「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

書き忘れていたこと

2010-01-13 | 日記
私が生まれた家は酒屋で、2年後に米軍の空襲で焼失してしまい、一時期田舎に疎開していたのだが、1キロほど離れていて焼失を免れた場所で「配給所が無いのでやってくれないか」と言う話が舞い込み3年ほど店を開いていたのだが、元の住人が戻る事になり近くの土地を買い家を建てて店を始めたのだが、この頃までは父も「子煩悩な優しい父」だったのです。
この頃の我が家には女中さんが居り、私はこの女中が大嫌いで、何時も学校から帰るとこの女中に捕まらないように外に飛び出して遊んでいたのだが、弟は何時も捕まってしまい、「女中っ子」と言っても良いだろう、
しかし、この女中さんも私が2年生の頃にはいなくなってしまったのですが、次に来た女中さんは直ぐに辞めてしまい、何となく父と母の機嫌が悪くなっていたように感じていたことを思い出すのです。
今考えれば、この頃から父と母の間に大きな溝が出来始めていたのではないだろうか。
そして翌年に父の人格が変わるような事件が起きたのだが、その事を知ったのは「40年以上も後」の事であり、真相が解明されるまで「私は貰いっ子では?」と言う思いを拭い去る事が出来なかったのです。
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幼少期の私・・・・、私は貰われっ子?(自転車編)

2010-01-13 | 日記
私が5年生になったばかりの頃だったと思うが、前から欲しいと思っていた自転車を買ってもらうことが出来た。
この頃の父は比較的機嫌の良い事が多かったようで、中古ではあるが子供用の自転車を買ってくれたのである。
値段は5千円だったが、当時の給与水準から行けばかなりの金額で、普通のサラリーマンの1ヶ月の給料と同じくらいだったのではないだろうか。
私は暇さえあれば練習をして乗れるようになり、弟も乗れるようになったのだが・・・・。
この2年後にまたしても事件が起きるのである。
2年後、私は中学に通うようになり、ある日学校から帰ってくると家の前に新しいサイクリング自転車が置いてあったのです。
私は思わず「やったー!」と心の中で叫び自転車に近づき触ろうとしたのだが、突然「触るな!」と怒鳴られてしまったのです。
怒鳴ったのは5年生になった弟で「俺が買ってもらったのだからお前は触るな!」と言うのである。
「またか」と言う思いで悲しい気持ちになったのだが、誰にも文句を言う事が出来ないので諦めるしかなく、弟が嬉しそうに乗り回すのを指をくわえて見るしかなかったのです。
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幼少期の私・・・・、私は貰われっ子?(お年玉編)

2010-01-12 | 日記
私の家では、毎年正月になると親戚が集まり新年会が行われるのだが、私たち兄弟は皆同じように親戚の人からお年玉を貰い、その金額は合わせて千円余り(当時は1円でお菓子が買え、「50銭硬貨」も使えた時代であるから、千円は今のウン万円?)になるのだが、新年会が終わったあとは私にとって「魔の時間」になるのです。
「魔の時間」、毎年の事だが、親戚が帰った後父は何時も「貰ったお金を出せ!」と言い、私が貰ったお年玉の全ては父に取り上げられ、その中から「五百円」だけがお年玉としてもらえるのであるが、弟や妹はこのようなことは無く、親戚から貰ったお年玉のほかに父からのお年玉さえ貰えたのです。
長男である私は「五百円」で、弟や妹は「二千円近く」であったが、当時の私は、このような理不尽なことも「貰われっ子だから仕方ない」と諦めていたのであるが・・・・・。
その上更なる災難が待ち受けていたのです。
その災難の元凶は4歳年下の妹で、金使いの荒い妹は、二千円近くのお年玉をたちまちのうちに使い果たし、ひそかに私のお年玉を狙ってくるのです。
正に油断も隙もあったものでわなく、窮余の策として「使う分以外は郵便局に預ける」と言う方法で対応したのだが、一度は通帳と印鑑を見つけ出し、私の代わりに引き出そうとしたらしいのだが、「郵便局の窓口の人にとがめられ諦めた」と、後で局の人から聞いた事もあるのです。
しかし、この「貯金をする」と言う習慣が後の私の支えになるのだから、何とも皮肉なこと言えるでしょう。
「災い転じて福となる」とはこのことを言うのだろうか・・・・。
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開設初日で74人もの訪問者が・・・・

2010-01-12 | 日記
こんな面白くも無いブログなど誰も見ないだろうと思っていたところ、ナント、「開設初日で74人もの訪問者」が有り、何とも言えぬ奇妙な気持ちで一杯です。
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幼少期の私・・・・、私は貰われっ子?

