何とか高校に進むことは出来たものの、この頃には「自分の進みたい道に進むことは不可能」と言うことが現実的になり、最早勉強をする意欲もなくなってしまったのです。
そして迎えた2学期の中間試験。
勉強する意欲が全く無いのだから学校へ行く気にもならず、言わば「不登校」の状態になり、「それなら辞めてしまえ!」と言う父の一言で登校拒否になり、最終的には中退してしまったのです。
登校拒否を始めた当初は、担任の先生や仲の良かった同級生も家に来て登校を促してはくれたのだが、世間体ばかり気にする父や母の態度に諦めたようで、半月もすると誰も来なくなりました。
学校を辞めてからしばらくの間は「引きこもり」状態になり、18歳になる頃まで何をしていたのか殆ど記憶が無いのだが、唯一覚えているのは「殆ど毎日のように死ぬ事を考えていた」と言うことです。
18になった頃から少しずつ死ぬ事を考える事が減り、近くに住む幼馴染と休日に山登りをするようになり、これがきっかけでスキーを始める事になるのだが、スキーを始める事によってまた大きな転機が訪れるのです。
ある出版社の主催するスキースクールで泊まった民宿の雰囲気が良く、それ以後11年にわたり通い続けたのだが、この民宿は私にとって「第二の故郷」と言っても良く、殆どか常連客で占められていた事も有り、ここで数多くの「心の友」に出会うことが出来たのです。
何人もの素敵な女の子とに出会いもあったのだが、私自身が「プータロー」では如何ともしがたく、全て私の方から身を引くしかなかったのが残念で堪りませんでした。
この頃のスキーはまだ庶民の物とは言い難く、ある程度余裕のある人がするものだったのですが、私は1年間必死でお金を貯めて行っていたので、女の子と付き合う余裕など無かったのです。
当時のスキーの道具は、最も安い物でも「3点セットで19,800円」で、「大卒サラリーマンの1か月分の給料」と同じくらいだったのですから仕方ありません。
それに、民宿の宿泊料も「1泊5,000円位」していたのですから今と大して変わりがなく、給与水準から考えれば「今の10倍」と言っても良いでしょう。
18から24くらいまではこんな調子で過ぎてゆき、25くらいになってやっとまともな生活をしようと言う気になったのだが、近くに住む人の紹介で受けた就職の面接では見事に断られてしまいました。
そして迎えた2学期の中間試験。
勉強する意欲が全く無いのだから学校へ行く気にもならず、言わば「不登校」の状態になり、「それなら辞めてしまえ!」と言う父の一言で登校拒否になり、最終的には中退してしまったのです。
登校拒否を始めた当初は、担任の先生や仲の良かった同級生も家に来て登校を促してはくれたのだが、世間体ばかり気にする父や母の態度に諦めたようで、半月もすると誰も来なくなりました。
学校を辞めてからしばらくの間は「引きこもり」状態になり、18歳になる頃まで何をしていたのか殆ど記憶が無いのだが、唯一覚えているのは「殆ど毎日のように死ぬ事を考えていた」と言うことです。
18になった頃から少しずつ死ぬ事を考える事が減り、近くに住む幼馴染と休日に山登りをするようになり、これがきっかけでスキーを始める事になるのだが、スキーを始める事によってまた大きな転機が訪れるのです。
ある出版社の主催するスキースクールで泊まった民宿の雰囲気が良く、それ以後11年にわたり通い続けたのだが、この民宿は私にとって「第二の故郷」と言っても良く、殆どか常連客で占められていた事も有り、ここで数多くの「心の友」に出会うことが出来たのです。
何人もの素敵な女の子とに出会いもあったのだが、私自身が「プータロー」では如何ともしがたく、全て私の方から身を引くしかなかったのが残念で堪りませんでした。
この頃のスキーはまだ庶民の物とは言い難く、ある程度余裕のある人がするものだったのですが、私は1年間必死でお金を貯めて行っていたので、女の子と付き合う余裕など無かったのです。
当時のスキーの道具は、最も安い物でも「3点セットで19,800円」で、「大卒サラリーマンの1か月分の給料」と同じくらいだったのですから仕方ありません。
それに、民宿の宿泊料も「1泊5,000円位」していたのですから今と大して変わりがなく、給与水準から考えれば「今の10倍」と言っても良いでしょう。
18から24くらいまではこんな調子で過ぎてゆき、25くらいになってやっとまともな生活をしようと言う気になったのだが、近くに住む人の紹介で受けた就職の面接では見事に断られてしまいました。