ある事情から5年の2学期以降父の暴力が一時的に止まったのだが、その理由は後から書くことにします。
私が5年になると直ぐに、目鼻立ちのはっきりした美人の女の子と仲良しになるのだが、私のほうから近づいたのではなく「彼女の方から近づいてきた」のだが、こんな書き方をすると自慢しているように聞こえるだろうが、実際は複雑な心境だったのです。
この女の子、実は「元華族」の家のお嬢さんで、目鼻立ちがはっきりしているだけでなく「性格もはっきりしていてキツイ女の子」で、クラスの誰もが嫌って相手にせず、友達が一人もいなかったのです。
4年生の時はクラスが違っていたので縁がなかったのだが、5年になって同じクラスになってから、彼女の方から近づいてきたのです。
私の家から歩いて5分ほどのところに住んでいたのだが、風格のある平屋の大きな家で、南向きの広い縁側でよく話をしたことを覚えているが、この子と付き合っていたため他の友達からは敬遠されていた事も悩みのタネでは有ったのです。
しかし、これも半年余りで終止符が打たれる事になったのですが、その別れは唐突に現れたのです。
どんな事情があったかは全くわからないのだが、3学期が始まった日に先生から「引越しをした」と言う話を聞かされたのです。
次に冒頭で書いた「ある事情」なのだが、これは2学期のある日「俺は早稲田に行く」と宣言した事が父の耳に入ったことがきっかけで、それ以後中学に入学するまで続いたのです。
これは中学に入ってからわかった事なのだが、当時は私立の中学に行く人は極僅かで、お金持ち(それなりの地位の人)の家の子供しか行くことが出来ず、酒屋のせがれが早稲田中学に入ることは「とてつもない自慢の種」だったのです。
私の同級生で私立の中学に行ったのは、大銀行の頭取の娘(学習院)、大銀行の支店長の娘(学習院)、弁護士の息子(学習院)、大企業の重役の息子(慶応)、中堅の建設会社の社長の息子(早稲田)と、全て中流以上の家庭の子供だったのです。
後は全て公立の中学に進み、中学を卒業して直ぐに働く子も珍しくなかった時代なのです。
このような時代だったので、自分の息子が「有名な早稲田中学に行く」と言う事で有頂天になったのでしょう。
この後5年の3学期から中学に入る頃までは「私の一番華やかな時期だった」と言っても良いくらいだったのですが、そのことは次に書くことにします。
私が5年になると直ぐに、目鼻立ちのはっきりした美人の女の子と仲良しになるのだが、私のほうから近づいたのではなく「彼女の方から近づいてきた」のだが、こんな書き方をすると自慢しているように聞こえるだろうが、実際は複雑な心境だったのです。
この女の子、実は「元華族」の家のお嬢さんで、目鼻立ちがはっきりしているだけでなく「性格もはっきりしていてキツイ女の子」で、クラスの誰もが嫌って相手にせず、友達が一人もいなかったのです。
4年生の時はクラスが違っていたので縁がなかったのだが、5年になって同じクラスになってから、彼女の方から近づいてきたのです。
私の家から歩いて5分ほどのところに住んでいたのだが、風格のある平屋の大きな家で、南向きの広い縁側でよく話をしたことを覚えているが、この子と付き合っていたため他の友達からは敬遠されていた事も悩みのタネでは有ったのです。
しかし、これも半年余りで終止符が打たれる事になったのですが、その別れは唐突に現れたのです。
どんな事情があったかは全くわからないのだが、3学期が始まった日に先生から「引越しをした」と言う話を聞かされたのです。
次に冒頭で書いた「ある事情」なのだが、これは2学期のある日「俺は早稲田に行く」と宣言した事が父の耳に入ったことがきっかけで、それ以後中学に入学するまで続いたのです。
これは中学に入ってからわかった事なのだが、当時は私立の中学に行く人は極僅かで、お金持ち(それなりの地位の人)の家の子供しか行くことが出来ず、酒屋のせがれが早稲田中学に入ることは「とてつもない自慢の種」だったのです。
私の同級生で私立の中学に行ったのは、大銀行の頭取の娘(学習院)、大銀行の支店長の娘(学習院)、弁護士の息子(学習院)、大企業の重役の息子(慶応)、中堅の建設会社の社長の息子(早稲田)と、全て中流以上の家庭の子供だったのです。
後は全て公立の中学に進み、中学を卒業して直ぐに働く子も珍しくなかった時代なのです。
このような時代だったので、自分の息子が「有名な早稲田中学に行く」と言う事で有頂天になったのでしょう。
この後5年の3学期から中学に入る頃までは「私の一番華やかな時期だった」と言っても良いくらいだったのですが、そのことは次に書くことにします。