母が子供嫌いだと言うことはすでに書いているのだが、食事の支度をすることも嫌いで、私が学校に通っていた3年半の間、タダの一度も朝起きて食事の支度をしてくれたことが無いのです。
私が起きるのは6時半ごろで、7時15分ごろに家を出るのだが、その時間になっても起きてきた事がなく、毎日前日の残り物を食べて学校に行っていたのです。
8人家族だったので、何時も何がしかの残り物があったのだが、寒い冬などは暖める時間も無く、残り物の冷たいご飯に冷たい味噌汁をかけて済ませたことも珍しいことではなかったのですが、これが影響したのでしょうか、6年生の時に11センチも伸びた身長が、中学に入ると、1年生の時には3センチになり、2年生の時には1センチになり、3年生の時には殆ど伸びが止まってしまったのです。
小学生の時は、給食のときに出るアメリカからの援助物資である「脱脂粉乳(ピンクやブルーの色が付いていて不味いのだが)」をお代わりして飲んでいた事も有って、毎年背の高さ順に並ぶ順番が後ろになっていったのだが、中学に入ってからは前になるようになってしまったのです。
昼食は、「学食」と言うものはなく、学校内に有る売店に、朝調理パンを注文しておいて食べるのですが、十分な昼食代を貰えず、何時も十分に食べる事も出来なかったのです。
そして、もっと困った問題が有ったのです。
それは、授業料は毎月きちんと納められていたのですが、それ以外の、教材費などの臨時に納めるお金を貰う事が出来なかったのですが、これ以外にも、体育系と文科系の部活動に参加することが義務ずけられていたのだが、この「部費」さえももらえなかったのです。
学校からは正式な書面が配布されるのだが、その書面を母に渡しても、何時も返ってくる言葉は「お父さんがいいと言ったら」と言うばかりで、納入期限が来ても貰う事が出来なかったのですが、収めないわけにも行かず「奥の手」を使うしかなかったのですが、その「奥の手」とは、毎日のように店番をさせられていたので、店番をしている間に「こっそり店のお金をくすねる」と言う方法で、姉たち二人も良くやっていたそうなのだが、姉たちは「小遣いの足し」にしていたのです。
さて、母が何時も口にする「お父さんがいいと言ったら」と言う言葉だが、この言葉の意味がわかったのは学校を辞めた後になってからの事だったのです。
私が中学に入った直後だったと思うのだが、有る日母が私に「お母さんとお父さんはもう夫婦じゃないんだよ」と言っていた事があったのだが、その時は全く意味がわからず、何となく聞き流してしまったのだが、これは「もう夫婦じゃないのだから、私に言っても知らないよ」と言う意味で、「お金が欲しければ直接お父さんから貰え」と言うことだったのです。
だから私の朝の食事の支度も知らん顔が出来たのでしょう。
ここでまた一つ思い出したことが有るのだが、その内容は余りにも常識はずれな事なので書くことは少々躊躇ってしまうのだが・・・・。
母が食事の支度をするのが嫌いでは、一体誰が食事の支度をしていたかと言うと、上の姉が中学生になるまでは「女中さん(今で言うところの、お手伝いさん)」がいて食事の支度をしていたのだが、姉たちは高校に入る頃には食事の支度をさせられていたのです。
今の時代の若いお嫁さんならそれ程珍しい事ではないかもしれないが、「明治時代に生まれた女」としてはとても信じられないでしょうが、これが現実の姿で、正に「事実は小説より奇なり」なのです。
私が起きるのは6時半ごろで、7時15分ごろに家を出るのだが、その時間になっても起きてきた事がなく、毎日前日の残り物を食べて学校に行っていたのです。
8人家族だったので、何時も何がしかの残り物があったのだが、寒い冬などは暖める時間も無く、残り物の冷たいご飯に冷たい味噌汁をかけて済ませたことも珍しいことではなかったのですが、これが影響したのでしょうか、6年生の時に11センチも伸びた身長が、中学に入ると、1年生の時には3センチになり、2年生の時には1センチになり、3年生の時には殆ど伸びが止まってしまったのです。
小学生の時は、給食のときに出るアメリカからの援助物資である「脱脂粉乳(ピンクやブルーの色が付いていて不味いのだが)」をお代わりして飲んでいた事も有って、毎年背の高さ順に並ぶ順番が後ろになっていったのだが、中学に入ってからは前になるようになってしまったのです。
昼食は、「学食」と言うものはなく、学校内に有る売店に、朝調理パンを注文しておいて食べるのですが、十分な昼食代を貰えず、何時も十分に食べる事も出来なかったのです。
そして、もっと困った問題が有ったのです。
それは、授業料は毎月きちんと納められていたのですが、それ以外の、教材費などの臨時に納めるお金を貰う事が出来なかったのですが、これ以外にも、体育系と文科系の部活動に参加することが義務ずけられていたのだが、この「部費」さえももらえなかったのです。
学校からは正式な書面が配布されるのだが、その書面を母に渡しても、何時も返ってくる言葉は「お父さんがいいと言ったら」と言うばかりで、納入期限が来ても貰う事が出来なかったのですが、収めないわけにも行かず「奥の手」を使うしかなかったのですが、その「奥の手」とは、毎日のように店番をさせられていたので、店番をしている間に「こっそり店のお金をくすねる」と言う方法で、姉たち二人も良くやっていたそうなのだが、姉たちは「小遣いの足し」にしていたのです。
さて、母が何時も口にする「お父さんがいいと言ったら」と言う言葉だが、この言葉の意味がわかったのは学校を辞めた後になってからの事だったのです。
私が中学に入った直後だったと思うのだが、有る日母が私に「お母さんとお父さんはもう夫婦じゃないんだよ」と言っていた事があったのだが、その時は全く意味がわからず、何となく聞き流してしまったのだが、これは「もう夫婦じゃないのだから、私に言っても知らないよ」と言う意味で、「お金が欲しければ直接お父さんから貰え」と言うことだったのです。
だから私の朝の食事の支度も知らん顔が出来たのでしょう。
ここでまた一つ思い出したことが有るのだが、その内容は余りにも常識はずれな事なので書くことは少々躊躇ってしまうのだが・・・・。
母が食事の支度をするのが嫌いでは、一体誰が食事の支度をしていたかと言うと、上の姉が中学生になるまでは「女中さん(今で言うところの、お手伝いさん)」がいて食事の支度をしていたのだが、姉たちは高校に入る頃には食事の支度をさせられていたのです。
今の時代の若いお嫁さんならそれ程珍しい事ではないかもしれないが、「明治時代に生まれた女」としてはとても信じられないでしょうが、これが現実の姿で、正に「事実は小説より奇なり」なのです。