2010-01-11 | 日記
私はかなり長い間(成人した後まで)貰われっ子だと思っていた。
ここで兄弟構成を書いてみると、長女・次女・長男(私)・次男・三女・三男の6人兄弟で、下の弟が生まれた時、長女は16歳、次女は11歳で、私は7歳、次男は5歳、三女は3歳であったが、この年齢構成と、私に対する父の態度を考えると「私は貰われっ子なんだ!」と言う気持ちになってしまうのである。
「姉二人とは少し年がはなれ、私が生まれてまもなく弟が生まれる」と言う状況と、「私には怒鳴るが弟には怒鳴らない」と言う父の態度。
これらの事により私が想像したのは「跡取りが生まれないので他所から男の子を養子に貰ったが、その後直ぐに男の子が生まれたので私が邪魔になった」と言うことである。
この事以外にも、弟や妹たちがした悪戯なども「お兄ちゃんがやったんだ!」と言う一言で済まされ、毎日のように、見に覚えの無い事で怒られてばかりだったのである。
これ以外にも多くの差別をされてきたのだが、その事はまた個別に書くことにする。
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幼少期の私

2010-01-11 | 日記
私は6人兄弟の3番目で、一応長男では有るが、少し年のはなれた姉2人の影響が強かったのだろう、遊ぶ相手は姉たちの同級生が殆どで、小学校に上がるまで自分のことを「あたし」と言っており、入学式の日に周りから哂われて恥ずかしい思いをしたことも覚えいる。
当時の私は非常に弱虫で、5歳くらいの頃だったと思うが、歩いて5分くらいのところに出来た教会の中の幼稚園に入れられたのだが、神父さんが怖くて5日後には泣き叫んで行く事を拒んだのである。
この頃の事は結構覚えているのだが、私の人生を狂わせる事になる「大事件が起きた小学3年生」の頃の記憶は殆ど残っていないのである。
今でも1年生の時の担任の先生の顔も、2年生の時の担任の先生の顔も思い出せるのに、なぜか3年生の時の記憶だけが希薄で、アルバムで確認しても「こんな先生だったんだ・・・・」と言う程度でしかなく、余程思い出したくないことが起きていたのだろう。
そして、父の姿も、記憶に無い3年生の頃を境に激変していたのであるが、この事に気が付いたのは、未だずっと後のことなのである。
それでは2年生の頃までの父はどうだったかと言うと、後になって思い返してみると「子煩悩な優しいお父さん」であり、私が少しくらい悪戯をしても全く怒らなかったことを思い出すのであるが・・・・、記憶が残りだした4年生の頃には激変していて、夜になってお酒を飲むと毎日のように母と口論になり、、そのとばっちりで、毎日と言ってよいくらい殴る蹴るの暴行を受け、一度は、雪の降る夜の庭に寝巻き姿で放り出された事も有るのだが、何故か母は助けてはくれなかったのであるが、その原因が「私のうまれた日」にあることはずっと後にならなければわからなかったのである。


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プロローグ(呪われた?誕生日)

2010-01-11 | 日記
私が生まれたのは、昭和17年(1942年)6月のことで、予定日を3週間も遅れて生まれてきたのだが、この誕生日が数年後に災いの種になることなど未だ誰も知らないのである。
この予定日を3週間経った日は「母方のおじいさんの一周忌の命日」であり、後にこの事が私の人生を狂わせる事になるのであるが、ある事件が起きるまでは「おじいさんの生まれ変わり」として可愛がられていた事を覚えている。

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