(1982/コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督・共同脚本/ジャック・レモン、シシー・スペイセク、ジョン・シーア、メラニー・メイロン/122分)
80年代は既に「SCREEN」は買ってなくて、もっぱら書店で立ち読み。「ミッシング」は、アカデミー賞の速報記事でジャック・レモンが主演男優賞にノミネートされた作品として記憶に残っておりました。日本では未公開だと思っていたらアメリカに遅れること8ヶ月、82年の10月に日本でも一般公開されたようです。少し前のNHK-BS2での放送を録画。今回が初鑑賞です。
原題もそのまま【MISSING】。つまり「行方不明」ですな。
時は1973年。南米チリに妻と移住しているアメリカ人チャールズ・ホーマン(シーア)は、アメリカからやってきた仕事仲間のテリー(メイロン)を連れて観光都市ペーニャに日帰りで出かけるが、そこで軍によるクーデターが発生、交通網が麻痺した為に一晩足止めをくう。ホテルでアメリカの軍人と知り合いになり、その後その人の知り合いの別の軍人の車で首都サンチャゴまで送ってもらうが、家では妻のベス(スペイセク)が銃声に震えながら帰りを待っていた。
夫婦の知人のチリ人が拘束されたらしいのでベスはその身重の奥さんを見舞いに、チャールズはテリーを空港まで送っていくことにした。空港は閉鎖、なんとかテリーは安全なホテルに部屋を取り、チャールズは家に帰る。一方、知人宅を見舞ったベスは、帰りのバスがどれも満員で乗車出来ずに途方にくれた。夕方には戒厳令のために外出が出来ず、下手をすれば発砲されるかも知れないからだ。
断続的に銃声が聞こえる中、ビルの陰で一晩やり過ごしたベスが家に戻ると、家の中は泥棒が入った後のように滅茶苦茶に荒らされており、チャールズの姿もなかった。やってきた隣人は『兵隊が戻ってくる前に家を出た方がいい』と言った。
チャールズが失踪して2週間。ようとして消息の知れない一人息子を心配してニューヨークから父親エド(レモン)がやってくる。ウォール街で成功したビジネスマンの父親から見て、チャールズは売れない小説を書いている甘っちょろい理想主義者でしかなかったし、嫁のベスにしても世間知らずの若者の一人でしかなかった。
エドはベスとテリーが宿泊するホテルに部屋を取り、ベスと共にアメリカ領事や大使に相談に出かける。ワシントンで会った政府担当者からベスがチリの大使らを悩ませているとの話があったが、確かにベスは彼らに非協力的だった。ベスは近隣の住民の目撃談から夫はチリ軍により逮捕、拘束されていると信じているが、領事や大使は『関知していない』というチリ軍事政府の回答を繰り返すばかりで、捜索の進展が見られないからだ。彼らの答えは、チャールズは身の危険を感じて何処かに隠れているのではないかというものであった。
領事との会合に同席していたアメリカ軍人タワー大佐はチャールズとテリーをペーニャから車に乗せてきた人物で、チャールズの捜索の為に彼の交友者リストを書いてくれとベスに頼んでいる。エドはリストの提出を拒むベスに憤慨し、二人きりになった時にその理由を尋ねる。
『そんなことをしたら、今度は彼らが拘束されるわ』
反体制的な言動をするのは若者の特徴だ。チャールズが拘束されているというのも、ベスの反体制的な妄想の一つであるとエドは考えていた。
チャールズが失踪している間に、仕事仲間のアメリカ人、フランクとデビットも軍に拘束されてサッカー競技場に連れていかれた。競技場は外周に高い金網のフェンスをめぐらしており、逮捕された人々の収容所に使われていた。
