さて、離婚するに当たり子供をどちらが引き取るかと言う問題が起きるのだが、最終的には私が引き取る事で話をつけることにしたのですが・・・・。
子供の将来を考えれば最も良い選択だと思っていたのだが、最近になってそのことに対して少々疑問もわいてきているのです。
小学生や中学生の頃は「俺も父さんのようになれるかなあ・・・・」と言っていた息子だが、高校に入る頃から徐々に母親に似てくるようになり、大学に入るとより顕著になり、社会に出て結婚した現在では「母親そっくり」と言ってよいほど似てしまい、最近では「俺の子供?」と言いたくなるほど私に似ていないのです。
私の場合はどちらかと言うと「一を聞いて十を知る」と言うタイプなのだが、妻と子供は「十を聞いて一を知る」と言うタイプなのだが、十を知ってもらおうと百教えると「話を曲解して何も理解できない」と言う困った問題が起き、最終的には「誤解だけが残る」と言うことになるのですから最悪でしょう。
そして更に困る事は、妻も息子も「私に対してコンプレックスを抱いている」と言うことがあり、ごく普通の会話をしていても、自分がコンプレックスを抱いている事に関する話になると「自分はバカにされている」と言う「被害妄想」に陥ってしまうのです。
私自身も、高校を中退したことにより「コンプレックスの塊」のようになってしまい、周りの何気ない会話にも神経を尖らせていたのだが、21歳の時に偶然出合った大学の心理学の教授の一言が私に大きな転機をもたらし、それ以後はコンプレックスを余り意識する事もなくなり、その結果「心に余裕が出来る」と言うことにもなり、仮に相手が悪意を持って言った言葉にも「冗談として聞き流す」と言うことも出来るようになったのです。
これは「金持ち喧嘩せず」と同じ事で、心に余裕があれば、悪意を持つ相手にも「可哀相な人だネ!」と思う事も出来るだろうが、コンプレックスがあるとそうもゆかないのです。
私のブログを読んでいる方はわかると思うのだが、私の根幹には「自分の信念」と言うものが厳然と存在し、基本的には「周囲の意見に惑わされない」と言う事で、「時流に迎合する」と言う事は少ないのだが、妻と息子はその正反対で、「簡単に周囲の意見に迎合する」と言う性質があり、そこには「自分」と言うものが存在せず、私から見ると「根無し草」にしか見えないのですが・・・・。
このようなわけで、妻とは別れたのだから当然の事なのだが、「妻とそっくりな息子」とも意思の疎通が難しく、言わば「孤立状態」になってしまったのだが、これも天が定めた「天命」と諦めなくてはいけないのかもしれない。
これも、選りによって母方のおじいさんの一周忌の命日に生まれ「おじいさんの生まれ変わり」と言われた事の報いなのかもしれず、生まれた時点で現在の自分が決まっていたのかもしれない。
子供の将来を考えれば最も良い選択だと思っていたのだが、最近になってそのことに対して少々疑問もわいてきているのです。
小学生や中学生の頃は「俺も父さんのようになれるかなあ・・・・」と言っていた息子だが、高校に入る頃から徐々に母親に似てくるようになり、大学に入るとより顕著になり、社会に出て結婚した現在では「母親そっくり」と言ってよいほど似てしまい、最近では「俺の子供?」と言いたくなるほど私に似ていないのです。
私の場合はどちらかと言うと「一を聞いて十を知る」と言うタイプなのだが、妻と子供は「十を聞いて一を知る」と言うタイプなのだが、十を知ってもらおうと百教えると「話を曲解して何も理解できない」と言う困った問題が起き、最終的には「誤解だけが残る」と言うことになるのですから最悪でしょう。
そして更に困る事は、妻も息子も「私に対してコンプレックスを抱いている」と言うことがあり、ごく普通の会話をしていても、自分がコンプレックスを抱いている事に関する話になると「自分はバカにされている」と言う「被害妄想」に陥ってしまうのです。
私自身も、高校を中退したことにより「コンプレックスの塊」のようになってしまい、周りの何気ない会話にも神経を尖らせていたのだが、21歳の時に偶然出合った大学の心理学の教授の一言が私に大きな転機をもたらし、それ以後はコンプレックスを余り意識する事もなくなり、その結果「心に余裕が出来る」と言うことにもなり、仮に相手が悪意を持って言った言葉にも「冗談として聞き流す」と言うことも出来るようになったのです。
これは「金持ち喧嘩せず」と同じ事で、心に余裕があれば、悪意を持つ相手にも「可哀相な人だネ!」と思う事も出来るだろうが、コンプレックスがあるとそうもゆかないのです。
私のブログを読んでいる方はわかると思うのだが、私の根幹には「自分の信念」と言うものが厳然と存在し、基本的には「周囲の意見に惑わされない」と言う事で、「時流に迎合する」と言う事は少ないのだが、妻と息子はその正反対で、「簡単に周囲の意見に迎合する」と言う性質があり、そこには「自分」と言うものが存在せず、私から見ると「根無し草」にしか見えないのですが・・・・。
このようなわけで、妻とは別れたのだから当然の事なのだが、「妻とそっくりな息子」とも意思の疎通が難しく、言わば「孤立状態」になってしまったのだが、これも天が定めた「天命」と諦めなくてはいけないのかもしれない。
これも、選りによって母方のおじいさんの一周忌の命日に生まれ「おじいさんの生まれ変わり」と言われた事の報いなのかもしれず、生まれた時点で現在の自分が決まっていたのかもしれない。
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