(1953/ジョージ・スティーヴンス監督/アラン・ラッド、ヴァン・ヘフリン、ジーン・アーサー、ブランドン・デ・ワイルド、ウォルター・ジャック・パランス、ベン・ジョンソン、エリシャ・クック・Jr/118分)
53年と言えば「ローマの休日」が作られた年で、海の向こうフランスでは「恐怖の報酬」という傑作も作られている。「シェーン」も、映画ファン、ましてや西部劇ファンならどなたもご存じの名作であり、ジョージ・スティーヴンスの(多分)唯一の西部劇でもあります。フレッド・ジンネマンの「真昼の決闘(1952)」と共に、その監督には珍しい西部劇としても印象深く、上手い作家は西部劇を作らせても上手いんだなぁと思わせたものでした。
西部劇というのはサイレント時代からある最も旧いジャンルの一つで、ヨーロッパ出身のワイラーもクーパー主演で「西部の男(1940)」というのを作っていて(残念ながら未見)、これも面白そうです。尚、ワイラー作品では「友情ある説得(1956)」、「大いなる西部(1958)」も19世紀の西部を舞台にした映画ですが、いわゆる西部劇とは一線を画すような気がします。
さて、「シェーン」はジャック・シェーファーという作家が書いた小説が原作。
南北戦争後のワイオミングの開拓村にやって来た旅人のガンマンが、当地ではそれまでの放牧による牧畜業者と開拓農民との間に土地の利用についての争いが有ることを知り、カウボーイ達の銃による暴力で圧力をかけられている農民に荷担して、ついにはカウボーイの親玉をやっつけるという話。
まるで股旅モノの西部劇版のような作品です。
雄大な大草原を望む山の上からシェーンが馬でやって来るファースト・シーンから、ワイオミングの大自然を背景に捕らえた画が雰囲気たっぷりで、西部劇と言えば冒険活劇という常識を覆した作品ではないでしょうか。
通りかかったのが縁で食事にも雨露をしのぐ寝床にもありつけた流れ者は、開拓農民のリーダー的存在であるジョー・スターレット(ヘフリン)に請われ農場を手伝うようになる。見るからに早撃ちガンマンらしい物腰にスターレットの一人息子ジョイ(ワイルド)からも慕われ、流れ者は一時の平穏な暮らしに浸る。
スターレットの妻マリアンからはほのかに好意を持たれるが、シェーンからはその事に対する反応はない。シェーンに惹かれそうな自分の感情を抑えるように、ある夜、ジョイを寝かしつけたマリアンがジョーに「抱いて」と言うシーンが印象的です。
ジョイと初めて会った時に、ジョイの持つライフルの音に反応するシェーンの動向には、彼が何者かに追われる身であることが分かるし、初っぱなに登場する荒っぽいカウボーイ達とはいずれは撃ち合いによる闘いが起こることは目に見えていて、徐々に緊迫感が醸成されていく構成が定石通りとは言え上手いです。
南北戦争後、アメリカ政府は西部開拓を進めるために<入植した農民が五年間耕作すると、成人一人に付き160エーカー(約19万6000坪)の土地を与える>という新しい法律を作り、「シェーン」に出てくる農民もその政策に則って東部からやって来た人々で、自らが開墾した農地を柵で囲い、水も確保する。それが放牧によって自由に土地を使ってきたカウボーイ達には侵略者と見えたわけですね。
カウボーイの親玉ライカーは、農民が耕した畑を牛群を通過させてダメにしたり、柵を壊したり、酷いときには家に火を放ったりする。保安官が居る町はずっと遠く、農民には訴える相手は居ない。小さな町の酒場の主人等が中立の立場なので、ライカー一味も彼らの目を多少は気にしていて、あからさまな殺人行為はしないという程度。その農民達に流れ者の腕の立つらしいガンマンが付いたので、今度はライカーも町から腕利きのガンマンを呼び寄せる。これがJ・パランス扮するウィルソン。
まぁ、ナニが面白いって、この黒ずくめの殺し屋が、酒は飲まないがコーヒーが好きという不気味な奴で、今回何十年ぶりかで再見したんですが、この殺し屋が開拓農民の一人(「現金に体を張れ」で競馬場の馬券売場の男を演じたクック)を撃ち殺すシーンは今回も強烈な印象を残しました。
最後の、ライカーやウィルソンとシェーンとの酒場での決闘は、後々にまで語り種になった名シーン。
ジョイの『シェーン!カムバック』を背後に聞きながら去っていくシェーンは、実はもう死んでいたんだ、なんていう物議も醸しました。確かにラスト・シーンで山の上を馬で歩いているシェーンには殆ど動きが無いし、通っているその場所は墓標が並ぶ墓場。さてさて、原作はどうなってるんでしょうねぇ・・・。