チリ人の女性と結婚しているデビットは解放されて戻って来たが、フランクは行方不明だった。アメリカ領事の話では解放後、自主的に国外退去したとの事だったが、数週間経っているというのに、今だにアメリカの家族にもフランクからの連絡はなかった。デビットは『フランクにはもう会えない気がする』と言った。
ベスと行動を共にしながら、エドは息子のチリでの生活を徐々に知っていく。
チャールズは日の目を見ない小説を書きながら、一方では子供向けのアニメの製作にかかわったり、チリの新聞にアメリカのニュースを転載するための翻訳の仕事などをしていた。甘ちゃんだと思っていた息子が、時に一日18時間も働く程、仕事に情熱を捧げていたことも知る。
ホテルで失踪前のチャールズと接触のあったアメリカ人女性ジャーナリストに会うことが出来た。彼女の話では、クーデター発生当時ペーニャにはアメリカの軍人や政治家が沢山おり、チャールズは彼らともかなり接触していたことが分かった。それは偶然の出来事だったのだが、クーデターにアメリカ軍関係者が関わっているのではないかとチャールズに思わせるのに十分な状況だった。
段々とエドも大使や領事に不信感を覚えるようになり、ベスと共に独自に調査を開始した。それは病院を回って身元の確認が取れていない人物や遺体を調べることだった。最後には、軍事政府に都合の悪い人々が沢山収容されている競技場に行った。フェンスの奥の人々に向かって『チャールズ』と呼びかけたが息子の返事はなかった。競技場内部の部屋の何百、何千という遺体の山も見ることにした。そして、そこでベスは思わぬ人物の息絶えた姿を目にするのだった・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/af/78b515e3bf89263b0035b090edae2606.jpg)
70年前後に「Z(1969)」、「告白(1969)」、「戒厳令(1973)」というポリティカル・サスペンスの秀作を三つ続けて作ったコスタ=ガヴラス監督の、これも実話を基にしたサスペンスです。
82年のアカデミー賞で脚色賞を獲得したコンスタンタン・コスタ=ガヴラスとドナルド・スチュワート共作による脚本が秀逸。
クーデターが勃発した直後の、ペーニャからサンティアゴに向かうチャールズとテリーのシーンから始まり、時系列にエピソードを並べながら、エドとベスの捜索の過程における証言者の過去の話を挿入していくタイミングが実に上手い。
馬鹿息子のために南米くんだりまで遣って来る羽目になったと思っていた父親が、徐々に異国の事情、息子の失踪の裏側を知っていくにしたがって、それまで嫌っていた嫁に一目置くようになる。
『ベス、君は僕が知る中で最も勇敢な人の一人だ』
そんなエドの心情の移ろいも見事に描かれていて、観客の共感を得やすくなっているのも素晴らしいです。ジャック・レモンのノミネートも大いに納得!
1982年のアカデミー賞では、その他にも作品賞、主演女優賞(スペイセク)にノミネート。
カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールと男優賞(レモン)を獲得したとの事でした。
9.11というと、2001年にニューヨークで起きた同時多発テロを指すのが世界の常識ですが、南米チリにおいては、1973年に勃発したピノチェト将軍率いる軍部によるクーデターの日付として有名だそうです。
<世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、軍部が武力で覆した事件>(ウィキペディア)で、その後ピノチェトの独裁政権は1989年まで続きました。89年に行われた大統領選挙は、実に19年ぶりだったとの事です。
ということは、この映画の公開はピノチェト独裁政権が継続中の事だったんですな。素晴らしい!
