?
っていわれても・・・。
知るかい!
(ねずみとりじゃあ ありません)
はまるといえば
大学時代マジリスペクトで
はまっていた建築家は
鴨長明であった
えっ?
建築家じゃないってか
作品は彼が60歳の頃に日野山の奥に建てた
仮の庵『方丈』である。
あの有名な
『行く川のながれは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
ひさしくとどまる例(ためし)なし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。』
で始まる
方丈記はまさに究極の寝殿造りなのである。
広さはわずか方丈(四畳半)
高さは七尺
材料を運ぶには牛車二台で事足りた
というその住まいが何ゆえ寝殿造りかってぇ
『東に、三尺あまりの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南竹の簀子を敷き、その西に、閼伽棚をつくり、北によせて障子をへだてて阿弥陀堂の絵像を安置し、そばに普賢をかき、まへに法華経をおけり。東の際に、蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に、竹の吊り棚を構えて、黒き革籠三合をおけり。すなわち、和歌、管絃、往生要集のごとき抄物を入れたり。傍らに、琴、琵琶各々一張を立つ、いはゆる折り琴・継琵琶これなり。仮の庵の有様、かくのごとし。そのところの様をいはば、南に懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、近ければ、つま木をひろふに乏しからず。名を音羽山といふ。まさきのかずら、跡埋めり、谷しげけれど、西晴れたり。観念の便りなきにしもあらず。』
西の方だけあいているので
西方極楽浄土を思うには都合がよかったと結ぶ
この九段目だが、次の十段目(いほりの四季)は
最高に風流である。
春は、一面藤の花房、紫の雲のごとく西方に咲き匂う。
夏は、ほととぎす(郭公)の声を聞く、
死に行くときの山路の道しるべを頼むぞと、ちぎりをかため、
秋は、ひぐらしの声が耳いっぱいになり、
はかない世の中を嘆つようにも聞こえる。
冬は、降り積む雪をしみじみとながめ、積もったり消えたりするさまに
人間の罪を投影する。
『世の中を何にたとえん朝ぼらけ、漕ぎゆく舟の跡の白波』
の歌境に身をおいてみるような朝には、
はるかに宇治川の岡屋に行き交う舟をながめ、
歌の作者、満沙弥を気取り、
桂の風がその葉を鳴らす夕べには、
白楽天の古事を思いやり、琵琶をかきならし、
松風のひびきにさそわれて、秋風楽の曲を奏で、
流れる水の音にひかされて、流泉の秘曲を弾ずる、
手なみは、一向にうまくないが、
他人の耳をよろこばせようとしているのでなく、
独り奏で、歌い、自分で風雅の世界を遊んでいるだけなのである。
と
書かれてあるわけである。
あまりの風流さに心が風邪を引きそうだ(和らい)
それにしても
鴨長明は実は風流さなどを求めていたかどうかわからない
何故なら空前絶後の災害を体験して行き着いた先の方丈なのだ
長明の生家は神社だという、葵祭りで有名な下鴨神社、
ちなみに徒然草の兼好法師も吉田神社という名門の社家出だそう。
それで長明は七歳で従五位下を受位された
貴族のおぼっちゃま(次男坊)だったが
三十で屋敷を追い出されたらしい
まあ三十まで温室育ちとも言うが。
鴨長明二十歳代、平安末期~十二世紀末に
十年足らずの間になんと
大火災、竜巻、飢饉、大地震を体験しているのだった。
天災から波及した人災ともいえる都市災害
特に都は、今も昔も都会に変わりがないからね。
一夜、一時、一瞬にして全てが喪失する。
その無常感を何度も味わって人生を生き延びた末に
無常観をテーマに出来たのが方丈記である。
藤原の栄華や豪華絢爛たる寝殿造りの貴族住宅、
華麗なる阿弥陀堂の造型美も一瞬で焼け跡となる
しかし
その美しき道長の法成寺や東三條の寝殿造りを
満分の一にスケールダウンして方丈を造り
こんなにも楽しげに快適さを自慢する。
こんな痛快な皮肉やのおっちゃんは
やはりリスペクトしなあかんで(和はは)
究極とは何かと言うならば
論理的抽象化能力を持つ事であると思うんね。
それに人を作るのは環境というけれど
むしろ棲家といいたい気がする
亀井勝一郎氏もこんなこと言うてはるし。
人間と人間の対話、思想と思想の対決は例えば茶室におけるように
器物の世界を通じて中和され美的悦楽のうちに何となく
『和』の世界へ移行する、
これもひとつの建築における効用ではないか、
言葉では説明出来ない、或いは説明してはならない
或る『感じ』
または『雰囲気』の魅力の創造とそれは結びついている、
大切な点は造形物の存在の仕方はつねに
沈黙であり受動的だということである。
作者の自己主張は文学の場合に比べて直接性を帯びない
自我意識もまたその造形美の空間のうちに
一種の中和状態に達するのではないか、
つまり受け身のかたちで抗しがたい魅力を創造し
人々をまきこんでしまう。
と言うてはる
まきこまれて人は箱の中をころがって育つのや
その箱の精神が人を造り、人それぞれの雰囲気をつくる
生活(休養・採食・排泄・生殖・家事・生産・交換
消費・表現・創造・遊戯・瞑想)
を沈黙と共に受動的に受け入れる箱の中で、
下界のあるいは自然の刺激を中和させ
人を包み込む空間が、
時間をかけてはぐくむ対象物が人間である
蚕棚な集合住宅に住んでたら あかんな
こんなにも 浅はかになってしもうたがな。
ああ
終の住処はいずこに有りや
上にも下にも人は住む
西に東に重なりて
空は近いが大地は遠い
タワーに住む人は神に近いか?
寝殿ならぬ神殿造りか?
屋根は薄く軽くなって
頭脳も薄く軽くなって行く。
はげちらかって行く(ここにもどるか!)
もはやこれまで・・・・。
て
(あんさんかたずけんのがいやなだけよね)
(野焼き栗はもっと危険です!はぜるからね)