<戦前は娯楽映画を中心に撮ったが、第2次世界大戦中にアメリカ陸軍の映画斑に所属し戦争を実体験したことから、戦後は人間の内面を描いた作風に変わ>ったと言われるスティーヴンス監督は、ドメスティック・リアリズムの巨匠と称されたそうです。 ワイラー等名匠といわれる監督と同じくスティーヴンスもリテイクマンで、撮影に時間がかかったので映画会社の上層部とはしばしば衝突することも多かったそうですが、演出は優等生的な雰囲気が強く、「シェーン」も今となっては個性が薄まった感がしないでもないです。
農民達の描写には叙情的なリアリズムが漂いますが、シェーンはどことなく人間臭さがなく現実離れしている。そんな印象が残りました。“超西部劇”といわれるのは、そんな所も関係しているのでしょうか。
「シェーン」でスターになったアラン・ラッドはそれ以降も主演作はあるけれども、“シェーン”を越えることは出来なかった。
スターレットの妻に扮したのが、「オペラハット」や「スミス都へ行く」などで都会の洗練された女性を演じる事が多かったジーン・アーサー。舞台に専念するために映画界から遠ざかっていた彼女が久々にスクリーンに復帰した映画で、結局これが最後の出演となりました。
1953年のアカデミー賞で、作品賞、助演男優賞(ワイルド、パランス)、監督賞、脚色賞(A・B・ガスリー・Jr)にノミネートされ、ロイヤル・グリッグスが撮影賞(カラー)を受賞したそうです。
53年と言えば「ローマの休日」が作られた年で、海の向こうフランスでは「恐怖の報酬」という傑作も作られている。「シェーン」も、映画ファン、ましてや西部劇ファンならどなたもご存じの名作であり、ジョージ・スティーヴンスの(多分)唯一の西部劇でもあります。フレッド・ジンネマンの「真昼の決闘(1952)」と共に、その監督には珍しい西部劇としても印象深く、上手い作家は西部劇を作らせても上手いんだなぁと思わせたものでした。
西部劇というのはサイレント時代からある最も旧いジャンルの一つで、ヨーロッパ出身のワイラーもクーパー主演で「西部の男(1940)」というのを作っていて(残念ながら未見)、これも面白そうです。尚、ワイラー作品では「友情ある説得(1956)」、「大いなる西部(1958)」も19世紀の西部を舞台にした映画ですが、いわゆる西部劇とは一線を画すような気がします。
さて、「シェーン」はジャック・シェーファーという作家が書いた小説が原作。
南北戦争後のワイオミングの開拓村にやって来た旅人のガンマンが、当地ではそれまでの放牧による牧畜業者と開拓農民との間に土地の利用についての争いが有ることを知り、カウボーイ達の銃による暴力で圧力をかけられている農民に荷担して、ついにはカウボーイの親玉をやっつけるという話。
まるで股旅モノの西部劇版のような作品です。
雄大な大草原を望む山の上からシェーンが馬でやって来るファースト・シーンから、ワイオミングの大自然を背景に捕らえた画が雰囲気たっぷりで、西部劇と言えば冒険活劇という常識を覆した作品ではないでしょうか。
通りかかったのが縁で食事にも雨露をしのぐ寝床にもありつけた流れ者は、開拓農民のリーダー的存在であるジョー・スターレット(ヘフリン)に請われ農場を手伝うようになる。見るからに早撃ちガンマンらしい物腰にスターレットの一人息子ジョイ(ワイルド)からも慕われ、流れ者は一時の平穏な暮らしに浸る。
スターレットの妻マリアンからはほのかに好意を持たれるが、シェーンからはその事に対する反応はない。シェーンに惹かれそうな自分の感情を抑えるように、ある夜、ジョイを寝かしつけたマリアンがジョーに「抱いて」と言うシーンが印象的です。
ジョイと初めて会った時に、ジョイの持つライフルの音に反応するシェーンの動向には、彼が何者かに追われる身であることが分かるし、初っぱなに登場する荒っぽいカウボーイ達とはいずれは撃ち合いによる闘いが起こることは目に見えていて、徐々に緊迫感が醸成されていく構成が定石通りとは言え上手いです。
南北戦争後、アメリカ政府は西部開拓を進めるために<入植した農民が五年間耕作すると、成人一人に付き160エーカー(約19万6000坪)の土地を与える>という新しい法律を作り、「シェーン」に出てくる農民もその政策に則って東部からやって来た人々で、自らが開墾した農地を柵で囲い、水も確保する。それが放牧によって自由に土地を使ってきたカウボーイ達には侵略者と見えたわけですね。