因みに、クーデター発生時のアメリカは、ニクソン政権の末期、国務長官は彼のヘンリー・キッシンジャーでありました。
悲しいトリビアを書き漏らしていました。
1994年にイタリアの俳優マッシモ・トロイージが命を懸けて作り上げた映画「イル・ポスティーノ」で、素朴な島の青年が憧れたパブロ・ネルーダはチリから亡命してきた世界的大詩人でした。映画の終盤でネルーダは祖国に帰ったわけですが、「ミッシング」で描かれたクーデターでは、共産主義者であった為に再び迫害を受けることになりました。
<前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダはガンで病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった>(ウィキペディアより)
80年代は既に「SCREEN」は買ってなくて、もっぱら書店で立ち読み。「ミッシング」は、アカデミー賞の速報記事でジャック・レモンが主演男優賞にノミネートされた作品として記憶に残っておりました。日本では未公開だと思っていたらアメリカに遅れること8ヶ月、82年の10月に日本でも一般公開されたようです。少し前のNHK-BS2での放送を録画。今回が初鑑賞です。
原題もそのまま【MISSING】。つまり「行方不明」ですな。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/6a/f0e22f7bd479acb12f5a23bb65e8225b.jpg)
夫婦の知人のチリ人が拘束されたらしいのでベスはその身重の奥さんを見舞いに、チャールズはテリーを空港まで送っていくことにした。空港は閉鎖、なんとかテリーは安全なホテルに部屋を取り、チャールズは家に帰る。一方、知人宅を見舞ったベスは、帰りのバスがどれも満員で乗車出来ずに途方にくれた。夕方には戒厳令のために外出が出来ず、下手をすれば発砲されるかも知れないからだ。
断続的に銃声が聞こえる中、ビルの陰で一晩やり過ごしたベスが家に戻ると、家の中は泥棒が入った後のように滅茶苦茶に荒らされており、チャールズの姿もなかった。やってきた隣人は『兵隊が戻ってくる前に家を出た方がいい』と言った。
チャールズが失踪して2週間。ようとして消息の知れない一人息子を心配してニューヨークから父親エド(レモン)がやってくる。ウォール街で成功したビジネスマンの父親から見て、チャールズは売れない小説を書いている甘っちょろい理想主義者でしかなかったし、嫁のベスにしても世間知らずの若者の一人でしかなかった。
エドはベスとテリーが宿泊するホテルに部屋を取り、ベスと共にアメリカ領事や大使に相談に出かける。ワシントンで会った政府担当者からベスがチリの大使らを悩ませているとの話があったが、確かにベスは彼らに非協力的だった。ベスは近隣の住民の目撃談から夫はチリ軍により逮捕、拘束されていると信じているが、領事や大使は『関知していない』というチリ軍事政府の回答を繰り返すばかりで、捜索の進展が見られないからだ。彼らの答えは、チャールズは身の危険を感じて何処かに隠れているのではないかというものであった。
領事との会合に同席していたアメリカ軍人タワー大佐はチャールズとテリーをペーニャから車に乗せてきた人物で、チャールズの捜索の為に彼の交友者リストを書いてくれとベスに頼んでいる。エドはリストの提出を拒むベスに憤慨し、二人きりになった時にその理由を尋ねる。
『そんなことをしたら、今度は彼らが拘束されるわ』
反体制的な言動をするのは若者の特徴だ。チャールズが拘束されているというのも、ベスの反体制的な妄想の一つであるとエドは考えていた。
チャールズが失踪している間に、仕事仲間のアメリカ人、フランクとデビットも軍に拘束されてサッカー競技場に連れていかれた。競技場は外周に高い金網のフェンスをめぐらしており、逮捕された人々の収容所に使われていた。
チリ人の女性と結婚しているデビットは解放されて戻って来たが、フランクは行方不明だった。アメリカ領事の話では解放後、自主的に国外退去したとの事だったが、数週間経っているというのに、今だにアメリカの家族にもフランクからの連絡はなかった。デビットは『フランクにはもう会えない気がする』と言った。
ベスと行動を共にしながら、エドは息子のチリでの生活を徐々に知っていく。
チャールズは日の目を見ない小説を書きながら、一方では子供向けのアニメの製作にかかわったり、チリの新聞にアメリカのニュースを転載するための翻訳の仕事などをしていた。甘ちゃんだと思っていた息子が、時に一日18時間も働く程、仕事に情熱を捧げていたことも知る。
ホテルで失踪前のチャールズと接触のあったアメリカ人女性ジャーナリストに会うことが出来た。彼女の話では、クーデター発生当時ペーニャにはアメリカの軍人や政治家が沢山おり、チャールズは彼らともかなり接触していたことが分かった。それは偶然の出来事だったのだが、クーデターにアメリカ軍関係者が関わっているのではないかとチャールズに思わせるのに十分な状況だった。
段々とエドも大使や領事に不信感を覚えるようになり、ベスと共に独自に調査を開始した。それは病院を回って身元の確認が取れていない人物や遺体を調べることだった。最後には、軍事政府に都合の悪い人々が沢山収容されている競技場に行った。フェンスの奥の人々に向かって『チャールズ』と呼びかけたが息子の返事はなかった。競技場内部の部屋の何百、何千という遺体の山も見ることにした。そして、そこでベスは思わぬ人物の息絶えた姿を目にするのだった・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/af/78b515e3bf89263b0035b090edae2606.jpg)
70年前後に「Z(1969)」、「告白(1969)」、「戒厳令(1973)」というポリティカル・サスペンスの秀作を三つ続けて作ったコスタ=ガヴラス監督の、これも実話を基にしたサスペンスです。
82年のアカデミー賞で脚色賞を獲得したコンスタンタン・コスタ=ガヴラスとドナルド・スチュワート共作による脚本が秀逸。
クーデターが勃発した直後の、ペーニャからサンティアゴに向かうチャールズとテリーのシーンから始まり、時系列にエピソードを並べながら、エドとベスの捜索の過程における証言者の過去の話を挿入していくタイミングが実に上手い。
馬鹿息子のために南米くんだりまで遣って来る羽目になったと思っていた父親が、徐々に異国の事情、息子の失踪の裏側を知っていくにしたがって、それまで嫌っていた嫁に一目置くようになる。
『ベス、君は僕が知る中で最も勇敢な人の一人だ』
そんなエドの心情の移ろいも見事に描かれていて、観客の共感を得やすくなっているのも素晴らしいです。ジャック・レモンのノミネートも大いに納得!
1982年のアカデミー賞では、その他にも作品賞、主演女優賞(スペイセク)にノミネート。
カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールと男優賞(レモン)を獲得したとの事でした。
*
9.11というと、2001年にニューヨークで起きた同時多発テロを指すのが世界の常識ですが、南米チリにおいては、1973年に勃発したピノチェト将軍率いる軍部によるクーデターの日付として有名だそうです。
<世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、軍部が武力で覆した事件>(ウィキペディア)で、その後ピノチェトの独裁政権は1989年まで続きました。89年に行われた大統領選挙は、実に19年ぶりだったとの事です。
ということは、この映画の公開はピノチェト独裁政権が継続中の事だったんですな。素晴らしい!
因みに、クーデター発生時のアメリカは、ニクソン政権の末期、国務長官は彼のヘンリー・キッシンジャーでありました。
悲しいトリビアを書き漏らしていました。
1994年にイタリアの俳優マッシモ・トロイージが命を懸けて作り上げた映画「イル・ポスティーノ」で、素朴な島の青年が憧れたパブロ・ネルーダはチリから亡命してきた世界的大詩人でした。映画の終盤でネルーダは祖国に帰ったわけですが、「ミッシング」で描かれたクーデターでは、共産主義者であった為に再び迫害を受けることになりました。
<前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダはガンで病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった>(ウィキペディアより)
・お薦め度【★★★★★=大いに見るべし!】 ![テアトル十瑠](http://8seasons.life.coocan.jp/img/TJ-1.jpg)
![テアトル十瑠](http://8seasons.life.coocan.jp/img/TJ-1.jpg)
同じ監督だと気付きませんでした!
パブロ・ネルーダの最期がそんなものだったんなんて、哀しいです・・・。「イル・ポスティーノ」の背景はあまりよくわかってなかったので、いつか再見したいと思います。
素晴らしい2作品の関連を教えていただきありがとうございます!
「Z」は僕のお薦め度も★五つです。
>パブロ・ネルーダの最期がそんなものだったんなんて、哀しいです・・・
ノーベル賞を受賞したばかりの人をあんな風に扱うなんて驚きですよね。独裁政権なんてどこも非人間的なものなのですが。
最近のように、たまに映画館に行くと、音がでかいのにびっくりしますけどねえ(笑)
仰るように非常に上手く書けた脚本だと思いますし、ジャック・レモンも大好演でした。
シシー・スペイシクは当時はまだ「キャリー」のイメージが残像として残っていてちょっと苦手でしたが、上手いですね。
アメリカは少々の(かなりか?)皮肉程度なら生存中でも実名を平気で使いますよね。そういうところが変名で誤魔化す日本映画より好きです。
僕はTVの液晶画面で観ながら、時々映画館の暗闇の中でスクリーンを見上げている感覚を能動的に作ることがあるんですよ。この映画とか、「キリングフィールド」とかは、ドキュメンタリータッチが、そういう感覚を作りやすいので、想像の中の迫力も結構なもんです。
最近の音のでかいのは、やり過ぎの感もありますな。
>シシー・スペイシク
先月「ストレイト・ストーリー」を観ましたが、ますますオスカー受賞作が観たくなりました。