カウボーイの親玉ライカーは、農民が耕した畑を牛群を通過させてダメにしたり、柵を壊したり、酷いときには家に火を放ったりする。保安官が居る町はずっと遠く、農民には訴える相手は居ない。小さな町の酒場の主人等が中立の立場なので、ライカー一味も彼らの目を多少は気にしていて、あからさまな殺人行為はしないという程度。その農民達に流れ者の腕の立つらしいガンマンが付いたので、今度はライカーも町から腕利きのガンマンを呼び寄せる。これがJ・パランス扮するウィルソン。
まぁ、ナニが面白いって、この黒ずくめの殺し屋が、酒は飲まないがコーヒーが好きという不気味な奴で、今回何十年ぶりかで再見したんですが、この殺し屋が開拓農民の一人(「現金に体を張れ」で競馬場の馬券売場の男を演じたクック)を撃ち殺すシーンは今回も強烈な印象を残しました。
最後の、ライカーやウィルソンとシェーンとの酒場での決闘は、後々にまで語り種になった名シーン。
ジョイの『シェーン!カムバック』を背後に聞きながら去っていくシェーンは、実はもう死んでいたんだ、なんていう物議も醸しました。確かにラスト・シーンで山の上を馬で歩いているシェーンには殆ど動きが無いし、通っているその場所は墓標が並ぶ墓場。さてさて、原作はどうなってるんでしょうねぇ・・・。
<戦前は娯楽映画を中心に撮ったが、第2次世界大戦中にアメリカ陸軍の映画斑に所属し戦争を実体験したことから、戦後は人間の内面を描いた作風に変わ>ったと言われるスティーヴンス監督は、ドメスティック・リアリズムの巨匠と称されたそうです。 ワイラー等名匠といわれる監督と同じくスティーヴンスもリテイクマンで、撮影に時間がかかったので映画会社の上層部とはしばしば衝突することも多かったそうですが、演出は優等生的な雰囲気が強く、「シェーン」も今となっては個性が薄まった感がしないでもないです。
農民達の描写には叙情的なリアリズムが漂いますが、シェーンはどことなく人間臭さがなく現実離れしている。そんな印象が残りました。“超西部劇”といわれるのは、そんな所も関係しているのでしょうか。
「シェーン」でスターになったアラン・ラッドはそれ以降も主演作はあるけれども、“シェーン”を越えることは出来なかった。
スターレットの妻に扮したのが、「オペラハット」や「スミス都へ行く」などで都会の洗練された女性を演じる事が多かったジーン・アーサー。舞台に専念するために映画界から遠ざかっていた彼女が久々にスクリーンに復帰した映画で、結局これが最後の出演となりました。
1953年のアカデミー賞で、作品賞、助演男優賞(ワイルド、パランス)、監督賞、脚色賞(A・B・ガスリー・Jr)にノミネートされ、ロイヤル・グリッグスが撮影賞(カラー)を受賞したそうです。
・お薦め度【★★★★=友達にも薦めて、西部劇ファンでなくても】
ところが今の今まであの「エデンの東」の
テーマ曲もヤングだと思い込んでいたアホが
ひとり・・・(←私ですが)(笑)
今調べましたぜんぜん別の人じゃありませんか。(- -)^^
「シェーン」
ニヒルな御仁は“西部劇としては邪道だ”とか“そんなに後世に残る映画か?”とかいろいろ
おっしゃいますが、映画的面白さの王道を行っていると良い作品と思います。
J・スティーヴンスは女優さんをキレイに撮る監督でしたね~。
本作でもJ・アーサーがとっても魅力的な奥様役でした。♪
「ララミー牧場」とか観ていた頃に出会っていたら、今でも★★★★★のお薦め度になっていたかも。
>ニヒルな御仁は“西部劇としては邪道だ”とか・・・
西部劇を勧善懲悪の活劇とか、何かお説教じみた人情劇というように考えている人には邪道なんでしょうね。
いかにも西部劇の顔をしながら神話のような話を語っている、そんな映画だと思いました。
多分、この作品に影響を受けた股旅ものも多いと思います。僕は時代劇をさほど見ていないので分かりませんが。
>西部劇と言えば冒険活劇という常識を覆した作品
開拓時代を背景にしたホーム・ドラマですものね。
恋愛映画的要素もたっぷりあって、この見せ方が実に繊細にして巧かった。
>実はもう死んでいたんだ
僕は最初そんなことは全く思いませんでしたが、TVに出始めた頃の山本晋也監督がこの点について話すのを聞いて「そうだったの?」と思い、その後チャンスを見て確認しましたね。
結局はよく解らないわけですが、今回見ても瀕死の重傷であるのは確かなようです。
こういう話題を生むのも名作故ですなあ。
>多分、この作品に影響を受けた股旅ものも多いと思います。
そうでしょうね。映画もそうですし、僕らが若い頃に話題になった「木枯し紋次郎」なんてTV時代劇も一つのバージョンでしょう。
ジョージ・スティーブンス監督の履歴を見直してみると、未見の観たい作品が多いのに気付きました。ドメスティック・リアリズムの巨匠らしい作品、もっと観たいです。